【岡潔の思想】252「真我への目覚め」【小我と真我】
【小我と真我】
ところで、仏教は、一口に言えば、小我を自分だと思うのは迷いであって、真我が自分だと思うのが本当であると教えている。ですから、仏教の修行は、各宗派によって様々だが、共通の目的とするところは、小我を自分だと思う迷いを離れて、真我を自分だと悟ろうというところにあります。
真我は、その中に自然があるというくらい大きい。それを、仏教では時間的にみて、〝不生不滅〟だという形容をしている。〝不生〟というのは、生まれない。〝不滅〟というのは死なない。又、不生不滅というのは、時間を上へのぼっても、下へ降りても、必ず自分は存在して生きているといいます。
これが本当で不生不滅であると聞くと、あなた方はどう思う。嬉しくなるでしょう。本当にこう思うと、あまり無責任なこともしなくなる。人生70年きりだと思うと、好き勝手にやらなくては損だということになり、諸悪、雲のごとく起こる。いくら言っても、この一生でしまいと思っていると、無責任な生き方をすることになる。
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横山賢二さんの素晴らしい解説です。
🔶岡潔講演録(28):【 9】 小我と真我(1) (okakiyoshi-ken.jp)
※典比古
岡さんの言説は、枝葉末節なことは極力省き、物事の本質(エッセンシャル)だけを簡潔に述べるというのが最大の特徴であると思いますが、ここでも何万巻という仏教書から本質だけを抉りだし、それを一口で述べております。
「仏教は、一口に言えば、小我を自分だと思うのは迷いであって、真我が自分だと思うのが本当であると教えている。」と。
そしてまた「真我」の説明においても「仏教では時間的にみて、〝不生不滅〟だという形容をしている。」と。
やっぱりこういう言説が、聴衆の心をして涼風を吹かせているのです。
次回【岡潔の思想】253「真我への目覚め」【非自非他】を記事にいたします。
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