【岡潔の思想】

【近代科学というパンデミック】(小林秀雄の肉声)

 昨日、「小林秀雄氏の肉声が聴こえてきた」と書きましたが、ここで新潮カセットテープ『信じることと考えること・昭和四八』より小林氏の肉声を聞いてみたい。(1973年ですので、氏が72歳前後の頃)。ここは非常に重要なところですので、多少長くなります。

 さて前振りが、ユリゲラースプーン曲げの念力の話から始まっているのが面白いのですが、しばらくたってからあれはインチキということになったことに触れ、

 「・・ああいう不思議なもの、つまり念力ってなもの、念力岩をも通すっていうだろう。(略)今のインテリゲンチャの不思議ってなもの対する態度、その態度が実にあいまいでね、嘲笑的態度をとるか(略)、まじめに考えないですね、ああいうことを。
それが僕は気に食わないんですよ。一人ぐらいはだな、ああいう不思議なことがあった場合に、今の知識人てものはどういう態度でああいう不思議なもの、念力っていうものにどういう態度をとるのがしいかってことを考える奴はいないんだね・・」と。

 それから話はベルグソンがどのような態度でこの念力というものを考えているかを、彼の講演の手記から引用して話し、さらにそこから近代科学学問に触れ・・

 「科学ってものはね、まだ始まってから三、四百年しかたっていません。その科学的精神が、どういうことをやっているかというと(略)
 この人間経験をだね、科学的経験置き換えたのは、この三百年来のことなんです。そのために今日の科学は非常な大きな発達をしたんだけれども、科学的経験と僕らがする経験とは全然違うものなんですよ。科学がいう経験科学、あるいは経験的方法といっている経験と、私たちの経験とは全然違う経験です。
 それは合理的経験です。だいたい私たちの経験の範囲は非常にきいだろう。合理的経験ばかりしませんよ。ほとんどすべての経験はだね、我々の生活上の経験は、すべて合理的じゃないですよね。その中に感情も、イマジネーションも、いろんなものが入っていますね。
 それをですね合理的経験だけにったんです。だから科学と言うものが出来たために、人間の広大経験を非常に小さい狭い道の中に押し込めたんです。これをよく考えないといけないんです。

 科学と言うものは計量できる経験だけに絞ったんです。(略)
その狭い道を行ったがためにですね、非常に発達したんです。それが科学ってものの性格なんです。(略)
 科学理想とするところは、はっきりした計算です。はっきりした計算ができないものはじてはいけないんです。それは法則です。法則ってものはね、近代科学の法則を提示すればだね、それは計量できる変化と、もう一つの計量できる変化との間とのね、変わらない関係を法則っていうんです。(略)

 法則の通用しないものは科学ではないんだろう。(略)
科学は法則に従う経験だけに、人間の経験めたんです。だから計量ということが科学では一番大切なことだから、科学が一番困ったことは、精神問題だったんだ。
 人間精神の問題、こころの問題だったんだ。精神と言うものは計れないだろう。君のしみを計算することはできないだろう。だから一番科学者は困ったんだよ。それで人間精神というものをどのようにして計ったらいいかと、それで人間の精神と言うものを人間の置き換えたんですよ。精神と言うのはです。脳にある。

 (略)というものの分子運動さえ正確に計れば精神と言うものが正確に計れるはずであるという仮説をたてたんです。これが身心平行論という仮説です。どうしてもこの仮説が科学者には必要だったんです。・・」

 そしてここからまたこの仮説(身心平行論)にたいするベルグソン疑念と、記憶の研究の話があるのですが、要点だけ申しますと、ベルグソン見解というのは精神脳髄運動平行していないということを記憶研究発見証明したということです。

 ※典比古注
 結論として脳髄とは、人間精神をこの現実世界けさせる装置ということで、脳髄とは〃現実生活に対する注意の器官〃であって、意識の器官ではないということです。意識をこの現実の生つなぎとめる働きをしているのが脳髄ということです。

 そして「・・・だからなんてもんもそういうように考えればなんでもないことです。僕ら死ねば霊魂が無くなるなんて、そんなのんきなことみんな考えてるんです。
 そんな古い考えはないです。それはやはりここ三百年来の科学ってものの考え方にかされているんです。があるなんて、そんなことはわかりきった常識ですよ。
 (略)もしもだね脳髄と人間の精神、がだね、平行していないならば、僕の脳髄解体したって、僕の精神独立してるかもしれないではないじゃないか。これは普通の常識で考えられることです。」

 「・・諸君、僕らは今、に行けるでしょ。なんですか、あんなこと!なぜ月にいけたか。科学結果です。科学方法があれを月に行かせてるんです。それは僕らの行動の上において非常に進歩したってことです。だけど僕らが生きていく知恵はどれだけ進歩していますか。論語以上の知恵が現代人にありますか。(略)

 人間の行動の上にはね、生活の便利さ、非常な発達をしたのは科学のおかげですが、それは科学が人間精神を非常に狭い道に導いた、そのおかげなんです。
だから非常な偏頗な発達をするんです。諸君は科学奴隷ですよ。(略)
 なんだか今は人間の精神は荒廃しているじゃないか・・・」
======================
 
 「人間の精神は荒廃しているじゃないか・・・」という言葉には、深い溜息のようなものが聴こえてくる。
 考えてみるとこの講演は昭和48年で、1973年です。すでに半世紀になんなんとしていることを考えますと、やはり小林氏は、一介の文芸批評家をこえた預言者といってもいいのではないでしょうか(このころのわたくしは、23歳であるが、すでに東京のある広告代理店に就職し、会社が終わって毎日、日本橋居酒屋に先輩たちと入浸りたり、いかに会社を儲けさせるかということばかりに関心が集中していた時期だ!)

※典比古注
 3月15日のブログタイトル【認識の危機】の記事において
 「何世紀かが経って、この二十世紀俯瞰したときに、『なんでこんなに、この科学というものが宗教のように盲目的に信じられていたのだろうか。二十世紀はまさしく妄信的な科学信仰時代であり、戦争世紀であった』と書きましたが、本日、わたしが名づけましたタイトル【近代科学というパンデミック】は、17世紀から20世紀にかけて、近代科学というウイルス感染した、まさに300~400年間の、実に長期
渡るパンデミックだったのではなかろうか・・・という思いで付けてみました。

 しかし、わたしはいたづらに近代科学という学問を否定批判しているのではありません。
 「物の本質見極めたい」という、その近代科学的精神は、いよいよ本質肉薄し、量子論を生み出したのです(この量子論の見解によって、西洋のこころある科学者は、東洋叡智である仏教老子タオ儒教活路を求め始めた)

 しかし同じく15日の記事に「小林氏が講演で『客観的物質性質というものがであるか粒子であるかかが分からんようなことになってだね・・・こんな恐ろしいことがありますか!』と語気を強めて発言された・・・・・云々」と書きましたが、その量子論統一的見解は、100年以上たってもまだ、暗中模索的状況ではあります。

 ※次回はその量子論歴史的経緯などを紹介したい。
 

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