【岡潔の思想】

【岡潔の思想】309「1969年の質疑応答」仏教と禅宗

【岡潔の思想】309「1969年の質疑応答」

【仏教と禅宗】

(質問) 仏教といったら自我をなくしてしまうという、まあ漠然とそういう風に感じるんですけども、どういうんですか、言葉の力でそういうことが感じられるもんでしょうか。

(岡) ええ、何聞きたいの。

(質問) はい。例えば仏教そのものをね、僕は勉強してないからはっきりはわからないんですけどね、自我というものをめずにね、なくしてしまうということなんですね。

(岡) そうだね。

(質問) それはね、言葉でいったらそういうことなんですけどもね。

(岡)仏教はその言葉でいってたことあるかいな。

(質問) いや、あのう、そういうことは・・・

(岡) ないだろう。

(質問) はい。

(岡) その言葉でいったら病気じゃない。

(質問) はい、そういうことです。

(岡)仏教はそういやいいのを、そういわんから人にわかりにくいんだね。

(質問) で、たとえば禅宗なんかでもね、言葉を用いずにってるってことによって自我をなくすってことをして行く訳なんですが。

(岡) 非常に下手な方法だ。

(質問) で、そういう方法ですね、下手な方法だと僕も思うんですけども、非常に何か要領の悪いやり方だと思うんです。

(岡)要領と違って、何を頼るべきかを見定めてないのです。原始的だね。

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横山賢二さんの解説を読むことができます。

🔶岡潔講演録(17):【29】 仏教と禅宗 (okakiyoshi-ken.jp)

 

典比古

 ここでワタクシは、さんの著書『春の雲』の次の箇所を思い出しました。

「ある日生死去来という句に思いを凝らし刹那があった。時間の長さは知らない。それから『正法眼蔵』がすらすらわかるようになった」(『春の雲』講談社現代新書・昭和42・3)と述べています。

 ワタクシは若き頃ここを読み、数学鍛え上げられた、凄まじい精神集中力のなせる技に違いないという確信を得ました。

 ここは2021年6月5日に記事にさせていただきました。

🔷【岡潔の思想】9(道元 其の1) - 【岡潔の思想】 (goo.ne.jp)

 この記事の中で「ある短い時間の間、私の周囲の空間が入れ替ったんです。で、私には意識不連続二度起こりました。で、二度目の不連続が済んで自分に帰ると、もとの通り(正座していた。)しかし、お堂の畳を踏んだ感触が足のにまざまざと残っていた。こんな風です。これはどうかっていうと、道元禅師は肉体を持ってないんです。そうすると第2の心だけになってる。第2の心には空間なんかないんです。ただ時のみがある、空間はないんです。」と。

 しかしこの質疑応答は、1969年であり、今まで学んだ仏教を批判されているというか、とくに座禅などは「非常に下手な方法だ。」と喝破されています。

 また今ワタクシが学んでいる「カタカムナ」を、哲物理の視点から解読された楢崎皐月さんが相似象会誌3号に、次のようにべています。

 「『サトリ』とは、長年月の難行苦行に堪えた、少数エリートだけが到達しうる稀有のもので、人生最後にゆきつく終着点などであるべきではない。それもサトリには違ひないが、本来サトリとは、もっと自然な、スナホなものである。そして、なるべく若いうちにそれを知って、人生を、できるだけ明るく健かに生きるようなサトリであってほしいのである。」と。

 なんだかさんの言説と似通っていますね。

 

 ここは横山さんの解説の冒頭「ここもまたが最もよく学んだ仏教の批判であるが、その指摘はまことにい。いわれてみれば成程、目から鱗である。」と。この解説の全文を読ませていただくと、腑に落ちてきますので、是非ご覧ください。

 

 相模線(茅ケ崎~橋本)の新車両(4両のうち一両)には、このような優先席が設けられています。     撮影17日 典比古(支援ヘルパー時)

       

 

 

 

 

 

 

 

 
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