スリランカ津波災害への支援

津波によるスリランカへの災害に関する情報を記載し、支援の輪を広げる事が目的。

<予防>

2005-02-01 07:20:57 | Weblog

何人かのスリランカ人から、「お前は環境の事を教えているのに何で津波の事を教えてくれなかったんだ・・・?」
という質問を受けた。正直言って答えに困ったが
「もし、教えても信じなかったでしょう?」とちょっとふざけた答えをしてその場を切り抜けていた。
正直、スリランカ人に津波の話をしてもほとんどの人が信じなかったと思う。
200年近く前に一度津波があった記録があるそうだが、現在いる人々の記憶には当然無い。

ネットの記事でインドネシアのある島では、「海の水が引いたら波が来るということだから山に逃げろ」という言い伝えがあり、
津波に襲われたにも関わらずほとんどの人が助かった。とあった。

スリランカでは海の水が引いたあと、多くの人が珍しい現象を見に海へと行っている。
魚をつかまえに行った人も多かった。
そんなひとの多くがその後来た大津波に襲われた・・・。

もし、津波が来るという情報がちゃんと流されていたとしても、その経験をした事がない人にとっては、
「ばかげた話」の一つとして片付けられてしまったのではないだろうか?

今回の大災害では、「予防」の難しさと「予防」の大切さを本当に考えさせられる。
「予防」は「治療」より重要な事である。とよく言われるが、「予防」は地道な活動なしでは成功しないものである。
道路や橋を建設するのも大切なのだろうが、「評価」を出す事が難しい「予防活動」にもっと力を入れる必要がある。
どの分野においてもその事は言えるのではないだろうか?

先週、南のある街で津波が来るという噂に街中がパニックになった。
午前中で、多くの子どもは学校へ行っていた。親達が子どもの安全を心配して一斉に学校へ行った。
街の中には主要道路が走っており交通量も多い。そんな中、交通事故で二人の命が亡くなった・・・。
津波が来るというのはただの噂で結局何もなかった。
精神的外傷が癒されるにはまだまだ時間がかかる。


<12月26日>

2005-02-01 07:20:08 | Weblog


確か報告していなかったかと思うが、津波が起きた当時私も南西海岸沿いにいた。
10時前だっただろうか、周りの人が騒がしくなってきたので何かおかしいなと思い、近くにいたスリランカ人にどうしたのかと尋ねた。
その人は、当然『津波』なんて言葉を知らないので「海が来るらしい!」という返答をした。
私は意味がよく分からなかったが、その直後にJICAから携帯電話に来た『津波発生。安否確認をする』のメッセージで、
状況がわかった。しかしその時、スリランカ全土が津波に襲われている事なんて思いもしなかった・・・。

ゴール道路(南西海岸沿いを走る主要道路)をコロンボの方へと歩いた。
海から2,3百メートルは離れているゴール道路わきにも水が来ていた。
大きなリゾートホテルにいたと思われる外国人が何人も道路へと逃げてきていた。
水着のままの人もいれば、アーユルベーダの治療を受けていたのかバスタオルだけの人たちもいる。
はだしの人も多く、逃げる際怪我したのか出血している人もいた。
交通量はほとんどなく、時折バイクが通りすぎていった。救急車も何台か来ていた。

一キロほど歩いただろうか、反対車線にいたスリランカ人達が声をかけてきた。
私が携帯電話かなにかを売っている人かと思い声をかけたらしい。
こんな事態で商売なんかしないだろう??と思いつつ、私は日本人で、商売をしているのではないと言う事を説明した。
その中の一人が親切に、「どうせバスも無いからしばらく我が家で休んでいきな」というので、彼の家に行った。
その日は快晴であり本当に暑かった。その家で休ませてもらえたのは本当にラッキーだったと思う。
停電。電話もダウン。いまいち周りの状況がつかめない。
1時間でも待てばバスも動き出すだろうと思っていのが甘かった・・・。
そこから、なんと約6時間も彼の家にお世話になってしまった。バスが動かないどころか、ゴール道路が破壊されており、
コロンボへ向かうのは不可能だろうという情報が入ってきた。
周辺住民も小高い所へと避難をしはじめていると近所の家の人が伝えに来た。また、「海がくるらしい!」
「今度はもっと大きいのが来るらしい・・・」住民の不安は募るばかりである。
正確な情報ではない様々な情報が錯綜する。

かろうじてつながっていた携帯電話で色々と情報を集めてみると、
内陸部の道路には問題が無く、多分コロンボまで行く事が可能であろうと言う事になった。
すでに17時を過ぎており、帰るならいましかないなと判断をした。
スリランカ人は心配をしてくれて、「我が家に泊まって明日帰ればいいよ」と何度も言ってくれた。
彼らの車で近くの大きな街まで送ってもらった。その間、道路に打ち上げられた漁船などがあった。
街の中は閑散としており、数台のスリーウィーラー(三輪車)があるのみ。
普段、人でごったがえしているバス停にはバスも人も全くいない。
スリーウィーラーと交渉をして内陸部の街まで行く事にした。

その後、かなりバスのダイヤが乱れていたが何とか最終便に間に合い、22時過ぎにコロンボへと到着した。
普段であれば1時間半で行く所なのだが、車、スリーウィーラー、バス2台を乗り継いで5時間以上かかった。

とにかく、無事にコロンボへ着いたことにほっとしていた。そして、運がよかったなと・・・。

25日私は海で遊んでいた。もし、津波が一日早く来ていたら、巻き込まれた可能性が高い。
26日はコロンボへ帰る準備をしていたので、荷物もまとめて海にも行かずにいた。
もし、帰る前にひと泳ぎと海に行っていたら・・・。
『もし』という言葉を使ったら切がないのだが、本当に運が良かった。

運良く助かったのだから、何かをしたいと言う思いが今の活動の原動力の一つかもしれない。
まだまだ私の中での優先事項は「津波被災者支援」である。