大野家系譜(伊予上川村大野家本)
【大野直昌庶流】
『 大野家正統譜図 』
十一代目 【上川村系譜】
武虎
・太郎舘舎宇津村蝶地森之森麓
・久米郡兼押領使美濃守
⇩
十二代目 【上川村系譜】
国兄
・喜多郡柚ノ木村構於城郭
・(太ノ)太郎 任美濃守
・母者 風早大領安国女
注】【徳山藩大野系図】
大井御舘 大伴國兄(クニエ)
注】【河野系図】(続群書類従系図第167)
・・・好方・・・好峰・・・安国・・・安射・・・元興・・・
・・・元家・・・家時・・・為世・・・為時・・・
【予陽河野家譜】 (風早大領安国)
玉興子玉純………其の子息方
大井舘 嫡子好方
越智押領使 次男好峰 野間押領使
好峰子安国 風早郡大領 三嶋大祝…….
⇩
十三代目 【上川村系譜】
吉国
・次郎 任右兵衛尉 相続家兄跡
・初住大井舘
注】 【大洲系譜十二代】
良国
・次郎 右兵衛尉
・越智押領使
・実武虎二男国兄同母弟也
⇩
十四代目 【上川村系譜】
泰平
・太郎 任右兵衛尉
注】 【大洲系譜十三代】
時泰
・又太郎
・西条御舘
・実 嵯峨天皇御子為世二男浮穴郡御舘
・母 越智宿禰和気太夫家時女也
・良国無男子故為養子当家大伴氏令継
注】 【屋代系譜十三代】
時泰
・西條御館
・実人皇五十二代嵯峨天皇第十ノ
皇子 伊豫ノ国エ下り住給フ其子孫良国
ノ養子トナリ給フ云
注】 【予陽河野家譜】(嵯峨天皇第十八皇子為世)
頃人皇五十二代
嵯峨天皇第十八皇子為世、賜藤原姓下向干与州
造舘干浮穴郡住御、故号浮穴御舘、越智家時
成婿君、有三子、越智為時 浮穴太夫
次男今治為頼 中太夫別宮祖
経与 新居氏祖是也
注】 嵯峨天皇に文化人天皇で空海らとも親交あり。
また、嫡庶を含め29人の子があり、台所が賄えないので
多くの臣家を産み、源氏となのらせた最大の天皇でも
ある。第十皇子は皇統譜には記録されないが、実態は
はあったのであろう。(呑舟2021.6.15)
⇩
十五代目 【上川村系譜】
武平
・喜多郡之郡司
・五郎太夫
⇩
十六代目 【上川村系譜】
純平
・三郎 實者純友之次男八世之孫
・任従五位下伊豫守為当国司
⇩
十七代目 【上川村系譜】
泰行
・太郎 民部少輔 實武平男 胄當家
・賜芸州沙田郡云々
注】【大洲系譜】
泰行
・太郎 民部少輔
・母 藤原氏女也
・芸州沙田郡有凶賊
依勅命而発向干沙田安々誅伐
有御感為勧賞賜沙田
注】 安藝(広島県)
「沙田郡」(ますたぐん)として設置されたが、10世紀初頭に
豊田郡に改称された。当時は内陸部が範囲であった。その後
平安時代末頃に沼田郡の大部分を編入した
素行弟 【上川村系譜】 『分家 冨永系』
純行
・称 富永九郎次郎
注】【大洲系譜】
純行
・次郎 称富永 太田押領使
・母 大伴姓女也
・干時天慶二己亥(丑カ)年(939)
筑紫有逆乱当国八家士
依勅命而進発鎮西尽粉骨戦功揚武勇名
天下主上有御感賜藤原姓并九刕之守護職
八家同前也
↓
純行子 【上川村系譜】
純宗
・荒次郎
・富永雅楽
注】【大洲系譜】
純宗
・雅楽 伊豫大領
・母 越智氏女也
↓
純宗子 【上川村系譜】
吉雅
・三郎左衛門尉
・称 富永
注】【大洲系譜】
吉雅
・久米御舘
・母大伴氏女
↓
吉雅子 【上川村系譜】
純頼
・宮内少弼
↓
純頼子 定雅
・富永左京進
・母 平種元女
・定雅室法名立花院殿 天壽院殿
喜多郡中居谷村安楽寺太鼓寄進
干山有天養元年(1144)八月廿三日
注】【肱川町誌】
中居谷の安楽寺に伝わる太鼓の胴の内側には、
當寺住持心源叟
天養元年八月二十三日
立花院殿
天寿院殿 寄進
と書いてあり、同寺に残る過去帳には、次のように
書かれている。
立花院殿安山月心大居士
開基 天養元年甲子年八月二十三日没
天壽院殿
立山花庭大姉
天養元年甲子年七月七日没
また、冨永芳雄所蔵の銅鏡には「冨永氏立花天壽院
七邑之守」の銘がある。
岩屋地区の本願寺の過去帳には、寿永元年(1182)
冨永右近守昌光(月の尾城主)逝去のことが記され
ている。
定雅は大洲・屋代系譜は別の所に出てくる。【呑舟】
安楽寺は宇津大野渓壽寺創建時の後見寺である。(大洲旧記)
↓
定雅子 定行
・富永七郎
・初久万住而久万傑将也 従者多居
平郷構城郭故謂定行城矣
↓
定行子 定経
・富永八郎
・左京之進
↓
定経子 経行
・太田八郎 右京進
↓
経行子 武清 (~1221)【幕府鎌倉方】
・太田五郎
・承久三年(1221)宇治橋合戦打取敵一人矣
肥後有凶賊令追討揚武名
先父死 年二十一歳
注】 【吾妻鏡】承久の変(1221)6月13日 宇治橋の戦い
六月十三日 丙寅 雨降る
相州以下、野路より方々の道に相分つ。相州は先ず勢多に向かうの
処、橋の中二箇間を曳き、楯を並べ鏃を調え、官軍並びに叡岳の
悪僧列立し東士を招く。仍って挑戦威を争うと。酉の刻、毛利入道
駿河の前司淀手上等に向かう。武州は栗子山に陣す。
武蔵の前司義氏・駿河の次郎泰村武州に相触れず、宇治橋の辺に
向かい合戦を始む。官軍矢石を発つこと雨脚の如し。
東士多く以てこれに中たり、平等院に籠もる。夜半に及び、前の
武州兼仗六郎保信等を以て、武州の陣に示し送りて云く、
暁天を相待ち、合戦を遂ぐべき由存ずるの処、壮士等先登に進むの
余り、すでに箭合戦を始め、殺戮せらるる者太だ多してえり。
武州驚きながら、甚雨を凌ぎ宇治に向かいをはんぬ。この間また
合戦し、東士二十四人忽ち疵を被る。官軍頻りに勝ちに乗る。
武州、尾崎左近将監景綱を以て、橋上の戦いを止むべきの由加制
するの間各々退去す。武州は平等院に休息すと。
【吾妻鏡】承久の変、6月14日 宇治橋の戦いの戦功者名簿
六月十四日(1221)宇治合戦に敵を討つ人々
勅使河原五郎兵衛の尉(一人、郎等これを打つ)
勅使河原の四郎(一人手討ち)
太田の五郎(一人、手打ち)
香河の三郎(一人、手討ち)
河匂の小太郎(一人手討ち)
波多野の彌籐次(一人、手討ち、宇治に梟すと)
【吾妻鏡】承久の変、6月14日 宇治橋の戦いの討死者名簿
六月十四日宇治橋合戦の間、越河懸けの時御方の人々死日記
内嶋の七郎 荏原の六郎
荏原の彌三郎 太田の六郎
*武清の条が正しければ、この大田六郎は父の経行ならん。
八郎か六郎かは許容の範囲 (呑舟 2019/8/25)
【予陽河野家譜】
通信四男通末 河野八郎、母二階堂信濃民部入道女也
五男通久 九郎左衛門尉 母北條時政女 承久兵乱之時、
為関東方、渡宇治川先陣十騎之中第三番、賜阿州富田庄、
↓
純頼弟 【上川村系譜】 『分家久万系』
安雅
・富永五郎太夫
・母 越智氏女
↓
安雅子 【上川村系譜】
安綱
・久万弥太郎 久万祖
・母 同定雅
注】 【予陽河野家譜】
河野通信相共候後家人三十二名の中に
久万安綱子 永助(久万太郎太夫) と注記あり
(伊予史談会会長、景浦氏曰く後世の加筆)と
↓
安綱子 【上川村系譜】
安仲
・久万小太郎 八郎太夫
・母 源義夏女権頭
・源義夏→源義貞
注】源義夏は別本の義貞(新田義貞)【1300~1338/8/17】
旧暦建武5年閏7月2日卒
弟、脇屋義助、義夏を義貞なら時代が合わない(2015/10/30)
【予陽河野家譜】
河野通信相共候後家人三十二名の中に
久万安中子 高盛(久万太郎太夫・同舎弟[六郎安清]
と注記あり(伊予史談会会長景浦氏曰く後世の加筆)と断ず
↓
安仲子 【上川村系譜】
安行
・新太夫 久米太夫
・母 大江氏女
↓
安行子 【上川村系譜】
安清
・権頭 實定経二男
・河野通清 烏帽子子 於高縄城戦死
注】【越智系図】(群書類従系図部167所収)
河野通清 河野新太夫 伊予権介
(中略)治承比賜後白河院宣致伊予国務又不随平家
故奴可入道攻入於高繩天神森討死也
【予陽河野家譜】
河野通信が平泉配流の時同行した一族国人の
なかに久万六郎安清と仝七郎安重の名があるが
同一人物カ?
↓
安清子 【上川村系譜】
成清
・久万五郎太夫
・任右エ門太夫
・母 源姓女
・於鎮西討死
・文治三年頼朝公有下文
⇩
十八代目 【上川村系譜】
時泰
・次郎 任右兵衛左實院御子
越智為世男泰行為婿養子胄當家
河野家有 是泰児孫也
注】越智為世は安清の烏帽子親河野通清の7代前であるから
大洲・八代とも13代としている時泰の段が正当であろう。
系図転写時の錯乱かすでに元本が誤写されていたか、
であると上川村本の前後関係は訂正が必要である。【呑舟】
⇩
十九代目 【上川村系譜】
行泰
・七郎 號権頭 武勇ノ人也
・母 泰行娘
⇩
二十代目 【上川村系譜】
宗行
・太郎 任右兵衛尉
・母 大江良元娘
注】大江が中原から大江へ改正許可は中原廣元が
実父中原廣季ではなく実父大江惟光の姓を継ぐ
として建保4年(1216)以降とされるので大江良元は
はそれ以降である。(2015/10/30)呑舟
⇩
二十一代目 【上川村系譜】
宗成
・太郎 早世
【大野直昌庶流】
『 大野家正統譜図 』
十一代目 【上川村系譜】
武虎
・太郎舘舎宇津村蝶地森之森麓
・久米郡兼押領使美濃守
⇩
十二代目 【上川村系譜】
国兄
・喜多郡柚ノ木村構於城郭
・(太ノ)太郎 任美濃守
・母者 風早大領安国女
注】【徳山藩大野系図】
大井御舘 大伴國兄(クニエ)
注】【河野系図】(続群書類従系図第167)
・・・好方・・・好峰・・・安国・・・安射・・・元興・・・
・・・元家・・・家時・・・為世・・・為時・・・
【予陽河野家譜】 (風早大領安国)
玉興子玉純………其の子息方
大井舘 嫡子好方
越智押領使 次男好峰 野間押領使
好峰子安国 風早郡大領 三嶋大祝…….
⇩
十三代目 【上川村系譜】
吉国
・次郎 任右兵衛尉 相続家兄跡
・初住大井舘
注】 【大洲系譜十二代】
良国
・次郎 右兵衛尉
・越智押領使
・実武虎二男国兄同母弟也
⇩
十四代目 【上川村系譜】
泰平
・太郎 任右兵衛尉
注】 【大洲系譜十三代】
時泰
・又太郎
・西条御舘
・実 嵯峨天皇御子為世二男浮穴郡御舘
・母 越智宿禰和気太夫家時女也
・良国無男子故為養子当家大伴氏令継
注】 【屋代系譜十三代】
時泰
・西條御館
・実人皇五十二代嵯峨天皇第十ノ
皇子 伊豫ノ国エ下り住給フ其子孫良国
ノ養子トナリ給フ云
注】 【予陽河野家譜】(嵯峨天皇第十八皇子為世)
頃人皇五十二代
嵯峨天皇第十八皇子為世、賜藤原姓下向干与州
造舘干浮穴郡住御、故号浮穴御舘、越智家時
成婿君、有三子、越智為時 浮穴太夫
次男今治為頼 中太夫別宮祖
経与 新居氏祖是也
注】 嵯峨天皇に文化人天皇で空海らとも親交あり。
また、嫡庶を含め29人の子があり、台所が賄えないので
多くの臣家を産み、源氏となのらせた最大の天皇でも
ある。第十皇子は皇統譜には記録されないが、実態は
はあったのであろう。(呑舟2021.6.15)
⇩
十五代目 【上川村系譜】
武平
・喜多郡之郡司
・五郎太夫
⇩
十六代目 【上川村系譜】
純平
・三郎 實者純友之次男八世之孫
・任従五位下伊豫守為当国司
⇩
十七代目 【上川村系譜】
泰行
・太郎 民部少輔 實武平男 胄當家
・賜芸州沙田郡云々
注】【大洲系譜】
泰行
・太郎 民部少輔
・母 藤原氏女也
・芸州沙田郡有凶賊
依勅命而発向干沙田安々誅伐
有御感為勧賞賜沙田
注】 安藝(広島県)
「沙田郡」(ますたぐん)として設置されたが、10世紀初頭に
豊田郡に改称された。当時は内陸部が範囲であった。その後
平安時代末頃に沼田郡の大部分を編入した
素行弟 【上川村系譜】 『分家 冨永系』
純行
・称 富永九郎次郎
注】【大洲系譜】
純行
・次郎 称富永 太田押領使
・母 大伴姓女也
・干時天慶二己亥(丑カ)年(939)
筑紫有逆乱当国八家士
依勅命而進発鎮西尽粉骨戦功揚武勇名
天下主上有御感賜藤原姓并九刕之守護職
八家同前也
↓
純行子 【上川村系譜】
純宗
・荒次郎
・富永雅楽
注】【大洲系譜】
純宗
・雅楽 伊豫大領
・母 越智氏女也
↓
純宗子 【上川村系譜】
吉雅
・三郎左衛門尉
・称 富永
注】【大洲系譜】
吉雅
・久米御舘
・母大伴氏女
↓
吉雅子 【上川村系譜】
純頼
・宮内少弼
↓
純頼子 定雅
・富永左京進
・母 平種元女
・定雅室法名立花院殿 天壽院殿
喜多郡中居谷村安楽寺太鼓寄進
干山有天養元年(1144)八月廿三日
注】【肱川町誌】
中居谷の安楽寺に伝わる太鼓の胴の内側には、
當寺住持心源叟
天養元年八月二十三日
立花院殿
天寿院殿 寄進
と書いてあり、同寺に残る過去帳には、次のように
書かれている。
立花院殿安山月心大居士
開基 天養元年甲子年八月二十三日没
天壽院殿
立山花庭大姉
天養元年甲子年七月七日没
また、冨永芳雄所蔵の銅鏡には「冨永氏立花天壽院
七邑之守」の銘がある。
岩屋地区の本願寺の過去帳には、寿永元年(1182)
冨永右近守昌光(月の尾城主)逝去のことが記され
ている。
定雅は大洲・屋代系譜は別の所に出てくる。【呑舟】
安楽寺は宇津大野渓壽寺創建時の後見寺である。(大洲旧記)
↓
定雅子 定行
・富永七郎
・初久万住而久万傑将也 従者多居
平郷構城郭故謂定行城矣
↓
定行子 定経
・富永八郎
・左京之進
↓
定経子 経行
・太田八郎 右京進
↓
経行子 武清 (~1221)【幕府鎌倉方】
・太田五郎
・承久三年(1221)宇治橋合戦打取敵一人矣
肥後有凶賊令追討揚武名
先父死 年二十一歳
注】 【吾妻鏡】承久の変(1221)6月13日 宇治橋の戦い
六月十三日 丙寅 雨降る
相州以下、野路より方々の道に相分つ。相州は先ず勢多に向かうの
処、橋の中二箇間を曳き、楯を並べ鏃を調え、官軍並びに叡岳の
悪僧列立し東士を招く。仍って挑戦威を争うと。酉の刻、毛利入道
駿河の前司淀手上等に向かう。武州は栗子山に陣す。
武蔵の前司義氏・駿河の次郎泰村武州に相触れず、宇治橋の辺に
向かい合戦を始む。官軍矢石を発つこと雨脚の如し。
東士多く以てこれに中たり、平等院に籠もる。夜半に及び、前の
武州兼仗六郎保信等を以て、武州の陣に示し送りて云く、
暁天を相待ち、合戦を遂ぐべき由存ずるの処、壮士等先登に進むの
余り、すでに箭合戦を始め、殺戮せらるる者太だ多してえり。
武州驚きながら、甚雨を凌ぎ宇治に向かいをはんぬ。この間また
合戦し、東士二十四人忽ち疵を被る。官軍頻りに勝ちに乗る。
武州、尾崎左近将監景綱を以て、橋上の戦いを止むべきの由加制
するの間各々退去す。武州は平等院に休息すと。
【吾妻鏡】承久の変、6月14日 宇治橋の戦いの戦功者名簿
六月十四日(1221)宇治合戦に敵を討つ人々
勅使河原五郎兵衛の尉(一人、郎等これを打つ)
勅使河原の四郎(一人手討ち)
太田の五郎(一人、手打ち)
香河の三郎(一人、手討ち)
河匂の小太郎(一人手討ち)
波多野の彌籐次(一人、手討ち、宇治に梟すと)
【吾妻鏡】承久の変、6月14日 宇治橋の戦いの討死者名簿
六月十四日宇治橋合戦の間、越河懸けの時御方の人々死日記
内嶋の七郎 荏原の六郎
荏原の彌三郎 太田の六郎
*武清の条が正しければ、この大田六郎は父の経行ならん。
八郎か六郎かは許容の範囲 (呑舟 2019/8/25)
【予陽河野家譜】
通信四男通末 河野八郎、母二階堂信濃民部入道女也
五男通久 九郎左衛門尉 母北條時政女 承久兵乱之時、
為関東方、渡宇治川先陣十騎之中第三番、賜阿州富田庄、
↓
純頼弟 【上川村系譜】 『分家久万系』
安雅
・富永五郎太夫
・母 越智氏女
↓
安雅子 【上川村系譜】
安綱
・久万弥太郎 久万祖
・母 同定雅
注】 【予陽河野家譜】
河野通信相共候後家人三十二名の中に
久万安綱子 永助(久万太郎太夫) と注記あり
(伊予史談会会長、景浦氏曰く後世の加筆)と
↓
安綱子 【上川村系譜】
安仲
・久万小太郎 八郎太夫
・母 源義夏女権頭
・源義夏→源義貞
注】源義夏は別本の義貞(新田義貞)【1300~1338/8/17】
旧暦建武5年閏7月2日卒
弟、脇屋義助、義夏を義貞なら時代が合わない(2015/10/30)
【予陽河野家譜】
河野通信相共候後家人三十二名の中に
久万安中子 高盛(久万太郎太夫・同舎弟[六郎安清]
と注記あり(伊予史談会会長景浦氏曰く後世の加筆)と断ず
↓
安仲子 【上川村系譜】
安行
・新太夫 久米太夫
・母 大江氏女
↓
安行子 【上川村系譜】
安清
・権頭 實定経二男
・河野通清 烏帽子子 於高縄城戦死
注】【越智系図】(群書類従系図部167所収)
河野通清 河野新太夫 伊予権介
(中略)治承比賜後白河院宣致伊予国務又不随平家
故奴可入道攻入於高繩天神森討死也
【予陽河野家譜】
河野通信が平泉配流の時同行した一族国人の
なかに久万六郎安清と仝七郎安重の名があるが
同一人物カ?
↓
安清子 【上川村系譜】
成清
・久万五郎太夫
・任右エ門太夫
・母 源姓女
・於鎮西討死
・文治三年頼朝公有下文
⇩
十八代目 【上川村系譜】
時泰
・次郎 任右兵衛左實院御子
越智為世男泰行為婿養子胄當家
河野家有 是泰児孫也
注】越智為世は安清の烏帽子親河野通清の7代前であるから
大洲・八代とも13代としている時泰の段が正当であろう。
系図転写時の錯乱かすでに元本が誤写されていたか、
であると上川村本の前後関係は訂正が必要である。【呑舟】
⇩
十九代目 【上川村系譜】
行泰
・七郎 號権頭 武勇ノ人也
・母 泰行娘
⇩
二十代目 【上川村系譜】
宗行
・太郎 任右兵衛尉
・母 大江良元娘
注】大江が中原から大江へ改正許可は中原廣元が
実父中原廣季ではなく実父大江惟光の姓を継ぐ
として建保4年(1216)以降とされるので大江良元は
はそれ以降である。(2015/10/30)呑舟
⇩
二十一代目 【上川村系譜】
宗成
・太郎 早世
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