大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)1
【大野直利嫡流】伊予史談会蔵(伊予系譜【オー34】)
(はしがき)
大野系図、大野略系図(分家)大野傳書之系
大野家聞書の四本は、大洲大野某の所蔵にして
今越智郡書記たる、小笠原珍丸の保管に属す。
仝人は大野家所出にして而して大野家には
着実の主人なく、亡失の處あるを以って、
仝人の監督に移したるものなり。
大野家の系譜記録多しと雖も、本書の如く詳悉に
して、且つ要領を得たるものは、未だ曽て
見ざる所なり。今回伊予資料展覧会に提出し
たるに因り、特に謄写して之を蔵置す。
大野家には本書の外、陣貝(螺貝)一箇を
珍襲す。伝えて、長宗我部氏と戦いたる時
分捕りたるものなりと云う。
此の四書を合本して假に大野系譜と題称す。
右 装幀に臨み事由を叙し 以って参考に
資すと云うなり。
大正八年五月上旬 西園寺富水識
(伊豫史談会)
筆者 考証するに此の系譜 底本を直澄流
より派生したるものと考察する。
来書の内容の記録等が詳細である為である。
尾首大野家伝来の書ならん
但し、伊豫に残る数多の大野系図の中でも
最古に属するものと思われます。
書簡等の一次史料の写しの多くを所収している
のはこの系図であり、「愛媛県編年史」が所収する
大野家文書の多くの出典はこの系図からである。
ただ、何度かの書き写しの為か、兄弟か親子か
不明な記述も多く代数は適時付けただけであてにならない。
(呑舟)
【大洲大野系図 『直利流』】
大伴氏
天智天皇之御子 (*間違いの始まり)
↓
大友皇子 (*大伴と大友を錯誤)
・太政大臣初
↓
【大洲系譜初代】
與多王
・従三位大納言
・初賜大友氏
↓
【大洲系譜二代】
牟磨
・従三位中納言
↓
【大洲系譜三代】
安麿 (*ここで大伴系図に戻る)
・正三位大納言
*【日本書記】
朱鳥元年(686)9月28日
○次直広参大伴宿禰安麻呂誄大蔵事。
持統2年(688)8月10日
○大伴宿禰安麻呂誄焉。
大宝元年(701)3月21日
○為 直大壱大伴宿禰安麻呂従三位
大宝2年(702)1月17日
○以 従三位大伴宿禰安麻呂為式部卿
大宝2年(702)5月21日
○勅従三位大伴宿禰安麻呂、令参議朝政。
大宝2年(702)6月24日
○以 従三位大伴宿禰安麻呂為兵部卿。
慶雲2年(705)11月28日
○以 大納言従三位大伴宿禰安麻呂、為兼大宰帥
和銅元年(708)3月13日
○為 正三位大伴宿禰安麻呂為大納言。
和銅元年(708)7月15日
○召 大納言大伴宿禰安麻呂 於御前 勅曰、
和銅7年(714)5月1日
○大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麻呂薨。
帝深悼之、 詔贈従二位。安麻呂、
難波朝右大臣大紫長徳之第六子也。
↓
【大洲系譜四代】
旅人 (大伴)
・任従三位中納言
・春宮大夫 大納言
↓
【大洲系譜五代】
高多磨
↓
【大洲系譜六代】
正磨
・従五位下
↓
【大洲系譜七代】
壽兄
・伊勢守
↓
【大洲系譜八代】
吉兄
・伊勢守
↓
【大洲系譜九代】 (*実質伊予大野家初代)
●吉良喜
・母 藤原姓女
・喜多郡大洲領
・廻国赴於当国長濱初下向於八多喜休到
於喜多郡 大野 宇津 森山 宇和川 鳥坂
立花 小屋 北平 只海蔵川 以上九ケ里
之民降参 此所無主従他郷依伐九ケ里為
主自称大野伊勢守於干鎮西有逆臣有
帝大逆鱗而以四国中国軍兵可令退治之由
蒙勅命賜赤地錦直垂四国中国之勢引率
進発干筑紫而逆臣伏誅得首級而致
太平乎 自是以後為西戎静謐仍賜
国司而下向当国喜多郡則住之
*【予陽河野家譜】
(越智好方純友討伐に出征)
人皇六十一代朱雀院御宇天慶年中伊予掾純友
反逆掠領九州、好方蒙宣旨賜赤地錦直垂鎧、
引率中西國武者、乗兵船二百余艘、進発於備前
籠島、大闘被官奴田新藤次忠勝終得純友首、
忽揚武勇威名、忝蒙御感綸旨訖、好峰子安国
風早大領 三嶋大祝 其子安躬
喜多郡司 相伝父職 益男次男元興
温泉郡司執行道後七郡 其子元家 久米大領
其子家時 和介太夫、
自益躬至干家時中間十有余代称之地霊、如曰地神五代、
水里玄義曰地霊者実而雖成象、 頃人皇五十二代
嵯峨天皇第十八皇子為世、賜藤原姓下向干与州
造舘干浮穴郡住御、故号浮穴御舘、
越智家時成婿君、有三子、越智為時 浮穴太夫
次男今治為頼 中太夫別宮祖 経与
新居氏祖 是也
*【祇園神社】
(由来沿革等)
天慶二年(939年)伊豫掾藤原純友が平将門と
ともに反乱した時に、朝廷は大伴吉良喜を喜多郡
の大領に任じて暴徒を追捕したという。
吉良喜は京都を出発する際に信仰していた祇園社
(八坂神社)の御分霊を奉持し、粟津ノ森に社殿
を造営し奉斉、「祇園社」と称したという。
後に吉良喜夫妻の御霊を合祀した。大洲藩代々
の崇敬を受け、参勤交代の時にはこの神社で
海上安全諸祈願をして出発したと言う。
明治元年に「粟津森神社」と改称されたが、
昭和25年には再び「祇園神社」に改称された。
神 社 名 祇園神社
主 祭 神 素盞鳴尊 奇稲田媛命
所 在 地 大洲市八多喜
配 神 大国主命 神矢楯媛命
吉良喜命 吉良喜比命
(吉良喜夫妻)
本殿の様式 流造 (銅版葺)
社 格 旧郷社
*【純友追討記】 (底本: 群書類従 第二十 東京 続群書類従完成会)
伊予掾藤原純友居住彼国為海賊之首。唯所受性、狼戻為宗。不拘礼法。多率人集。
常行南海山陽等国。濫吹為事。暴悪之類聞彼威猛。追従稍多。押取官物、
焼亡官舎。以之為其朝暮之勤。遥聞将門謀反之由。亦企乱逆、漸擬上道。
此比東西二京連夜放火。依之男送夜於屋上。女運水於庭中。純友士卒、
交京洛所致也。於是、備前介藤原子高風聞其事。為奏聞其旨。
天慶二年十二月下旬、相具妻子。自陸路を上道。純友、聞之将為害子高。
令郎等文元等追及摂津国兎原郡須岐駅。同十二月二十六日壬戌寅剋、
純友の郎等、放矢如雨。遂獲子高。即截耳割鼻。奪妻将去也。
子息等為賊被殺畢。公家大驚。下固関使於諸国。且於純友給教喩官符。
兼預栄爵。叙従五位下。而純友野心未改。猾賊弥倍。讃岐国與彼賊軍合戦、
大破。中矢死者数百人。介藤原国風軍敗。招警固使坂上敏基。窃逃向阿波国也。
純友、入国府放火焼亡。取公私財物也。介国風、更向淡路国。
注於具状飛駅言上。経二箇月招集武勇人。帰讃岐国相待官軍之到来。
于時公家、遣追捕使。左近衛小将小野好古為長官。以源経基為次官。
以右衛門尉藤原慶幸為判官。以右衛門志大蔵春実為主典。即向播磨・讃岐等二国。
作二百余艘船。指賊地伊予国艤向。於是純友所儲船號千五百艘。
官使未到以前。純友次将藤原恒利、脱賊陣窃逃来着国風処。
件恒利能知賊徒宿所隠家并海陸両道通塞案内者也。仍国風置為指南。副勇捏者令撃賊。
大敗散如葉浮海上。且防陸路絶其便道且追海上認其泊処。遭風波難共失賊所向。
相求之間。賊徒到太宰府。更所儲軍士、出壁防戦。為賊徒被敗。于時賊、
奪取太宰府累代財物。放火焼府畢。寇賊部内之間。官使好古、引率武勇、自陸路行向。
慶幸・春実等鼓棹自海上赴向筑前国博多津。賊、即待戦。
一挙欲決死生。春実、戦酣裸袒乱髪。取短兵振呼入賊中。恒利・遠方等亦相随。
遂入截得数多賊。賊陣更乗船戦之時。官軍、入賊船、着火、焼船。
凶等遂破。悉就擒殺。所取得賊船八百余艘。中箭死傷者数百人。恐官軍威、
入海男女不可勝計。賊徒主伴、相共各離散。或亡、或降。分散如雲。
純友、乗扁舟逃帰伊予国。為警固使橘遠保被擒。次将等皆国々処々被捕。
純友得捕。禁固其身。於獄中死。
↓
【大洲系譜十代】
武虎
・大野太郎
・母 大伴姓女
・久米押領使
・右兵衛尉
↓
【大洲系譜十一代】
国兄
・大野又太郎 大井御舘
・母 越智宿禰久米権介元家女也
↓
【大洲系譜十二代】
良国
・次郎 右兵衛尉
・越智押領使
・実武虎二男国兄同母弟也
↓
【大洲系譜十三代】
時泰
・又太郎
・西条御舘
・実 嵯峨天皇御子為世二男浮穴郡御舘
・母 越智宿禰和気太夫家時女也
・良国無男子故為養子当家大伴氏令継
↓
【大洲系譜十四代】
時武
・母 大伴姓女
・伊豫大領
【大洲系譜】
行泰
・母 藤原氏女也
【大洲系譜】
泰衡
・太郎右衛門太夫
・周敷押領使
・母 橘氏女也
【大洲系譜】
純衡
・伊豫守 従五位下
【大洲系譜】
武衡
・浮穴押領使
【大洲系譜】
泰行
・太郎 民部少輔
・母 藤原氏女也
・芸州沙田郡有凶賊
依勅命而発向干沙田安々誅伐
有御感為勧賞賜沙田
(注)安藝(広島県)
「沙田郡」(ますたぐん)として設置されたが、10世紀初頭に
豊田郡に改称された。当時は内陸部が範囲であった。その後
平安時代末頃に沼田郡の大部分を編入した
【大洲系譜】
純行
・次郎 称富永 太田押領使
・母 大伴姓女也
・干時天慶二己亥(丑カ)年(939)
筑紫有逆乱当国八家士
依勅命而進発鎮西尽粉骨戦功揚武勇名
天下主上有御感賜藤原姓并九刕之守護職
八家同前也
【大洲系譜】
純宗
・雅楽 伊豫大領
・母 越智氏女也
【大洲系譜】
宗成
・母 橘氏女也
・大井大領
【大洲系譜】
吉雅
・久米御舘
・母大伴氏女
【大洲系譜】
純頼
・宮内少輔
【大洲系譜】
安雅
・久万太夫
・母 越智氏女也
↓
【大洲系譜十五代】
安綱 (久万祖)
・五郎太夫
*【予陽河野家譜】
河野通信相共候後家人三十二名の中に
久万安綱子 永助(久万太郎太夫) と注記あり
(景浦氏曰く後世の加筆カ)と
↓
【大洲系譜十六代】
安仲
・八郎太夫
・母 源義夏女
*【予陽河野家譜】
河野通信相共候後家人三十二名の中に
久万安中子 高盛(久万太郎太夫・同舎弟[六郎安清]
と注記あり
(伊予史談会景浦氏曰く後世の加筆カ)と断ず
↓
【大洲系譜十七代】
安行
・久米太夫
・母 大江氏女
*【予陽河野家譜】
河野通信が平泉配流の時同行した一族国人の
なかに久万六郎安清と仝七郎安重の名があるが
同一人物カ
【大洲系譜】
宗行
・太郎 冨永八郎
・母 大江良元女也 任右兵衛尉
*大江が中原から大江へ改正許可は中原廣元が
実父中原廣季ではなく実父大江惟光の姓を継ぐ
として建保4年(1216)以降とされるので大江良元は
はそれ以降である。(2015/10/30)呑舟
【大洲系譜】
藤行
・太田六郎太夫
・母 当女房 織部左衛門尉
【大洲系譜】
定雅
・久万七郎
・降参者多而領分広大得長者号
【大洲系譜】
藤元
・三郎 宮内少輔
【大洲系譜】
元有
・二郎 右兵衛尉
【大洲系譜】
貞有(具?)
・三郎 左京進
【大洲系譜】
有頼
・太郎 左京進
【大洲系譜】
綱頼
・十郎
有藤
・五郎 左衛門尉
経武
・又太郎
↓
【大洲系譜十八代】
義有
・太田十郎
・母 源姓女也
干時元暦元申辰年(1184)二月三日九郎太夫
判官義経公着岸干勝浦義有聞之従士数百人
召倶兵船百余艘取乗為御方走参抽無二軍忠
武勇威名揚天下依茲自義(経)公賜感状数通
并当国地頭職又其後自頼朝公安堵御状曰
伊豫国御本領 并家人等 御進退不可有相違者也
遠国之間 上下向其煩矦欽然者子息若近親一人
可下給矦 且委旨實平申含矦也
文治元己己年 三月二日 頼朝
太田十郎殿
(元歴元年ではなく元歴二年の伊豫史談会の
転記間違いと思われる。)【呑舟】
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