山口県周防大島物語

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大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1950年~1952年)

2023年01月11日 09時44分19秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1590年
天正18年 1月1日  大日本史料  秀吉、参内して、歳首を賀す、又仙洞御所に参賀す【御湯殿上日記】
天正18年 1月5日  大日本史料  秀吉、大坂に下向す
天正18年 1月8日  大日本史料  是より先、肥前龍造寺政家、退老す、子長法師丸(高房、)幼きに依り、鍋島直茂をし
                て、国事を摂せしめ、長法師丸を養子と為さしむ、是日、秀吉、藤八郎、直茂及び其子
                伊勢松(勝茂)をして、各其所領を安堵せしむ、尋で、直茂をして、龍造寺氏の家督を
                相続せしめ、政家に隠居分として同国佐賀郡大俣を与へ、長法師丸を政家の嗣子と為す

天正18年 1月9日  大日本史料  秀吉、大坂より帰京す
天正18年 1月9日  大日本史料  秀吉、上杉景勝に答書し、重ねて、北條氏征伐のこと等を告げ、景勝をして、戦功を励
                ましむ、明日、又信濃上田の真田昌幸に出馬の時期を告ぐ
天正18年 1月13日  大日本史料  是より先、蘆名義広の将山内氏勝、河原田盛継、陸奥水窪、大塩城等に據りて、伊達
                政宗に抗し、援を秀吉に請ふ、是日、石田三成、秀吉の命を奉じて、之に答へ、同城を
                堅守して、小田原出陣を待たしむ、
天正18年 1月13日  大日本史料  徳川家康の子秀忠上京す、尋で秀吉に、聚楽亭に謁す
天正18年 1月20日  大日本史料  是より先、伊達政宗、遠藤不入齋を京都に遣し、前田利家、浅野長吉(長政)に頼り
                て、秀吉に、陸奥会津攻略のことを弁疏せしむ、是日、木村清久、浅野長継等、政宗に
                勧めて秀吉の小田原出陣に会せしむ、尋で、政宗、其将原田左馬助に、秀吉に謁せんと
                する意を告ぐ

天正18年 1月21日  大日本史料  秀吉、織田信雄の女を養ひ、徳川秀忠に嫁せしむ、是日、其儀を聚楽亭に行ふ、尋
                 で、秀忠、駿府に帰る
天正18年 1月21日  大日本史料  秀吉、浅野長吉(長政)の亭に臨む
天正18年 1月21日  大日本史料  秀吉、徳川家康を東海道の先鋒と為す、是日、家康、諸将を会して、軍議す
天正18年 1月23日  大日本史料  是より先、秀吉、下野宇都宮国綱をして、忠節を致さしむ、是日、国綱及び其将芳賀
                高継、常陸佐竹義宣に、陸奥より帰陣し、秀吉の小田原出陣に会せんことを勧む
天正18年 1月28日  大日本史料  秀吉、毛利輝元に命じて、水軍を出陣せしむ、是日、輝元、冷泉元満をして、其準備
                 を為さしむ

天正18年 1月    大日本史料  秀吉、増田長盛をして、賀茂川に三條橋を架せしむ、
天正18年 2月2日  大日本史料   田利家、秀吉の命に依り、加賀、能登、越中の兵を率ゐて上野に入らんとし、是日、
                伊達政宗に、下野に出陣して、戦功を励まんことを慫慂す
天正18年 2月3日  大日本史料  秀吉、大坂に下向す
天正18年 2月4日  大日本史料  徳川家康、出羽最上義光の上京して、秀吉に謁せんとするを停め、其小田原出陣を待ち
                て来謁せしむ
天正18年 2月5日  大日本史料  秀吉、本願寺々内の家地子を興正寺佐超(顕尊)に宛行ひ、益田少将を其代官と為す、
                又本願寺に同寺町屋敷の地子を宛行ふ

天正18年 2月8日  大日本史料  秀吉、子鶴松と共に大坂より帰京す、
天正18年 2月14日  大日本史料  秀吉、高倉永孝をして、東征の衣服を撰定せしむ
天正18年 2月17日  大日本史料  秀吉、東征せんとし、其沿道の諸宿をして、伝馬を出さしむ、是日、尾張清洲城守将
                小早川隆景に之を命ず、又浅野長吉(長政)及び
天正18年           長束政家に相模小田原の陣所のことを命ず
天正18年 2月18日  大日本史料  秀吉、羽柴秀次の出征の時期を告ぐるに答へ、駿河三枚橋城に著陣せば、之を報じ、
                又徳川家康と議らしめ、軽挙を戒む、
天正18年 2月26日  大日本史料  是より先、徳川家康、秀吉の為めに、諸将に課して、諸宿に茶亭を作る、是日、駿河
                 吉原の茶屋竣工す、

天正18年     山口県史整理年表  輝元、秀吉の命により、分国の検地を行う 【福原家文書】
天正18年 2月27日  大日本史料  脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明、長宗我部元親、水軍を率ゐ、遠江今切湊を経て、
                 駿河清水港に著す【脇坂文書】
天正18年 2月28日  大日本史料  聖護院道澄をして、秀吉の戦捷を祈らしめらる、又勧修寺晴豊を遣して、馬及び太刀
                を秀吉に賜ふ、上皇も亦、物を賜ふ
天正18年 2月28日  大日本史料  是より先、秀吉、島津義弘に命じ、琉球王尚寧をして、来聘せしむ、仍りて、尚寧の
                使者、来朝し国書を呈す、是日、秀吉、之に答書を与ふ

天正18年 2/30   大日本史料  秀吉、讃岐塩飽島を検地し、同島の船方をして、其地を安堵せしむ、
天正18年 3月1日  大日本史料  秀吉、兵を率ゐて京都を発す、四足門前の仮楼に御して、其行装を叡覧あらせらる
天正18年 3月4日  大日本史料  秀吉、近江柏原に在り、脇坂安治をして、九鬼嘉隆と議り、戦功を励ましむ
天正18年 3月6日  大日本史料  秀吉、尾張清洲に在り、羽柴秀次の、遠江蒲原に著陣するを聞き、之を戒め、
                徳川家康、織田信雄と議し、陣地を堅守せしむ
天正18年 3月7日  大日本史料  秀吉、肥前後藤善次郎に所領を宛行ふ
天正18年 3月10日  大日本史料  秀吉、三河吉田に著陣す、明日、軍を進めんとす、徳川家康の将伊奈忠次の進言を
                容れ、之を止む

天正18年 3月10日  大日本史料  出羽角館の戸澤盛安、秀吉の東征を聞き、兵を率ゐて来謁す、秀吉、之に同国仙北三
                郡を与へ、中村一氏に属し、伊豆山中城を攻めしむ
天正18年 3月12日  大日本史料  秀吉、吉川広家をして、尾張星崎城を守らしむ、是日、広家、之に入る
天正18年 3月14日  大日本史料  徳川家康、松平家忠をして、駿河吉原に秀吉の陣屋を作らしむ
天正18年 3月~7月  心斎橋今昔年表  秀吉小田原攻めにて北条氏滅亡
天正18年 3月16日  大日本史料  上皇、諸社をして、秀吉の戦捷を祈らしめんとし、権右少弁甘露寺経遠を召して、
                仰下さる、権大納言勧修寺晴豊、右大臣菊亭晴季と議して、其違例を上皇に奏す

天正18年 3月16日  大日本史料  是より先、信濃田之口城の依田昌朝、同国小諸城依田(松平)康国の父信蕃に逐はれ
                て、相模小田原に奔り、北條氏に頼る、又信濃相木に據り、北條氏直に応ず、康国、
                弟康貞と撃ちて之を逐ふ、是日、徳川家康、秀吉に之を報ず
天正18年 3月16日  大日本史料  大友吉統、豊後柞原八幡宮に豊前黒田孝高の非道を停められんことを祈請す
天正18年 3月17日  大日本史料  秀吉、刀二千振を作らしむ、仍りて、是日、奈良の白銀師、鞘師を京都に徴用す
天正18年 3月19日  大日本史料  秀吉、駿府に入城す、

天正18年 3月20日  大日本史料  徳川家康、駿河長久保より駿府城に到りて、秀吉に謁し、之を饗す、
天正18年 3月22日  大日本史料  出羽最上義光、徳川家康に頼りて、秀吉に鷹を進む、是日、家康、之に答ふ、
天正18年 3月23日  大日本史料  秀吉、駿河清見寺に到る、徳川家康、天野康景をして、之を饗せしむ
天正18年 3月25日  大日本史料  是より先、常陸佐竹義宣、陸奥白河より帰国して、秀吉を援け、相模小田原に出陣せ
                んとし、之を下野宇都宮国綱に議る、是日、 国綱の将芳賀高継、義宣の同族東義久
                に、国綱の同意せることを報ず
天正18年 3月25日  大日本史料  北條氏直の将小関加兵衛、秀吉の水軍と伊豆巌殿に戦ふ、

天正18年 3月26日  大日本史料  秀吉、駿河吉原に著陣す、
天正18年 3月26日  大日本史料  伊達政宗、秀吉に謁せんとし、陸奥相馬口の守将大町三河守、中島宗求等をして、留
                守中の守備を厳にせしむ、尋で、葛西晴信も亦、三田刑部少輔に之を依頼す
天正18年 3月27日  大日本史料  秀吉、駿河の三枚橋城に著す、織田信雄、徳川家康、並に之を迎ふ、
天正18年 3月27日  大日本史料  是より先、秀吉、北條氏直の臣石巻康敬、妙音院某を駿河沼津に拘置せしむ、是日、
                康敬を相模小田原に放還し、某を磔殺す
天正18年 3月27日  大日本史料  是より先、最上義光、秀吉の東征を陸奥津軽為信に報ず、是日、為信、秀吉に駿河
                沼津に謁す、秀吉、為信をして、其所領を安堵せしむ、

天正18年 3月27日  大日本史料  下野大田原城大田原綱清の子晴清、秀吉に来謁す、秀吉、之を賞し備前守を称せしむ
天正18年 3月28日  大日本史料  秀吉、徳川家康と共に伊豆山中城の地形を巡視し、長窪城に入り、織田信雄をして、
                同国韮山城を攻めしむ、蜂須賀家政、福島正則、長岡忠興、蒲生氏郷、中川秀政、
                森忠政、戸田勝重等をして、之に属せしむ、又羽柴秀次をして、中村一氏、田中吉政、
                堀尾吉直(吉晴、) 山内一豊、一柳直末等を率ゐて、山中城を攻めしむ、なほ家康を
                小田原口の先鋒と為し、元山中の間道より進ましむ

天正18年 4月1日  大日本史料  秀吉、軍を進めて、箱根山に陣す、又惟住長重、堀秀政等をして、日金山の間道よ
                 り、小田原に進ましむ、宮城野、湯本、竹浦を守る北條氏の兵、小田原に敗走す、
天正18年 4月1日  大日本史料  上杉景勝、前田利家等と共に上野に入る、是日、秀吉、之に戦況を告げ、同国の諸城を
                攻略せしむ、
天正18年 4月1日  大日本史料  秀吉、下野黒羽の大関晴増に答へて、戦況を報じ、速に来謁せしむ
天正18年 4月1日  大日本史料  脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明、長宗我部元親、水軍を率ゐて清水正令を伊豆下田城に
                攻む、又家康の水軍向井正綱、同国田子の壘を攻め、本多重次、同国阿蘭の砦を陥る、
                尋で、正令、降る【寛永諸家系図伝】

天正18年 4月2日  大日本史料  秀吉、尾張星崎城守将吉川広家を三河岡崎城に移し、小早川隆景をして、尾張清洲城に
                居らしめ、兼ねて星崎城を守らしむ
天正18年 4月2日  大日本史料  下野黒羽の大関晴増、常陸佐竹義宣に、速に秀吉に来謁せんことを慫慂す
天正18年 4月2日  大日本史料  秀吉、陣を相模湯本に移し、諸将を会して、労を犒ふ
天正18年 4月2日  大日本史料  秀吉、尾張星崎城守将吉川広家を三河岡崎城に移し、小早川隆景をして、尾張清洲城に
                居らしめ、兼ねて星崎城を守らしむ
天正18年 4月3日  大日本史料  秀吉、軍を湯本より小田原に進ましむ、明日、諸将をして、小田原城を長囲せしめ、又
                海上を警固せしむ

天正18年 4月4日  大日本史料  秀吉、本願寺光佐(顕如)の音問に答へ、小田原の戦況を報ず、尋で、又之を報ず
天正18年 4月4日  大日本史料  徳川家康、秀吉の命に依り、子同秀忠を駿府より招く、
天正18年 4月5日  大日本史料  是より先、徳川家康、秀吉の命に依り、榊原康政をして、其兵を酒匂口に伏せ、小田原
                城に入る者を捕へしむ、是日、康政の将伊藤雁助、鈴木藤九郎等、大須賀忠政の兵等
                と、山岸主悦助を擒ふ、秀吉、之を釈し、火を城中に放ち内応せしむ、城兵、疑ひて
                之を囚ふ
天正18年 4月5日  大日本史料  北條氏政父子、秀吉を箱根に邀へ撃たんとす、老臣松田憲秀、之を諫止し、秀吉に
                通ず、是日、秀吉、石垣山に牙営を築く

天正18年 4月5日  大日本史料  秀吉、福島正則、蜂須賀家政に命じ、伊豆韮山城を長囲せしめ、織田信雄、蒲生氏郷、
                長岡忠興をして、小田原城を囲ましむ
天正18年 4月7日  大日本史料  是より先、前田利家、上杉景勝、真田昌幸等、信濃を経て、上野に入り、松井田城を囲
                む、是日、秀吉、命じて付城を築かしめ、利家、景勝、昌幸を小田原に招致せること等
                を鍋島直茂に報ず、
天正18年 4月8日  大日本史料  下野皆川広照、兵百余人を率ゐ小田原城を出でゝ降る、秀吉、広照をして、徳川家康に
                属せしむ

天正18年 4月10日  大日本史料  秀吉の臣施薬院全宗、伊達政宗に、小田原の戦況を告げ、其来謁を慫慂す
天正18年 4月12日  大日本史料  秀吉、加藤清正及び伊東祐兵に答書し、戦況を報ず、
天正18年 4月13日  大日本史料  秀吉、室杉原氏(高台院)に答書し、戦況等を報じ、側室浅井氏(淀殿)を下向せし
                 めんことを需む
天正18年 4月15日  大日本史料  徳川家康、織田信雄と共に北條氏に内通すとの風説あり、是日、秀吉、家康及び信雄
                 の営を訪ふ
天正18年 4月15日  大日本史料  秀吉、信濃上田城の真田昌幸父子に答へ、小田原城の情況を報ず

天正18年 4月17日  大日本史料  上皇、妙法院常胤法親王を召して、護摩法を修し、秀吉の戦捷を祈らしめらる
天正18年 4月18日  大日本史料  秀吉、肥後人吉の相良頼房(長毎)に答書し、戦況を報ず
天正18年 4月20日  大日本史料  秀吉の母大政所(天瑞院)の奏請に依り、内侍所臨時御神楽あり
天正18年 4月20日  大日本史料  浅野長吉(長政、)前田利家等、伊達政宗に陸奥会津を還付し、秀吉に小田原に謁せ
                んことを慫慂す、尋で、政宗の将守屋意成、小関重安、利家の陣中より政宗に之を勧む
天正18年 4月21日  大日本史料  是より先、徳川家康、秀吉の命に依り、本多忠勝等をして、相模玉縄城の北條氏勝を
                 諭降せしむ、是日、氏勝、秀吉に謁す
天正18年 4月22日  大日本史料  前田利家、大道寺政繁を従へて、相模小田原に到り、秀吉に謁す

天正18年 4月23日  大日本史料  聖護院道澄をして、金剛童子法を清涼殿に修し、秀吉の戦捷を祈らしむ
天正18年 4月23日  大日本史料  是より先、佐竹義宣、秀吉の命に依り、常陸及び両総の諸城を攻略す、是日、
                下野壬生、鹿沼両城を攻む
天正18年 4月24日  大日本史料  興福寺、秀吉の春日社に寄進する鹿を神苑に放つ
天正18年 4月24日  山口県史整理年表  輝元、賀屋五右衛門尉に岩国の地を給し、警固船のことに尽力せしむ
                   【毛利氏四代実録】

天正18年 4月26日  大日本史料  秀吉、徳川家康と議し、浅野長吉(長政、)木村常陸介及び家康の将本多忠勝、鳥居
                 元忠、平岩親吉をして武蔵、両総等の諸城を攻めしむ是日、長吉等、相模鎌倉に入る
天正18年 4月27日  大日本史料  秀吉、上杉景勝に答書し、上野松井田の地下人等を還住せしめ、又、人身売買を
                厳禁せしむ
天正18年 4月28日  大日本史料  下総結城晴朝、秀吉の動静を下野宇都宮国綱に報ず、明日、又、之を佐竹義宣に報ず
天正18年 4月    大日本史料  秀吉、紀伊青岸渡寺に鰐口を寄進す、母大政所(天瑞院)及び羽柴秀長等も亦、
                之を寄進す

天正18年 5月1日  大日本史料  秀吉、伊豆修禅寺をして、同寺の修造に努めしめ、又門前の百姓を還住せしむ
天正18年 5月2日  大日本史料  権大納言勧修寺晴豊、同中山親綱を小田原に遣して、秀吉に宸翰及び物を賜ひ、其労を
                犒はせらる、是日、晴豊等、京都を発す
天正18年 5月2日  大日本史料  前田利家、伊達政宗に、関東の状勢を告げて、秀吉に来謁せんことを慫慂す
天正18年 5月3日  大日本史料  秀吉、山城清水寺成就院の、祈祷巻数を贈るを謝す
天正18年 5月4日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院、)大和春日社に参詣す、
天正18年 5月7日  大日本史料  秀吉、小早川隆景を尾張清洲より招き、小田原城攻略の策を諮ひ、長囲するに決し、是
                日、側室浅井氏(淀殿)を招致す、

天正18年 5月11日  大日本史料  秀吉、上部宗次郎に、伊勢多気郡の地を宛行ふ、
天正18年 5月13日  大日本史料  秀吉、加藤清正の、物を進めて端午節供を賀するを謝し、関東の状況を報ず
天正18年 5月13日  大日本史料  秀吉、前田利家及び上杉景勝等をして、速に北條氏邦の武蔵鉢形城を攻略せしむ、
                 尋で、利家等、之を囲む
天正18年 5月14日  大日本史料  秀吉の将片桐直倫(且元、)相模底倉に禁制を下す、尋で、同国大平台村に之を下す
天正18年 5月15日  大日本史料  秀吉、豊前中津の黒田長政に、関東の情勢を報ず、又下野那須資晴に答へて、小田原
                 の形勢を告げ、速に来謁せしむ

天正18年 5月16日  大日本史料  石田三成、岩城常隆に答書し、相模小田原攻囲の状を告げ、速に秀吉に来謁せしむ、
天正18年 5月17日  大日本史料  徳川家康の将鳥居元忠、其所領の大豆百俵を秀吉に進む、是日、長束正家、之に其請
                 取状を与ふ
天正18年 5月20日  大日本史料  秀吉、加藤清正の、起居を候するに答へ、相模小田原の近況を報ず
天正18年 5月20日  大日本史料  秀吉、浅野長吉(長政、)木村常陸介等の、大兵を擁して、房総の小城を攻撃するを
                 譴責し、速に前田利家等を援けて、武蔵鉢形城を攻めしむ
天正18年 5月20日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院、)奈良より聚楽亭に帰る、

天正18年 5月22日  大日本史料  秀吉、美濃清水城の稲葉重通をして、兵糧米を相模小田原に運送せしむ
天正18年 5月24日  大日本史料  是より先、下総結城の結城晴朝、好を秀吉に通じ、其子を養嗣子と為さんことを請
                 ふ、秀吉、養子羽柴秀康を与ふることを約す、是日、晴朝、相模小田原に来謁す、
天正18年 5月27日  大日本史料  佐竹義宣、宇都宮国綱、東義久、太田道誉(資正)と共に相模小田原に抵り、秀吉に
                 謁す、秀吉、義宣、国綱をして、武蔵鉢形城を攻めしむ
天正18年 5月27日  大日本史料  長岡忠興、池田照政(輝政、)長谷川秀一、秀吉の命に依り、武蔵岩槻城攻略の状況
                 等を北條氏政に告げ、之を威嚇す

天正18年 5月27日  大日本史料  石田三成、秀吉の命に依り、陸奥田村宗顕の来謁を促す、是日、宗顕の将田村聖休、
                 橋本顕徳、之を伊達政宗の同族同成實に報ず、
天正18年 5月27日  大日本史料  左衛門督侍従従四位下堀秀政、相模小田原早川口の営中に卒す、尋で、秀吉、秀政の
                 子秀治をして、家督を相続せしむ
天正18年 5月29日  大日本史料  秀吉、相模小田原の陣中に茶会を催す
天正18年 6月5日  大日本史料  伊達政宗、相模小田原に著す、秀吉、之を同国底倉山中に宿せしめ、前田利家、
                浅野長吉(長政)を武蔵鉢形城の陣中より召還す

天正18年 6月5日  大日本史料  秀吉、筑後勝尾の筑紫広門の起居を候するに答へ相模小田原及び関東諸城の戦状を報ず
天正18年 6月6日  大日本史料  伊達政宗、陸奥岩城の岩城常隆に、速に相模小田原に来り、秀吉に謁せんことを慫慂す
天正18年 6月7日  大日本史料  秀吉、前田利家、浅野長吉(長政、)施楽院全宗等をして、伊達政宗に、陸奥会津を攻
                略し、又佐竹、相馬の諸氏と戦ふの非違を詰責せしむ、尋で、秀吉、会津を収公す
天正18年 6月7日  大日本史料  秀吉、加藤清正の起居を候するに答へ、相模小田原及び関東の戦況を報ず
天正18年 6月7日  大日本史料  是より先、福島正則、蜂須賀家政等、北條氏規を伊豆韮山城に攻む、是日、徳川家康、
                氏規に説き、速に下城し氏政、氏直父子の為めに罪を秀吉に謝せしむ

天正18年 6月8日  大日本史料  北條氏直の将松田憲秀、小田原城中より秀吉に内応す、秀吉、之に伊豆、相模を宛行ふ
                ことを約す
天正18年 6月9日  大日本史料  秀吉、伊達政宗を陣中に引見す、明日、又之を饗す、尋で、其帰国を許し、木村清久、
                浅野正勝をして、之と同行し、陸奥会津の黒川城を収めしむ
天正18年 6月11日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、飛鳥井雅庸に北御所を賜ふ
天正18年 6月12日  大日本史料  秀吉、石田三成に武蔵忍城及び同国岩槻城攻略のこと等を命ず
天正18年 6月12日  大日本史料  陸奥岩城の岩城常隆、相模小田原に赴き、秀吉に謁す、
天正18年 6月13日  大日本史料  秀吉、黒田長政の、起居を候するに答へ、相模小田原及び関東諸城の戦況を報ず

天正18年 6月16日  大日本史料  是より先、松田憲秀、長子笠原新六郎と謀り、秀吉に内通し、池田、長岡、堀等諸氏
                 の兵を小田原城内に入れんとす、憲秀の秀治、之を氏直に告ぐ、是日、氏直、憲秀を
                 囚へ、新六郎を誅す
天正18年 6月16日  大日本史料  出羽角館城の戸澤盛安、相模小田原の陣中に卒す、弟光盛、家督を継ぐ、尋で、
                 秀吉、光盛をして、其本領を安堵せしむ、
天正18年 6月16日  大日本史料  北條氏直、天野主殿助に、秀吉を破りて後に、其私領内に徳政を許すことを約す
天正18年 6月20日  大日本史料  秀吉、蔵入分豊後の百姓の、薩摩、大隅、日向に逃散するに依り、島津龍伯(義久)
                 に命じて、之を還住せしむ

天正18年 6月24日  大日本史料  羽柴雄利、黒田孝高、秀吉の命に依り、小田原城井細田口の守将太田氏房を勧め、氏
                政父子に和議を説かしむ、北條氏規も亦、伊豆韮山より小田原に来りて和議に賛同す
天正18年 6月25日  大日本史料  徳川家康、秀吉の命を承け、本多忠勝、平岩親吉をして、相模筑井城を攻略せしむ、
                 是日、忠勝等、之を陥る
天正18年 6月26日  大日本史料  秀吉、相模石垣山の陣営成るに依り、之に徙る、是日、諸陣に令し、鉄砲を齋射し
                 て、小田原城兵を威嚇せしむ
天正18年 6月26日  大日本史料  伊達政宗、秀吉の命を奉じ、相馬義胤を伐たんとし、諸将に令して其準備を為さし
                む、又箭部下野守及び白河義親の将河東田重清等に命じ、速に陸奥大里城を攻略せしむ

天正18年 6月28日  大日本史料  秀吉、武蔵江戸を徳川家康の城地と定む【天正日記】
天正18年 6月29日  大日本史料  斯波義近、北條氏政、同氏直父子の助命を秀吉に請ふ、秀吉、之を卻く
天正18年 7月2日  大日本史料  秀吉、奥羽を征せんとす、仍りて、西川八右衛門等を遣し、道路、橋梁を修築せしむ
天正18年 7月2日  大日本史料  秀吉、伊豆韮山城の兵を相模小田原に移す
天正18年 7月5日  大日本史料  北條氏直、相模小田原城を出で、羽柴雄利、黒田孝高に頼り、自殺して父氏政以下の死
                を宥さんことを秀吉に請ふ、秀吉、之に感じ、
天正18年 7月5日  大日本史料  秀吉、浅野長吉(長政)を陸奥に遣す、是日、長吉、武蔵岩槻に著し、之を陸奥白河
                義親に告ぐ

天正18年 7月6日  大日本史料  秀吉、片桐直倫(且元、)脇坂安治及び家康の将榊原康政等をして、相模小田原城を
                収公せしむ
天正18年 7月6日  大日本史料  秀吉、上杉景勝、前田利長をして、相模小田原に会せしむ、是日、之を停め、武蔵忍城
                に赴援せしむ
天正18年 7月6日  大日本史料  陸奥南部信直の将津軽為信背き、信直の同族九戸政實、之に応ず、是日、信直、子利直
                と共に秀吉に謁し、為信、政實を訴へ、之を討たんことを請ふ、秀吉、為信の来謁する
                を以て許さず
天正18年 7月7日  大日本史料  秀吉、下野小山秀綱の、相模小田原の陣に会せざるに依り、其領地を没収す

天正18年 7月8日  大日本史料  広橋兼勝、飛鳥井雅庸、吉田兼治、相模小田原に下向し、秀吉の陣を訪ふ、是日、
                京都を発す
天正18年 7月10日  大日本史料  秀吉、側室浅井氏(淀殿)を山城淀城に還す、是日、三河岡崎城守将吉川広家等に
                 路次の用意を命ず
天正18年 7月11日  大日本史料  秀吉、北條氏政及び弟同氏照を田村安清の家に自殺せしむ
天正18年 7月11日  大日本史料  陸奥八戸直栄、相模小田原に到りて、秀吉に謁す、仍りて、紀伊高野山遍照光院、
                愛染王供を修し、是日、其巻数を直栄に遺る

天正18年 7月12日  大日本史料  秀吉、室杉原氏(高台院)に答へ、鶴松等の生御魂祝を贈るを謝し、戦況等を報ず
天正18年 7月12日  大日本史料  秀吉、北條氏直の、徳川家康の女婿たるに依り、助命して、之を紀伊高野山に放つ、
                尋で、氏直、相模小田原を発す、北條氏規、同氏勝等、従ふ
天正18年 7月13日  大日本史料  秀吉、相模小田原城に入る、徳川家康の領国三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を収め、
                 北條氏の故地関東八国を与へ、別に近江、伊勢等の地十一万石を給す
天正18年 7月13日  大日本史料  秀吉、徳川家康の故地三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を織田信雄に給す、信雄、旧に
                 依り、尾張、伊勢を領せんことを請ふ、秀吉、之を下野那須に放ち、佐竹義宣に預
                 く、尋で、秀吉、信雄の旧地尾張及び北伊勢五郡を羽柴秀次に与へ、信雄の臣羽柴
                 雄利を直臣と為し、同国神戸の地を安堵せしめ、木造長政に地を与へ、織田秀信の
                 後見と為し三河、甲斐、信濃を諸将に頒ち与ふ、尋で京極高次を近江八幡山に封ず

天正18年 7月13日  大日本史料  伊達政宗、陸奥会津の黒川城を秀吉に致して、出羽米澤に退く、是日、之を
                 田村宗顕に告ぐ
天正18年 7月14日  大日本史料  徳川家康、太田氏房及び其将伊達与兵衛、野本将監の妻子の、領国内に居住するを許
                 し、之を黒田孝高、羽柴雄利に告ぐ
天正18年 7月15日  大日本史料  秀吉、小早川隆景、吉川広家に命じ、金子三千枚及び荷物を聚楽亭に輸送せしめ、
                 又役夫百人を備へしむ
天正18年 7月16日  大日本史料  秀吉、北條氏政、同氏照の首級を京都一條戻橋に梟せしむ

天正18年 7月16日  大日本史料  是より先、浅野長吉(長政、)石田三成、真田昌幸等、佐竹、宇都宮等諸氏の兵を率
                 ゐて、成田長氏の兵を武蔵忍城に囲む、秀吉、長氏に命じ、城兵を諭さしむ、是日、
                 同城陥る
天正18年 7月17日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、紫宸殿を延暦寺に賜ふ
天正18年 7月17日  大日本史料  秀吉、陸奥、出羽を征せんとし、相模小田原を発す、
天正18年 7月20日  大日本史料  秀吉、武蔵江戸を発し、陸奥に出陣す
天正18年 7月20日  大日本史料  秀吉の将木村清久、伊達政宗に、陸奥黒川城中の秀吉館舎の竣るを告げ、政宗をし
                 て、白河、会津間の道路、橋梁、館舎を修築せしめ、又糧米を進めしむ

天正18年 7月22日  大日本史料  左京大夫従四位下岩城常隆、相模鎌倉の星谷に卒す、尋で、秀吉、佐竹義重の子能化
                 丸をして、常隆の家督を相続せしむ、能化丸、名を貞隆を改む
天正18年 7月26日  大日本史料  秀吉、下野宇都宮に著陣す、陸奥、出羽の置目を議せんとし、伊達政宗、最上義光を
                 召致す
天正18年 7月26日  大日本史料  秀吉、徳川家康の将本多忠勝に、佐藤忠信の冑を与ふ
天正18年 7月27日  大日本史料  秀吉、南部信直をして、陸奥南部の地七郡を安堵せしめ、其妻子を在京せしめ、其領
                 内を検地せしむ、又家臣等の居城を毀ち、其人質を同国三戸城に置かしむ
                 晴朝、家督を秀康に譲り、江戸重通の女を養ひて、之に配す

天正18年 7月30日  大日本史料 是より先、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒近規等、富士山麓に、大仏殿の用材を得
                て、其運搬道路のこと等を秀吉に報ず、是日、秀吉、之を褒し又奥羽両国の状況を告ぐ
                【伊予古文】
天正18年 8月1日  大日本史料  是より先、上野金山の由良国繁、弟長尾顕長と共に小田原に入城す、国繁の母赤井氏、
                前田利家等の上野に入るを聞き、孫貞繁をして、之に会せしむ、是日、秀吉、赤井氏に
                常陸牛久の地を宛行ふ
天正18年 8月1日  大日本史料  秀吉、佐竹義重をして、其邑を安堵せしむ、又其妻子を人質として、上京せしむるに依
                り、之に伝馬、人足を給す

天正18年 8月1日  大日本史料  秀吉、上杉景勝に命じ、木村常陸介、大谷吉継と議し、出羽を検地せしむ
天正18年 8月2日  大日本史料  陸奥白河義親、秀吉に謁せんとし出発す、伊達政宗の、奥羽征討の命を奉ずるに依り、
                其軍に会す、是日、秀吉、之を褒す
天正18年 8月4日  大日本史料  織田信雄、徳川家康に頼りて秀吉の意を解かんことを請ふ、是日、家康、信雄の臣曽我
                尚祐に、秀吉の意の和ぎしことを報ず
天正18年 8月6日  大日本史料  秀吉、陸奥白河に著す、明日、同国長沼に進む

天正18年 8月9日  大日本史料  秀吉、陸奥会津の黒川城に入る、尋で、大崎義隆、葛西晴信、石川昭光、白河義親の、
                相模小田原に参陣せざるを責めて、其邑を没収し、義隆、晴信の邑を木村吉清、同清久
                父子に与へ、伊勢松坂の蒲生氏郷を会津に封ず、又陸奥を検地せんとし、片桐直倫
               (且元)等に其條規を与ふ
天正18年 8月10日  大日本史料  秀吉、陸奥石川兵蔵に百姓の武具所持禁止等の條規を頒つ、
天正18年 8月11日  大日本史料  秀吉、陸奥、出羽の状況及び伊達政宗の室田村氏、最上義光の妻子等を人質として、
                上京せしめしことを島津龍伯(義久)に報ず

天正18年 8月12日  大日本史料  秀吉、陸奥黒川城を発す、尋で、下野宇都宮を経て駿河に旋る
天正18年 8月13日  大日本史料  石田三成等、秀吉の命に依り、陸奥石川昭光の罪を宥し、其妻を人質として、同国
                白河に送らしむ、又其領内の年貢の三分一を徴用し、兵糧に宛て、三分二を安堵せしむ
天正18年 8月16日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院)及び室杉原氏(高台院)に物を賜ふ
天正18年 8月18日  大日本史料  秀吉、吉川広家をして、分国中の刀駆を行はしむ
天正18年 8月19日  大日本史料  秀吉、白河義親をして、陸奥会津に在城せしむ是日、宇喜多秀家、義親に其命を伝ふ
天正18年 8月20日  大日本史料  秀吉、駿河清見寺に著す

天正18年 8月21日  大日本史料  島津龍伯(義久、)琉球王尚寧に、秀吉の関東平定を報じ、速に方物、楽工を献じ、
                 之を賀せんことを促す、
天正18年 8月22日  大日本史料  秀吉、御生母准三宮勧修寺氏に山城山科の地二百石を献ず
天正18年 8月22日  大日本史料  秀吉、駿河大宮の浅間社等をして、同社領等を安堵せしむ、又同国瑞龍寺の門前諸役
                 を免除し、同寺をして、其寺領を安堵せしめ、徳川家康室故豊臣氏(旭姫)菩提の為
                 めに地を寄進す
天正18年 8月22日  大日本史料  秀吉、帰京の後、相模鶴岡八幡宮を造営せんとし、之を同宮社家等に約す、

天正18年 8月22日  大日本史料  秀吉、駿府に小西行長、森吉成を招き、明国出兵の準備を議す、是日、山中長俊、
                 之を増田長盛に報ず
天正18年 8月22日  大日本史料  出羽米澤の町民、逃散す、仍りて、是日、徳永寿尊、秀吉の命に依り、伊達政宗をし
                 て、之を鎮撫し還住せしむ
天正18年 8月22日  大日本史料  吉川広家、秀吉を三河岡崎城に饗せんとし、是日、之を招請す
天正18年 8月23日  大日本史料  秀吉、遠江掛川に著す、藤堂高虎の、物を進めて起居を候するを謝す
天正18年 8月27日  大日本史料  秀吉、尾張清洲町に禁制を下す

天正18年 8月27日  大日本史料  是より先、下野佐野城佐野宗綱の遺臣等、北條氏政の弟同氏忠を請ひて、家督を相続
                 せしむ、宗綱の弟天徳寺寶衍、京都より帰国し、秀吉に頼りて、佐野城を奪ふ、
                 是日、寶衍、之を三浦元政に報ず
天正18年 8月30日  大日本史料  三河岡崎の田中吉政、秀吉の朱印状に任せ、坂井利貞をして、知行分尾張北島郷の
                 地を安堵せしむ

天正18年 8月  心斎橋今昔年表   東北地方を平定し、全国統一

天正18年 9月1日  大日本史料  秀吉、京都に凱旋す、
天正18年 9月4日  大日本史料  秀吉、諸将の末だ凱旋せざるに依り、参内せざることを奏す、
天正18年 9月7日  大日本史料  秀吉、近江今枝勘右衛門等に所領を宛行ふ
天正18年 9月15日  大日本史料  秀吉、禁裏造営を巡検す、
天正18年 9月16日  大日本史料  秀吉、新御所に遷御あらせらるゝを待ちて、朝鮮の使臣を従へ参内せんとし、是日、
                 菊亭晴季等をして、之を奏せしむ
天正18年 9月18日  大日本史料  毛利輝元、秀吉を其亭に饗す、明日、又廷臣、諸将を饗す、尋で帰国す、

天正18年 9月19日  大日本史料  秀吉、上杉景勝をして、出羽秋田を検地せしめ、其年貢の額を定む
天正18年 9月20日  大日本史料  秀吉、故足利義明の孫国朝を、本宗足利義氏の遺女某に配し、其名跡を相続せしめ、
                 是日、某に下総古河の地を宛行ふ
天正18年 9月23日  大日本史料  秀吉、聚楽亭に茶会を催す、尋で、毛利輝元、加藤清正、之を催す
天正18年 9月24日  大日本史料 羽柴秀次、黒田孝高及び大澤二郎左衛門等に所領を加ふ
天正18年 9月25日  大日本史料  秀吉、摂津有馬に湯治す、

天正18年 10月2日  大日本史料  是より先、秀吉、田村宗顕の邑を没収す、仍りて、浅野長吉(長政、)伊達政宗をし
                 て、宗顕の旧城陸奥三春を収めしむ、是日、政宗、宗顕の家臣をして、出羽米澤に移
                 らしむ、尋で、宗顕、政宗の言を斥け、上京して、秀吉に陳ぜんとし途に卒す
天正18年 10月14日  大日本史料  秀吉、摂津有馬より大坂城に帰る
天正18年 10月16日  大日本史料  本願寺光佐(顕如、)秀吉を其亭に饗す
天正18年 10月17日  大日本史料  秀吉、片桐直倫(且元)をして、和泉に於ける蔵入分の年貢を運上せしむ
天正18年 10月19日  大日本史料  秀吉、大和郡山に之き、羽柴秀長の病を問ふ、又春日社に米五千石を寄進し、
                 其平癒を祈る、

天正18年 10月22日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、諸社をして羽柴秀長の病平癒を祈らしめらる
天正18年 10月22日  大日本史料  是より先、秀吉、下野那須資晴の相模小田原に来謁せざるに依り、其封を奪ふ、
                 是日、資晴の子藤王丸に下野那須の地を宛行ふ
天正18年 11月3日  大日本史料  秀吉、東征より旋りて初めて参内し、銀三百枚を献ず、尋で、之を廷臣に頒ち賜ふ
天正18年 11月3日  大日本史料  是より先、木村清久の将陸奥古河城の関大夫等、一揆の為め同国黒川に殺さる、仍り
                て、政宗、浅野正勝及び鬼庭石見をして、 之を秀吉に報ぜしめんとし、是日、石見を
                 招致す

天正18年 11月4日  大日本史料  秀吉、堀秀治に越前、加賀の地十六万石を加増す
天正18年 11月5日  大日本史料  秀吉、水野和泉守に所領を宛行ふ
天正18年 11月7日  大日本史料  秀吉、朝鮮正使黄允吉、副使金誠一、従事官許筬等を聚楽亭に引見し、国書を受く、
                 尋で、之に答書を与ふ、允吉等の、其改作を請ふを聴かず
天正18年 11月19日  大日本史料  大神宮以下十一社に勅使を遣し、秀吉の子鶴松の疾平癒を祈らしめらる
天正18年 11月21日  大日本史料  内侍所に千返楽を奏して、秀吉の子鶴松の疾平癒を祈らせらる

天正18年 11月24日  大日本史料  蒲生氏郷、秀吉に伊達政宗の異心あることを注進す
天正18年 11月26日  大日本史料  蒲生氏郷、木村吉清、浅野正勝の弁明を聞き、伊達政宗に対し、意稍解く、是日、
                 之を秀吉に報じ、又政宗に告ぐ
天正18年 11月27日  大日本史料  伊達政宗、白河義親の軍状を問ふに答へ、秀吉に忠節を致さしむ、
天正18年 11月30日  大日本史料  秀吉、島津龍伯(義久、)同義弘に暇を給し、帰国せしむ
天正18年 12月3日  大日本史料  秀吉、丹波亀山の羽柴秀勝を甲斐に移封す、是日、秀勝、同国大泉寺の諸役を免除す

天正18年 12月5日  大日本史料  秀吉、近江の蔵入分代官太田牛一等に命じ、牢人を追払はしむ、
天正18年 12月7日  大日本史料  秀吉、陸奥相馬誠胤をして、其邑を安堵せしむ
天正18年 12月15日  大日本史料  秀吉、蒲生氏郷の報に依り、徳川家康及び羽柴秀次をして、之を救援せしむ、尋
                 で、氏郷の誤報を怒り、家康等を途に召還す、是日、富田一白(知信、)和久宗是、
                 並に伊達政宗に之を報ず
天正18年 12月18日  大日本史料  秀吉、下野大田原の大田原晴清をして継飛脚二十人を備へ、文書の遞送に當らしむ

天正18年 12月18日  大日本史料  羽柴秀次、下野宇都宮に陣す、是日、秀吉、秀次をして、徳川家康と聯絡し、蒲生
                 氏郷を救援せしむ、又兵糧を準備せしむ
天正18年 12月20日  大日本史料  秀吉、明後年肥前名護屋に出陣せんとし、立花宗茂等に其準備を命ず
天正18年 12月25日  大日本史料  秀吉、藤堂高虎に知行を加ふ、
天正18年 12月26日  大日本史料  秀吉、遠江方広寺等に地を寄進す
天正18年 12月27日  大日本史料  秀吉、徳川家康の将榊原康政の報に依り、家康及び羽柴秀次をして、蒲生氏郷を
                 赴援せしむ

天正18年 12月29日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、徳川秀忠を侍従に任じ、従四位下に叙す、

天正18年      大分県の歴史  黒田孝高が豊前中津城を(現中津市)築城する。

                *今元が行橋市今元なら今元家初代直光慶長3年誕生と系図にあるが天正3年の誤記と
                 すれば13歳の元服時の天正15年今元の地名を採ったとすれば父親が伝兵衛隆直で
                 あることと矛盾せず、すべて氷解する。後に故あって直政の許に帰ったのであろう。
                 「屋代大野系図に隆直の筑前黒崎や黒田藩士として残る大野三兄弟の情報も今元直光
                 によりもたらされた可能性がある。

天正18年     伊予一色HP  天正18年(1590年)、摂津麻田藩青木一重の代官となっていた武士重之公は、
                 命により 古城に居た周敷郡北条村の地頭越智勘左衛門を討って移り住み、そこを
                「三ツ屋」と称した。

天正18年   周防大島民族誌  小松の妙善寺は真宗。古くは真言宗の光照寺というのがあったがその焼け跡へ天正
                十八年再興されて妙善寺と改め寛永十一年に改宗せらる。

西暦1591年
天正19年 1月2日  大日本史料  千宗易(利休、)陸奥二本松滞陣の長岡忠興の老臣松井康之に答へ、同国の一揆に
                就きての秀吉の対策等を報ず
天正19年 1月3日  大日本史料  諸大名、秀吉に歳首を賀す
天正19年 1月8日  大日本史料  秀吉、山城淀に遊猟し、鳥を献ず
天正19年 1月10日  大日本史料  是より先、石田三成、秀吉の命に依り、陸奥に下向し、是日、相馬に著す、蒲生氏郷
                の、同国名生城を出るを聞きて帰京す
天正19年 1月12日  大日本史料  秀吉、参内して、歳首を賀す、

天正19年 1月14日  大日本史料  勧修寺晴豊を秀吉の聚楽亭に遣して太刀、馬代を賜ふ、上皇も亦、中山親綱を遣して
                 之を賜ふ
天正19年 1月17日  大日本史料  秀吉、出羽戸澤九郎に同国仙北の地を宛行ふ
天正19年 1月18日  大日本史料  是より先、秀吉、陽光院の六宮(智仁)の御所を造営す是日、同宮、之に遷徙せらる
天正19年 1月19日  大日本史料  秀吉、尾張に遊猟せんとす、子鶴松の病に依りて止む
天正19年 1月20日  大日本史料  是より先、伊達政宗、一揆を勦滅して自ら弁ぜんとし、兵を徴す、是日、秀吉の命に
                 依り、出兵を停む、

天正19年 1月     大日本史料  秀吉、出羽安東(秋田)實季に同国秋田郡の地を宛行ふ、
天正19年 閏1月5日  大日本史料  秀吉、本願寺光佐(顕如)に京都六條の地を与へ、和泉貝塚より之に移居せしむ、
天正19年 閏1月8日  大日本史料  是より先、大友府蘭(宗麟、)大村理専(純忠、)有馬鎮貴(晴信、)羅馬法皇
                  グレゴリオ十三世に使節を派遣す、耶蘇会宣教師アレッサンドロ・バリニヤーニ、
                  使節と同行して来朝し、是日、共に秀吉に聚楽亭に謁し、印度副王の書を呈す、

天正19年 閏1月10日  大日本史料  秀吉、尾張清洲に遊猟す、
天正19年 閏1月11日  大日本史料  秀吉、和泉の小出吉政に知行を加ふ、
天正19年 閏1月23日  大日本史料  伊達政宗、遠江浜松城に著す、是日、前田利家に懇情を謝し、秀吉に取成を依頼す
天正19年 閏1月27日  大日本史料  伊達政宗、尾張清洲に著す、是日、秀吉、之を引見す
天正19年 閏1月     大日本史料  秀吉、京都六町町を大名屋敷と為し、廷臣に替屋敷を与ふ
天正19年 2月1日     大日本史料  秀吉、阿子田新右衛門に美濃黒坪村の地等を宛行ふ
天正19年 2月3日     大日本史料  秀吉、尾張清洲より帰京す、
天正19年 2月9日     大日本史料  秀吉、陸奥葛西、大崎両氏の乱を糾して、木村吉清父子の封を奪ひ、其地を伊達
                   政宗に与へ、同国田村、塩松(四本松)等の地を直領と為す、是日、伊達政宗、
                   之を浅野長吉(長政)に報ず、

天正19年 2月28日  大日本史料  是より先、秀吉、千宗易(利休)を和泉堺に追放し、其寿像を一條戻橋に梟す、
                 是日、宗易をして、自殺せしむ、
天正19年 3月4日  大日本史料   是より先、秀吉、禁裏を造営す、是日、内侍所御辛櫃の緘縢を改む
天正19年 3月13日  大日本史料  秀吉、諸国を検地し、新に諸大名に朱印状を頒つ、是日、毛利輝元に之を与ふ、
天正19年 3月15日  大日本史料  秀吉、山城宇治に赴き、茶摘を見る、伊達政宗、之に従ふ
天正19年 3月17日  大日本史料  秀吉、山城宇治より帰京す
天正19年 3月25日  大日本史料  秀吉、誓願寺をして、小川今小路より京極に徙らしむ

天正19年 3月   大日本史料  宗義智、朝鮮信使を伴ひて対馬に帰り、柳川調信等をして、之を送りて朝鮮に赴き、
                秀吉の意を諭さしむ、朝鮮王李昖聴かず、

天正19年 3月  山口縣文化史年票  秀吉、輝元所領安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐・伯耆三郡備中国の
                  検地高百十二万石を安堵す 【毛利氏四代実録】

天正19年 4月4日  大日本史料  秀吉、庶民の濫に禁中に出入するを禁止す
天正19年 4月5日  大日本史料  是より先、秀吉、羽柴秀勝を甲斐より美濃に移封し、加藤光泰に甲斐を与ふ、是日、
                光泰、同国長禅寺に禁制を下す、尋で、国内に條規を頒つ、
天正19年 4月13日  大日本史料  陸奥南部信直、子利直及び北信愛をして、上京し、九戸政實の乱を秀吉に訴へしむ
天正19年 4月21日  大日本史料  是より先、秀吉、伊達政宗をして、帰国し大崎、葛西両氏の余党を勦せしむ、是日、
                羽柴秀次、政宗の之を報ずるに答ふ

天正19年 4月23日  大日本史料  秀吉、下野那須資景に五千石を加増し、又服部土佐守等に近江の地を与ふ、
天正19年 4月27日  大日本史料  秀吉、石川備後守等に丹波伊原村等を加封す
天正19年 4月    大日本史料  明国福建省の商人陳申、琉球に在り、秀吉の征明の挙を聞き、琉球長史鄭迵と謀り、
                 潜に本国に帰り、之を告ぐ
天正19年 5月4日   大日本史料  秀吉、吉田又作等に所領を宛行ふ
天正19年 5月14日  大日本史料  秀吉、徳川家康の相模鶴岡八幡宮を造営せんとするを認む、
天正19年 5月20日  大日本史料  大仏殿立柱、上棟、秀吉、之に臨む

天正19年 5月   大日本史料  秀吉の使僧玄蘇、宗義智の臣柳川調信、朝鮮王李昖の答書を齎して帰国す
天正19年 6月4日  大日本史料  秀吉、徳川家康をして、蒲生氏郷と伊達政宗との知行割を裁定せしむ、
天正19年 6月9日  大日本史料  秀吉、菊桐の紋章の使用を禁ず、
天正19年 6月9日  大日本史料  陸奥南部利直、上京して、秀吉に謁す
天正19年 6月20日  大日本史料  秀吉、陸奥葛西、大崎両氏の余党及び九戸政實の乱を平定せんとし、徳川家康、
                羽柴秀次を大将と為し、伊達政宗、蒲生氏郷をして、 同国二本松より、佐竹義宣、
                宇都宮国綱をして、同国相馬口より進ましめ、石田三成をして、其軍を監せしむ、又
                上杉景勝をして、同国最上口より進ましめ、大谷吉隆をして、之を監せしむ

天正19年 6月   大日本史料  対馬宗義智、秀吉の命に依り、朝鮮釜山に赴き、国王李昖に、明をして和親を請はしめ
               んことを図らしむ、李昖聴かず、義智、帰りて秀吉に謁し、朝鮮の地図を進む、

天正19年 7月1日  上蔵院河野氏過去帳
                 道安禅定門霊位   豫州越智勘兵衛殿  天正十九年辛卯七月朔日

天正19年 7月1日  大日本史料  秀吉、近江大津より帰京す、
天正19年 7月25日  大日本史料  秀吉、印度副王に返書し、耶蘇教の布教を禁止する旨を伝へ、貿易を求む
天正19年 7月27日  大日本史料  秀吉、山城淀に之く
天正19年 7月29日  大日本史料  秀吉、禁中に納むる地図を全国に徴す、
天正19年 7月    大日本史料  朝鮮王李昖、秀吉の襲寇を恐れ、全羅、慶尚両道の城邑を増築、修備せしむ
天正19年 8月1日   大日本史料  秀吉、信濃蘆田の蘆田(松平)康寛に命じ、佐竹義重及び妻子の上京に就き、領中の
                伝馬、人足を出さしむ

天正19年     大野家譜上田本  ○大野直昌男直清、元服する。
天正19年 8月5日  大日本史料    秀吉の子鶴松夭す
天正19年 8月5日  心斎橋今昔年表  豊臣鶴松病死。
天正19年 8月6日  大日本史料    秀吉、承兌(西笑)等を東福寺に招き、明国出兵の意を告げ、供奉を命ず
天正19年 8月7日  大日本史料    秀吉、清水寺に遊び、又摂津有馬に湯治す
天正19年 8月9日  大日本史料    秀吉、有馬重則に摂津、播磨両国の地を加増す

天正19年 8月13日  大日本史料   加藤清正、肥後の留守居同喜左衛門等に、秀吉の明年明国出兵のこと及び肥前名護
                  屋に築城のこと等を報ず、尋で、石田正澄、之を肥後相良頼房(長毎)に報ず、
天正19年 8月18日  大日本史料   秀吉、摂津有馬より大坂に帰る、尋で入京す
天正19年 8月21日  大日本史料   秀吉、奉公人、侍、中間、小者等及び百姓に就きての條規を定め、其転職を禁ず
天正19年 8月21日  大日本史料   琉球王尚寧、島津龍伯(義久)に、秀吉の関東平定を賀し方物を贈る、

天正19年 8月24日  大日本史料   是より先、秀吉、北條氏直を紀伊高野山より河内天野に移す、尋で、其罪を赦し、
                  知行を宛行ふ、是日、氏直、金剛峯寺高室院に秀吉の明国出兵のことを告ぐ、
                 明日、山上強右衛門尉に関東及び河内の地を宛行ふ
天正19年 8月24日  大日本史料  秀吉、蔵入分及び代官の知行所に、他領より米銭を貸付くることを禁ず
天正19年 9月3日  大日本史料  秀吉、松浦宗信(鎮信、)有馬晴信、大村嘉前、五島純玄をして、壱岐勝本及び対馬国
                府の清水山に築かしむ
天正19年 9月7日  大日本史料  秀吉、富士山村山池の西坊をして、富士浅間社領の年貢、参銭等を安堵せしむ

天正19年 9月7日  大日本史料  是より先、伊達政宗、陸奥水澤、江刺に代官を置き、南部邊境に備ふ、是日、秀吉の
                軍監大谷吉隆、之を承認す
天正19年 9月8日  大日本史料  浅野長吉(長政、)秀吉の命を承け、陸奥和賀、稗貫、志和三郡を南部信直に増封し、
                是日、軍を旋す、尋で、信直、釆邑を部下に与ふ
天正19年 9月16日  大日本史料  秀吉、明国出兵の時期を定め、諸将をして、其準備を為さしむ
天正19年 9月18日  大日本史料  鹿苑院瑞保(有節、)足利昌山(義昭)を山城真木島に訪ね、秀吉の明国出兵のこと
                等を語る

天正19年 9月21日  大日本史料  秀吉、田邊与左衛門尉に其所領丹波氷上郡の地の替地を宛行ふ
天正19年 9月23日  大日本史料  秀吉、伊達政宗を出羽米澤より陸奥大崎、葛西に移し、米澤等を蒲生氏郷に与ふ、
                是日、政宗、同国岩手澤城に移る
天正19年 9月23日  大日本史料  秀吉、御話衆の結番を定む
天正19年 9月25日  大日本史料  明商許儀後、朱均旺、郭国安等、帰化して薩摩に在り、秀吉の明国出兵の挙を聞き、
                 之を福建省巡撫に報ず
天正19年 9月26日  大日本史料  秀吉、大坂に之く、

天正19年 初秋  大野家譜上田本  ○大野直昌男直清、亡父3回忌に芸州に渡り、彼の地より武者修行して九州を
                 徘徊する。

天正19年 10月2日  大日本史料  秀吉、島津龍伯(義久、)同義弘兄弟の在国中に於ける人質の制を定む、

天正19年 10月2日  屋代大野系譜  ●大野隆直歿、号露山珍居士

天正19年 10月10日  大日本史料  秀吉、鎮西の諸大名をして、肥前名護屋に築かしむ、加藤清正等、之を監す、
                 是日、普請始あり
天正19年 10月10日  大日本史料  秀吉、軍船を造るに依り、大仏殿の工事を中止し、之を興山(応其)に命ず
天正19年 10月12日  大日本史料  秀吉、大坂より帰京す
天正19年 10月18日  大日本史料  秀吉、吉田兼見をして、太平記巻二十九を書写せしむ
天正19年 10月21日  大日本史料  秀吉、織田信長の後室小倉氏(鍋)に近江の地を宛行ふ、

天正19年 10月24日  大日本史料  是より先、秀吉、琉球王尚寧をして、朝鮮出兵に会せしむ、是日、島津龍伯
                 (義久、)尚寧に兵糧を徴し、其出兵の期を定む
天正19年 10月24日  大日本史料  秀吉、金剛峯寺の非法を赦し、條目を下す
天正19年 10月30日  大日本史料  是より先、秀吉、奈良の金商人の米銭を貸借し、暴利を得るに依り、之を棄破す、
                 是日、更に其首魁を捕ふ
天正19年 11月3日  大日本史料  秀吉、美濃、尾張に遊猟す、是日、京都を発す
天正19年 11月4日  大日本史料  右京大夫従五位下北條氏直、大坂に卒す、尋で、秀吉、氏直の叔父同氏規をして、
                 家督を継がしめ、河内狭山の地を宛行ふ

天正19年 11月9日  山口県史整理年表  輝元、三浦元忠に周防国所々において、一万六千数百石を給す 【三浦文書】
天正19年 11月11日  山口県史整理年表  輝元、賀屋五右衛門尉に能美島・玖珂郡余田・吉敷郡秋穂等の内にて地を
                    給し、七端帆の兵船一艘を供せしむ 【毛利氏四代実録】
天正19年 11月19日  山口県史整理年表  輝元、弘九郎左衛門尉に玖珂郡の内柱島その他の地を給し七端帆の兵船一艘を
                    供せしむ 【閥閲録】

天正19年 12月5日  大日本史料  是より先、秀吉、朝鮮に出兵せんとし、山内一豊及び松下重綱をして、軍船を遠江川
                 尻に作らしむ、是日、秀吉、之を督促す
天正19年 12月14日  大日本史料  秀吉、島津龍伯(義久)に、質子を徴す
天正19年 12月16日  大日本史料  秀吉の狩猟より帰京する行装を叡覧あらせらる、秀吉、鳥獣を頒ち献ず、

天正19年 12月16日  山口県史整理年表  輝元、内藤隆春をして佐波川大渡りに架橋せしむ。また朝鮮出陣後は、留守
                    を専一にし、防長において異変の事あらば急報せしめ、綾木役の半を加う
                     【毛利氏四代実録】

天正19年 12月20日  大日本史料  羽柴秀次、秀吉の掟に依違せざることを誓ふ

天正19年 12月25日  大日本史料  秀吉、大坂に下向す、尋で、入京す、
天正19年 12月27日  大日本史料  関白秀吉、左大臣近衛信輔(信尹)を並に罷む、内大臣羽柴秀次を関白と為し、
                 左大臣に任ず

天正19年 12月27日  心斎橋今昔年表  秀吉関白を秀次に譲り「太閤」を名乗る

西暦1952年
天正20年 1月5日  大日本史料  秀吉、朝鮮を経て、明国に出兵せんとし、諸将に出陣を命ず、又禁制を下す
天正20年 1月5日  大日本史料  秀吉、出征せんとし、肥前名護屋に到る宿驛及び供膳を定め、又出軍途次の諸将に
               掟書を下す
天正20年 1月7日  大日本史料  秀吉、前田利家に出陣を命じ、子利長をして、留守せしむ、是日、利長、近藤掃部助等
               に其準備を命ず

天正20年 1月7日  山口県史整理年表  秀吉九州下向につき輝元に令し、宿毎に馬五十疋を集めしめ、十九日更に各川に
                  渡船を用意せしむ 【毛利家文書】
天正20年 1月14日  大日本史料  秀吉、出征せんとするに依り、諸大名の質子を大坂城に送らしむ、是日、毛利輝元、
                之を内藤周竹に伝ふ
天正20年 1月18日  大日本史料  秀吉、小西行長及び宗義智の献策に依り、之を朝鮮に遣し、帰服を勧めしむ、仍りて、
                諸将をして、壱岐、対馬に待機せしむ、
天正20年 1月19日  大日本史料  秀吉、琉球王尚寧に朝鮮出兵を命ず

天正20年 1月24日  大日本史料  秀吉、三月一日を期して、肥前名護屋の本営に出陣せんとし、毛利輝元、小早川隆景等
                をして、海陸の夫馬及び渡舟を準備せしむ
天正20年 1月24日  大日本史料  秀吉、米穀蓄蔵の為め、筑前博多津内の倉庫を明置くべきことを島井宗室及び神谷宗湛
                に命ず
天正20年 1月29日  大日本史料  前田利長、秀吉の乗艦の用に供する為め、銅及び金箔を領内より徴す
天正20年 1月    大日本史料  秀吉、壱岐及び高麗に禁制を下す、
天正20年 2月18日  大日本史料  秀吉、伊賀筒井定次の京都の亭に臨む、

天正20年 2月25日  大日本史料  日向伊東祐兵、秀吉の命に依り、嫡子祐慶を大坂城に送りて質と為す、
天正20年 2月27日  大日本史料  秀吉、小西行長及び宗義智を朝鮮に遣すに依り、加藤清正をして、同国の近島に、九州
                の諸将をして対馬に、四国の諸将をして、壱岐に待機せしむ、尋で、重ねて之を令す
天正20年 3月1日  大日本史料  秀吉、目を病むに依り、出師の期日を十日と定め、寺澤正成を肥前名護屋に遣す、
               又毛利輝元に命じ、中国の諸将をして、壱岐に航せしむ
天正20年 3月8日  大日本史料 長宗我部元親、土佐より出陣す【福富半右衛門親政覚書】

天正20年 3月10日  大日本史料  秀吉、道路の混雑を慮り、出征を二十日に延引す
天正20年 3月上旬  山口県史整理年表  輝元、朝鮮征伐のため広島を出発す 【考証論断】
天正20年 3月13日  大日本史料  秀吉、朝鮮の返報を待たずして進撃を命じ、諸将の部署を定む、又肥前名護屋在陣の
                諸将及び水軍のことを定む
天正20年 3月13日  大日本史料  秀吉、洛中町民に米等四千石を貸付け、其利息を以て橋梁を修造せしむ

天正20年 3月13日  萩藩閥閲録巻10-4  
             秀吉、輝元に令して十五万余人を九班に分って出陣せしむ 【毛利家文書・堅田安房】

    高麗エ罷渡御人数事
      一番
    一、五千人  羽柴対馬侍従(宗義智) 一、七千人  小西摂津守(行長)
    一、三千人  松浦刑部卿法印(鎮信) 一、七千人  有馬修理大夫(春信)
    一、千人  大村新八郎(喜前) 一、七百人  五嶋大和守(純玄)
       合壱万八千七百人

      二番
    一、壱万人  加藤主計頭(清正) 一、壱万弐千人  鍋島加賀守(直茂)
    一、八百人  相良宮内大輔(長毎)    合弐万二千八百人

      三番
    一、五千人  黒田甲斐守(長政) 一、六千人  羽柴豊後侍従(大友義統)
      合壱万一千人

      四番
    一、弐千人  毛利壱岐守(吉成) 一、壱万人  羽柴薩摩侍従(島津義弘)
    一、弐千人  高橋九郎(元種)
     穐月三郎(種長)
    伊藤民部大輔(伊東祐兵)
    嶋津又七郎(豊久)    合壱万四千人

      五番
   一、四千八百人  福嶋左衛門太夫(正則) 一、三千九百人  戸田民部少輔(勝隆)
    一、三千人  羽柴土佐侍従(長曾我部元親) 一、七千弐百人  蜂須賀阿波守(家政)
    一、五千五百人  生駒雅樂頭(親政) 一、七百人  来島兄弟(通之、通総)
      合弐万五千人

      六番
    一、壱万人  羽柴筑前侍従(小早川隆景) 一、千五百人  羽柴久留米侍従(小早川秀包)
    一、弐千五百人  羽柴柳川侍従(立花宗茂) 一、八百人  高橋主膳(直次)
    一、九百人  筑紫上野介(広門)    合壱万五千七百人

      七番    八番
    一、三万人  安芸宰相(毛利輝元) 一、壱万人  対馬在陣  備前宰相(宇喜多秀家)

      九番
    一、八千人  壱岐在陣  岐阜宰相(織田秀信) 一、三千五百人  壱岐在陣  丹後少将(細川忠興)
      合壱万千五百人
                    都合拾五万八千七百人

天正20年 3月20日  大日本史料  秀吉、羽柴秀勝に丹波の地を宛行ふ
天正20年 3月26日  大日本史料  秀吉の出陣を歓送あらせらる
天正20年 3月28日  大日本史料  秀吉、島津龍伯(義久)等に、朝鮮より回漕せる船舶の積荷なきものは、肥前名護屋に
                回船せしむべきこと等を命ず

文禄元年 4月    大日本史料  福島正則、中川秀政、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒近規、来島通之、
                同通総、宇喜多秀家等、朝鮮釜山浦に入港す、尋で、京城に入る【中川家譜覚書】

文禄元年 4月8日  伊予中世年表  ○三原八幡藪事件(秀吉暗殺未遂事件)朝鮮出兵の指揮のため下向中の秀吉を河野家
                遺臣らが御調八幡で暗殺計画露見

文禄元年 4月   伊予中世年表  ○雲龍閣襲撃事件(秀吉暗殺未遂事件)三原雲龍閣暗殺計画露見。河野通軌・平岡
                通倚・大野直昌ら河野家遺臣による。

天正20年 4月7日  秀吉九州下向記

   七日  晴、岡山ヲ御立チアッテ備中ノ矢掛ニ御着陣、岡山ヨリ四里、神辺川ヨリ矢掛ヘ三里、河辺川より西ハ
      毛利領分也。
     河辺ヨリ名護屋マデ毎一里塚を築、一里ハ三十六町也、河辺川水出船渡也、船数廿五六艘、乗馬ハ川ヲ
      渡ス。
  八日  早天ニ細雨、午時晴、備後ノ杉原ノ三寶寺ニ御着陣、矢掛ヨリ七里、神辺ヨリ一里半、。
 九日  夜中細雨、早旦ヨリ晴、三原ヘ御着陣、小早川居城、三寶寺ヨリ八里。

     (四月七日、備中矢掛宿泊→四月八日、備後杉原村三寶寺泊、→四月九日、十日、備後三原城滞在)


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