西暦1587年
天正15年 寛政重修諸家譜 ○黒田孝高、豊前中津城へ転封さる。
*(これは中津城ではなく行橋市南部の馬ケ岳城である、中津城築城は天正18年頃である
天正15年 正月 大野家聞書 ○河野 大野家の城々責落さる。
天正15年 1月1日 大日本史料 秀吉、諸将の参賀を大坂城に受く
天正15年 1月1日 大日本史料 秀吉、親ら島津氏を討たんとし、諸将の部署を定む、尋で、軍令を設け、路次に下す
天正15年 1月3日 大日本史料 秀吉、佐伯惟定の、豊後栂牟礼籠城の功を褒し、尚守備を厳にせしむ
天正15年 1月3日 大日本史料 秀吉、大坂城に茶会を催す
天正15年 1月9日 大日本史料 秀吉、入京す、明日、雉子を献ず
天正15年 1月17日 大日本史料 秀吉、佐伯惟定並に志賀親次等の豊後に於ける防戦の功を褒し、且九州出陣の
近きことを告ぐ
天正15年 1月19日 大日本史料 島津義久、書を羽柴秀長及び石田三成に遺り、秀吉に抗する意なきことを弁疏す
天正15年 1月23日 大日本史料 秀吉、龍造寺政家、原田信種等の、款を通ずるを賞し、其所領を安堵せしめ、
且戦功を励ましむ
天正15年 1月25日 大日本史料 秀吉、書を小早川隆景、吉川元長、黒田孝高及び松浦鎮信に与へ、先鋒宇喜多秀家の
九州出陣を告ぐ
天正15年 1月 大日本史料 秀吉、安芸厳島社に禁制を下す
天正15年 2月3日 大日本史料 秀吉、長宗我部元親に其子信親の戦死を弔し、豊後臼杵城守備の功を褒す【武家事紀】
天正15年 2月6日 大日本史料 秀吉、長宗我部元親に其子信親の戦死を弔し、豊後臼杵城守備の功を褒す、
天正15年 2月6日 大日本史料 秀吉、参内して、白鳥、太刀及び馬代を献じ、歳首を賀す
天正15年 2月7日 大日本史料 廷臣等、聚楽亭に於て、秀吉に歳首を賀す、
天正15年 2月7日 大野家聞書 ○大野仁右衛門尉 尾首城に生る、千達丸と云う。
天正15年 2月8日 大日本史料 秀吉、再び出馬の期を黒田孝高に伝へ、宇喜多秀家等の著陣を待ちて、兵を豊後に
出さんことを命ず
天正15年 2月8日 大日本史料 秀吉、小出秀政に播磨高砂の地を宛行ふ
天正15年 2月8日 大日本史料 秀吉、近江大津に之く
天正15年 2月13日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正15年 2月14日 大日本史料 秀吉、脇坂安治の、糧食を豊後臼杵城に輸せし功を褒す
天正15年 2月16日 大日本史料 是より先、前権中納言山科言経、秀吉に頼りて、勅勘を宥されんことを請ふ、是日、
秀吉、京都の奉行前田玄以をして、重ねて、之を奏聞せしむ
天正15年 2月18日 大日本史料 黒田孝高及び小早川隆景、筑後の五條鎮定に、近く秀吉の先鋒の豊前に著陣すべきこ
とを告げ、以て忠節を励ましむ
天正15年 2月22日 大日本史料 秀吉、黒田孝高等の、秋月宗誾(種實)を攻めんとするを停め、守備を堅くして、
島津氏の軍と対峙せしめ、羽柴秀長の著陣を待たしむ
天正15年 2月25日 大日本史料 秀吉、大坂城に茶会を催す、
天正15年 3月1日 大日本史料 秀吉、薩摩の島津氏を撃たんとし、親ら将兵を帥ヰて、大坂を発す、なほ羽柴秀次、
前田利家をして、京都を守らしむ
天正15年 3月5日 大日本史料 秀吉、備前片上に著陣す、乃ち黒田孝高の書状に答へ、豊前表に於ける島津義久の兵に
対する策略に違算なからしめ、併せて筑紫広門等の軍功を褒す
天正15年 3月6日 大日本史料 秀吉、備前岡山に抵る、乃ち書を小早川隆景、加藤嘉明等に与へ、之を報ず
【小早川隆景書状】
天正15年 3月12日 大日本史料 秀吉、備後赤坂に抵る、足利義昭、出でヽ之を迎ふ
天正15年 3月13日 大日本史料 諸社寺をして、秀吉の戦勝を祈らしめ給ふ
天正15年 3月15日 大日本史料 秀吉、備後三原を発し、安芸四日市に著陣す
天正15年 3月15日 大日本史料 是より先、秀吉、一色昭秀及び興山(応其)をして、島津義珍(義弘)に和議を勧め
しむ、義珍、聴かず、是日、豊後府内を去り、尋で、同国松尾城に入る、
天正15年 3月16日 大日本史料 秀吉、安芸海田に抵る、命を羽柴秀長に伝へ、羽柴秀勝をして、豊前小倉に據りて、
門司を阨せしめ、宇喜多、宮部、毛利、小早川、吉川及び黒田、蜂須賀、脇坂の諸将を
して、適所に陣し、島津氏の兵を牽制せしむ
天正15年 3月17日 大日本史料 秀吉、安芸廿日市に著陣す、翌日、厳島に遊び、厳島社に米穀を寄進し、且大願寺
経堂の建立を命じ、其資を寄進す
天正15年 3月18日 大日本史料 信濃松本の小笠原貞慶、上田の真田昌幸等、秀吉の命に従ひ、駿府に於て、徳川家康
に見ゆ
天正15年 3月19日 大日本史料 秀吉、周防永興寺に抵る、安国寺恵瓊等を、黒田孝高の許に遣せることを蜂須賀家政
に報ず、尋で、書を孝高に与へ、秋月宗誾(種實)を降さんとするの意を告ぐ
天正15年 3月20日 大日本史料 黒田孝高、筑後の五條鎮定に、豊後に於ける上方勢の戦捷を報じ、龍造寺政家と議
し、肥後に進むべき準備を為さしむ
天正15年 3月24日 大日本史料 権大納言広橋兼勝を遣し、秀吉の西征の労を犒はせ給ふ
天正15年 3月25日 大日本史料 秀吉、長門赤間関に著陣す、尋で、羽柴秀長等をして、日向口より薩摩に入らしめ、
親ら筑前より肥後路を経て薩摩に赴かんとし、更に諸将の部署を定む
天正15年 3月29日 大日本史料 秀吉、豊前小倉を経て、同国馬嶽城に入る
天正15年 3月29日 大日本史料 是より先、羽柴秀長、黒田孝高、小早川隆景等と共に日向に入り、県城を囲む、
是日、守将土持久綱、同国佐土原に敗走す
天正15年 4月1日 大日本史料 秀吉、筑前の秋月宗誾(種實)を攻めんとし、豊前板原に陣を移し、兵を遣して、宗誾
の将熊井久重を、同国巌石城に攻めしむ、羽柴秀勝、蒲生賦秀(氏郷、)前田利勝
(利長、)秀吉に請ひて急攻し、之を陥る
天正15年 4月3日 大日本史料 秀吉、筑前尾熊に陣を進む、是日、秋月宗誾(種實)父子、浅野長吉(長政)等に頼り
て降り、其女を質とし、名器楢柴等を進む、又豊前彦山僧徒、秀吉に降る
天正15年 4月3日 大日本史料 秀吉、九州に於ける戦況を奏聞す
天正15年 4月5日 大日本史料 立花統虎、筑前秋月城に於て、秀吉に謁す
天正15年 4月8日 大日本史料 秀吉の近臣木下吉種、九州に於ける戦況を京都の留守役中村一氏等に報ず
天正15年 4月9日 大日本史料 秀吉、諸将に令して陣立を改む
天正15年 4月10日 大日本史料 秀吉、筑前秋月を発し、筑後高良山に到る、翌日、肥前の龍造寺政家、来謁す
天正15年 4月11日 大日本史料 秀吉、肥後南関に進む
天正15年 4月13日 大日本史料 秀吉の捷報、京都に達す
天正15年 4月13日 大日本史料 秀吉、肥後高瀬に進む、同国隈本(熊本)の城久基、城を出でヽ降る、
天正15年 4月16日 大日本史料 秀吉、肥後隈本(熊本)城に入る、其先鋒、同国木山に入る
天正15年 4月17日 大日本史料 秀吉の先鋒、肥後宇土に入る、名和顕孝、城を致して降る
天正15年 4月17日 大日本史料 是より先、島津氏の属将肥後谷山の松浦筑前守、秀吉に内応して、国内の諸氏を煽動
す、是日、新納忠元、伊集院久信等、攻めて、谷山城を陥る、尋で、又肥前高来の有馬
氏、兵船に乗じ、肥後八代を侵す
天正15年 4月18日 大日本史料 秀吉、肥後隈荘に進む、島津忠永、同国高田城を棄てヽ遁る、新納忠元等、同国関城
より出で、島津征久、町田久倍等と八代に会し、共に同国求麻に奔る
天正15年 4月19日 大日本史料 秀吉、肥後八代に入る、翌日、同国願行寺に禁制を下す、又毛利輝元に戦況を報ず
天正15年 4月21日 大日本史料 島津義久、興山(応其、)一色昭秀等の勧めを容れ、伊集院忠棟を質と為し、羽柴
秀長に頼りて、秀吉に降る
天正15年 4月25日 大日本史料 秀吉、肥後田浦を経て、同国佐敷に抵る、相良頼房、来り謁す、
天正15年 4月27日 大日本史料 秀吉、肥後水俣を発し、薩摩出水に進む、島津忠永、迎へ降る、
天正15年 4月28日 大日本史料 秀吉、水軍の将小西行長、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆をして、桂忠昉を薩摩平佐
城に攻めしむ、尋で、忠昉、島津義久の命に依り、城を致して降る
天正15年 4月29日 大日本史料 秀吉、豊後岡の志賀親次をして、兵を率ヰて日向に抵り、羽柴秀長の軍に会せしむ
天正15年 5月1日 大日本史料 秀吉、薩摩出水より同国阿久根に進む、乃ち毛利輝元、小早川隆景、吉川元長をして、
羽柴秀長と議し、驛路の禁制等を下さしむ
天正15年 5月1日 大日本史料 是より先、島津義久、秀吉の、薩摩川内に入ると聞き、諸将を日向都於郡に会し、その
去就を議す、是日、義久、鹿児島に帰り、羽柴秀長、営を日向野尻に進む
天正15年 5月3日 大日本史料 秀吉、牙営を薩摩川内の泰平寺に築き、同国阿久根より高城を経て之に徙る、羽柴秀長
の報に依り、島津義久の降を知る、仍りて、義久を赦し、諸兵の進軍を停む
天正15年 5月3日 大日本史料 秀吉、羽柴秀長をして、日向、大隅の諸将の質子を収めしめ、日向を大友宗滴(宗麟)
に、其一郡を伊東祐兵に、豊後を大友義統(吉統)に、大隅を長宗我部元親に、其一郡
を伊集院忠棟に与へんことを告げしむ、又毛利、小早川、吉川、黒田の諸将をして、
薩摩泰平寺に会せしめ、秀長等と共に、日向、大隅、豊前、豊後等に於ける諸城の修築
又は破却を議せしむ、尋で、宗滴、元親並に受封を辞す【武家事紀】
天正15年 5月7日 大日本史料 是より先、島津義珍(義弘、)同歳久、同征久等と謀り、陰に日向飯野城等に籠らんと
す、是日、義珍、義久の近臣本田親貞をして、義久の秀吉に降らんとするを止めしむ
天正15年 5月8日 大日本史料 島津義久、薙髪して龍伯と号し、薩摩泰平寺に抵り、秀吉に謁して罪を謝す、尋で、
秀吉、龍伯の所領薩摩を安堵せしめ、其質を収む
天正15年 5月 心斎橋今昔年表 秀吉九州平定
天正15年 5月15日 大日本史料 秀吉、書を加須屋武則に遺り、島津龍伯降伏のこと、並に戦後の経営等に就きて報ず
天正15年 5月18日 大日本史料 秀吉、帰京の途に就き、薩摩泰平寺を発し、同国平佐に著す
天正15年 5月20日 大日本史料 秀吉、薩摩平佐より山崎に抵る、
天正15年 5月22日 大日本史料 秀吉、薩摩鶴田に陣す、島津義珍(義弘、)迎へ謁す
天正15年 5月25日 大日本史料 秀吉、大隅を島津義珍(義弘)に、日向諸県郡を其子久保に与ふ、翌日、島津家久、
同征久をして、並に其邑を安堵せしむ
天正15年 5月26日 大日本史料 是より先、秀吉、大隅曽木に陣す、同国大口の新納忠元、菱刈の伊地知重康等と謀り
て挑戦せんとす、島津龍伯(義久)等、之を諭して、降らしむ、是日、忠元、秀吉に謁す
天正15年 5月29日 大日本史料 秀吉、肥後八代に旋る、相良頼房(長毎、)迎へ謁す、阿蘇惟賢も亦、同国矢部城を
致して降る、又、秀吉、其室杉原氏(高台院)に返書し、九州平定の状を報ず
天正15年 5月30日 大日本史料 秀吉、肥後一国を佐々成政に与へ、相良頼房(長毎)をして、之に属し、其邑求麻郡
を安堵せしむ
天正15年 5月 大分県の歴史 大友宗麟が津久見にて死去する。58歳
天正15年 6月1日 大日本史料 秀吉、肥後隈本(熊本)城に著す、翌日、加須屋武則、片桐直倫(且元)に命じて、
筑後川渡過の準備を為さしむ
天正15年 6月2日 大日本史料 秀吉、小代下総守に肥後の地を宛行ふ
天正15年 6月3日 大日本史料 是より先、長岡玄旨(幽齋、)秀吉の軍に従はんとして、丹後を発す、是日、筑前姪浜
に抵り、秀吉を迎ふ
天正15年 6月7日 大日本史料 秀吉、筑前筥崎に旋る、尋で、毛利輝元等の諸将を会し、九州諸大名の封域を定む、
乃ち、筑前一国及び筑後、肥前各二郡を小早川隆景に筑後三郡を同秀包に、肥前四郡を
龍造寺政家に、豊前六郡を黒田孝高に、同二郡を森吉成に与へ、且、肥前、筑後、日向
の地を割きて、立花統虎以下の諸将を之に移し、松浦道可(隆信)をして、その所領
壱岐を、宗一鴎(義調)をして、対馬を安堵せしむ
天正15年 6月11日 大日本史料 秀吉、筑前博多町を再興せしむ
天正15年 6月14日 大日本史料 伊勢専修寺堯真をして、其住持職を安堵せしめ、旧に依り、秀吉の下知に任せ、
諸国の末寺、門徒を管掌せしめ給ふ
天正15年 6月15日 大日本史料 島津龍伯(義久、)秀吉に従ひ上京せんとし、弟義珍(義弘)をして、国事を監せし
め、薩摩鹿児島を発す
天正15年 6月15日 大日本史料 秀吉、対馬の宗一鴎(義調)をして、朝鮮国王の来朝を促し、遅滞あらば、即時同国
に出兵すべき旨を告げしむ
天正15年 6月18日 大日本史料 秀吉、筑前筥崎八幡宮に遷宮料米を寄進す
天正15年 6月19日 大日本史料 秀吉、耶蘇教の弊害を認め、之を制禁し、且、二十日を限りて宣教師を国外に追放す
べきことを告ぐ
天正15年 6月 心斎橋今昔年表 秀吉キリスト教禁教令発布
天正15年 6月27日 小早川隆景書状 ○伊予から九州への国替えを村上元吉に伝える。(小早川隆景→村上元吉)
天正15年 6月25日 大日本史料 島津龍伯(義久、)筑前筥崎に抵り、秀吉に謁す
天正15年 6月26日 大日本史料 秀吉、筑前筥崎の陣営に茶会を催す、島津龍伯(義久、)之に陪す、
天正15年 6月27日 大日本史料 秀吉、連歌会を催す
天正15年 6月 大分県の歴史 播磨の黒田官兵衛孝高(よしたか)が秀吉から豊前六郡を与えられる。孝高は福岡県
行橋市南部の馬ケ丘城に居を構える。この時大野隆直とその養嗣子たちも黒田家に仕官
し行橋市今元に住んでか?今元の起源の可能性あり。
天正15年 7月2日 大日本史料 秀吉、筑前筥崎を発し、是日、長門赤間関に旋る、翌日、毛利輝元、太刀、馬及び重寶
を進めて、之を饗す
天正15年 7月 大日本史料 黒田孝高、豊前に入国し、條規三條を頒つ
天正15年 筑前大野家文書 ○大野直吉【村上】は安国寺恵慶が伊豫より筑前鞍手郡内転封の時、一緒に同地に
移動する。
天正15年 大洲大野系譜 ○大野直昌の子、後の正智院誕生・直常同母とあるから宇都宮朝子と直昌との女となり、
兄直常とは異父兄妹。
天正15年 大野系譜讃岐屋本 ○大野直昌の子、後の正智院誕生・直常同母とあるから宇都宮朝子と直昌との女となり、
兄直常とは異父兄妹。
天正15年 上川大野系譜 ■隆景の使者来たりて云うに、近々太閤九州に進発あり、両家共当国一所に於て扶助する
こと能わず、早々中国に立し退かるべし、彼の地に於て扶助すべし云々、因って茲に妻、
子供、家臣佐伯十兵衛、日野九郎右衛門供をして芸州竹原、山田村に立退く、
竹原下山田村、今は下野村。
天正15年 大野家譜上田本 ○隆景の使者来たりて云うに、近々太閤九州に進発あり、両家共当国一所に於て扶助する
こと能わず、早々中国に立し退かるべし、彼の地に於て扶助すべし云々、因って茲に妻、
子供、家臣佐伯十兵衛、日野九郎右衛門供をして芸州竹原、山田村に立退く、
竹原下山田村、今は下野村。
天正15年 7月8日 大日本史料 秀吉、毛利輝元及び小早川隆景をして中国の処置に遺憾なきを期せしむ(毛利家文書)
天正15年 7月8日 萩藩閥閲録1-242
此間直雖被仰聞候、重而安国寺(恵慶)被差下候、
中国之分別、此節無油断可申付事肝要候
但両人可為覚悟次第候、猶任口上候也
(天正十五年)七月八日 (太閤様)御朱印
毛利右馬頭(輝元)とのへ
小早川左衛門佐(隆景)とのへ
天正15年 7月9日 TAKUBO HP ○秀吉九州からの帰途、毛利の饗応の後竹原通過する・
天正15年 7月9日 TAKUBO HP ○河野通直急ぎ竹原へ渡海する。お家再興の懇願か?
天正15年 7月9日 萩藩附録河野通恒 天正十五年七月九日父通直芸州竹原庄に於て秀吉の爲生害、故を以て家門斷絶
*7/9日の秀吉への再興嘆願を拒否されて竹原に帰り通直は自殺した記録。
「予陽河野家譜」は病死とするが病死ではなく自殺である。
天正15年 7月9日 久万町誌 ○河野・大野再興の望みを断たれ河野通直は隆景が筑前に移封されるや勧めにより安芸国
竹原に直昌と落去。 *是は予陽河野家譜を出典としているので誤り。
天正15年 7月10日 大日本史料 秀吉、備前岡山に還る
天正15年 7月12日 閥閲録輝元書簡 ○河野通直母「五もし」急ぎ竹原へ渡海する。
毛利輝元から神保就俊宛書状「閥閲録」に
五もし御事無事に三津浦御渡候由先以可然候、
其方心遣之段推量候、何とやうにも此節可心付事肝要候、…
(天正十一[1583])七月十二日 輝元御判
*この書状は(天正十一[1583])と考えられていたが、河野勢でなく毛利勢によってしかも隆景から
の前もった指示もなく、
「何とやうにも此節心付ける可き事肝要に候」程の思いで保護され伊予三津浦を出る必要は、
天正十五年の隆景九州移封時の 混乱期をおいて他に無いから、この書状は(天正十五[1587])
七月十二日であると読む。ここに言う「五もし」とは誰か。
「五もし」とは一般に女のことであるが此処では河野通直の母であると考える。
*この急な渡海(湯月から竹原へ)は通直、自殺(自害)の報を受けてでのものであろう。
天正15年 7月13日 小早川隆景書状 ○河野家惣領 通直 逝去。号 長生寺殿月渓公大禅定門
天正15年 7月14日 予陽河野家譜 ○河野家惣領 通直 逝去。号 長生寺殿月渓公大禅定門
*是は通直葬儀を母親(五もし)が行った日であろう。
天正15年 7月14日 上蔵院河野氏過去帳 長生寺殿前豫州太守月渓宗圓大居士尊儀
豫刕奉為河野通直公御母儀御建立
天正十五年丁亥七月十四日卒
天正十六年四月二十六日建立
*これは母親が翌年に高野山に詣で建立し、現在奥の院入り口にある。
自らも「天遊栄寿」の逆襲(生前戒名)を得ている。
天正15年 7月14日 大野家聞書 ○河野伊豫守通直逝去 長生寺殿予州太守月■宗圓大禅定門 九月十五日
行年二十四歳。 *没日誤り
天正15年 7月14日 大日本史料 伊予河野通直、安芸竹原に客死す【阿波国古文書、善応寺本河野家譜】
天正15年 7月14日 大日本史料 秀吉、備前片上より海路を大坂城に凱旋す、勅使勧修寺晴豊、之を迎ふ
天正15年 7月21日 大日本史料 本願寺光佐(顕如、)光寿(教如)等と共に秀吉に謁す、尋で、上野草津に湯治す
天正15年 7月24日 小早川隆景書状 ○武吉・元吉の7/13の書状を7/24日に見て突然の国替えに伊予衆を迎へにやったが
留守で、三原に関白(秀吉)と中納言を接待予定が遅れて。ご立腹であった。
しかる所に通直が死んだとか母(大方)が慌てて竹原に駆けつけたとか・・・・
(隆景→武吉・元吉)
「去る(天正十五[1587]年七月)十三日の御状、今日廿四到來、披見候、何ケ度申候ても不慮の
御國替、一入旁く御心遣い是非に及ばず候、(周防の)八代嶋御逗留先、以て然るべく存じ
候、御休息肝要に存じ候、我等事、九州の聞合わせ仰付けられ候間、年内罷り上るべき事ハ
定まらず候、 當時(筑前の)立花普請の取亂し、御察し有るべく候、藤四郎(小早川秀包)
事は、筑後のくるめ(久留米)と申す所迄差下され、在宅の躰に候間、 以爰何篇御分別有る
べく候、仍ってゆつき(伊予湯月)御仕出(通直母)、(安芸の)竹原へふと御渡海候て、
留守の儀に候へは、 御不如意、是非及ばずの由、昨今追々御到來候、是自り進み候御迎衆
は、与州え直ちに罷り越し、諸城に渡る様、荷物以下の裁判に忘却致し、一両人罷り居り候、
留守の者共ハ、(備後の)三原に、関白(豊臣秀吉)殿・中納言(豊臣秀長)殿御一獻の支度
等に万事取亂れ候、竹原え付心申す事も延引候て、御腹立有るべく御察し候、尤に候々、
然る處、(河野)通直御死去、言語に及ばざる次第に候、さてさて是非無き御事迄に候、
大方の御朦氣、彼是以て此節の儀、罷上り候ても申度き心中候へ共、他國の栖み仕る様子
候条、其段も相叶わず、心中計り候の處、以ての外の御述懐、余儀無き候間、申すべく候も
之無く候て罷り居り候、折節は御勇成され候て然るべく候、通直御座無く候共、御心付けられ
候て參られ候は祝着申すべく候、御進退ニこそ御氣遣りの砌り候間、雖推量致し候、申す事の
候、随て輝元吉田歸陳(陣)候間、 早々御使者差越され候て、八代・能美に御父子三人御住
宅の条、彌憑み思召すの通、仰せ遣らるべき事肝要に候、何れも其許取静められ候は、
ふと御下向は何篇の儀申談ずべく候、猶期に後音候、恐々謹言
(天正十五[1587]年)七月廿四日 武吉 元吉 御返報 左衞門佐隆景御判
注)この文章により9日の秀吉の三原での接待、通直の死、通直母が慌てて渡海した様子が分る。
この時、屋代島(山口県周防大島和田)にいた村上武吉に7/9通直生害の急報に隆景宛に7/13日に
手紙を出したことが分る。通直死が7/14日でない証左と云える。
天正15年 7月25日 大日本史料 秀吉、大坂より京都聚楽亭に入る
天正15年 7月27日 大日本史料 秀吉の奏請に依り、木下貞基、南條元続を並に従五位下に叙す、尋で、水野忠重等を
従五位下に叙す
天正15年 7月29日 大日本史料 秀吉、参内して物を献じ、西征の状を奏す
天正15年 伊予中世年表 ○能島村上氏は、屋代島・江田島など7千石で竹原に移った。
天正15年 伊予中世年表 ○因島村上氏は、因島をでて竹原、そして鞆に移った。
天正15年 8月1日 大日本史料 廷臣等、聚楽亭に抵りて、秀吉に八朔を賀す
天正15年 8月1日 山口県史整理年表 輝元、村上武吉父子に書を遣し、小早川隆景、伊予国替えにより所領の上地とな
るを慰諭す。ついで隆景、武吉に筑前・筑後の内三千五百石を与え、
輝元大津郡および防州にて一万石を与う 【村上文書】
天正15年 8月5日 大日本史料 徳川家康、入京して、秀吉の凱旋を賀す、秀吉、之を近江大津に迎へ、是日、共に
京都に入る
天正15年 8月10日 大日本史料 秀吉、生駒近規に讃岐の地を与ふ
天正15年 8月14日 大日本史料 秀吉、大坂城に帰る
天正15年 8月27日 大日本史料 秀吉の室杉原氏(高台院、)参内せんとし、物を献ず
天正15年 8月28日 大日本史料 秀吉、入京す
天正15年 8月 予陽河野家譜 △得能通義所蔵の予陽河野家譜末尾に編纂期日を記入してあるが、うたがわしい。
(景浦 勉) *予陽河野家譜は1670年前後の南明禅師の編纂であろう。呑舟
天正15年 9月4日 大日本史料 秀吉、近江大津に之く
天正15年 9月5日 大日本史料 秀吉、浅野長吉(長政)に若狭を与ふ、又福島正則に伊予宇摩郡の地を宛行ふ、尋で、
又長吉に近江下坂本等の地を宛行ふ
天正15年 9月5日 京都大学所蔵記録 秀吉伊予五郡十一万三千二百石を福島正則に与える。
被宛行伊予国内領地方之事
一 一万八千九百七十八石三斗 宇摩郡
一 二万六千八百四十石九斗 新居郡
一 一万九千七百四十二石八斗 周敷郡
一 一万四千四百二十一石弐斗 桑村郡
一 三万三千三百十六石一斗 越智郡
合十一万三千二百石之事可領知也、
天正十五年九月五日 秀吉朱印
福島左衛門太夫殿
天正15年 9月7日 大日本史料 秀吉、小早川隆景、黒田孝高等の肥後の変を報ずるに答へ、出兵して、佐々成政を
援けんことを命ず、尋で、小早川秀包(元総)を将と為し、筑後、肥前の諸将を率ヰて
肥後に入らしめ、隆景をして、筑後久留米城を守らしむ、又毛利輝元をして、筑前立花
城に出陣せしむ
天正15年 9月7日 大日本史料 秀吉、書を島津龍伯(義久)に遺り、重陽の祝儀物を進むるに対し、謝意を陳ぶ
天正15年 9月10日 大日本史料 秀吉、入京す
天正15年 9月10日 大日本史料 伊達政宗、馬を秀吉に進む
天正15年 9月13日 大日本史料 京都内野の聚楽亭の造営竣る、是日、秀吉、大坂城より之に徙る
天正15年 9月15日 予陽河野家譜 ○河野通直(伊予守)竹原で没し嗣子もなく河野家は滅亡する。珍海山に葬る。
号長生寺殿前予州刺使月渓園公大禅定門(没日誤り)
天正15年 9月16日 大日本史料 廷臣等、秀吉の聚楽亭移徙を賀す
天正15年 9月19日 大日本史料 是より先、小早川隆景、筑後久留米に陣を移し、同秀包(元総、)肥後南関に入る、
是日、秀吉、書を隆景及び秀包に遺り、其軍労を慰す、尋で、龍造寺、立花、筑紫、
鍋島の諸将にも書を与へ、隆景等の指揮を受けんことを命ず
天正15年 9月24日 大日本史料 秀吉、播磨の地を木下家定及び林与平治に、和泉の地を小出吉政に、河内の地を
黒田孝高の妻子に宛行ふ
天正15年 9月25日 大日本史料 秀吉、島津義弘を日向の鷹巣奉行と為す
天正15年 10月1日 北野神社文書 秀吉、貴賎を北野に会し、大茶会を催す、
天正15年 10月 心斎橋今昔年表 京都の北野神社で、秀吉主催の大茶会を開催
天正15年 10月2日 大日本史料 秀吉、丹波の地を加藤清正等に宛行ふ
天正15年 10月2日 大日本史料 是より先、豊前の諸氏、肥後の乱に乗じ、兵を挙ぐ、是日、黒田孝高、豊前姫隈城を
攻めて、如法寺親武、緒方惟種を斬り、同城を降す
天正15年 10月2日 大日本史料 是より先、上杉景勝の臣畠山義春、出奔して秀吉に仕ふ、是日、秀吉、之に河内の地
を宛行ふ
天正15年 10月5日 大日本史料 秀吉の生母大政所(天瑞院)疾む
天正15年 10月9日 大日本史料 立花統虎、佐々成政を援け、肥後山鹿城の附城に兵糧を輸す、隈部親安の兵、山鹿城
より出で、之を要撃して克たず、尋で、秀吉、統虎の戦功を褒す
天正15年 10月13日 大日本史料 是より先、秀吉、龍造寺政家の将西郷信尚の肥前諫早城を收め、之を龍造寺家晴に
与ふ、既にして、信尚、肥後の乱に乗じ、兵を挙げて同城を復す、家晴、乃ち兵を肥後
より班して、之を攻む、是日、秀吉、書を政家に与へ、毛利輝元と議りて善処すべきこ
とを命ず、尋で、家晴、諫早城を攻略す
天正15年 10月14日 大日本史料 秀吉、島津龍伯(義久)に在京料として、一万石の地を宛行ふ
天正15年 10月14日 大日本史料 浅野長吉(長政、)石田三成、増田長盛、秀吉の旨を承け、安国寺恵瓊及び小早川
秀包等に佐々成政の罪科数條を示し、毛利輝元の指揮に従ひて、一揆の鎮定に力む
べきことを命ず
天正15年 10月18日 大日本史料 秀吉、上杉景勝の、九州平定を賀するに答ふ、
天正15年 10月21日 大日本史料 秀吉、島津氏の臣伊集院忠棟を薩摩に還し、命を島津義弘に伝へ、肥後の乱を
討たしむ
天正15年 10月21日 大日本史料 秀吉、小早川隆景をして、毛利輝元の著陣を待ちて、之と軍議せしむ、又安国寺恵
瓊をして、隆景と心を協せ、松浦道可(隆信、)大村嘉前、波多信時、有馬久賢
(晴信、)草野家清、宇久玄純の軍を統率せしむ
天正15年 10月25日 大日本史料 是より先、吉川広家、森吉成を助け、豊岩石城を攻めて、之を陥る、是日、
広家、之を秀吉に報ず
天正15年 10月28日 大日本史料 是より先、上杉景勝、越後の新発田、五十公野両城を陥れ、新発田因幡守、
五十公野道如齋を斬る、是日、之を秀吉に報ず
天正15年 11月4日 大日本史料 秀吉、入京す
天正15年 11月25日 大日本史料 秀吉、連歌会を催す
天正15年 11月26日 大日本史料 安国寺恵瓊、島津氏の将新納忠元に答書し、肥後の形勢を報じ、其出兵を促す
天正15年 12月4日 大日本史料 秀吉、尾藤甚右衛門の伊勢朝熊山に潜むを聞き、兵を遣し、之を囲み、同山を火く
天正15年 12月6日 大日本史料 秀吉、大坂に之く
天正15年 12月6日 大日本史料 小早川隆景、龍造寺氏等の兵を併せ率ヰ、肥後田中城を陥れ、和仁親實、邊春親行等
を斬り、之を秀吉に報ず、尋で、秀吉、書を遺りて、 其功を褒し、なほ残党の鎮定に
力めしむ、
天正15年 12月12日 大日本史料 野中左京等、豊前長岩、雁股、犬丸の諸城に據り、同国鬼ヶ城の城井鎮房に応ず、
黒田長政、犬丸城を攻めて、之を陥れ、是日、之を秀吉に報ず尋で、秀吉、馬を長政に
与へて、其戦功を賞す
天正15年 12月15日 大日本史料 安国寺恵瓊、肥後山鹿城の隈部親安、有動兼元等を誘降し、之を筑後柳河に錮す
天正15年 12月19日 大日本史料 秀吉、廷臣に嘱して、源氏物語を書写せしむ
天正15年 12月22日 大日本史料 秀吉、讃岐の内に蔵入領を定め、生駒近規を其代官と為し、残高等を近規に宛行ふ
天正15年 12月28日 大日本史料 北條氏直、秀吉の出陣に備へ、大須賀尾張守をして、戦備を修めしむ
天正15年 12月28日 大日本史料 黒田孝高、森吉成、吉川広家等、豊前賀来、福島両城を略し、是日、之を秀吉に
報ず、尋で、秀吉、其戦功を褒す
天正15年 12月29日 大日本史料 秀吉、年貢米一万石を讃岐蔵入領の代官生駒近規に預く
天正15年 周防大島町誌 ○小早川隆景筑前移封に能島村上も移り武吉は三千五百石、輝元から大津郡と南前で
1万石を給せられる。
天正15年 大野家譜上田本 ○大野直昌男直清、父直昌落去の節9歳、太田上川村に蟄居する。
天正15年 屋代大野系譜 ●橘城主大野直澄嫡子直範、落城後尾崎の鼻にすむがその後行方しれず。
天正15年 伊予中世年表 ○福島正則伊予を拝領し湯月城は廃城となる。戸田勝隆、宇和・喜多の領主として
大洲、地蔵ケ嶽城にはいる。
天正15年 伊予中世年表 ○秀吉四国平定後の村上氏、来島村上は鹿島城の1万4千石の城主として風早・野間
を統治する。
天正15年 高野山永寿供養塔 ○通直母(五龍山、宍戸隆家の女)は通直没後出家し永寿と名乗る。
西暦1588年
天正16年 1月6日 大日本史料 秀吉、大坂より入京す
天正16年 1月13日 大日本史料 前征夷大将軍権大納言足利義昭、出家して昌山と号し、是日、秀吉と共に参内す、
尋で、昌山を三宮に准ず
天正16年 1月15日 大日本史料 秀吉の聚楽亭行幸に就きて、准后勧修寺氏等に、供奉の資を賜ふ
天正16年 1月16日 大日本史料 秀吉の生母大政所(天瑞院、)大和春日社に詣す
天正16年 1月19日 大日本史料 秀吉、長岡玄旨(幽齋)の亭に臨む
天正16年 1月19日 大日本史料 秀吉、書を小早川隆景等に与へて、肥後の一揆鎮定の功を褒し、検使として浅野長吉
(長政)等を遣すべきことを告ぐ
天正16年 1月20日 大日本史料 秀吉、肥前松浦鎮信の、太刀並に銀子を贈りて歳首を賀するに答ふ
天正16年 1月25日 大日本史料 秀吉、聚楽亭に於て和歌会を催す
天正16年 2月11日 大日本史料 秀吉、島津義弘をして、肥後より帰陣せしむ
天正16年 2月20日 大日本史料 是より先、佐々成政、私に秀吉に謁して罪を謝せんとし、大坂に向ふ、秀吉、之を
摂津尼崎に幽居せしめ、浅野長吉(長政)等の報を俟ちて其罪を断ぜんとす、是日、
秀吉、之を小早川隆景に報ず
天正16年 2月20日 大日本史料 秀吉、龍造寺政家に命じて、兵糧米を肥後隈本(熊本)に輸せしむ
天正16年 2月24日 大日本史料 秀吉、山城淀に築く、仍りて、是日、羽柴秀次の将宮部宗治、領邑近江の地の
人夫を徴す
天正16年 2月25日 大日本史料 藤堂高虎、盗を捕ふ、是日、秀吉、之を褒す
天正16年 2月25日 大日本史料 秀吉、小早川隆景をして、筑前名島に城かしむ、是日、普請始あり
天正16年 3月7日 大日本史料 秀吉の奏請に依り、大友義統(吉統)に昇殿を聴し、是日、之を従五位下に叙す、
義統、参内して太刀、白銀を献ず
天正16年 3月19日 大日本史料 秀吉、両替屋久兵衛を金銀鑑識、両替の年寄と為す
天正16年 3月20日 大日本史料 秀吉、生母大政所(天瑞院)の為めに、摂津四天王寺観音堂に地を寄進す
天正16年 3月22日 大日本史料 秀吉、大坂より入京す、徳川家康、之を東寺に迎ふ
天正16年 3月23日 大日本史料 秀吉、織田信雄に上京を促し、又鷹匠を需む
天正16年 3月29日 大日本史料 秀吉、徳川家康と共に、京都近郊に放鷹す
天正16年 4月2日 大日本史料 秀吉、肥前長崎を蔵入領と定め、鍋島信生(直茂)を其代官と為す
天正16年 4月2日 大日本史料 島津義弘、太刀及び金を秀吉に進め、肥後の平定を賀す、是日、秀吉、書を義弘に
与へて、之に答ふ
天正16年 4月3日 大日本史料 秀吉、徳川家康に茶器及び米二千俵を贈る
天正16年 4月5日 大日本史料 秀吉、伊達政宗に鷹を求む、尋で、政宗、之を贈る
天正16年 4月6日 大日本史料 富田一白(知信、)秀吉の命を承け、陸奥白河義親に、九州の平定を告げ、関奥諸大名
の、好を秀吉に通ぜんことを求む
天正16年 4月7日 大日本史料 是より先、秀吉、蜂須賀家政、加藤清正、福島正則、生駒近規等に命じて、肥後の地を
検せしむ、是日、清正、正則、吉川広家に其状況を報ず、尋で、家政、近規も亦、
之を報ず
天正16年 4月14日 大日本史料 秀吉の聚楽亭に行幸あらせらる、秀吉、文武の諸臣を率ゐて奉迎し、饗宴を張り、
物を献ず
天正16年 4月15日 大日本史料 秀吉、京都の地子銀五千五百三十両余を御料所に、地子米八百石を上皇及び陽光院の
六宮(智仁)に献じ、近江八千石の地を親王及び廷臣に頒つ、又右大臣織田信雄、権大
納言徳川家康等をして、御料所等を違乱せざること及び秀吉の命に違背せざることを
誓はしむ
天正16年 4月16日 大日本史料 聚楽亭に和歌御会あり、秀吉、准后勧修寺氏等に御料所を献ず
天正16年 4月17日 大日本史料 聚楽亭に於て、舞楽を叡覧あらせらる、秀吉生母大政所(天瑞院)及び室杉原氏
(高台院、)並に物を献ず、上皇、和歌を秀吉に賜ふ
天正16年 4月18日 大日本史料 羽柴秀次、吉川広家に、肥後平定の労を犒ひ、其上京を促す、翌日、秀吉も亦、
其労を慰す
天正16年 4月19日 大日本史料 秀吉の室杉原氏(高台院)を従一位に、従三位羽柴秀次を従二位に叙す
天正16年 4月20日 大日本史料 御衣、砂金等を上皇に献じ給ふ、又、秀吉、和歌を献じて、聚楽行幸を謝し奉る、
尋で、御返歌を賜ふ
天正16年 4月21日 大日本史料 秀吉、京都近郊に放鷹す
天正16年 4月21日 大日本史料 秀吉の臣大村由己、聚楽行幸記を草せんとし、之を山科言経に諮る、尋で、成る
天正16年 4月25日 大日本史料 秀吉、蘇鉄を献ず、是日、大坂に之く
天正16年 4月26日 上蔵院河野氏過去帳
長生寺殿前豫州太守月渓宗圓大居士尊儀 豫刕奉為河野通直公御母儀御建立
天正十五年丁亥七月十四日卒 天正十六年四月二十六日建立
奥院常燈明 同銘 御施主同人 同日取次一心院谷蓮華定院
奥院御石塔 同銘 御施同人 同日御建立
天遊永壽 逆修 御施主同人為御自身
奥院常燈明 同銘 御施主同人 同日建立
奥院御石塔 同銘 御施同人 同日御建立
天正16年 5月8日 大日本史料 上杉景勝、上京し、是日、秀吉に謁す
天正16年 5月15日 大日本史料 是より先、秀吉、京都東山に大仏殿を建立す、是日、居礎の儀あり、
天正16年 5月18日 大日本史料 浅野長吉(長政、)戸田勝隆、秀吉の直領肥前長崎の條規を定む、尋で、
其地子を免除す
天正16年 5月26日 大日本史料 是より先、秀吉、肥後の検地を蜂須賀家政等に命ず、是日、家政、同国菊池郡の
南福寺をして、薬師領を安堵せしむ
天正16年 閏5月10日 大日本史料 秀吉室杉原氏(高台院、)大坂に下らんとす、是日、准后勧修寺氏等、之に餞す
天正16年 閏5月13日 大日本史料 秀吉室杉原氏(高台院)の請に依り、大政所(天瑞院)の病平癒の為め、内侍所に
臨時御神楽あり
天正16年 閏5月14日 大日本史料 秀吉、陸奥守佐々成政を摂津尼崎に自殺せしめ、其罪状を諸大名に告ぐ
天正16年 閏5月15日 大日本史料 秀吉、肥後を二分し、之を加藤清正及び小西行長に与へ、清正を隈本(熊本)に、
行長を宇土に鎮せしむ
天正16年 閏5月15日 大日本史料 秀吉、書を松浦鎮信に遺り、肥後に於ける普請監督の労を犒ふ
天正16年 閏5月19日 大日本史料 千宗易(利休)等、秀吉の命に依り、茶器のことを筑前博多の島井宗室に命ず
天正16年 閏5月22日 山口県史整理年表 吉見正頼、萩に死す。七六 【毛利氏四代実録】
天正16年 閏5月24日 大日本史料 島津義弘、秀吉の命に依りて入京す、是日、和泉堺に著す
天正16年 6月1日 山口県史整理年表 輝元、将軍足利義昭帰洛の費用を防長両国より出すべき旨を冷泉元満に命ず
【毛利氏四代実録】
天正16年 6月4日 大日本史料 島津義弘、大坂に於て秀吉に謁す
天正16年 6月7日 大日本史料 秀吉生母大政所(天瑞院、)瓜を献ず
天正16年 6月15日 大日本史料 秀吉、上杉景勝に近江蒲生、野洲、高島三郡の地一万石を与へ、在京の資に宛てしむ
天正16年 6月15日 大日本史料 是より先、肥前深堀の深堀純賢、其邑を経て長崎に入港する商船に私に礼物を徴す、
是日、秀吉、令して其邑を没し、居城を撤せしむ 尋で、純賢の罪を免じ、筑前の
地を給す
天正16年 6月21日 大日本史料 秀吉の生母大政所(天瑞院)疾む、是日、秀吉、奏請して、内侍所に臨時の御神楽を
催し、又京畿の諸社寺に命じて、平癒を祈らしむ
天正16年 7月5日 大日本史料 秀吉、島津龍伯(義久)に摂津、播磨の地一万石を与へ、在京の資に宛てしむ、又、
同義弘に豊臣姓、羽柴氏を授く
天正16年 7月5日 大日本史料 秀吉、大仏殿造営の人夫を諸大名に課し、其月番を定む
天正16年 7月8日 山口県史整理年表 秀吉、隆景に書を与え、農民の武具を没収し大仏鋳造に資せしむ
【毛利氏四代実録】
天正16年 今元雅助文書 ○55代大野直房誕生(逆算?)
天正16年 屋代大野系譜 ○55代大野直房誕生 直政領地芸州能美島庄屋山井源兵衛宅にて誕生
天正16年 上川大野系譜 ■大野朝直の子 直幸の嫡男 直利の代 上家成る
天正16年 伊予中世年表 ○福島正則が伊予を拝領。
天正16年 7月8日 大日本史料 秀吉、令して、諸国百姓の武具を所持するを禁じ、諸大名をして、之を徴せしむ
天正16年 7月8日 心斎橋今昔年表 刀狩令を発布。
天正16年 7月8日 大日本史料 秀吉、諸国の地頭、代官に命じて、船頭、猟師の、重ねて、海賊を行ふことを禁じ、
誓紙を徴す【海賊禁止令】
天正16年 7月8日 早稲田大学所蔵文書 ○秀吉は刀狩令と同時期に「海賊禁止令」を発布する・
定
一、諸国海上において賊船の儀、固く御停止成さるる処、この度、備後・伊予両国の間伊津喜島にて
盗船仕まつるの族これある由聞こし召され、曲事に思し召し事、
一、国々浦々船頭・猟師、いづれも舟つかい候もの、其所の地頭・代官として速く相改め向後、
聊か以て海賊仕まつるまじき由誓紙申しつけ、連判をさせ、其の国主取集め上げ申すべき事、
一、自今以後、給人・領主由(油)断を致し、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ曲事
の在所知行以下、末代召し上げらるべき事、
天正十六年七月八日 (秀吉 朱印)
天正16年 7月21日 大日本史料 秀吉、生母大政所(天瑞院)の寿像を作り、予め位牌堂を建立す
天正16年 7月24日 大日本史料 毛利輝元、小早川隆景、吉川広家、並に入京し、是日、聚楽亭に於て、秀吉に謁す、
秀吉、之に豊臣姓、羽柴氏を授く
天正16年 7月26日 大日本史料 毛利氏の臣堅田元慶、渡邊長、粟屋元貞、口羽春良、国司元蔵、穂田元清、福原元俊
等を並に従五位下に叙す、秀吉、之に豊臣の姓を与ふ
天正16年 7月28日 大日本史料 秀吉、参内し、越後布を献ず、毛利輝元、島津義弘、龍造寺政家、立花統虎、
小早川隆景等も亦、参内す
天正16年 7月30日 大日本史料 羽柴秀長、聚楽亭内に猿楽を催し、毛利輝元、小早川隆景等を饗す、秀吉、之に臨む
天正16年 8月1日 大日本史料 毛利輝元、小早川隆景、吉川広家、聚楽亭に於て秀吉に謁し、八朔を賀す
天正16年 8月2日 大日本史料 秀吉、加藤清正及び小西行長に命じ肥後に売得せられたる豊後の百姓を其国に返さしむ
天正16年 8月2日 大日本史料 羽柴秀次、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家等を其亭に饗す、秀吉、又之に臨む
天正16年 8月3日 大日本史料 秀吉、毛利輝元等を伴ひ、大仏殿に詣す、
天正16年 8月4日 大日本史料 秀吉、加藤清正に命じて、肥後の地を八代の衆等に頒与せしむ
天正16年 8月5日 大日本史料 秀吉、日向諸県郡の地を島津義弘に加へ、同国都於郡の地を同豊久に宛行ふ
天正16年 8月10日 大日本史料 秀吉、龍造寺政家に命じ、臨時に肥後の諸城を守らしむ
天正16年 8月10日 大日本史料 秀吉生母大政所(天瑞院、)大坂に之く、
天正16年 8月11日 大日本史料 秀吉、毛利輝元等を従へ、重ねて、大仏殿に詣す
天正16年 8月12日 大日本史料 秀吉、島津義弘に命じ、使を琉球王尚永に遣し、入貢を促さしむ
天正16年 8月12日 大日本史料 秀吉、豊前の長野鎮展、原田五郎、筑後の草野鎮永等を肥後に移し、肥後の城十郎
太郎、名和顕孝を筑前に移す
天正16年 8月15日 大日本史料 秀吉、聚楽亭に於て、観月の宴を催す
天正16年 8月16日 大日本史料 秀吉、近江大津に之く
天正16年 8月19日 大日本史料 秀吉、近江大津より京都に帰る
天正16年 8月22日 大日本史料 北條氏直、徳川家康の斡旋に依り、同族北條氏規をして、秀吉に使し、
和議を講ぜしむ
天正16年 8月27日 大日本史料 毛利輝元等、暇乞の為め、聚楽亭に抵りて、秀吉に謁す、尋で、参内す
天正16年 8月27日 大日本史料 島津龍伯(義久、)秀吉に異心なき旨を誓ふ
天正16年 8月27日 大日本史料 秀吉、草野鎮永の子某を肥後に移し、其旧領肥前の地を収めて、蔵入領と為し、
鍋島信生(直茂)を其代官と定む
天正16年 9月1日 大日本史料 秀吉、肥前の松浦鎮信に命じて、長崎より上送の荷物を回漕せしむ
天正16年 9月4日 大日本史料 秀吉、大徳寺宗陳(古渓)を筑前に流す、是日、千宗易(利休、)聚楽亭の屋敷に
送別の茶会を催す
天正16年 9月7日 大日本史料 秀吉、大坂に之く
天正16年 9月8日 小早川文書 ○海賊禁止令の第一条は能島と疑った秀吉は小早川隆景に下記のような詰問状を送る。
能島のこと、此中海賊仕るの由聞こし召され候。言語道断の曲事是非なき次第に候間
成敗の儀此の方より仰せつけらるべく候といへども、其方持分候間、急度申し付けらるべく候、
但し申し分これ有らば、村上掃部早々大坂へ罷り上がり、申しあぐべく候、其方として
成敗成らず候はば、御人数遣はされ仰せ付けらるべく候也。
九月八日 (秀吉 朱印)
小早川左衛門左(隆景)どのへ
天正16年 9月9日 大日本史料 毛利輝元等、秀吉に大坂城に謁し、重陽の節供を賀す
天正16年 9月10日 大日本史料 秀吉、宇喜多秀家の亭に臨む、毛利輝元等、之に陪す、又、輝元等、足利昌山
(義昭)の亭に候す、
天正16年 9月10日 大日本史料 島津以久、大隅清水城を子同彰久に譲り、同国上井城に移る、是日、秀吉、以久を
して、本知を安堵せしむ
天正16年 9月17日 大日本史料 秀吉、在京の飯米料として、河内讃良郡の地を加藤清正に宛行ふ
天正16年 9月20日 大日本史料 伊達政宗、秀吉に鷹一双を進め、馬一匹を羽柴秀次に贈る
天正16年 9月21日 大日本史料 秀吉、摂津平野の末吉利方に商売の諸役を免除す
天正16年 10月7日 大日本史料 秀吉、河内より大坂に帰る
天正16年 10月14日 大日本史料 陸奥会津の蘆名義広、其臣金上盛備を遣し、秀吉を音問す
天正16年 10月17日 大日本史料 秀吉、伊達政宗に物を贈る、是日、其使、出羽米澤に到る
天正16年 10月19日 大日本史料 秀吉、宇喜多秀家の姉を養女と為し、吉川広家に嫁せしむ、是日、婚儀成る
天正16年 10月26日 大日本史料 是より先、秀吉、徳川家康に嘱し、伊達、最上、佐竹、蘆名、岩城、相馬諸氏の
和合を図らしむ、是日、家康、書を伊達政宗に遺り、和議の調ふを祝す
天正16年 11月15日 高野山小早川供養塔 小早川隆景は高野山奥の院に夫婦の逆修(生前)供養塔を建てる。
(隆景) 天正十六年 (隆景正室)
芸州小早川 芸州小早川
【梵字】為泰岳□ 士カ 【梵字】為月渓信女
隆景逆修 御内方逆修
十一月十五日 十一月十五日
*(目印→井伊家の墓塔群の前を、一の橋(入り口)側に戻るように移動した箇所)
天正16年11月25日 大日本史料 秀吉、島津龍伯(義久)に巣鷹を徴す、仍りて、龍伯、松浦鎮信に、高麗産
の雛鷹を求む
天正16年 11月27日 大日本史料 秀吉、摂津茨木に之く、翌日、帰京す
天正16年 12月11日 大日本史料 伊達政宗、秀吉及び前田利家に物を贈る、是日、利家、之を謝す
天正16年 12月15日 大日本史料 秀吉、遊女を禁ず
天正16年 12月25日 大日本史料 伊達政宗、歳暮の礼物を秀吉に進む、島津義弘も亦、之を進む、是日、秀吉、
之に答ふ
天正16年 東和町史 ○毛利輝元 安芸吉田から広島に出て築城くを始る。この時の主な材木は浮島の
ものを伐採した。
天正16年 総合地方史年表 ○両遠藤氏加茂郡に転じ、稲葉貞通郡上を領す。
天正16年 冬 大日本史料 長宗我部元親、土佐大高坂に築き、豊岡より之に徙る【土佐国編年記事略】
天正16年 大日本史料 長宗我部元親、土佐の地を検す【土佐国古文叢】
西暦1589年
天正17年 1月1日 大日本史料 廷臣、諸将、大坂城に抵り、秀吉に歳首を賀す
天正17年 1月2日 大日本史料 秀吉、斯波義近、長谷川秀一、小早川隆景、島津義弘等を大坂城内山里茶亭に饗す
天正17年 1月7日 大日本史料 鍋島信生を加賀守に任じ、従五位下に叙す、秀吉、之に豊臣姓、羽柴氏を授く、
信生、名を直茂と改む
天正17年 1月10日 大日本史料 秀吉、大坂より入京す
天正17年 1月14日 大日本史料 秀吉、参内して、歳首を賀し奉る
天正17年 1月16日 大日本史料 京畿の諸住持、聚楽亭に抵り、秀吉に歳首を賀す
天正17年 1月23日 大日本史料 秀吉、大仏殿建立の木材及び刀剣を島津義弘に徴し、又琉球入貢、明国勘合符調製、
海賊船禁止等のことに就き督促す、是日、義弘其臣伊地知増也に之を伝へ、更に遅滞な
きを期せしむ
天正17年 2月22日 山口県史整理年表 輝元あらたに神領五ヵ村(広島)に築城せんとしてその地を卜す
【毛利氏四代実録】
天正17年 2月29日 大日本史料 秀吉、京都より大坂に帰る
天正17年 3月9日 大日本史料 秀吉、福島正則に命じ、大政所(天瑞院)病平癒立願の米を山城鞍馬寺に渡さしむ
天正17年 3月13日 大日本史料 秀吉、大坂より上京す
天正17年 3月15日 大日本史料 徳川家康の将内藤政長を左馬助に任じ、従五位下に叙す、秀吉、之に豊臣の姓を授く
天正17年 3月17日 大日本史料 秀吉、禁裏造営を始め、羽柴秀次をして、之を監せしむ
天正17年 3月19日 山口県史整理年表 輝元、雑賀満寿丸に厚東郡吉見村の内を給す 【毛利氏四代実録】
天正17年 3月24日 大日本史料 秀吉、石田三成をして、蘆名義広の入京を促さしむ
天正17年 4月19日 大日本史料 是より先、佐竹義重、伊達、蘆名諸氏争乱の状況を秀吉に報ず、是日、秀吉、
書を義重に遺り、其調停を図らしむ
天正17年 5月3日 山口県史整理年表 輝元検田改定を行い諸士に配地す。その後しばしば配地を行う 【閥閲録】
天正17年 5月4日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正17年 5月15日 大日本史料 黒田孝高老し、子長政嗣ぐ
天正17年 寛政重修諸家譜 ○黒田長政 黒田家相続
天正17年 5月17日 大日本史料 秀吉、大坂より京都に上る
天正17年 5月27日 大日本史料 秀吉の子(鶴松、)山城淀城に生る、翌日、之に太刀を賜ふ、
天正17年 5月 心斎橋今昔年表 淀殿、鶴松を生む。朝鮮と国交始める
天正17年 5月28日 大日本史料 是より先、秀吉、島津龍伯(義久)をして、琉球王尚寧の入貢を促さしむ、是日、
尚寧、天龍寺桃庵等をして、来聘せしむ、尋で、龍伯、桃庵等を伴ひて入京し、
聚楽亭に於て、秀吉に謁す
天正17年 6月5日 大日本史料 是より先、秀吉、妙音院某及び一鴎軒宗虎を相模小田原に遣し、北條氏政、同氏直父子
の上京を促す、是日、氏直、妙音院某等に、氏政の来る十二月に上京すべき旨を告ぐ
天正17年 6月16日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正17年 6月16日 大日本史料 伊達政宗、蘆名義広の陸奥黒川城を攻略せることを秀吉に報ず
天正17年 7月4日 大日本史料 秀吉、伊達政宗の、蘆名義広を逐ふを詰責し、速に兵を収めんことを命ず、又、上杉
景勝、佐竹義重に命じ、義広を援け、政宗を伐たしむ、
天正17年 7月13日 大日本史料 秀吉、富田一白(知信、)前田利家等に命じ、書を伊達政宗に遺り、政宗の陸奥
会津侵略に就きて、弁疏せんことを促さしむ
天正17年 7月18日 大日本史料 秀吉、大徳寺宗陳(古渓)の罪を赦し、筑前より帰京せしむ、是日、同国名島の
小早川隆景、之を伝ふ
天正17年 7月21日 大日本史料 是より先、秀吉、北條氏直の上京を促し、真田昌幸の所領上野沼田を之に与へんこと
を約す、是日、富田一白(知信、)津田隼人正を信濃上田城に遣し、昌幸を諭さしむ
天正17年 7月23日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正17年 7月27日 上川大野系譜 ■大野直昌竹原第で60才で卒、葬る東光山薬師寺裏 法名永称院殿直真宗昌大居士
天正17年 7月27日 大野家譜上田本 ○大野直昌竹原第で60才で卒、葬る東光山薬師寺裏 法名永称院殿直真宗昌大居士
天正17年 7月27日 久万町誌 ○大野直昌、安芸国竹原で歿、62歳、東光山薬師寺に葬る。号永称院殿直真宗昌大居士
後に施主大野和五郎直尚、位牌再調整。
天正17年 8月2日 大日本史料 秀吉、陸奥南部信直の請に依り、越後上杉景勝をして、上京の路次を開かしむ、
是日、之を信直に告ぐ
天正17年 8月5日 大日本史料 秀吉、京都に入る
天正17年 8月10日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正17年 8月17日 大日本史料 伊達政宗、遠藤不入齋等を上京せしめ、陸奥会津侵略に就きて秀吉に陳弁せしむ
天正17年 8月19日 大日本史料 秀吉、京都に上る
天正17年 8月26日 大和越智氏伝記 ○越智玄番頭家栄(利之)は秀吉の意を受けた筒井順慶にそそのかされた家臣の
ため卒(雲龍院殿天外宗範禅定門)*家栄は文明3年にも居る。
天正17年 8月26日 大和越智氏伝記 ○秀吉、大和越智氏家名断絶のため筒井順慶をして家栄嫡子市之助(13歳)を切腹
させる。(開善院殿樹岳宗鐵大童子)、後、越智氏は次男へ継ぐ
天正17年 8月27日 大野家聞書 ○大野直昌歿、61歳、号永称院殿前予州太守直真宗昌大禅定門
天正17年 9月1日 大日本史料 秀吉、京都に入る
天正17年 9月1日 大日本史料 秀吉、諸大名に令して、其妻子を在京せしむ
天正17年 9月3日 大日本史料 秀吉、一文字刀を紛失する咎に依り、浅野長吉(長政)の甥等を誅す、尋で、
尊教院順源等を磔殺す
天正17年 9月11日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正17年 9月13日 大日本史料 秀吉の子鶴松、山城淀城より大坂城に移る、是日、之に太刀を賜ふ
天正17年 9月15日 大日本史料 秀吉、西川八左衛門尉に近江蒲生郡の地を宛行ふ
天正17年 9月25日 大日本史料 秀吉、浅野長吉(長政)を京都所司代と為し、前田玄以を扶けしむ
天正17年 9月28日 大日本史料 是より先、佐竹義宣、上杉景勝と謀り、河原田盛継等を援けて、蘆名義広の復帰を図
る、仍りて、是日、秀吉、景勝に書を遺り、義広を復帰せしめんとするを告げ、国境の
守備を厳にせんことを命ず
天正17年 10月1日 大日本史料 秀吉、長谷川宗仁を伏見代官と為す
天正17年 10月3日 大日本史料 秀吉、肥前平戸領民の、明国進物船の荷物を掠奪するを聞き、平戸の松浦道可
(隆信)に命じて、其首魁等を捕へて、上送せしむ
天正17年 10月3日 大日本史料 上杉景勝の将須田満親、同長實、上京して、秀吉に謁す、是日、満親等、信濃高杜社
に報賽し、蒼鷹を寄進す
天正17年 10月5日 大日本史料 秀吉の臣富田一白(知信、)伊達政宗の臣片倉景綱に、最上義光、岩城常隆の上京せ
んとする旨を告げ、政宗の上京を促さしむ
天正17年 10月8日 大日本史料 秀吉、丹波亀山の羽柴秀勝の、領知の加増を需むるを怒りて、其所領を奪ふ、是日、
蜂屋頼隆の遺領越前の地を給す
天正17年 10月14日 大日本史料 秀吉、山城清水寺僧侶の横領せる同寺本堂の賽銭を没収し、之を同寺造営費に
宛てしむ
天正17年 11月10日 大日本史料 富田一白(知信、)浅野長吉(長政)等、伊達政宗に、速に上京し秀吉に弁疏せん
ことを促す
天正17年 11月15日 大日本史料 秀吉、美濃の地を伊木忠次等に宛行ふ、尋で、同国南宮社をして其社領を安堵せしむ
天正17年 11月22日 大日本史料 秀吉、諸国の地を検す、是日、洛中の検地を始む
天正17年 11月24日 大日本史料 是より先、北條氏の兵、真田昌幸の属城上野名呉桃を奪ふ、秀吉、北條氏の違約せる
を怒りて、討伐を決意し、其理由を草し、是日、徳川家康をして、之を相模小田原に
伝達せしむ、尚諸大名に令して、小田原出陣の準備を為さしむ
天正17年 12月2日 大日本史料 加藤清正、秀吉に大坂城に謁せんとし、肥後隈本(熊本)を発す、尋で、秀吉、清正
の戦功を賞し、又、之に朝鮮出兵の準備を命ず
天正17年 12月4日 大日本史料 秀吉、北條氏を討たんとす、仍りて、書を小早川隆景及び吉川広家に遺り、明年二月
に入京せしめ、隆景をして、尾張清洲城を、広家をして、同国星崎城を守らしむ、
天正17年 12月7日 大日本史料 北條氏直、書を富田一白(知信)及び津田隼人正に遺り、秀吉の母大政所(天瑞院)
を質と為さば、父氏政を上京せしむべき旨を告ぐ
天正17年 12月8日 大日本史料 秀吉、亀井真矩(茲矩)に因幡気多郡を宮部継潤に因幡の地及び但馬二方郡を宛行ふ
天正17年 12月9日 大日本史料 是より先、徳川家康、秀吉の書状を北條氏直に伝達す、是日、同氏政、氏直父子、
家康に答書して、和解を斡旋せんことを請ふ
天正17年 12月10日 大日本史料 徳川家康、上京し、是日、秀吉に聚楽亭に謁し、北條氏討伐のことを議す
天正17年 12月16日 大日本史料 大友吉統、上京して、是日、秀吉に謁す
天正17年 12月26日 大日本史料 是より先、秀吉、蘆名義広を陸奥会津に復帰せしめんとするの意を佐竹義宣に伝
ふ、是日、義宣、秀吉の将石田三成、同増田長盛に復書し、上杉景勝をして、速に
会津に出兵せしめんことを請ふ、又書を景勝の将直江兼続に遺り、其出兵を請ふ
天正17年 12月 大日本史料 秀吉、本願寺光佐(顕如)に大坂の旧地を与へ、其租を免除す
天正17年 大日本史料 秀吉、重ねて、宗義智等を、朝鮮王李昖に遣し、其来聘を促す、李昖之を諾す
天正17年 大野家譜讃岐屋本 ○大野直昌歿後惣領熊王丸(直常)は松山へ還り天徳寺に寄宿、後大野家出入りの町人
天野屋九兵衛に連れられ大坂へ行く。後養子。【大坂大野天野屋初
天正15年 寛政重修諸家譜 ○黒田孝高、豊前中津城へ転封さる。
*(これは中津城ではなく行橋市南部の馬ケ岳城である、中津城築城は天正18年頃である
天正15年 正月 大野家聞書 ○河野 大野家の城々責落さる。
天正15年 1月1日 大日本史料 秀吉、諸将の参賀を大坂城に受く
天正15年 1月1日 大日本史料 秀吉、親ら島津氏を討たんとし、諸将の部署を定む、尋で、軍令を設け、路次に下す
天正15年 1月3日 大日本史料 秀吉、佐伯惟定の、豊後栂牟礼籠城の功を褒し、尚守備を厳にせしむ
天正15年 1月3日 大日本史料 秀吉、大坂城に茶会を催す
天正15年 1月9日 大日本史料 秀吉、入京す、明日、雉子を献ず
天正15年 1月17日 大日本史料 秀吉、佐伯惟定並に志賀親次等の豊後に於ける防戦の功を褒し、且九州出陣の
近きことを告ぐ
天正15年 1月19日 大日本史料 島津義久、書を羽柴秀長及び石田三成に遺り、秀吉に抗する意なきことを弁疏す
天正15年 1月23日 大日本史料 秀吉、龍造寺政家、原田信種等の、款を通ずるを賞し、其所領を安堵せしめ、
且戦功を励ましむ
天正15年 1月25日 大日本史料 秀吉、書を小早川隆景、吉川元長、黒田孝高及び松浦鎮信に与へ、先鋒宇喜多秀家の
九州出陣を告ぐ
天正15年 1月 大日本史料 秀吉、安芸厳島社に禁制を下す
天正15年 2月3日 大日本史料 秀吉、長宗我部元親に其子信親の戦死を弔し、豊後臼杵城守備の功を褒す【武家事紀】
天正15年 2月6日 大日本史料 秀吉、長宗我部元親に其子信親の戦死を弔し、豊後臼杵城守備の功を褒す、
天正15年 2月6日 大日本史料 秀吉、参内して、白鳥、太刀及び馬代を献じ、歳首を賀す
天正15年 2月7日 大日本史料 廷臣等、聚楽亭に於て、秀吉に歳首を賀す、
天正15年 2月7日 大野家聞書 ○大野仁右衛門尉 尾首城に生る、千達丸と云う。
天正15年 2月8日 大日本史料 秀吉、再び出馬の期を黒田孝高に伝へ、宇喜多秀家等の著陣を待ちて、兵を豊後に
出さんことを命ず
天正15年 2月8日 大日本史料 秀吉、小出秀政に播磨高砂の地を宛行ふ
天正15年 2月8日 大日本史料 秀吉、近江大津に之く
天正15年 2月13日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正15年 2月14日 大日本史料 秀吉、脇坂安治の、糧食を豊後臼杵城に輸せし功を褒す
天正15年 2月16日 大日本史料 是より先、前権中納言山科言経、秀吉に頼りて、勅勘を宥されんことを請ふ、是日、
秀吉、京都の奉行前田玄以をして、重ねて、之を奏聞せしむ
天正15年 2月18日 大日本史料 黒田孝高及び小早川隆景、筑後の五條鎮定に、近く秀吉の先鋒の豊前に著陣すべきこ
とを告げ、以て忠節を励ましむ
天正15年 2月22日 大日本史料 秀吉、黒田孝高等の、秋月宗誾(種實)を攻めんとするを停め、守備を堅くして、
島津氏の軍と対峙せしめ、羽柴秀長の著陣を待たしむ
天正15年 2月25日 大日本史料 秀吉、大坂城に茶会を催す、
天正15年 3月1日 大日本史料 秀吉、薩摩の島津氏を撃たんとし、親ら将兵を帥ヰて、大坂を発す、なほ羽柴秀次、
前田利家をして、京都を守らしむ
天正15年 3月5日 大日本史料 秀吉、備前片上に著陣す、乃ち黒田孝高の書状に答へ、豊前表に於ける島津義久の兵に
対する策略に違算なからしめ、併せて筑紫広門等の軍功を褒す
天正15年 3月6日 大日本史料 秀吉、備前岡山に抵る、乃ち書を小早川隆景、加藤嘉明等に与へ、之を報ず
【小早川隆景書状】
天正15年 3月12日 大日本史料 秀吉、備後赤坂に抵る、足利義昭、出でヽ之を迎ふ
天正15年 3月13日 大日本史料 諸社寺をして、秀吉の戦勝を祈らしめ給ふ
天正15年 3月15日 大日本史料 秀吉、備後三原を発し、安芸四日市に著陣す
天正15年 3月15日 大日本史料 是より先、秀吉、一色昭秀及び興山(応其)をして、島津義珍(義弘)に和議を勧め
しむ、義珍、聴かず、是日、豊後府内を去り、尋で、同国松尾城に入る、
天正15年 3月16日 大日本史料 秀吉、安芸海田に抵る、命を羽柴秀長に伝へ、羽柴秀勝をして、豊前小倉に據りて、
門司を阨せしめ、宇喜多、宮部、毛利、小早川、吉川及び黒田、蜂須賀、脇坂の諸将を
して、適所に陣し、島津氏の兵を牽制せしむ
天正15年 3月17日 大日本史料 秀吉、安芸廿日市に著陣す、翌日、厳島に遊び、厳島社に米穀を寄進し、且大願寺
経堂の建立を命じ、其資を寄進す
天正15年 3月18日 大日本史料 信濃松本の小笠原貞慶、上田の真田昌幸等、秀吉の命に従ひ、駿府に於て、徳川家康
に見ゆ
天正15年 3月19日 大日本史料 秀吉、周防永興寺に抵る、安国寺恵瓊等を、黒田孝高の許に遣せることを蜂須賀家政
に報ず、尋で、書を孝高に与へ、秋月宗誾(種實)を降さんとするの意を告ぐ
天正15年 3月20日 大日本史料 黒田孝高、筑後の五條鎮定に、豊後に於ける上方勢の戦捷を報じ、龍造寺政家と議
し、肥後に進むべき準備を為さしむ
天正15年 3月24日 大日本史料 権大納言広橋兼勝を遣し、秀吉の西征の労を犒はせ給ふ
天正15年 3月25日 大日本史料 秀吉、長門赤間関に著陣す、尋で、羽柴秀長等をして、日向口より薩摩に入らしめ、
親ら筑前より肥後路を経て薩摩に赴かんとし、更に諸将の部署を定む
天正15年 3月29日 大日本史料 秀吉、豊前小倉を経て、同国馬嶽城に入る
天正15年 3月29日 大日本史料 是より先、羽柴秀長、黒田孝高、小早川隆景等と共に日向に入り、県城を囲む、
是日、守将土持久綱、同国佐土原に敗走す
天正15年 4月1日 大日本史料 秀吉、筑前の秋月宗誾(種實)を攻めんとし、豊前板原に陣を移し、兵を遣して、宗誾
の将熊井久重を、同国巌石城に攻めしむ、羽柴秀勝、蒲生賦秀(氏郷、)前田利勝
(利長、)秀吉に請ひて急攻し、之を陥る
天正15年 4月3日 大日本史料 秀吉、筑前尾熊に陣を進む、是日、秋月宗誾(種實)父子、浅野長吉(長政)等に頼り
て降り、其女を質とし、名器楢柴等を進む、又豊前彦山僧徒、秀吉に降る
天正15年 4月3日 大日本史料 秀吉、九州に於ける戦況を奏聞す
天正15年 4月5日 大日本史料 立花統虎、筑前秋月城に於て、秀吉に謁す
天正15年 4月8日 大日本史料 秀吉の近臣木下吉種、九州に於ける戦況を京都の留守役中村一氏等に報ず
天正15年 4月9日 大日本史料 秀吉、諸将に令して陣立を改む
天正15年 4月10日 大日本史料 秀吉、筑前秋月を発し、筑後高良山に到る、翌日、肥前の龍造寺政家、来謁す
天正15年 4月11日 大日本史料 秀吉、肥後南関に進む
天正15年 4月13日 大日本史料 秀吉の捷報、京都に達す
天正15年 4月13日 大日本史料 秀吉、肥後高瀬に進む、同国隈本(熊本)の城久基、城を出でヽ降る、
天正15年 4月16日 大日本史料 秀吉、肥後隈本(熊本)城に入る、其先鋒、同国木山に入る
天正15年 4月17日 大日本史料 秀吉の先鋒、肥後宇土に入る、名和顕孝、城を致して降る
天正15年 4月17日 大日本史料 是より先、島津氏の属将肥後谷山の松浦筑前守、秀吉に内応して、国内の諸氏を煽動
す、是日、新納忠元、伊集院久信等、攻めて、谷山城を陥る、尋で、又肥前高来の有馬
氏、兵船に乗じ、肥後八代を侵す
天正15年 4月18日 大日本史料 秀吉、肥後隈荘に進む、島津忠永、同国高田城を棄てヽ遁る、新納忠元等、同国関城
より出で、島津征久、町田久倍等と八代に会し、共に同国求麻に奔る
天正15年 4月19日 大日本史料 秀吉、肥後八代に入る、翌日、同国願行寺に禁制を下す、又毛利輝元に戦況を報ず
天正15年 4月21日 大日本史料 島津義久、興山(応其、)一色昭秀等の勧めを容れ、伊集院忠棟を質と為し、羽柴
秀長に頼りて、秀吉に降る
天正15年 4月25日 大日本史料 秀吉、肥後田浦を経て、同国佐敷に抵る、相良頼房、来り謁す、
天正15年 4月27日 大日本史料 秀吉、肥後水俣を発し、薩摩出水に進む、島津忠永、迎へ降る、
天正15年 4月28日 大日本史料 秀吉、水軍の将小西行長、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆をして、桂忠昉を薩摩平佐
城に攻めしむ、尋で、忠昉、島津義久の命に依り、城を致して降る
天正15年 4月29日 大日本史料 秀吉、豊後岡の志賀親次をして、兵を率ヰて日向に抵り、羽柴秀長の軍に会せしむ
天正15年 5月1日 大日本史料 秀吉、薩摩出水より同国阿久根に進む、乃ち毛利輝元、小早川隆景、吉川元長をして、
羽柴秀長と議し、驛路の禁制等を下さしむ
天正15年 5月1日 大日本史料 是より先、島津義久、秀吉の、薩摩川内に入ると聞き、諸将を日向都於郡に会し、その
去就を議す、是日、義久、鹿児島に帰り、羽柴秀長、営を日向野尻に進む
天正15年 5月3日 大日本史料 秀吉、牙営を薩摩川内の泰平寺に築き、同国阿久根より高城を経て之に徙る、羽柴秀長
の報に依り、島津義久の降を知る、仍りて、義久を赦し、諸兵の進軍を停む
天正15年 5月3日 大日本史料 秀吉、羽柴秀長をして、日向、大隅の諸将の質子を収めしめ、日向を大友宗滴(宗麟)
に、其一郡を伊東祐兵に、豊後を大友義統(吉統)に、大隅を長宗我部元親に、其一郡
を伊集院忠棟に与へんことを告げしむ、又毛利、小早川、吉川、黒田の諸将をして、
薩摩泰平寺に会せしめ、秀長等と共に、日向、大隅、豊前、豊後等に於ける諸城の修築
又は破却を議せしむ、尋で、宗滴、元親並に受封を辞す【武家事紀】
天正15年 5月7日 大日本史料 是より先、島津義珍(義弘、)同歳久、同征久等と謀り、陰に日向飯野城等に籠らんと
す、是日、義珍、義久の近臣本田親貞をして、義久の秀吉に降らんとするを止めしむ
天正15年 5月8日 大日本史料 島津義久、薙髪して龍伯と号し、薩摩泰平寺に抵り、秀吉に謁して罪を謝す、尋で、
秀吉、龍伯の所領薩摩を安堵せしめ、其質を収む
天正15年 5月 心斎橋今昔年表 秀吉九州平定
天正15年 5月15日 大日本史料 秀吉、書を加須屋武則に遺り、島津龍伯降伏のこと、並に戦後の経営等に就きて報ず
天正15年 5月18日 大日本史料 秀吉、帰京の途に就き、薩摩泰平寺を発し、同国平佐に著す
天正15年 5月20日 大日本史料 秀吉、薩摩平佐より山崎に抵る、
天正15年 5月22日 大日本史料 秀吉、薩摩鶴田に陣す、島津義珍(義弘、)迎へ謁す
天正15年 5月25日 大日本史料 秀吉、大隅を島津義珍(義弘)に、日向諸県郡を其子久保に与ふ、翌日、島津家久、
同征久をして、並に其邑を安堵せしむ
天正15年 5月26日 大日本史料 是より先、秀吉、大隅曽木に陣す、同国大口の新納忠元、菱刈の伊地知重康等と謀り
て挑戦せんとす、島津龍伯(義久)等、之を諭して、降らしむ、是日、忠元、秀吉に謁す
天正15年 5月29日 大日本史料 秀吉、肥後八代に旋る、相良頼房(長毎、)迎へ謁す、阿蘇惟賢も亦、同国矢部城を
致して降る、又、秀吉、其室杉原氏(高台院)に返書し、九州平定の状を報ず
天正15年 5月30日 大日本史料 秀吉、肥後一国を佐々成政に与へ、相良頼房(長毎)をして、之に属し、其邑求麻郡
を安堵せしむ
天正15年 5月 大分県の歴史 大友宗麟が津久見にて死去する。58歳
天正15年 6月1日 大日本史料 秀吉、肥後隈本(熊本)城に著す、翌日、加須屋武則、片桐直倫(且元)に命じて、
筑後川渡過の準備を為さしむ
天正15年 6月2日 大日本史料 秀吉、小代下総守に肥後の地を宛行ふ
天正15年 6月3日 大日本史料 是より先、長岡玄旨(幽齋、)秀吉の軍に従はんとして、丹後を発す、是日、筑前姪浜
に抵り、秀吉を迎ふ
天正15年 6月7日 大日本史料 秀吉、筑前筥崎に旋る、尋で、毛利輝元等の諸将を会し、九州諸大名の封域を定む、
乃ち、筑前一国及び筑後、肥前各二郡を小早川隆景に筑後三郡を同秀包に、肥前四郡を
龍造寺政家に、豊前六郡を黒田孝高に、同二郡を森吉成に与へ、且、肥前、筑後、日向
の地を割きて、立花統虎以下の諸将を之に移し、松浦道可(隆信)をして、その所領
壱岐を、宗一鴎(義調)をして、対馬を安堵せしむ
天正15年 6月11日 大日本史料 秀吉、筑前博多町を再興せしむ
天正15年 6月14日 大日本史料 伊勢専修寺堯真をして、其住持職を安堵せしめ、旧に依り、秀吉の下知に任せ、
諸国の末寺、門徒を管掌せしめ給ふ
天正15年 6月15日 大日本史料 島津龍伯(義久、)秀吉に従ひ上京せんとし、弟義珍(義弘)をして、国事を監せし
め、薩摩鹿児島を発す
天正15年 6月15日 大日本史料 秀吉、対馬の宗一鴎(義調)をして、朝鮮国王の来朝を促し、遅滞あらば、即時同国
に出兵すべき旨を告げしむ
天正15年 6月18日 大日本史料 秀吉、筑前筥崎八幡宮に遷宮料米を寄進す
天正15年 6月19日 大日本史料 秀吉、耶蘇教の弊害を認め、之を制禁し、且、二十日を限りて宣教師を国外に追放す
べきことを告ぐ
天正15年 6月 心斎橋今昔年表 秀吉キリスト教禁教令発布
天正15年 6月27日 小早川隆景書状 ○伊予から九州への国替えを村上元吉に伝える。(小早川隆景→村上元吉)
天正15年 6月25日 大日本史料 島津龍伯(義久、)筑前筥崎に抵り、秀吉に謁す
天正15年 6月26日 大日本史料 秀吉、筑前筥崎の陣営に茶会を催す、島津龍伯(義久、)之に陪す、
天正15年 6月27日 大日本史料 秀吉、連歌会を催す
天正15年 6月 大分県の歴史 播磨の黒田官兵衛孝高(よしたか)が秀吉から豊前六郡を与えられる。孝高は福岡県
行橋市南部の馬ケ丘城に居を構える。この時大野隆直とその養嗣子たちも黒田家に仕官
し行橋市今元に住んでか?今元の起源の可能性あり。
天正15年 7月2日 大日本史料 秀吉、筑前筥崎を発し、是日、長門赤間関に旋る、翌日、毛利輝元、太刀、馬及び重寶
を進めて、之を饗す
天正15年 7月 大日本史料 黒田孝高、豊前に入国し、條規三條を頒つ
天正15年 筑前大野家文書 ○大野直吉【村上】は安国寺恵慶が伊豫より筑前鞍手郡内転封の時、一緒に同地に
移動する。
天正15年 大洲大野系譜 ○大野直昌の子、後の正智院誕生・直常同母とあるから宇都宮朝子と直昌との女となり、
兄直常とは異父兄妹。
天正15年 大野系譜讃岐屋本 ○大野直昌の子、後の正智院誕生・直常同母とあるから宇都宮朝子と直昌との女となり、
兄直常とは異父兄妹。
天正15年 上川大野系譜 ■隆景の使者来たりて云うに、近々太閤九州に進発あり、両家共当国一所に於て扶助する
こと能わず、早々中国に立し退かるべし、彼の地に於て扶助すべし云々、因って茲に妻、
子供、家臣佐伯十兵衛、日野九郎右衛門供をして芸州竹原、山田村に立退く、
竹原下山田村、今は下野村。
天正15年 大野家譜上田本 ○隆景の使者来たりて云うに、近々太閤九州に進発あり、両家共当国一所に於て扶助する
こと能わず、早々中国に立し退かるべし、彼の地に於て扶助すべし云々、因って茲に妻、
子供、家臣佐伯十兵衛、日野九郎右衛門供をして芸州竹原、山田村に立退く、
竹原下山田村、今は下野村。
天正15年 7月8日 大日本史料 秀吉、毛利輝元及び小早川隆景をして中国の処置に遺憾なきを期せしむ(毛利家文書)
天正15年 7月8日 萩藩閥閲録1-242
此間直雖被仰聞候、重而安国寺(恵慶)被差下候、
中国之分別、此節無油断可申付事肝要候
但両人可為覚悟次第候、猶任口上候也
(天正十五年)七月八日 (太閤様)御朱印
毛利右馬頭(輝元)とのへ
小早川左衛門佐(隆景)とのへ
天正15年 7月9日 TAKUBO HP ○秀吉九州からの帰途、毛利の饗応の後竹原通過する・
天正15年 7月9日 TAKUBO HP ○河野通直急ぎ竹原へ渡海する。お家再興の懇願か?
天正15年 7月9日 萩藩附録河野通恒 天正十五年七月九日父通直芸州竹原庄に於て秀吉の爲生害、故を以て家門斷絶
*7/9日の秀吉への再興嘆願を拒否されて竹原に帰り通直は自殺した記録。
「予陽河野家譜」は病死とするが病死ではなく自殺である。
天正15年 7月9日 久万町誌 ○河野・大野再興の望みを断たれ河野通直は隆景が筑前に移封されるや勧めにより安芸国
竹原に直昌と落去。 *是は予陽河野家譜を出典としているので誤り。
天正15年 7月10日 大日本史料 秀吉、備前岡山に還る
天正15年 7月12日 閥閲録輝元書簡 ○河野通直母「五もし」急ぎ竹原へ渡海する。
毛利輝元から神保就俊宛書状「閥閲録」に
五もし御事無事に三津浦御渡候由先以可然候、
其方心遣之段推量候、何とやうにも此節可心付事肝要候、…
(天正十一[1583])七月十二日 輝元御判
*この書状は(天正十一[1583])と考えられていたが、河野勢でなく毛利勢によってしかも隆景から
の前もった指示もなく、
「何とやうにも此節心付ける可き事肝要に候」程の思いで保護され伊予三津浦を出る必要は、
天正十五年の隆景九州移封時の 混乱期をおいて他に無いから、この書状は(天正十五[1587])
七月十二日であると読む。ここに言う「五もし」とは誰か。
「五もし」とは一般に女のことであるが此処では河野通直の母であると考える。
*この急な渡海(湯月から竹原へ)は通直、自殺(自害)の報を受けてでのものであろう。
天正15年 7月13日 小早川隆景書状 ○河野家惣領 通直 逝去。号 長生寺殿月渓公大禅定門
天正15年 7月14日 予陽河野家譜 ○河野家惣領 通直 逝去。号 長生寺殿月渓公大禅定門
*是は通直葬儀を母親(五もし)が行った日であろう。
天正15年 7月14日 上蔵院河野氏過去帳 長生寺殿前豫州太守月渓宗圓大居士尊儀
豫刕奉為河野通直公御母儀御建立
天正十五年丁亥七月十四日卒
天正十六年四月二十六日建立
*これは母親が翌年に高野山に詣で建立し、現在奥の院入り口にある。
自らも「天遊栄寿」の逆襲(生前戒名)を得ている。
天正15年 7月14日 大野家聞書 ○河野伊豫守通直逝去 長生寺殿予州太守月■宗圓大禅定門 九月十五日
行年二十四歳。 *没日誤り
天正15年 7月14日 大日本史料 伊予河野通直、安芸竹原に客死す【阿波国古文書、善応寺本河野家譜】
天正15年 7月14日 大日本史料 秀吉、備前片上より海路を大坂城に凱旋す、勅使勧修寺晴豊、之を迎ふ
天正15年 7月21日 大日本史料 本願寺光佐(顕如、)光寿(教如)等と共に秀吉に謁す、尋で、上野草津に湯治す
天正15年 7月24日 小早川隆景書状 ○武吉・元吉の7/13の書状を7/24日に見て突然の国替えに伊予衆を迎へにやったが
留守で、三原に関白(秀吉)と中納言を接待予定が遅れて。ご立腹であった。
しかる所に通直が死んだとか母(大方)が慌てて竹原に駆けつけたとか・・・・
(隆景→武吉・元吉)
「去る(天正十五[1587]年七月)十三日の御状、今日廿四到來、披見候、何ケ度申候ても不慮の
御國替、一入旁く御心遣い是非に及ばず候、(周防の)八代嶋御逗留先、以て然るべく存じ
候、御休息肝要に存じ候、我等事、九州の聞合わせ仰付けられ候間、年内罷り上るべき事ハ
定まらず候、 當時(筑前の)立花普請の取亂し、御察し有るべく候、藤四郎(小早川秀包)
事は、筑後のくるめ(久留米)と申す所迄差下され、在宅の躰に候間、 以爰何篇御分別有る
べく候、仍ってゆつき(伊予湯月)御仕出(通直母)、(安芸の)竹原へふと御渡海候て、
留守の儀に候へは、 御不如意、是非及ばずの由、昨今追々御到來候、是自り進み候御迎衆
は、与州え直ちに罷り越し、諸城に渡る様、荷物以下の裁判に忘却致し、一両人罷り居り候、
留守の者共ハ、(備後の)三原に、関白(豊臣秀吉)殿・中納言(豊臣秀長)殿御一獻の支度
等に万事取亂れ候、竹原え付心申す事も延引候て、御腹立有るべく御察し候、尤に候々、
然る處、(河野)通直御死去、言語に及ばざる次第に候、さてさて是非無き御事迄に候、
大方の御朦氣、彼是以て此節の儀、罷上り候ても申度き心中候へ共、他國の栖み仕る様子
候条、其段も相叶わず、心中計り候の處、以ての外の御述懐、余儀無き候間、申すべく候も
之無く候て罷り居り候、折節は御勇成され候て然るべく候、通直御座無く候共、御心付けられ
候て參られ候は祝着申すべく候、御進退ニこそ御氣遣りの砌り候間、雖推量致し候、申す事の
候、随て輝元吉田歸陳(陣)候間、 早々御使者差越され候て、八代・能美に御父子三人御住
宅の条、彌憑み思召すの通、仰せ遣らるべき事肝要に候、何れも其許取静められ候は、
ふと御下向は何篇の儀申談ずべく候、猶期に後音候、恐々謹言
(天正十五[1587]年)七月廿四日 武吉 元吉 御返報 左衞門佐隆景御判
注)この文章により9日の秀吉の三原での接待、通直の死、通直母が慌てて渡海した様子が分る。
この時、屋代島(山口県周防大島和田)にいた村上武吉に7/9通直生害の急報に隆景宛に7/13日に
手紙を出したことが分る。通直死が7/14日でない証左と云える。
天正15年 7月25日 大日本史料 秀吉、大坂より京都聚楽亭に入る
天正15年 7月27日 大日本史料 秀吉の奏請に依り、木下貞基、南條元続を並に従五位下に叙す、尋で、水野忠重等を
従五位下に叙す
天正15年 7月29日 大日本史料 秀吉、参内して物を献じ、西征の状を奏す
天正15年 伊予中世年表 ○能島村上氏は、屋代島・江田島など7千石で竹原に移った。
天正15年 伊予中世年表 ○因島村上氏は、因島をでて竹原、そして鞆に移った。
天正15年 8月1日 大日本史料 廷臣等、聚楽亭に抵りて、秀吉に八朔を賀す
天正15年 8月1日 山口県史整理年表 輝元、村上武吉父子に書を遣し、小早川隆景、伊予国替えにより所領の上地とな
るを慰諭す。ついで隆景、武吉に筑前・筑後の内三千五百石を与え、
輝元大津郡および防州にて一万石を与う 【村上文書】
天正15年 8月5日 大日本史料 徳川家康、入京して、秀吉の凱旋を賀す、秀吉、之を近江大津に迎へ、是日、共に
京都に入る
天正15年 8月10日 大日本史料 秀吉、生駒近規に讃岐の地を与ふ
天正15年 8月14日 大日本史料 秀吉、大坂城に帰る
天正15年 8月27日 大日本史料 秀吉の室杉原氏(高台院、)参内せんとし、物を献ず
天正15年 8月28日 大日本史料 秀吉、入京す
天正15年 8月 予陽河野家譜 △得能通義所蔵の予陽河野家譜末尾に編纂期日を記入してあるが、うたがわしい。
(景浦 勉) *予陽河野家譜は1670年前後の南明禅師の編纂であろう。呑舟
天正15年 9月4日 大日本史料 秀吉、近江大津に之く
天正15年 9月5日 大日本史料 秀吉、浅野長吉(長政)に若狭を与ふ、又福島正則に伊予宇摩郡の地を宛行ふ、尋で、
又長吉に近江下坂本等の地を宛行ふ
天正15年 9月5日 京都大学所蔵記録 秀吉伊予五郡十一万三千二百石を福島正則に与える。
被宛行伊予国内領地方之事
一 一万八千九百七十八石三斗 宇摩郡
一 二万六千八百四十石九斗 新居郡
一 一万九千七百四十二石八斗 周敷郡
一 一万四千四百二十一石弐斗 桑村郡
一 三万三千三百十六石一斗 越智郡
合十一万三千二百石之事可領知也、
天正十五年九月五日 秀吉朱印
福島左衛門太夫殿
天正15年 9月7日 大日本史料 秀吉、小早川隆景、黒田孝高等の肥後の変を報ずるに答へ、出兵して、佐々成政を
援けんことを命ず、尋で、小早川秀包(元総)を将と為し、筑後、肥前の諸将を率ヰて
肥後に入らしめ、隆景をして、筑後久留米城を守らしむ、又毛利輝元をして、筑前立花
城に出陣せしむ
天正15年 9月7日 大日本史料 秀吉、書を島津龍伯(義久)に遺り、重陽の祝儀物を進むるに対し、謝意を陳ぶ
天正15年 9月10日 大日本史料 秀吉、入京す
天正15年 9月10日 大日本史料 伊達政宗、馬を秀吉に進む
天正15年 9月13日 大日本史料 京都内野の聚楽亭の造営竣る、是日、秀吉、大坂城より之に徙る
天正15年 9月15日 予陽河野家譜 ○河野通直(伊予守)竹原で没し嗣子もなく河野家は滅亡する。珍海山に葬る。
号長生寺殿前予州刺使月渓園公大禅定門(没日誤り)
天正15年 9月16日 大日本史料 廷臣等、秀吉の聚楽亭移徙を賀す
天正15年 9月19日 大日本史料 是より先、小早川隆景、筑後久留米に陣を移し、同秀包(元総、)肥後南関に入る、
是日、秀吉、書を隆景及び秀包に遺り、其軍労を慰す、尋で、龍造寺、立花、筑紫、
鍋島の諸将にも書を与へ、隆景等の指揮を受けんことを命ず
天正15年 9月24日 大日本史料 秀吉、播磨の地を木下家定及び林与平治に、和泉の地を小出吉政に、河内の地を
黒田孝高の妻子に宛行ふ
天正15年 9月25日 大日本史料 秀吉、島津義弘を日向の鷹巣奉行と為す
天正15年 10月1日 北野神社文書 秀吉、貴賎を北野に会し、大茶会を催す、
天正15年 10月 心斎橋今昔年表 京都の北野神社で、秀吉主催の大茶会を開催
天正15年 10月2日 大日本史料 秀吉、丹波の地を加藤清正等に宛行ふ
天正15年 10月2日 大日本史料 是より先、豊前の諸氏、肥後の乱に乗じ、兵を挙ぐ、是日、黒田孝高、豊前姫隈城を
攻めて、如法寺親武、緒方惟種を斬り、同城を降す
天正15年 10月2日 大日本史料 是より先、上杉景勝の臣畠山義春、出奔して秀吉に仕ふ、是日、秀吉、之に河内の地
を宛行ふ
天正15年 10月5日 大日本史料 秀吉の生母大政所(天瑞院)疾む
天正15年 10月9日 大日本史料 立花統虎、佐々成政を援け、肥後山鹿城の附城に兵糧を輸す、隈部親安の兵、山鹿城
より出で、之を要撃して克たず、尋で、秀吉、統虎の戦功を褒す
天正15年 10月13日 大日本史料 是より先、秀吉、龍造寺政家の将西郷信尚の肥前諫早城を收め、之を龍造寺家晴に
与ふ、既にして、信尚、肥後の乱に乗じ、兵を挙げて同城を復す、家晴、乃ち兵を肥後
より班して、之を攻む、是日、秀吉、書を政家に与へ、毛利輝元と議りて善処すべきこ
とを命ず、尋で、家晴、諫早城を攻略す
天正15年 10月14日 大日本史料 秀吉、島津龍伯(義久)に在京料として、一万石の地を宛行ふ
天正15年 10月14日 大日本史料 浅野長吉(長政、)石田三成、増田長盛、秀吉の旨を承け、安国寺恵瓊及び小早川
秀包等に佐々成政の罪科数條を示し、毛利輝元の指揮に従ひて、一揆の鎮定に力む
べきことを命ず
天正15年 10月18日 大日本史料 秀吉、上杉景勝の、九州平定を賀するに答ふ、
天正15年 10月21日 大日本史料 秀吉、島津氏の臣伊集院忠棟を薩摩に還し、命を島津義弘に伝へ、肥後の乱を
討たしむ
天正15年 10月21日 大日本史料 秀吉、小早川隆景をして、毛利輝元の著陣を待ちて、之と軍議せしむ、又安国寺恵
瓊をして、隆景と心を協せ、松浦道可(隆信、)大村嘉前、波多信時、有馬久賢
(晴信、)草野家清、宇久玄純の軍を統率せしむ
天正15年 10月25日 大日本史料 是より先、吉川広家、森吉成を助け、豊岩石城を攻めて、之を陥る、是日、
広家、之を秀吉に報ず
天正15年 10月28日 大日本史料 是より先、上杉景勝、越後の新発田、五十公野両城を陥れ、新発田因幡守、
五十公野道如齋を斬る、是日、之を秀吉に報ず
天正15年 11月4日 大日本史料 秀吉、入京す
天正15年 11月25日 大日本史料 秀吉、連歌会を催す
天正15年 11月26日 大日本史料 安国寺恵瓊、島津氏の将新納忠元に答書し、肥後の形勢を報じ、其出兵を促す
天正15年 12月4日 大日本史料 秀吉、尾藤甚右衛門の伊勢朝熊山に潜むを聞き、兵を遣し、之を囲み、同山を火く
天正15年 12月6日 大日本史料 秀吉、大坂に之く
天正15年 12月6日 大日本史料 小早川隆景、龍造寺氏等の兵を併せ率ヰ、肥後田中城を陥れ、和仁親實、邊春親行等
を斬り、之を秀吉に報ず、尋で、秀吉、書を遺りて、 其功を褒し、なほ残党の鎮定に
力めしむ、
天正15年 12月12日 大日本史料 野中左京等、豊前長岩、雁股、犬丸の諸城に據り、同国鬼ヶ城の城井鎮房に応ず、
黒田長政、犬丸城を攻めて、之を陥れ、是日、之を秀吉に報ず尋で、秀吉、馬を長政に
与へて、其戦功を賞す
天正15年 12月15日 大日本史料 安国寺恵瓊、肥後山鹿城の隈部親安、有動兼元等を誘降し、之を筑後柳河に錮す
天正15年 12月19日 大日本史料 秀吉、廷臣に嘱して、源氏物語を書写せしむ
天正15年 12月22日 大日本史料 秀吉、讃岐の内に蔵入領を定め、生駒近規を其代官と為し、残高等を近規に宛行ふ
天正15年 12月28日 大日本史料 北條氏直、秀吉の出陣に備へ、大須賀尾張守をして、戦備を修めしむ
天正15年 12月28日 大日本史料 黒田孝高、森吉成、吉川広家等、豊前賀来、福島両城を略し、是日、之を秀吉に
報ず、尋で、秀吉、其戦功を褒す
天正15年 12月29日 大日本史料 秀吉、年貢米一万石を讃岐蔵入領の代官生駒近規に預く
天正15年 周防大島町誌 ○小早川隆景筑前移封に能島村上も移り武吉は三千五百石、輝元から大津郡と南前で
1万石を給せられる。
天正15年 大野家譜上田本 ○大野直昌男直清、父直昌落去の節9歳、太田上川村に蟄居する。
天正15年 屋代大野系譜 ●橘城主大野直澄嫡子直範、落城後尾崎の鼻にすむがその後行方しれず。
天正15年 伊予中世年表 ○福島正則伊予を拝領し湯月城は廃城となる。戸田勝隆、宇和・喜多の領主として
大洲、地蔵ケ嶽城にはいる。
天正15年 伊予中世年表 ○秀吉四国平定後の村上氏、来島村上は鹿島城の1万4千石の城主として風早・野間
を統治する。
天正15年 高野山永寿供養塔 ○通直母(五龍山、宍戸隆家の女)は通直没後出家し永寿と名乗る。
西暦1588年
天正16年 1月6日 大日本史料 秀吉、大坂より入京す
天正16年 1月13日 大日本史料 前征夷大将軍権大納言足利義昭、出家して昌山と号し、是日、秀吉と共に参内す、
尋で、昌山を三宮に准ず
天正16年 1月15日 大日本史料 秀吉の聚楽亭行幸に就きて、准后勧修寺氏等に、供奉の資を賜ふ
天正16年 1月16日 大日本史料 秀吉の生母大政所(天瑞院、)大和春日社に詣す
天正16年 1月19日 大日本史料 秀吉、長岡玄旨(幽齋)の亭に臨む
天正16年 1月19日 大日本史料 秀吉、書を小早川隆景等に与へて、肥後の一揆鎮定の功を褒し、検使として浅野長吉
(長政)等を遣すべきことを告ぐ
天正16年 1月20日 大日本史料 秀吉、肥前松浦鎮信の、太刀並に銀子を贈りて歳首を賀するに答ふ
天正16年 1月25日 大日本史料 秀吉、聚楽亭に於て和歌会を催す
天正16年 2月11日 大日本史料 秀吉、島津義弘をして、肥後より帰陣せしむ
天正16年 2月20日 大日本史料 是より先、佐々成政、私に秀吉に謁して罪を謝せんとし、大坂に向ふ、秀吉、之を
摂津尼崎に幽居せしめ、浅野長吉(長政)等の報を俟ちて其罪を断ぜんとす、是日、
秀吉、之を小早川隆景に報ず
天正16年 2月20日 大日本史料 秀吉、龍造寺政家に命じて、兵糧米を肥後隈本(熊本)に輸せしむ
天正16年 2月24日 大日本史料 秀吉、山城淀に築く、仍りて、是日、羽柴秀次の将宮部宗治、領邑近江の地の
人夫を徴す
天正16年 2月25日 大日本史料 藤堂高虎、盗を捕ふ、是日、秀吉、之を褒す
天正16年 2月25日 大日本史料 秀吉、小早川隆景をして、筑前名島に城かしむ、是日、普請始あり
天正16年 3月7日 大日本史料 秀吉の奏請に依り、大友義統(吉統)に昇殿を聴し、是日、之を従五位下に叙す、
義統、参内して太刀、白銀を献ず
天正16年 3月19日 大日本史料 秀吉、両替屋久兵衛を金銀鑑識、両替の年寄と為す
天正16年 3月20日 大日本史料 秀吉、生母大政所(天瑞院)の為めに、摂津四天王寺観音堂に地を寄進す
天正16年 3月22日 大日本史料 秀吉、大坂より入京す、徳川家康、之を東寺に迎ふ
天正16年 3月23日 大日本史料 秀吉、織田信雄に上京を促し、又鷹匠を需む
天正16年 3月29日 大日本史料 秀吉、徳川家康と共に、京都近郊に放鷹す
天正16年 4月2日 大日本史料 秀吉、肥前長崎を蔵入領と定め、鍋島信生(直茂)を其代官と為す
天正16年 4月2日 大日本史料 島津義弘、太刀及び金を秀吉に進め、肥後の平定を賀す、是日、秀吉、書を義弘に
与へて、之に答ふ
天正16年 4月3日 大日本史料 秀吉、徳川家康に茶器及び米二千俵を贈る
天正16年 4月5日 大日本史料 秀吉、伊達政宗に鷹を求む、尋で、政宗、之を贈る
天正16年 4月6日 大日本史料 富田一白(知信、)秀吉の命を承け、陸奥白河義親に、九州の平定を告げ、関奥諸大名
の、好を秀吉に通ぜんことを求む
天正16年 4月7日 大日本史料 是より先、秀吉、蜂須賀家政、加藤清正、福島正則、生駒近規等に命じて、肥後の地を
検せしむ、是日、清正、正則、吉川広家に其状況を報ず、尋で、家政、近規も亦、
之を報ず
天正16年 4月14日 大日本史料 秀吉の聚楽亭に行幸あらせらる、秀吉、文武の諸臣を率ゐて奉迎し、饗宴を張り、
物を献ず
天正16年 4月15日 大日本史料 秀吉、京都の地子銀五千五百三十両余を御料所に、地子米八百石を上皇及び陽光院の
六宮(智仁)に献じ、近江八千石の地を親王及び廷臣に頒つ、又右大臣織田信雄、権大
納言徳川家康等をして、御料所等を違乱せざること及び秀吉の命に違背せざることを
誓はしむ
天正16年 4月16日 大日本史料 聚楽亭に和歌御会あり、秀吉、准后勧修寺氏等に御料所を献ず
天正16年 4月17日 大日本史料 聚楽亭に於て、舞楽を叡覧あらせらる、秀吉生母大政所(天瑞院)及び室杉原氏
(高台院、)並に物を献ず、上皇、和歌を秀吉に賜ふ
天正16年 4月18日 大日本史料 羽柴秀次、吉川広家に、肥後平定の労を犒ひ、其上京を促す、翌日、秀吉も亦、
其労を慰す
天正16年 4月19日 大日本史料 秀吉の室杉原氏(高台院)を従一位に、従三位羽柴秀次を従二位に叙す
天正16年 4月20日 大日本史料 御衣、砂金等を上皇に献じ給ふ、又、秀吉、和歌を献じて、聚楽行幸を謝し奉る、
尋で、御返歌を賜ふ
天正16年 4月21日 大日本史料 秀吉、京都近郊に放鷹す
天正16年 4月21日 大日本史料 秀吉の臣大村由己、聚楽行幸記を草せんとし、之を山科言経に諮る、尋で、成る
天正16年 4月25日 大日本史料 秀吉、蘇鉄を献ず、是日、大坂に之く
天正16年 4月26日 上蔵院河野氏過去帳
長生寺殿前豫州太守月渓宗圓大居士尊儀 豫刕奉為河野通直公御母儀御建立
天正十五年丁亥七月十四日卒 天正十六年四月二十六日建立
奥院常燈明 同銘 御施主同人 同日取次一心院谷蓮華定院
奥院御石塔 同銘 御施同人 同日御建立
天遊永壽 逆修 御施主同人為御自身
奥院常燈明 同銘 御施主同人 同日建立
奥院御石塔 同銘 御施同人 同日御建立
天正16年 5月8日 大日本史料 上杉景勝、上京し、是日、秀吉に謁す
天正16年 5月15日 大日本史料 是より先、秀吉、京都東山に大仏殿を建立す、是日、居礎の儀あり、
天正16年 5月18日 大日本史料 浅野長吉(長政、)戸田勝隆、秀吉の直領肥前長崎の條規を定む、尋で、
其地子を免除す
天正16年 5月26日 大日本史料 是より先、秀吉、肥後の検地を蜂須賀家政等に命ず、是日、家政、同国菊池郡の
南福寺をして、薬師領を安堵せしむ
天正16年 閏5月10日 大日本史料 秀吉室杉原氏(高台院、)大坂に下らんとす、是日、准后勧修寺氏等、之に餞す
天正16年 閏5月13日 大日本史料 秀吉室杉原氏(高台院)の請に依り、大政所(天瑞院)の病平癒の為め、内侍所に
臨時御神楽あり
天正16年 閏5月14日 大日本史料 秀吉、陸奥守佐々成政を摂津尼崎に自殺せしめ、其罪状を諸大名に告ぐ
天正16年 閏5月15日 大日本史料 秀吉、肥後を二分し、之を加藤清正及び小西行長に与へ、清正を隈本(熊本)に、
行長を宇土に鎮せしむ
天正16年 閏5月15日 大日本史料 秀吉、書を松浦鎮信に遺り、肥後に於ける普請監督の労を犒ふ
天正16年 閏5月19日 大日本史料 千宗易(利休)等、秀吉の命に依り、茶器のことを筑前博多の島井宗室に命ず
天正16年 閏5月22日 山口県史整理年表 吉見正頼、萩に死す。七六 【毛利氏四代実録】
天正16年 閏5月24日 大日本史料 島津義弘、秀吉の命に依りて入京す、是日、和泉堺に著す
天正16年 6月1日 山口県史整理年表 輝元、将軍足利義昭帰洛の費用を防長両国より出すべき旨を冷泉元満に命ず
【毛利氏四代実録】
天正16年 6月4日 大日本史料 島津義弘、大坂に於て秀吉に謁す
天正16年 6月7日 大日本史料 秀吉生母大政所(天瑞院、)瓜を献ず
天正16年 6月15日 大日本史料 秀吉、上杉景勝に近江蒲生、野洲、高島三郡の地一万石を与へ、在京の資に宛てしむ
天正16年 6月15日 大日本史料 是より先、肥前深堀の深堀純賢、其邑を経て長崎に入港する商船に私に礼物を徴す、
是日、秀吉、令して其邑を没し、居城を撤せしむ 尋で、純賢の罪を免じ、筑前の
地を給す
天正16年 6月21日 大日本史料 秀吉の生母大政所(天瑞院)疾む、是日、秀吉、奏請して、内侍所に臨時の御神楽を
催し、又京畿の諸社寺に命じて、平癒を祈らしむ
天正16年 7月5日 大日本史料 秀吉、島津龍伯(義久)に摂津、播磨の地一万石を与へ、在京の資に宛てしむ、又、
同義弘に豊臣姓、羽柴氏を授く
天正16年 7月5日 大日本史料 秀吉、大仏殿造営の人夫を諸大名に課し、其月番を定む
天正16年 7月8日 山口県史整理年表 秀吉、隆景に書を与え、農民の武具を没収し大仏鋳造に資せしむ
【毛利氏四代実録】
天正16年 今元雅助文書 ○55代大野直房誕生(逆算?)
天正16年 屋代大野系譜 ○55代大野直房誕生 直政領地芸州能美島庄屋山井源兵衛宅にて誕生
天正16年 上川大野系譜 ■大野朝直の子 直幸の嫡男 直利の代 上家成る
天正16年 伊予中世年表 ○福島正則が伊予を拝領。
天正16年 7月8日 大日本史料 秀吉、令して、諸国百姓の武具を所持するを禁じ、諸大名をして、之を徴せしむ
天正16年 7月8日 心斎橋今昔年表 刀狩令を発布。
天正16年 7月8日 大日本史料 秀吉、諸国の地頭、代官に命じて、船頭、猟師の、重ねて、海賊を行ふことを禁じ、
誓紙を徴す【海賊禁止令】
天正16年 7月8日 早稲田大学所蔵文書 ○秀吉は刀狩令と同時期に「海賊禁止令」を発布する・
定
一、諸国海上において賊船の儀、固く御停止成さるる処、この度、備後・伊予両国の間伊津喜島にて
盗船仕まつるの族これある由聞こし召され、曲事に思し召し事、
一、国々浦々船頭・猟師、いづれも舟つかい候もの、其所の地頭・代官として速く相改め向後、
聊か以て海賊仕まつるまじき由誓紙申しつけ、連判をさせ、其の国主取集め上げ申すべき事、
一、自今以後、給人・領主由(油)断を致し、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ曲事
の在所知行以下、末代召し上げらるべき事、
天正十六年七月八日 (秀吉 朱印)
天正16年 7月21日 大日本史料 秀吉、生母大政所(天瑞院)の寿像を作り、予め位牌堂を建立す
天正16年 7月24日 大日本史料 毛利輝元、小早川隆景、吉川広家、並に入京し、是日、聚楽亭に於て、秀吉に謁す、
秀吉、之に豊臣姓、羽柴氏を授く
天正16年 7月26日 大日本史料 毛利氏の臣堅田元慶、渡邊長、粟屋元貞、口羽春良、国司元蔵、穂田元清、福原元俊
等を並に従五位下に叙す、秀吉、之に豊臣の姓を与ふ
天正16年 7月28日 大日本史料 秀吉、参内し、越後布を献ず、毛利輝元、島津義弘、龍造寺政家、立花統虎、
小早川隆景等も亦、参内す
天正16年 7月30日 大日本史料 羽柴秀長、聚楽亭内に猿楽を催し、毛利輝元、小早川隆景等を饗す、秀吉、之に臨む
天正16年 8月1日 大日本史料 毛利輝元、小早川隆景、吉川広家、聚楽亭に於て秀吉に謁し、八朔を賀す
天正16年 8月2日 大日本史料 秀吉、加藤清正及び小西行長に命じ肥後に売得せられたる豊後の百姓を其国に返さしむ
天正16年 8月2日 大日本史料 羽柴秀次、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家等を其亭に饗す、秀吉、又之に臨む
天正16年 8月3日 大日本史料 秀吉、毛利輝元等を伴ひ、大仏殿に詣す、
天正16年 8月4日 大日本史料 秀吉、加藤清正に命じて、肥後の地を八代の衆等に頒与せしむ
天正16年 8月5日 大日本史料 秀吉、日向諸県郡の地を島津義弘に加へ、同国都於郡の地を同豊久に宛行ふ
天正16年 8月10日 大日本史料 秀吉、龍造寺政家に命じ、臨時に肥後の諸城を守らしむ
天正16年 8月10日 大日本史料 秀吉生母大政所(天瑞院、)大坂に之く、
天正16年 8月11日 大日本史料 秀吉、毛利輝元等を従へ、重ねて、大仏殿に詣す
天正16年 8月12日 大日本史料 秀吉、島津義弘に命じ、使を琉球王尚永に遣し、入貢を促さしむ
天正16年 8月12日 大日本史料 秀吉、豊前の長野鎮展、原田五郎、筑後の草野鎮永等を肥後に移し、肥後の城十郎
太郎、名和顕孝を筑前に移す
天正16年 8月15日 大日本史料 秀吉、聚楽亭に於て、観月の宴を催す
天正16年 8月16日 大日本史料 秀吉、近江大津に之く
天正16年 8月19日 大日本史料 秀吉、近江大津より京都に帰る
天正16年 8月22日 大日本史料 北條氏直、徳川家康の斡旋に依り、同族北條氏規をして、秀吉に使し、
和議を講ぜしむ
天正16年 8月27日 大日本史料 毛利輝元等、暇乞の為め、聚楽亭に抵りて、秀吉に謁す、尋で、参内す
天正16年 8月27日 大日本史料 島津龍伯(義久、)秀吉に異心なき旨を誓ふ
天正16年 8月27日 大日本史料 秀吉、草野鎮永の子某を肥後に移し、其旧領肥前の地を収めて、蔵入領と為し、
鍋島信生(直茂)を其代官と定む
天正16年 9月1日 大日本史料 秀吉、肥前の松浦鎮信に命じて、長崎より上送の荷物を回漕せしむ
天正16年 9月4日 大日本史料 秀吉、大徳寺宗陳(古渓)を筑前に流す、是日、千宗易(利休、)聚楽亭の屋敷に
送別の茶会を催す
天正16年 9月7日 大日本史料 秀吉、大坂に之く
天正16年 9月8日 小早川文書 ○海賊禁止令の第一条は能島と疑った秀吉は小早川隆景に下記のような詰問状を送る。
能島のこと、此中海賊仕るの由聞こし召され候。言語道断の曲事是非なき次第に候間
成敗の儀此の方より仰せつけらるべく候といへども、其方持分候間、急度申し付けらるべく候、
但し申し分これ有らば、村上掃部早々大坂へ罷り上がり、申しあぐべく候、其方として
成敗成らず候はば、御人数遣はされ仰せ付けらるべく候也。
九月八日 (秀吉 朱印)
小早川左衛門左(隆景)どのへ
天正16年 9月9日 大日本史料 毛利輝元等、秀吉に大坂城に謁し、重陽の節供を賀す
天正16年 9月10日 大日本史料 秀吉、宇喜多秀家の亭に臨む、毛利輝元等、之に陪す、又、輝元等、足利昌山
(義昭)の亭に候す、
天正16年 9月10日 大日本史料 島津以久、大隅清水城を子同彰久に譲り、同国上井城に移る、是日、秀吉、以久を
して、本知を安堵せしむ
天正16年 9月17日 大日本史料 秀吉、在京の飯米料として、河内讃良郡の地を加藤清正に宛行ふ
天正16年 9月20日 大日本史料 伊達政宗、秀吉に鷹一双を進め、馬一匹を羽柴秀次に贈る
天正16年 9月21日 大日本史料 秀吉、摂津平野の末吉利方に商売の諸役を免除す
天正16年 10月7日 大日本史料 秀吉、河内より大坂に帰る
天正16年 10月14日 大日本史料 陸奥会津の蘆名義広、其臣金上盛備を遣し、秀吉を音問す
天正16年 10月17日 大日本史料 秀吉、伊達政宗に物を贈る、是日、其使、出羽米澤に到る
天正16年 10月19日 大日本史料 秀吉、宇喜多秀家の姉を養女と為し、吉川広家に嫁せしむ、是日、婚儀成る
天正16年 10月26日 大日本史料 是より先、秀吉、徳川家康に嘱し、伊達、最上、佐竹、蘆名、岩城、相馬諸氏の
和合を図らしむ、是日、家康、書を伊達政宗に遺り、和議の調ふを祝す
天正16年 11月15日 高野山小早川供養塔 小早川隆景は高野山奥の院に夫婦の逆修(生前)供養塔を建てる。
(隆景) 天正十六年 (隆景正室)
芸州小早川 芸州小早川
【梵字】為泰岳□ 士カ 【梵字】為月渓信女
隆景逆修 御内方逆修
十一月十五日 十一月十五日
*(目印→井伊家の墓塔群の前を、一の橋(入り口)側に戻るように移動した箇所)
天正16年11月25日 大日本史料 秀吉、島津龍伯(義久)に巣鷹を徴す、仍りて、龍伯、松浦鎮信に、高麗産
の雛鷹を求む
天正16年 11月27日 大日本史料 秀吉、摂津茨木に之く、翌日、帰京す
天正16年 12月11日 大日本史料 伊達政宗、秀吉及び前田利家に物を贈る、是日、利家、之を謝す
天正16年 12月15日 大日本史料 秀吉、遊女を禁ず
天正16年 12月25日 大日本史料 伊達政宗、歳暮の礼物を秀吉に進む、島津義弘も亦、之を進む、是日、秀吉、
之に答ふ
天正16年 東和町史 ○毛利輝元 安芸吉田から広島に出て築城くを始る。この時の主な材木は浮島の
ものを伐採した。
天正16年 総合地方史年表 ○両遠藤氏加茂郡に転じ、稲葉貞通郡上を領す。
天正16年 冬 大日本史料 長宗我部元親、土佐大高坂に築き、豊岡より之に徙る【土佐国編年記事略】
天正16年 大日本史料 長宗我部元親、土佐の地を検す【土佐国古文叢】
西暦1589年
天正17年 1月1日 大日本史料 廷臣、諸将、大坂城に抵り、秀吉に歳首を賀す
天正17年 1月2日 大日本史料 秀吉、斯波義近、長谷川秀一、小早川隆景、島津義弘等を大坂城内山里茶亭に饗す
天正17年 1月7日 大日本史料 鍋島信生を加賀守に任じ、従五位下に叙す、秀吉、之に豊臣姓、羽柴氏を授く、
信生、名を直茂と改む
天正17年 1月10日 大日本史料 秀吉、大坂より入京す
天正17年 1月14日 大日本史料 秀吉、参内して、歳首を賀し奉る
天正17年 1月16日 大日本史料 京畿の諸住持、聚楽亭に抵り、秀吉に歳首を賀す
天正17年 1月23日 大日本史料 秀吉、大仏殿建立の木材及び刀剣を島津義弘に徴し、又琉球入貢、明国勘合符調製、
海賊船禁止等のことに就き督促す、是日、義弘其臣伊地知増也に之を伝へ、更に遅滞な
きを期せしむ
天正17年 2月22日 山口県史整理年表 輝元あらたに神領五ヵ村(広島)に築城せんとしてその地を卜す
【毛利氏四代実録】
天正17年 2月29日 大日本史料 秀吉、京都より大坂に帰る
天正17年 3月9日 大日本史料 秀吉、福島正則に命じ、大政所(天瑞院)病平癒立願の米を山城鞍馬寺に渡さしむ
天正17年 3月13日 大日本史料 秀吉、大坂より上京す
天正17年 3月15日 大日本史料 徳川家康の将内藤政長を左馬助に任じ、従五位下に叙す、秀吉、之に豊臣の姓を授く
天正17年 3月17日 大日本史料 秀吉、禁裏造営を始め、羽柴秀次をして、之を監せしむ
天正17年 3月19日 山口県史整理年表 輝元、雑賀満寿丸に厚東郡吉見村の内を給す 【毛利氏四代実録】
天正17年 3月24日 大日本史料 秀吉、石田三成をして、蘆名義広の入京を促さしむ
天正17年 4月19日 大日本史料 是より先、佐竹義重、伊達、蘆名諸氏争乱の状況を秀吉に報ず、是日、秀吉、
書を義重に遺り、其調停を図らしむ
天正17年 5月3日 山口県史整理年表 輝元検田改定を行い諸士に配地す。その後しばしば配地を行う 【閥閲録】
天正17年 5月4日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正17年 5月15日 大日本史料 黒田孝高老し、子長政嗣ぐ
天正17年 寛政重修諸家譜 ○黒田長政 黒田家相続
天正17年 5月17日 大日本史料 秀吉、大坂より京都に上る
天正17年 5月27日 大日本史料 秀吉の子(鶴松、)山城淀城に生る、翌日、之に太刀を賜ふ、
天正17年 5月 心斎橋今昔年表 淀殿、鶴松を生む。朝鮮と国交始める
天正17年 5月28日 大日本史料 是より先、秀吉、島津龍伯(義久)をして、琉球王尚寧の入貢を促さしむ、是日、
尚寧、天龍寺桃庵等をして、来聘せしむ、尋で、龍伯、桃庵等を伴ひて入京し、
聚楽亭に於て、秀吉に謁す
天正17年 6月5日 大日本史料 是より先、秀吉、妙音院某及び一鴎軒宗虎を相模小田原に遣し、北條氏政、同氏直父子
の上京を促す、是日、氏直、妙音院某等に、氏政の来る十二月に上京すべき旨を告ぐ
天正17年 6月16日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正17年 6月16日 大日本史料 伊達政宗、蘆名義広の陸奥黒川城を攻略せることを秀吉に報ず
天正17年 7月4日 大日本史料 秀吉、伊達政宗の、蘆名義広を逐ふを詰責し、速に兵を収めんことを命ず、又、上杉
景勝、佐竹義重に命じ、義広を援け、政宗を伐たしむ、
天正17年 7月13日 大日本史料 秀吉、富田一白(知信、)前田利家等に命じ、書を伊達政宗に遺り、政宗の陸奥
会津侵略に就きて、弁疏せんことを促さしむ
天正17年 7月18日 大日本史料 秀吉、大徳寺宗陳(古渓)の罪を赦し、筑前より帰京せしむ、是日、同国名島の
小早川隆景、之を伝ふ
天正17年 7月21日 大日本史料 是より先、秀吉、北條氏直の上京を促し、真田昌幸の所領上野沼田を之に与へんこと
を約す、是日、富田一白(知信、)津田隼人正を信濃上田城に遣し、昌幸を諭さしむ
天正17年 7月23日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正17年 7月27日 上川大野系譜 ■大野直昌竹原第で60才で卒、葬る東光山薬師寺裏 法名永称院殿直真宗昌大居士
天正17年 7月27日 大野家譜上田本 ○大野直昌竹原第で60才で卒、葬る東光山薬師寺裏 法名永称院殿直真宗昌大居士
天正17年 7月27日 久万町誌 ○大野直昌、安芸国竹原で歿、62歳、東光山薬師寺に葬る。号永称院殿直真宗昌大居士
後に施主大野和五郎直尚、位牌再調整。
天正17年 8月2日 大日本史料 秀吉、陸奥南部信直の請に依り、越後上杉景勝をして、上京の路次を開かしむ、
是日、之を信直に告ぐ
天正17年 8月5日 大日本史料 秀吉、京都に入る
天正17年 8月10日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正17年 8月17日 大日本史料 伊達政宗、遠藤不入齋等を上京せしめ、陸奥会津侵略に就きて秀吉に陳弁せしむ
天正17年 8月19日 大日本史料 秀吉、京都に上る
天正17年 8月26日 大和越智氏伝記 ○越智玄番頭家栄(利之)は秀吉の意を受けた筒井順慶にそそのかされた家臣の
ため卒(雲龍院殿天外宗範禅定門)*家栄は文明3年にも居る。
天正17年 8月26日 大和越智氏伝記 ○秀吉、大和越智氏家名断絶のため筒井順慶をして家栄嫡子市之助(13歳)を切腹
させる。(開善院殿樹岳宗鐵大童子)、後、越智氏は次男へ継ぐ
天正17年 8月27日 大野家聞書 ○大野直昌歿、61歳、号永称院殿前予州太守直真宗昌大禅定門
天正17年 9月1日 大日本史料 秀吉、京都に入る
天正17年 9月1日 大日本史料 秀吉、諸大名に令して、其妻子を在京せしむ
天正17年 9月3日 大日本史料 秀吉、一文字刀を紛失する咎に依り、浅野長吉(長政)の甥等を誅す、尋で、
尊教院順源等を磔殺す
天正17年 9月11日 大日本史料 秀吉、大坂に帰る
天正17年 9月13日 大日本史料 秀吉の子鶴松、山城淀城より大坂城に移る、是日、之に太刀を賜ふ
天正17年 9月15日 大日本史料 秀吉、西川八左衛門尉に近江蒲生郡の地を宛行ふ
天正17年 9月25日 大日本史料 秀吉、浅野長吉(長政)を京都所司代と為し、前田玄以を扶けしむ
天正17年 9月28日 大日本史料 是より先、佐竹義宣、上杉景勝と謀り、河原田盛継等を援けて、蘆名義広の復帰を図
る、仍りて、是日、秀吉、景勝に書を遺り、義広を復帰せしめんとするを告げ、国境の
守備を厳にせんことを命ず
天正17年 10月1日 大日本史料 秀吉、長谷川宗仁を伏見代官と為す
天正17年 10月3日 大日本史料 秀吉、肥前平戸領民の、明国進物船の荷物を掠奪するを聞き、平戸の松浦道可
(隆信)に命じて、其首魁等を捕へて、上送せしむ
天正17年 10月3日 大日本史料 上杉景勝の将須田満親、同長實、上京して、秀吉に謁す、是日、満親等、信濃高杜社
に報賽し、蒼鷹を寄進す
天正17年 10月5日 大日本史料 秀吉の臣富田一白(知信、)伊達政宗の臣片倉景綱に、最上義光、岩城常隆の上京せ
んとする旨を告げ、政宗の上京を促さしむ
天正17年 10月8日 大日本史料 秀吉、丹波亀山の羽柴秀勝の、領知の加増を需むるを怒りて、其所領を奪ふ、是日、
蜂屋頼隆の遺領越前の地を給す
天正17年 10月14日 大日本史料 秀吉、山城清水寺僧侶の横領せる同寺本堂の賽銭を没収し、之を同寺造営費に
宛てしむ
天正17年 11月10日 大日本史料 富田一白(知信、)浅野長吉(長政)等、伊達政宗に、速に上京し秀吉に弁疏せん
ことを促す
天正17年 11月15日 大日本史料 秀吉、美濃の地を伊木忠次等に宛行ふ、尋で、同国南宮社をして其社領を安堵せしむ
天正17年 11月22日 大日本史料 秀吉、諸国の地を検す、是日、洛中の検地を始む
天正17年 11月24日 大日本史料 是より先、北條氏の兵、真田昌幸の属城上野名呉桃を奪ふ、秀吉、北條氏の違約せる
を怒りて、討伐を決意し、其理由を草し、是日、徳川家康をして、之を相模小田原に
伝達せしむ、尚諸大名に令して、小田原出陣の準備を為さしむ
天正17年 12月2日 大日本史料 加藤清正、秀吉に大坂城に謁せんとし、肥後隈本(熊本)を発す、尋で、秀吉、清正
の戦功を賞し、又、之に朝鮮出兵の準備を命ず
天正17年 12月4日 大日本史料 秀吉、北條氏を討たんとす、仍りて、書を小早川隆景及び吉川広家に遺り、明年二月
に入京せしめ、隆景をして、尾張清洲城を、広家をして、同国星崎城を守らしむ、
天正17年 12月7日 大日本史料 北條氏直、書を富田一白(知信)及び津田隼人正に遺り、秀吉の母大政所(天瑞院)
を質と為さば、父氏政を上京せしむべき旨を告ぐ
天正17年 12月8日 大日本史料 秀吉、亀井真矩(茲矩)に因幡気多郡を宮部継潤に因幡の地及び但馬二方郡を宛行ふ
天正17年 12月9日 大日本史料 是より先、徳川家康、秀吉の書状を北條氏直に伝達す、是日、同氏政、氏直父子、
家康に答書して、和解を斡旋せんことを請ふ
天正17年 12月10日 大日本史料 徳川家康、上京し、是日、秀吉に聚楽亭に謁し、北條氏討伐のことを議す
天正17年 12月16日 大日本史料 大友吉統、上京して、是日、秀吉に謁す
天正17年 12月26日 大日本史料 是より先、秀吉、蘆名義広を陸奥会津に復帰せしめんとするの意を佐竹義宣に伝
ふ、是日、義宣、秀吉の将石田三成、同増田長盛に復書し、上杉景勝をして、速に
会津に出兵せしめんことを請ふ、又書を景勝の将直江兼続に遺り、其出兵を請ふ
天正17年 12月 大日本史料 秀吉、本願寺光佐(顕如)に大坂の旧地を与へ、其租を免除す
天正17年 大日本史料 秀吉、重ねて、宗義智等を、朝鮮王李昖に遣し、其来聘を促す、李昖之を諾す
天正17年 大野家譜讃岐屋本 ○大野直昌歿後惣領熊王丸(直常)は松山へ還り天徳寺に寄宿、後大野家出入りの町人
天野屋九兵衛に連れられ大坂へ行く。後養子。【大坂大野天野屋初
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