プリシラ物語

☆☆☆

題名のない物語。

2020-07-01 11:36:17 | Weblog
よく考えてみたら、こんな経験は誰も言わないだけで
珍しくもなく大したことではないのかもしれないな

ある日、青白い顔の眉間にシワを寄せた女性が私を名指しで現れた
「ここに来ればわかるかもしれないって言われました」
30歳になるなかならないかの女性は小さなビニール袋を差し出した

キャメル色で革製のその物は所々、いや、かなりの範囲で朱色に染められそれが血痕だと、直ぐに分かった
私が朱色を避けるのはそのトラウマなのかもしれない

「これについている香水を、香水を探しているんです」

人の嗅覚は、麻痺をする
いくつかの香りや匂い、3種類か4種類が限度で麻痺をする
それは通常であって、なんの問題もない

しかし、この私、ひょんなきっかけで入ったフレグランス業界
100種類以上の香りや匂いを重ねても、全く麻痺しないという事実があった
本当に不思議に全く麻痺をしない
それはちょっとした評判になっていて、香りを作る部門でも生かされるまでになっていた

その女性が持ち込んだその物は、時計のベルトだった

うん、これを何処か持ち込んだ所で、もう見ただけで拒否をされたのかもしれないな
近くにいたボスを見ると「うん、うん」と頷いている

やるか、やるしかねぇ
そのビニール袋を開けたとき、革の匂いと血の匂いと男性の、若い男性の匂いがした
手に取り、鼻に近づけると、革の匂いと血の匂いと人、人間の匂いが入り交じり
微かに香水の、オードトワレの香り、残り香があった
殆どの香水は3段階に分けて香りに変化がある
そして最後に残り香、これはくせ者で、本来の香りと全く違う場合がある
只、男性物は単調な物が多く当時は流行がかなりあったので
その残り香でも、系統は直ぐに分かった
しかし、革と血と人の匂いはこの残り香をかき消す
血にまみれたこの物を、必死になって嗅ぐ
その時何故か、嫌な気持ちは全くなかった

「時計の部分は滅茶苦茶でこの部分だけどうにか残ったんです」
「持ち主の方のご家族とかに聞くとかは?」
「会った事も話もした事もないんです」
まだ付き合いの浅い恋人だったのか

恋人は即死だったらしい

それを聞いて、絶対に同じ物を探さなくてはと強く思った
血の匂いがまだ新鮮で、この持ち主の生きた証を漂わせて、更に気持ちが強くなり神経を集中させる

そして2つのオードトワレが残った
それがクリスチャン・ラッセンのブランドの「ライジングウェーブ」
オリジナルと限定物、ムエットに付けて女性に差し出す

「あ、これ、これかも!!」
涙目にもならず耐えていた強い意志を持った眼球から涙がこぼれ落ちた
ガタッと音がして振り返ったら、ボスも何故か泣いていて鼻をかんでいた

「ごめんね、残り香しか無くてはっきりとはわからないんだ。思い出してみて、彼の隣にいるときの香り」

「これです、これだと思います」
今だから本当の気持ちを言うと、その時差し出したライジングウェーブ、自信が無かったんだ
違っていたらどうしよう、という気持ちがあって、それ以上は何も言わなかった

帰り際、眉間にシワはあったけど、青白い顔のその女性の頬が、少しほんの少し桜色になっていた

その日から1ヶ月位経ったまたある日
ニッコリ微笑む女性がいた
えっ!!あの時の、、、
「先日、彼のお姉さんに会えて、香水の事も聞いたんです」
恋人が愛用していたのは、ライジングウェーブだった
限定物でもう製造はされて無くて、私が差し出した限定物の1年前の物だった
もう、何処にも売っていない
「知り合いの業者さんに頼んでどうにか見つけようか?」
「いいんです、香りが分かって、選んでくれたオリジナルのライジングウェーブが気に入ったので、これからはそれを使います。限定物は無くなっちゃいますし」
明るい声だった
眉間にシワもなく確かに頬が桜色だった
よく見ると、その女性はまだ20代そこそこの年齢だな、ああ!

お礼に頂いたフレーバーティ
紅茶は苦手な私だけど飲んでみた

「何だ、この紅茶、芳香剤の味がするな」
後ろでボスが叫んでいた、、、もうっ!!

あれから10年以上経った
あの女性は新しい愛を見つけたのだろうか

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