日本史で一番最初に登場する、外国との大きな戦いに「白村江(はくそんこう)の戦い」があります。
あまりにも年代が古すぎて、この戦いを知っても意味がないのではないか?と思いがちですが、この時から、既に外国との貿易・外交・防衛は始まり今に通じています。
白村江の戦いとは、663年に勃発しました。
日本と百済の連合軍 VS 唐と新羅の連合軍という図式です。
当時の朝鮮半島では、「高句麗」・「百済」・「新羅」という三つの国が覇権を争いしのぎを削っていました。
そんな中、お隣では「唐」という巨大国家が建国されていました。
唐は今の中国の前身のような国ですが、今も昔も大陸を侵略していくという考えに余念がありません。
当時の日本と百済はお互いに行き来する親密な外交関係が存在していました。
結果、「百済・日本連合軍」VS「唐・新羅連合軍」という構図になり、白村江の戦いに入っていったのです。
この戦いで、初めて大敗した日本は、国の在り方というものを考えさせられました。
”国防”・・
こうした考えが強く考えられ始めたのがこの時期です。
「唐」という大国の強さを分析したうえで、日本も唐の国家体制を取り入れようとします。
まず、「唐・新羅連合軍」の、もしもの日本侵略の場合に備え、大宰府に水城や山城を建設しました。
そして、朝鮮半島と日本(九州)の間の対馬と筑紫には”防人”を置き、国防にあたりました。
戦いに敗れ、長安に捕虜として連行された中に大伴部博麻(おおともべ の はかま)という人物がいました。
彼らは捕虜とはいえ拘束されること無く自由に長安を往来できました。
その為、彼らは長安においてしっかりと情報収集を行っていたようです。
そして博麻らは「唐が倭国(日本)を攻める計画」を持っている事を知ります。
自分を犠牲にし、日本を守った大伴部博麻
この事実ををヤマト(日本)に知らせなければと、博麻は自分を「奴隷」に売り、他の四人を日本に帰す事を「土師野富咩」らに相談しました。
そして緊急事態を知らせることを決意したのです。
己を奴隷に売り「大伴部博麻」の作った資金を基に四人は衣服、食料、旅費を準備、ヤマトへ向かいました。
天智10年(671)頃、四人は対馬に着き、この事は直ちに「筑紫國大宰府政庁」に伝えられたといいます。
大伴部博麻が日本へ帰って来る
奴隷として長安に留まった博麻はそれからおよそ20数年、知り合いの「唐人(外交官、新羅使とも)」から倭国に行くが一緒に帰るかと声をかけられる。
そして、持統4年(690)十月乙丑(二十二日)に大伴部博麻は30年という時を経て日本に帰ってくる。
持統天皇より勅語を賜る(原則として天皇が口頭により発する公務上の意思表示)
持統天皇はその愛国心を讃えて博麻を務大肆従七位下に任じ、絹を四匹(一匹=四丈)、綿を十屯、布を三十端、稲を千束、水田を四町与えた。
また、子孫三代にわたっての税の免除を約束し、勅語を送った(「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」)。
この勅語は「愛国」という単語の語源となったものであり、天皇から一般個人に向けられた最初で最後の勅語である。
第二次世界大戦時の日本で博麻は愛国心の象徴的存在として崇められ、各地で喧伝された。
大伴部博麻の碑には以下の言葉が記されています。
右の柱には「尊朝愛国」、左の柱には「売身輪忠」。
これは持統天皇が持統4年(690年)に大伴部博麻に与えた勅語であります。
この人がいなかったら今の日本はないわけです。
先日虎ノ門ニュースの中で教科書がどんどん反日になっていることが話題になりました。MCの居島一平さんが「なぜ教科書に載せるべき大伴部博麻(おおともべ の はかま、生没年不詳)のことを教科書に載せないんですかね」と話していましたが、本当に教科書に載せるべきだと思いました。
「日本」が生まれた 白村江の戦い 古代史上最大の対外戦争
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