フィデル・カストロ死去しました。
1950年代にバチスタ政権を打倒してキューバ革命を成功させ、1976年から2008年までキューバの国家元首(国家評議会議長)を務めたフィデル・カストロ氏が亡くなったことを、弟で現議長のラウル・カストロ氏が明らかにしました。90歳でした。
カストロといえばすぐに浮かぶのはチェゲバラです。
いまでも世界中旅して見かける彼の顔、多くの人がゲバラのTシャツを着ています。

民衆から褒め称えられ、絶大な人気を得ていました。
彼に関しては色々な見かたや解釈があります。
「革命を起こした人」になりますが、「アメリカに正々堂々ケンカを売った男」です。
キューバ人と勘違いされがちですが、アルゼンチンの産まれです。病弱で喘息持ち。 喘息は彼を一生に渡って苦しめることになります。(それでも葉巻はやめなかった)
比較的裕福な家に生まれ、喘息に苦しむものの健康体を取り戻し、優秀な成績でブエノスアイレス医科大学でアレルギーの研究を志します。
学生時代、南米を旅します。
この旅模様はメチャクチャ面白く、ここでは書ききれないので、ご自身で調べてみてください。
旅を終えて、貧困や植民地化を目の当たりにしたゲバラの人生観は大きく変わります。
当時の南米ではアメリカの植民地化した国がまだ多く、あちこちでクーデターが起こっていました。
その中でもメキシコでは独裁者を追放し、革命が成功し、反米思想を持つ人のメッカでした。ゲバラもメキシコに向かい、フィデル・カストロと出会います。
カストロはキューバ人です。
彼はキューバが軍事独裁体制になってしまった母国に対し、武力闘争をするものの、失敗し国を追われていました。
ゲバラはカストロと意気投合し、彼の革命軍に参加します。
革命軍の多くはキューバ人でアルゼンチン野郎とゲバラを煙たがっていた輩もいましたが、彼の人懐っこい性格ですぐに溶け込みます。
82名でキューバに上陸するものの、次々と仲間が殺されてしまい、12名までになってしまいました。
敗色濃厚でしたが、ゲバラとカストロの楽天的で人を引きつけるカリスマ性により、彼らに食料や住居を提供する国民が増え、また革命軍に参加する人も現れ、勢力は一気に加速していきます。
革命軍の運動に併せ国内で次々に反乱やストライキが起き、ついにバチスタ政権の独裁者バチスタはアメリカへ亡命キューバに革命が成りました。
カストロが目指していた国づくりは、ソ連式の共産主義ではなく民主的な社会主義体制を目指していました。
なので、革命軍のリーダー的存在であったゲバラを政治的な役割につけませんでした。
しかし、穏健派の最右翼であるウルティアが大統領を辞任すると、国内は一気に共産主義化していきます。
カストロも覚悟を決めゲバラに政治的なポジションを与えます。
彼は外交に手腕を発揮します。
アメリカの植民地化が顕著なアフリカやアジア諸国を回り、声高にアメリカを批判します。
革命家から圧倒的な人気を誇っていたゲバラの外交にアメリカは強硬な姿勢をとります。
キューバの最大の輸出品であるサトウキビをアメリカが買わなくなりました。
それに対し、キューバは国内にあるアメリカの資産をすべて没収。
更にゲバラはソ連や中国などの社会主義諸国を訪問し、サトウキビ輸入や無利子による借款などの約束を取付けました。
これに焦ったアメリカは、ついに武力行使にでます。といっても、アメリカ自らが戦争をしかけるではなく、キューバを追われた旧独裁政権者などを多額の資産で援助し、キューバ国内でテロ活動をさせます。
それに対してゲバラはついにソ連と組んで核ミサイルを入手します。
世界中に核戦争の危機が危ぶまれた瞬間です。
いわゆる「キューバ危機」。
結局は、直接電話交渉により最悪の状態は免れましたが、キューバへの経済政策はながく続きました。
その後もゲバラは、国連の席でアメリカの中南米支配を糾弾し第三世界の国々から拍手喝采を浴びました。
さらに彼の批判はアメリカに留まらず、支配者になりつつあるソ連にまで及びます。
ソ連はキューバの最大の支援国であって、ソ連の支援なくしてキューバは成り立ちません。
これに困惑したキューバ政府はゲバラを煙たがります。
これにより、ゲバラはカストロに対して有名な「訣別の手紙」を出して、自分を必要としてくれている革命国に向かい旅立ちます。
フランスから独立したように、第二のベトナムを生み出すために、ボリビアに向かいました。
ボリビアでは彼ら革命軍を迎え撃つためにアメリカから特殊部隊グリーン・ベレーが呼ばれており、革命軍はしだいに孤立していき、ゲバラもついに捕まってしまいます。
国際的にも有名なゲバラを逮捕したとなれば、裁判中に解放させられる恐れもあり、あっさりと銃殺されてしまいました。
ゲバラの遺体は世界中の左翼勢力に対する見せしめとして公開され、大きな衝撃を与えました。
キューバを中心に、彼を知っているものは彼を愛し続け、語り続けました。どんなに無鉄砲でも彼のもつ心の優しさを知る人々にとっては愛すべき存在であり続けたからでしょう。
そして、彼が書き残した膨大な量の日記や記録の数々は、未だに読む人の心をつかみ、新たなファンを獲得し続けているのです。
人間はダイヤモンドだ。ダイヤモンドを磨くことが出来るのはダイヤモンドしかない。人間を磨くにも、人間とコミュニケーションを取るしかないんだよ。
誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだといわれています。

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1950年代にバチスタ政権を打倒してキューバ革命を成功させ、1976年から2008年までキューバの国家元首(国家評議会議長)を務めたフィデル・カストロ氏が亡くなったことを、弟で現議長のラウル・カストロ氏が明らかにしました。90歳でした。
カストロといえばすぐに浮かぶのはチェゲバラです。
いまでも世界中旅して見かける彼の顔、多くの人がゲバラのTシャツを着ています。

民衆から褒め称えられ、絶大な人気を得ていました。
彼に関しては色々な見かたや解釈があります。
「革命を起こした人」になりますが、「アメリカに正々堂々ケンカを売った男」です。
キューバ人と勘違いされがちですが、アルゼンチンの産まれです。病弱で喘息持ち。 喘息は彼を一生に渡って苦しめることになります。(それでも葉巻はやめなかった)
比較的裕福な家に生まれ、喘息に苦しむものの健康体を取り戻し、優秀な成績でブエノスアイレス医科大学でアレルギーの研究を志します。
学生時代、南米を旅します。
この旅模様はメチャクチャ面白く、ここでは書ききれないので、ご自身で調べてみてください。
旅を終えて、貧困や植民地化を目の当たりにしたゲバラの人生観は大きく変わります。
当時の南米ではアメリカの植民地化した国がまだ多く、あちこちでクーデターが起こっていました。
その中でもメキシコでは独裁者を追放し、革命が成功し、反米思想を持つ人のメッカでした。ゲバラもメキシコに向かい、フィデル・カストロと出会います。
カストロはキューバ人です。
彼はキューバが軍事独裁体制になってしまった母国に対し、武力闘争をするものの、失敗し国を追われていました。
ゲバラはカストロと意気投合し、彼の革命軍に参加します。
革命軍の多くはキューバ人でアルゼンチン野郎とゲバラを煙たがっていた輩もいましたが、彼の人懐っこい性格ですぐに溶け込みます。
82名でキューバに上陸するものの、次々と仲間が殺されてしまい、12名までになってしまいました。
敗色濃厚でしたが、ゲバラとカストロの楽天的で人を引きつけるカリスマ性により、彼らに食料や住居を提供する国民が増え、また革命軍に参加する人も現れ、勢力は一気に加速していきます。
革命軍の運動に併せ国内で次々に反乱やストライキが起き、ついにバチスタ政権の独裁者バチスタはアメリカへ亡命キューバに革命が成りました。
カストロが目指していた国づくりは、ソ連式の共産主義ではなく民主的な社会主義体制を目指していました。
なので、革命軍のリーダー的存在であったゲバラを政治的な役割につけませんでした。
しかし、穏健派の最右翼であるウルティアが大統領を辞任すると、国内は一気に共産主義化していきます。
カストロも覚悟を決めゲバラに政治的なポジションを与えます。
彼は外交に手腕を発揮します。
アメリカの植民地化が顕著なアフリカやアジア諸国を回り、声高にアメリカを批判します。
革命家から圧倒的な人気を誇っていたゲバラの外交にアメリカは強硬な姿勢をとります。
キューバの最大の輸出品であるサトウキビをアメリカが買わなくなりました。
それに対し、キューバは国内にあるアメリカの資産をすべて没収。
更にゲバラはソ連や中国などの社会主義諸国を訪問し、サトウキビ輸入や無利子による借款などの約束を取付けました。
これに焦ったアメリカは、ついに武力行使にでます。といっても、アメリカ自らが戦争をしかけるではなく、キューバを追われた旧独裁政権者などを多額の資産で援助し、キューバ国内でテロ活動をさせます。
それに対してゲバラはついにソ連と組んで核ミサイルを入手します。
世界中に核戦争の危機が危ぶまれた瞬間です。
いわゆる「キューバ危機」。
結局は、直接電話交渉により最悪の状態は免れましたが、キューバへの経済政策はながく続きました。
その後もゲバラは、国連の席でアメリカの中南米支配を糾弾し第三世界の国々から拍手喝采を浴びました。
さらに彼の批判はアメリカに留まらず、支配者になりつつあるソ連にまで及びます。
ソ連はキューバの最大の支援国であって、ソ連の支援なくしてキューバは成り立ちません。
これに困惑したキューバ政府はゲバラを煙たがります。
これにより、ゲバラはカストロに対して有名な「訣別の手紙」を出して、自分を必要としてくれている革命国に向かい旅立ちます。
フランスから独立したように、第二のベトナムを生み出すために、ボリビアに向かいました。
ボリビアでは彼ら革命軍を迎え撃つためにアメリカから特殊部隊グリーン・ベレーが呼ばれており、革命軍はしだいに孤立していき、ゲバラもついに捕まってしまいます。
国際的にも有名なゲバラを逮捕したとなれば、裁判中に解放させられる恐れもあり、あっさりと銃殺されてしまいました。
ゲバラの遺体は世界中の左翼勢力に対する見せしめとして公開され、大きな衝撃を与えました。
キューバを中心に、彼を知っているものは彼を愛し続け、語り続けました。どんなに無鉄砲でも彼のもつ心の優しさを知る人々にとっては愛すべき存在であり続けたからでしょう。
そして、彼が書き残した膨大な量の日記や記録の数々は、未だに読む人の心をつかみ、新たなファンを獲得し続けているのです。
人間はダイヤモンドだ。ダイヤモンドを磨くことが出来るのはダイヤモンドしかない。人間を磨くにも、人間とコミュニケーションを取るしかないんだよ。
誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだといわれています。

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