春野かそい書「ミゼレーレ18 ・絶望のために生まれてきたのか われらは」(絶望・despair)
2018年12月制作 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「絶望」と書かれている。
われらは絶望のために生まれてきたのかも知れない。星の王子さまは、行く星々で大人たちに絶望する。リルケもカフカもドストエフスキーも孤独と絶望から出発したと言ってもいいのかも知れない。
「どこにでも好きな方に歩いていける。ぼくは自由だ・・・。だが、この自由はほろ苦かった。世界と自分が、どれだけつながっていないかを思い知らされた。」(『星の王子さま』より)
沙漠に墜落して、ひとりぼっちになったぼく(サン・テグジュペリのこと)は、風と砂と空しかない絶対的な孤独と絶望の中で、何ものともつながっていない人間の真実に気づくとともに、はじめて、愛の尊さに気づく。
「人間は、障害にむきあったときに、自らを発見するのだ。」(『星の王子さま』より)ここでいう「障害」は「絶望」と置き換えられるだろう。
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ。」(『星の王子さま』より)ここでいう「砂漠」も「絶望」と「孤独」または「闇」と置き換えられるかも知れない。
孤独でバラバラな人間をつなぐものは、井戸(少しの水)つまり、愛のことである。
「本質的な価値は、事物から人間にくるのではなく、事物を結び合わせる結び目からくるのだ。・・・神とは、事物を結び合わせる聖なる結び目である。」(サン・テグジュペリ『城砦』より)
「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」(新約聖書『コロサイ人への手紙』第3章14節より)ここで述べらている「帯」は「絆」と置き換えられる。
テグジュペリは神を「聖なる結び目」と述べ、聖書では「すべてを結ぶ帯(絆)」を愛と述べている。
よって、神とは愛のことである、と彼は確認したのではないだろうか。
絶望や孤独が、愛の種なのである、とわたしも思う。
シアトル首長が「すべてはつながっている」と述べたのは、また次元の違う状況でのことであった。