春野かそいブログ

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春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ番外2」(平和) 作品244

2019-01-18 11:56:51 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ番外2・戦争 戦争 戦争 母達は嘆く 「なんて愚かな!」(平和・peace)
2018年12 月制作 約23.5 ×23.5 ㎝ 唐紙・墨・軸装
「平和」と書かれている。

この副題「戦争 戦争 戦争 母達は嘆く 「なんて愚かな!」」は、ルオーの「ミセレーレ」の第42番の副題「母たちに忌み嫌われる戦争」の変奏である。

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ番外1」(素) 作品243

2019-01-17 11:33:33 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ番外1 ・だけど私はサーカスのピエロだから・・・」(素・natural face)
2018年12 月制作 約23.5 ×23.5 ㎝ 唐紙・墨・軸装
「素」と書かれている。

人は化粧をして
仮面をつけて
素顔を隠さなければ
生きていけないもの

悲しそうな道化師
哀れな道化師、と
騙されてはいけない!
(個展「ミゼレーレ」展図録より)

「その時私は、はっきり悟ったのです。〈道化師〉Pitre(仏語ピトュレ)とはこの私、私たちのこと・・・ほぼ私たちすべてのことだということを・・・この豪華なスパンコールをちりばめた衣装、それを私たちに着せるのは人生です。
私たちはみな程度の差こそあれ道化師で、みな〈スパンコールをちりばめた衣装〉をまとっています。・・・」(ルオーからシュレ宛の手紙より、後藤新治訳)

ピエロは、クラウンの一種で、語源はイタリア語の「ペドロリーノ」、これがフランス語の「ピエール」に改められ、「ピエロ」と呼ばれるようになったという。一般に涙型のメイクをする。涙型は悲しみをあらわしている。ピエロは馬鹿にされながら、観客を笑わせる。

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ22」(愛) 作品242

2019-01-15 08:55:36 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ22 ・あなたは人の世の苦しみを背負って・・・」(愛・love)
2018年10月制作 約65×65㎝ 紙本・墨
「愛」と書かれている。

涙しか知らないあなた
耐えよ!
愛はそこにある!
明日は晴れるよ!
愛こそすべて!
(個展「ミゼレーレ」展図録より)

パスカルの『パンセ』(わたしが、15歳の時、おそらく、初めて買った本でタイトルは『パスカル瞑想録』)を書棚から取り出して、その、断章第553「イエスの秘儀(1)」を読み直してみた。
というのは、この「ミゼレーレ22」の副題「あなたは人の世の苦しみを背負って・・・」が、ルオーの「ミセレーレ」第35の副題「イエスは、世の終わりに至るまで苦しみたまわん・・・・・・」からの変奏だからであり、ルオーのこの副題が『パンセ』断章第553から引用されているからである。
少し長いがその箇所を引用しておこう。
「イエスはその苦難においては、人間がかれにくわえる苦しみをしのばれる。だが、そのさいごの苦悶においては、自分で自分にあたえる苦しみをしのばれる。〈はげしく感動し〉それは人間の手から生じる苦痛ではない、全能の御手からくる苦痛である。それにたえるには全能でなければならないから。  イエスは少なくともその三人の最愛の友に、多少の慰めをもとめられる。しかし、かれらは眠っている。かれらがかれとともにしばらくたえしのぶことをもとめられる。しかし、かれらはさして同情がないので、一瞬間も眠りにうちかつことができず、かれをまったくなおざりにしてかえりみない。かくしてイエスは、ただひとり神の怒りの前に取りのこされる。   イエスはただひとり地上におられる。地上にはかれの苦痛を感じ、それをわけあうものがないだけでなく、それを知るものもない。それを知っているのは、天とかれとのみである。  イエスは園におられる。それは、はじめの人アダムが自分と全人類とを堕落させた快楽の園ではない。かれが自分と全人類とをすくわれた苦悩の園である。  かれはこの苦痛とこのおきざりとを、夜の恐怖のなかでしのんでおられる。  イエスが嘆かれたのは、このとき一度しかなかったと思う。だが、このときには、極度の苦しみにもはや耐えられないかのように嘆かれた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。」  イエスは人間のがわから仲間と慰めとをもとめられる。このようなことは、かれの一生にただ一度であったと思う。だが、かれはそれをえることができない。弟子たちが眠っているからである。  イエスは世の終りまで苦悶されるであろう。そのあいだ、われわれは眠ってはならない。  イエスは、かくすべてのものから見すてられ、かれとともに目ざめているためにえらばれた友だちからまで見すてられながら、かれらが眠っているのを見いだして、かれでなく、かれら自身がさらされている危険のゆえに心を痛め、かれらが忘恩におちいっているあいだも、かれらにたいする心からの愛情をもって、かれら自身の救いとかれらの幸福とについてかれらをさとし、「心は熱しているが、肉体がよわいのである」とお告げになる。  イエスは、かれらがかれらのことを思ってもかれら自身のことを思っても、目をさましていることができず、なおも眠っているのを見て、親切にもかれらを呼びおこさず、休ませたままでおかれる。  イエスは、父の御旨が確かめられないままに、祈りかつ死を恐怖される。だが、それがわかると、進みでて死に身をさし出される。〈立て、さあ行こう。進みでて。)(ヨハネ)・・・・・・」(由木 康訳)
この、ゲッセマネの園の話しは、キリスト教の独自な性格をよくあらわしていると言われる。それは、自己放棄と愛の、感情と精神である、と思われる。

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ21」(希望) 作品241

2019-01-14 09:08:40 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ21 ・この世には絶望しかないけれど・・・」(希望・hope)
2018年12月制作 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「希望」と書かれている。

夢はある!
(個展「ミゼレーレ」展の図録より)

「ミゼレーレ第18番」で述べたように、絶望は希望の種である.
絶望し精根を使い果たしたときに夢をみるのである。夢の中で芽が出て、茎が伸びて、希望という一輪の花が咲く。サン・テグジュペリやドストエフスキーや安倍公房らは、創作を通して、絶望からの抜け道を探求し、その希望への道を創造したのだと思われる。かれら真正の芸術家は、神と同じ仕事をしていると思われる。いや、かれらは、神の化身なのかもしれない。
キリスト・イエスは十字架を背負って死の道を歩いた。それは死という絶対的な絶望への道行であった。磔にされ、辱められ、殺された。磔は極刑であり、十字架は絶望の象徴であった。しかし、キリスト・イエスが受難してから以後は、十字架は希望の光の象徴に生まれかわったのである。
絶望と希望はコインの裏表のように、どちらも、なくてはならないもののようにわたしには思われる。

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ20」(罠) 作品240

2019-01-13 10:02:28 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ20 ・孤独になり 深く潜行し 甦れ!」(罠・snare)
2018年12月制作 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「罠」と書かれている。

この副題「孤独になり 深く潜行し 甦れ!」は、ルオーの版画集「ミセレーレ」の第5番の副題「罠と悪意のこの世にただ独り」から引用された。
「罠と悪意のこの世で、わたしは姿をくらまし、深く潜行し、そして再び浮上することを学んだ。何よりもわたしの作品をもっと美しく、もっと表現的にすることに専念した」とルオーは語っている。彼は、キリスト・イエスのように、孤独に耐え、己の使命を果たすことが芸術家の道であると言っているのである。
もう、わたしは、高齢だから、深く潜行したまま浮上できないかも知れないが、わたしもルオーに倣おうと思う。
「人間の一生は罠と悪意ばかりに満ちた「ゴルゴダへの道」である」ともルオーは言っている。
そんなことはない、人生は善意と優しさで満ちているではないか、善良な友人達でいっぱいではないか、希望と夢だらけではないか、と誇らしげに語る人もいるだろう。そう思える人はそれで良いだろう。
世界中に飢えた子供たちがいる。世界中に貧困や病気や戦争で苦しんでいる人々がいる。それでも人生は希望であふれていると思えるのなら、それはそれで良いだろう。
孤独なサン・テグジュペリのように、芸術家も一すじの希望の光を胸に秘めてはいるのだろう!
制作を通して、自分自身を救うために掴んだ一すじの光を!
しかし、その光は、まぶしく輝く光の中からは決して生まれてはこないもののように思われる.
芸術家は誰よりも、罠にはまり、悪意に傷つき、真っ暗闇の孤独地獄に落ちて苦悩する人間のようだ。
そして、芸術家は、その暗黒の闇の中に、微かな一すじの光を創造した人間でもあるのだ、とわたしは思う。

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ19」(悲) 作品239

2019-01-12 15:28:44 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ19 ・悲しみは野に咲く白い花」(悲・sorrow)
2018年12月制作 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「悲」と書かれている。

ヴェロニカの涙
(個展「ミゼレーレ」の図録より)

ヴェロニカは、聖ヴェロニカのことで、笞打たれ、十字架を背負って、ゴルゴタの丘へと歩くキリストを憐れみ、その汗と血を、身につけていたヴェールで拭いてあげた聖女のこと。そのヴェールにキリストの顔が写るという奇跡がおこったと伝えられている。(聖顔布伝説)
ルオーの描くヴェロニカの肖像は、慈愛に満ちた優しい表情をしている。ルオーにとって聖母マリアと聖ヴェロニカが愛の化身だったのかも知れない。
ベロニカという青紫色の花の名前は、聖女ヴェロニカからつけられたという。
 

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ18」(絶望) 作品238

2019-01-11 09:33:12 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ18 ・絶望のために生まれてきたのか われらは」(絶望・despair)
2018年12月制作 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「絶望」と書かれている。

われらは絶望のために生まれてきたのかも知れない。星の王子さまは、行く星々で大人たちに絶望する。リルケもカフカもドストエフスキーも孤独と絶望から出発したと言ってもいいのかも知れない。
「どこにでも好きな方に歩いていける。ぼくは自由だ・・・。だが、この自由はほろ苦かった。世界と自分が、どれだけつながっていないかを思い知らされた。」(『星の王子さま』より)
沙漠に墜落して、ひとりぼっちになったぼく(サン・テグジュペリのこと)は、風と砂と空しかない絶対的な孤独と絶望の中で、何ものともつながっていない人間の真実に気づくとともに、はじめて、愛の尊さに気づく。
「人間は、障害にむきあったときに、自らを発見するのだ。」(『星の王子さま』より)ここでいう「障害」は「絶望」と置き換えられるだろう。
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ。」(『星の王子さま』より)ここでいう「砂漠」も「絶望」と「孤独」または「闇」と置き換えられるかも知れない。
孤独でバラバラな人間をつなぐものは、井戸(少しの水)つまり、愛のことである。
「本質的な価値は、事物から人間にくるのではなく、事物を結び合わせる結び目からくるのだ。・・・神とは、事物を結び合わせる聖なる結び目である。」(サン・テグジュペリ『城砦』より)
「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」(新約聖書『コロサイ人への手紙』第3章14節より)ここで述べらている「帯」は「絆」と置き換えられる。
テグジュペリは神を「聖なる結び目」と述べ、聖書では「すべてを結ぶ帯(絆)」を愛と述べている。
よって、神とは愛のことである、と彼は確認したのではないだろうか。
絶望や孤独が、愛の種なのである、とわたしも思う。
シアトル首長が「すべてはつながっている」と述べたのは、また次元の違う状況でのことであった。

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ17」(罪) 作品237

2019-01-10 09:52:47 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ17・罪は永遠に消えず われらを笞打つ!」(罪・crime)
2018年12月制作 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「罪」と書かれている。

聖母マリアを除く全人類が負っている罪、アダムとイブの堕罪(原罪)とキリスト・イエスによる贖罪を信じる人は幸いである。
ルオーの「ミセレーレ」第58の副題「われらが癒されたるは、彼の受けたる傷によりてなり」は、旧約聖書のイザヤ書、第53章4~5節「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるにわれわれは思った。彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」から採られている。
ルオーは、キリストと同じように人の世の苦しみを背負ってゆこうと決意して、この「ミセレーレ」を制作したようである。彼は真の芸術家とはキリストと同じ道を歩くものだと考えていたのだろう。キリストの道とは、自分が犠牲になってでも、他人の苦しみを代りに背負い、他者を愛することである、と思われる。
純粋芸術とは芸術家自身の生き方を追求するものであり、他者の喜びのために制作されるものではない、という考えも正しいが、自分の作物が他者の幸福に役立つことを願う気持ちも本当のことである、とわたしは強く感じる。
「人間の不幸の源泉は魂の原罪であって、社会制度の欠陥ではない。人間は何よりもまず己の心にひそむ悪や罪と戦い自力で道徳的完成を成し遂げなければならない。われわれの救いは神にある。・・・」(金子幸彦「ドストエフスキー」『ロシヤ文学案内』岩波文庫より)。

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ16」(闇) 作品236

2019-01-09 10:18:41 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ16・悪意と罠の闇の底で独り磨くのだ!」(闇・the dark)
2018年12月制作 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「闇」と書かれている。

光あるところ影あり。影あるところ光あり。闇が深ければ深いほど微かな光でも救いの光である。闇が深ければ深いほど一条の光が輝いて見える。生命の姿の何も見えない、不毛の死の沙漠に現れた星の王子さまが輝いて見えたように、ひとりぼっちで、本当に孤独な人にとって、少しの親切が命の水のように感じられたり、影と光、死と生、孤独と友情は、どちらもなくてはならないものなのだ。
闇が深い人よ!嘆くなかれ!孤独の中で己を磨き、光りを求めよ!友情を求めよ!しっかり生きよ!
闇に包まれた人、ひとりぼっちな人、死に直面した人は幸いなり!
光のない闇はない!愛のない孤独はない!生のない死はない!
闇を恐れ、孤独を恐れ、死を恐れ、それらを直視しない人こそ不幸である。なぜなら、その人は、光りも、愛も、生をも本当には感じることができない死する人だからだ!

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ15」(憎) 作品235

2019-01-08 09:27:40 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ15 ・すくいは何処に!深い傷痕!」(憎・hatred)
2018年12月制作 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「憎」と書かれている。

「憎」と「愛」は、悲しいかなコインの裏表である。愛する人のために敵を憎み戦う。そのような愛が「真実の愛」かどうか、わたしには疑問である。現実の世の中は、憎しみだらけである。憎しみの海に花びらほどの小さな愛が漂っているのが現実である。「愛」を口にする人ほど「真実の愛」からはほど遠い。愛は確かにあるのだが、愛を意識した途端に、愛はその姿を見せなくなる。愛は捉えることのできないものなのだろうか?愛を表現する意味など無いようにもわたしは思う。愛を造形できればとも思うが、愛が生きて動くものなら、永遠に愛を捉えることはできないのかも知れない。それに、愛を歌い形にするよりも、本当に「愛する」ほうがもっと大切なことなのだ、とわたしは考える。愛は表現するものではなく、行うものなのだ!

「なぜ憎みあうのか?ぼくらは同じ地球によって運ばれる連帯責任者だ。同じ船の乗組員だ。新しい総合を生み出すために、各種の文化が対立するのはいいことかもしれないが、これが、おたがいに憎みあうに至っては言語道断だ。」(サン・テグジュペリ『人間の土地』より)

春野かそい書 「日本国憲法前文」

日本国憲法前文