春野かそいブログ

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春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ14」(欺) 作品234

2019-01-07 09:40:54 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ14・仮面なしでは生きられない」(欺・deceive)
2018年12月制作 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「欺」と書かれている。

副題の「仮面なしでは生きられない」は、ルオーの「ミセレーレ」にある「自分の顔をつくらぬ者があろうか?」(または「顔に皴を描かぬ者はいようか?」)の引用である。ルオーの言う「顔をつくる」とは、役者がメーキャップをすること。これは、素顔を隠して、うわべを飾らなければ生きてゆけない人間の弱さを象徴している。ルオーは人間の欺瞞を告発するだけではなく、人間の弱さに共感もしている。彼にとってサーカスの道化師は弱き者すべての象徴であった。彼は多くの道化師像を描いているが、それらの表現は、優しさに溢れている。

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ13」(傲) 作品233

2019-01-06 09:47:33 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ13 ・私は王様!」(傲・arrogance)
2018年12月 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「傲」と書かれている。

現代人のほとんどが、自分のことを、かけがえのない、世界でたった一つの花だと思っている。そのような歌も流行した。現代人は、自分のことを王様又は女王様のように錯覚し、うぬぼれて、傲慢で、孤独である。すべては自分のために存在し、自分がいなければ世界も存在しないと思っている。今やこの星は、『星の王子さま』の中に出てくる王様のように、バラバラの、70億の王様しかいない星なのかも知れない。自分を王様と錯覚した人々は自分の真の姿に気づこうともしない。なぜなのか?
古代ローマの喜劇作家プラウトウス(BC254~BC184)の言葉「すべての人間は己自身を愛す」(『断片』より)、「人間は人間にとりて狼である」(『アシナリア』より)は真実なのか?
ルオーも語っているように、人間は自由な王様などではなく、囚われの奴隷である。人間は権力やお金や名誉や悲惨や良心や愛の奴隷なのだ。

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ12」(愚) 作品232

2019-01-05 08:53:30 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ12・われらは皆愚か者」(愚・fous)
2018年12月 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「愚」と書かれている。

この副題「われらは皆愚か者」はルオーの版画集「ミセレーレ」からの引用である。ルオーは「愚か(fous)」(「fosu」はフランス語でフと発音し、「気が狂っている」という意味)という言葉で戦争の狂気を表したが、わたしは、人間の行為の中で最も愚かな戦争のことはもちろん、人間の本生であると思われる利己主義的な行為や、戦争の原因を死の商人に責任転嫁する良識ある人々に対しても「愚」と言っているのだ。悪政に対して怒り心頭に達するのは、わたしもそうだが、同じ人間同士が、信念の違いや利害の対立でいがみ合う姿は狂気の沙汰である。正義はわれらにあると思い込む政治家は最も醜く愚かである。政治は大事だが、政治だけでは人間の問題は解決できないだろう。愚か者たちの行き着く先は殺し合いである。

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ11」(涙) 作品231

2019-01-04 09:42:09 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ11・荒地に雨が降る」(涙・tear)
2018年12月 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「涙」と書かれている。

ミュージカル「レ・ミゼラブル」の中で歌われる、エポニーヌとマリウスのデュエット、「恵みの雨(少しの雨)・A Little Fall of Rain」から連想されこの言葉が書かれた。その歌の中で、雨と涙に濡れたマリウスに抱かれながら死にゆくエポニーヌの歌う「安らかだわ、いつも雨は花を育てるわ」「雨は過去を洗い流すでしょう。安らかだわ、居てね、そばに、抱かれて眠るわ、めぐりあえたこの雨・・・・・・」をイメージ化したものといえるだろう。ふたりの流す涙は降る雨と融け合って愛の花を咲かせる。センチメンタルでロマンチックな作品である。
ピカソに「泣く女」という作品がある。これは西洋伝統の「悲しみの聖母」のパロディーと思われるが、このピカソのモチーフは、最初、ピカソの「ゲルニカ」の習作として描かれ、ゲルニカ完成後に「泣く女」という独立した絵としても完成された。ピカソの「泣く女」制作の動機は不純な俗っぽいものであったと推測されるが、結果的には「悲しみの聖母」に表される、普遍的な宗教的悲しみに到ったと思われる。聖母マリアの流す涙は世界を救う愛の涙の象徴である。とわたしは感じる。
わたしの作品の背後には、深いところで、悲しみの聖母と、わが母の涙が重なり合って、雨のように荒野に降っているのである。


春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ10」(荒) 作品230

2019-01-03 11:18:24 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ10・種の蒔きがいがあるというものだ」(荒・wasteland)
2018年12月 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「荒」と書かれている。

ジョルジュ・ルオーは、版画集「ミセレーレ」で彼の生まれたパリのベルヴィーユ(当時は貧民や娼婦の街だった)を「悩みの果てぬ古き場末」と語っている。そしてそこは、彼にとって、人間が生きてゆかねばならない人生の象徴でもあったようだ。版画集「ミセレーレ」のテーマは「生きる苦悩」と「愛による救済」であるが、しかし愛による救済はほとんど行われないのが現実である。「ミセレーレ」第22番でルオーは「さまざまな世の中で、荒地に種播くは美しい業」と語っているが、「荒地」は、彼の生まれたパリの街であり「罠と悪意のこの世」のことである。彼にとって、種を蒔くとは「愛すること」であり、また作品を「描き続けること」でもあった。
「種蒔く」は、「マタイによる福音書・13章」などの聖書に出てくる言葉で、種蒔くとは、神の言葉を広めることを意味する。ジャン・フランソワ・ミレーやゴッホが絵に描いている。また日本の社会主義運動などで単純化され利用されもした言葉である。教会などでの聖書の解説では、愛の種を蒔くというよりも悪意の種を蒔いているとしか思えない牧師などがいて、とんでもない事ではないか!と、わたしは嘆いたりしている。
わたしはルオーと同じく、荒地に種を蒔くことこそ神の愛だと感じて、この作品を制作したのだ。

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ9」(辱) 作品229

2019-01-02 10:21:20 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ9・命より重いものがある!」(辱・shame)
2018年12月 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「辱」と書かれている。
 
新約聖書の「ヨハネによる福音書」第12章24~25節に、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」とある。第19章~20章には、キリストの死と復活、死に対する愛の勝利について語られている。
また、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の中で、「人々が歌うのが聞こえるか?」を歌いながら、後につづく者を信じ、自由のために死んでゆく労働者や学生や子供たちに共感してこの言葉は選ばれた。また「少しの雨」を歌いながら死んでゆくエポニーにも。
3.11の頃、「絆」や「心ひとつ」などのきれいな言葉が流行したが、これらの言葉は偽善者の言葉ではなかったか。一人一人がバラバラの個人の集りに過ぎない日本国においては、絆など生まれるわけがない。心が一つになる筈もない。その願望は分かるが、政治的に仕組まれた嘘であるように、わたしは思う。「生きてればいいいさ」という言葉も歌などで流行していたが、これは、頽廃以外の何ものでもない感性だと、わたしは感じる。いのちは大切なものではあるが、母の無償の愛は死をも乗り越えてゆくだろう。

春野かそい記念館 Haruno Kasoi Museum 「ミゼレーレ8」(戦争) 作品228

2019-01-01 11:28:26 | ブログ

春野かそい書「ミゼレーレ8・明日になれば忘れるさ 愚か者たち」(戦争・war)
2018年12月 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「戦争」と書かれている。
 
忘れるのも生きる術

(個展「ミゼレーレ」図録より)

人間の行いのうちで最も愚かで救いがたいものが戦争である。戦争には人間の弱点のすべてが集約されている。人間はいつ頃から戦争を始めたのだろうか。イブがサタンにそそのかされてリンゴを食べ、子を産めるようになって、兄弟が産まれ、その兄弟が殺し合ったという聖書の記述は人間同士の戦争のはじまりを象徴しているが、戦争は、知性のある動物(特に人間)の宿命なのかも知れない。わたしは、自己の内の深部に戦争の芽があることを感じる。その芽を摘み取るにはどうしたら良いのだろうか。平和を口にする呑気な人達が、自己の内の暴力に気づいていないとしたら、それは愛国主義者よりももっと恐ろしい結果をもたらすだろう。それでも、わたしは戦争に反対する本能的な叫びに共感せずにはいられない。孤独な人は、何千年も前に、戦争の虚無を知っていたが、今頃になってやっと多くの人類がそれに気づき始めた。いつの日か、人類の犯して来た戦争がなくなり、遠い記憶となって忘れ去られる日が来ることを祈らずにはいられない。第三次世界大戦の跫音の聞える日々に。
人間の傷を癒すものはなにか!
十字架は永遠なのか!

春野かそい書 「日本国憲法前文」

日本国憲法前文