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名前のない足跡

独り言や思考の日記。

SNSの人間関係

2025-01-16 02:28:05 | 日記

昨日、一度会って遊んだこともあるSNS上の友人からブロック解除されていた。

元々彼女は忙しくて疎遠になっていたけれど一昨年、年賀状を私から出したのが最期になった。

それでもLINEであけましておめでとうの挨拶を交したし、交流があった時は数回ほど会って一緒に居酒屋で雑談したり映画を見たりした。

友人との別れというもの、というよりSNSの交友関係ほど悩まない人を年層問わず見てきた私は友人のなかには、幼なじみから酷い縁の切り方をされたという相談を受けた友人もいる。

そうならなくてよかったと思うし、好きなものも違っていたのもあると私は思っている。

けれど彼女を恨んだり悲しんだりしていないし、むしろ楽しい思い出だけが残っている事に感謝をしたい。

彼女とは、本や映画の話もたくさんしたし、一緒に古着屋を見たり心残りに悪い印象のない事だけが残っている。

しかし今思うと微妙に遠慮しがちな部分がお互いにあったと思う。

これは悲しみではない。

彼女は当時美術大学に通う大学生だった。

年明けから卒業制作にともない、忙しくなると少し寂しそうに笑っていた。

彼女と親しくなったのは彼女がまだ高校生の時で、きっかけは江森備の「私説三国志 天の華・地の風」の大ファンである私のSNSアカウントをフォローしてくれた事だった。

リプライでやりとりをしていくうちに親しくなり、LINEを交換してからはほぼ毎日、同じ熱中している事の話だけではなく日々の何気ない会話も楽しんだ。

彼女が課題で制作した作品も見せてもらったり美術展に行った時の作品の写真を見せてもらったりもした。

進撃の巨人を私がすすめてからは一緒に熱中し、アニメの感想を交したり彼女がイベントに出たりしたこともあった。

(彼女の本は2作品とも持っている)

だから縁が切れても彼女の進撃の巨人の同人誌が手元にあるし、美しい思い出だけが残っている。

私が同人誌を出した時も手伝ってくれたし、今でも表紙絵と挿絵が本当に美しいと思っているし感謝している。

SNSの人間関係こそリアルよりも狭いけれど、喧嘩別れではなかった事がよかった。

もしそうだったら、わだかまりが残り彼女に対して偏見しか残らなかったかもしれないから。

これからはお互い生きていく道は違くとも、彼女の生きていく道をそっと心の中で応援したいと思っている。

もしかしたら、またいつかどこかで縁が巡ってくるかもしれない。

それは分からないけれど、もしそうであればいいな、と今だけは少し余韻に浸る事を許してほしいと思う。

Oasisの「Stop Crying Your Heart」にこんな歌詞がある。

「僕らもみんな星なんだ

みんな消えていくけど

心配しなくていいんだよ

いつかきっとまた会える」

この歌詞を彼女との美しい交友の思い出に捧げたいと思う。

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自己分析 2

2025-01-13 04:17:07 | 日記

前述の記事で自分の性格の自己分析を記述したけれど、自分の性格の大半を占めているのはどちらかといえばネカディブ面の方が多いように思う。

特に自責の念は、他人が気にしていないと言っても「傷ついたと言うと気にしてしまうから言っているのだろう」という最低な思考回路に陥る事がある。

「お前のせいだ」という「呪い」の呪縛に縛られ続けてきたせいで、「ああやっぱり自分は失敗したのだ」となりやすい。

沖さやかの「マイナス」という漫画がある。

ストーリーは主人公の恩田さゆりが「嫌われた」と思い込むとどんな手もいとわず暴走してしまうという物語だ。

あそこまでは行き過ぎないが、「嫌われた」と思い込むとどうにしかして相手に謝罪しなければならない、という思考の面では恩田さゆりとは正反対だが変らないところがある。

自己肯定感の低さも、この思考に関しては関係している。

母親に「生まなければよかった」と言われ、「私だって望んでいなかった」と11歳か12歳の頃になると、周囲の世界が灰色になった記憶がある。

この頃から、振り返ると同級生や他の人間に常に怯え、気をつかい「すいません」が口癖になり身を小さくして踏み潰される羽虫のように生きていた気がする。

もちろん長年の友人は「謝罪の頻度の必要性」についてアドバイスをくれたが、それでも癖になっているような気がするのだ。

「自己を省みて、反省をする」という行為ができない人間が世の中には沢山いる。

それに比較すれば、と強迫観念のようになっている気がする。

もうこれ以上、なにをこれについて書けばいいのかわからない…。

 

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自己分析

2025-01-13 03:01:43 | 日記

このテーマについて、あまり触れたくなかったのだけれどそれではこの日記をはじめた意味がないので書くことにします。

自分の性格を自己分析してしまうと、あまりにも自分の醜悪さに気付いてしまうのが怖いからだ。

それでも、なにかの物事に対して向き合わないよりかはいいと思う。

ポジティブ面

・何か一つの物事に対して集中し、研究できる

・困っている人に手を差し伸べられる

・人を傷つけた時などに自己内省ができる

・読書が好き

・比較的冷静沈着に問題解決に向き合える

・中立的思考ができる

・人のアドバイスを聞ける

・メンタル面が落ちた時に頼れる長年の友人がいる

・父にメンタルの具合が悪いから夕飯の支度ができないと素直に話せる(最近自己発見した)

・音楽に詳しい

 

ネガティブ面

・常に誰でも良き自分であろうとする

・酷くショックが出来事が起こると、アルコールに過度に走り「自分なんか早く消えてしまえばいい」と自己破滅願望にかられる

・自分なんて、自分なんかという自己肯定感の低い思考になる

・疑心暗鬼にかられると、人を信用できない

・DVをされても「黙っていれば終わるから」と自己防衛の仕方をできなくなる

・常に「自分のせいだ」という思考は謝らなければいけない場面に直面した時謝罪ができない人よりはできる人間の方がいいと思っている

・「自分のせいで誰かに迷惑をかけた」という思考が不当な理由で他人に過度にせめられた時に消えない

 

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愛というもの 2

2025-01-11 03:07:27 | 日記

「ぽるとがるぶみ」は17世紀のフランスでポルトガルの修道女であるマリアンナに対して彼女を置き去りにしてフランスに帰国した士官のシャミリーに対してマリアンナが書き送った五通の手紙をシャミリーが見せびらかし、嘲笑し、のちに小冊子にされフランス国内で書簡文学としてヒットしたものである。

シャミリーははっきり言ってしまえば、最低な男だ。

幼い頃戦火を逃れるために修道院に預けられ、それ以来俗世と無縁になった神に仕える清純な乙女の心を持て遊び、破壊したのだ。

信用性に欠ける事で有名なサン・シモンにさえ軽蔑されるほどの男とはどれほどのものなのだろう…。

とにかく、マリアンナは彼がポルトガルに滞在中に恋に落ち、シャミリーは彼女の手紙によるとフランスに連れて行き結婚の約束までしたらしい。

最初の手紙の中では、マリアンナはまだシャミリーに対して愛憎が混在し、シャミリーが自分に手紙をくれると信じているのが分かる。

3通目くらいから、マリアンナはだいぶ塞ぎ込んでしまい、修道院長のすすめで散歩をしたりするようになっている。

そしてとうとう5通目では、シャミリーが彼女に愛の証として贈った腕輪などの贈りものと手紙をともに送り「さようなら、さようなら、もう結構です!充分です!さようなら」と結ばれている。

もしシャミリーが誠実な男であれば、この名作は生まれなかったかもしれない。

福島とマリアンナはどちらも振り回され、傷つく恋をしているのに前者は引きずっているが、後者は気持ちに整理をつけているところである。

時代背景や状況が違うと言われればそれまでだがマリアンナは信仰の道に再び見失っていた自分を見いだす事で救われたのだろう。

そこが、ルイ14世の愛妾であったルイーズ・ド・ラヴァリエールと似ているのが面白い。

マリアンナとシャミリーの二人と似たような話といえば、ルイ14世の王弟であったフィリップと彼の愛人のシュヴァリエ・ド・ロレーヌが理由はともあれ修復不可能な痴話喧嘩になった時にシュヴァリエはフィリップに「もう三ヶ月も口をきいてくれない、理由も話してくれないし、私は何をしてもつまらないし、眠れません。いい加減にしてくれないか!」という内容の手紙が実際に残されていて、文字のところどころが涙なのかインクによるにじみなのかは分からないが滲んでいる。

この二人は「Versailles」という歴史ドラマでも時にシリアスに、時にコメディチックにフィクション寄りの描写だが私も大好きなドラマでメインキャラクターである。

歴史的に記録されているシュヴァリエの手紙を何通かに目を通して、「駄目だよシュヴァリエ、すぐに腹を立ててあなたに真摯に向き合わないような男なんて一緒にいても居心地が悪いだけ、早く彼から離れたほうがいい」と何度も共感した。

それでも彼はムッシューに縋り、痛切な気持ちを綴り、訴え時にインクが滲んでしまうほどの心を文字に込めた。

ムッシューはもしかしたらシャミリーがしたようにそんなマリアンナのような心を書き綴った手紙を他の愛人たちに見せびらかして嘲笑したかもしれない。

300年前の男に、私はひどく共感し、共に泣き惹かれてしまう。

勇敢で、無下にされようと一人の男を愛し続け、誰よりも尽くしムッシューの死を正妻よりも悲しんだあなた。

私が元恋人に対し「まあ、せいぜい頑張ってね!」と気持ちに整理をつけられたのはまさしくあなたのおかげなのだ。

いつかシュヴァリエに関する研究本が日本でも出たら買いたいと思う。

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愛というもの

2025-01-11 02:27:52 | 日記

ずっと積読していた福島次郎の「三島由紀夫 剣と寒紅」を読み終わったので、なぜか佐藤春夫の「ぽるとがるぶみ」を読みたくなり急いで注文して一昨日、一日で読み終わってしまった。

どちらも報われない愛について綴られているが、前者が三島由紀夫に対しての「悲哀、愛憎、尊敬、空虚」が感じられるのなら後者は「悲哀・軽蔑」で成りたっている。

「剣と寒紅」の著者である福島次郎は群馬県出身の高校教師をするかたわら文筆業にもたずさわり「バスタオル」「蝶のかたみ」「現車」といった名作がある。

彼は三島由紀夫の愛人であったが、三島は彼に対して瑶子夫人との結婚後は自身が同性愛者である事を恥のように振る舞い、福島は言葉に表せない程傷付いたそうだ。

三島は人間的には不完全でも、小説家・思想家としては一流である。

瑶子夫人も、周囲にも三島が同性愛者である事はとっくに気付かれていたのではないというのは私も福島と全く同じ意見だ。

福島は自身と三島の「破局」について目に見えない何かが二人をすれ違わせてしまったのだろうと分析していた。

福島次郎は、内容が内容だけに遺族に訴訟されてもいるのだがこれだけの心情を本にして出版するのは相当な苦悩があったものだと思う。

ところどころの行間から、「三島さん、死ななくても良かったじゃないですか。同性愛者だと後ろ指をさされても気にしなければよかったじゃないですか。どうしてそんなに周囲を怯えていたんですか」という悲痛な嗚咽が聞こえてくるようだった。

私自身も、苦しい恋を二度も経験している。

福島次郎の晩年を思うと、空虚感にかられる。

あの市ヶ谷の事件と、三島に「捨てられた」という男の悲哀が胸を打つものがある。

三島がもっと自分に素直であれば、福島とも晩年は穏やかに過ごせたのはではいと思ってしまうのは私の勝手だろうか。

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