更年期の箱の中

更年期の毎日の中で思うことなどを書いています。

お米パンと発達障害グレーゾーン

2023-01-16 17:18:15 | メンタルヘルス

週末のお昼ご飯は、パンを食べることが多いです。食べるパンは決まっていて、某ショッピングセンターに入っているパン屋さんのお米パンです。このお米パン、ずっしりとしていて、噛みごたえと程よい甘さに優しい安心感があります。

私はパン屋だけでなくレストランでも、「このお店ではこれ」というものが決まっています。多分、初めて行った時に選んで食べたものが美味しければ、「このお店ではこれ」が決まるので、それで安心してしまうのだと思います。季節限定とか新商品とかに手を出すことはまずありません。メニューであれば他のものにも挑戦したり冒険したりをほとんどしません。

ちなみにお店も限定的になります。お米パン屋はここ、このパン屋ではドライイチジクが入った全粒粉のハード系パン、インドカレーはここ、お蕎麦はここ、などなど。オリジナルのマイルールがあって、例えば出張で他都市に行った時はどうするのかと言えば、49年も生きてると大体のジャンルのレストランを経験してるので、ジャンルごとに頼むものリストが頭に入っていて、そこに当てはまるものから選びます。当てはまるものがなければ、謙虚に謙虚に謝ってお店を出ます。リストに無いものを食べると落ち着かなくて頭が暴走してしまったことがあるので、それを回避するため仕方がないのです。それでも年齢とともに頭の中のリストが充実してきたので、一旦入ったお店を出ることは最近ではありません。これでもだいぶ良くなった方だと思います。

選ぶものや頼むものに悩むことはないのでとても効率的!と本人は思っているものの、その反面、つまんない人間だなと思うこともありました。

つまらない人間といえば、私は小中学校の時から几帳面だったり時間厳守を徹底していたり、忘れ物や物を失くすこともなく、それができない同級生に寄り添うことも共感もできないタイプの本当に可愛げのない子供でした。

同級生たちと血液型の当てっこが始まると、「絶対A型だよね」と私が答える前に確定しました。両親も弟もA型のA型家族、もちろん私もA型で大正解なのですが、それがいつからか「あなたはつまらなそうな人」と言われていると感じるようになりました。その後、高校に入ったくらいの時でしょうか、初見でA型だと当てられないようにするという行動改革を開始しました。目指していたのは”O型”です。O型っぽい感じを自分なりにイメージして、抽象的な表現になりますが、A型の角を取りたいと、当時は切実に願ったものです。

どんなことをしていたのかというと結構くだらなくて、例えば試験や行事の準備とか、もうとっくに準備万端でスケジュールも全て把握しているのに「全然何もしてない」と言ったり、知っていたりわかっていたりすることも、他の人の発言を待つようにしたり、社会人になってからは、自分一人でやれるかやりたいことも人にお願いしたり頼ったりすることを努力してできるようになりました。つまり、行動改革なんかではなく、周りを見ながら公約数的なコミュニケーションが取れるようになった(と本人は思っている)ということです。

それが功を奏してか、30代では「A型かO型?」と疑問形になり、40代以降はまず「O型でしょう?」と言われます。血液型による性格の分類自体にはそもそもあまり興味がなく、それ自体に特に意味はないとも言われていますが、これは血液型どーのこーのの話ではなく、私が無知ながら自分のアスペルガー傾向に気づき、このままでは周りの人達と上手くやっていけないかもしれないという危険を察知し、自分の特性をマイルドにして、限定的な側面だけかも知れないけれど、少しでも生きやすくなろうと頑張った軌跡として記しておいても良いのでは?と思いました。

ちなみに、私は発達障害の診断を受けた訳ではありません。人生の様々な局面で生きづらさを感じ、自分の考え方の傾向やパターンを自分なりに整理してみたその延長線上で、ASD・ADHD・パーソナリティ障害について調べました。その中に思い当たるふしがいくつもいくつもあったので、定期的に受けている心理カウンセリングの中でテストをしてもらいました。その結果、いわゆるグレーゾーン呼ばれるところにあるようです。こういった特性は、年齢とともに落ち着いて行くのだそうです。40代になって、自分のことを少しだけ客観視できるようにもなったので、これからの人生をどうにか穏やかに生きるために、もう一踏ん張りしたいと思います。

 


ウィーンのジェットコースター

2023-01-14 20:52:00 | 日記

ウィーンについてです。とは言っても、私はこの十数年は出張以外では海外に行っていないので、「あそこに行った」「あそこのあれが美味しかった」的な旅行記みたいな話は出てきません。

遠くに住む娘が、年末年始にボーイフレンドとプラハからウィーンを旅してきました。プラハからウィーンへは電車で行くと聞いて、クリスマス頃に「ビフォアサンライズ 恋人までの距離」を観たばかりだったので、あの電車に乗るんだー、なんて羨ましい!と正直に思いました。

娘が正にあの電車でプラハからウィーンへ移動している頃、私はデジカメとiPhone以前の写真をまとめて収納している箱を漁っていました。

ちょうど20年前、母と私と娘の親子3代でウィーンへ行ったことがあります。当時はまだ3歳だった娘の記憶には、あの旅の視覚的な思い出は残っていないはずなので、写真を見つけてLINEで送ってあげたかったのです。

私の両親には毎年ウィーンフィルハーモニーのニューイヤーコンサートをテレビで観る習慣があって、ウィーン学友協会ホールを見てみたいという母の憧れを叶えるために企画した旅行でした。それなのに、当時のインターネットはADSL回線(だったはず。)事前リサーチ情報も最新のものではなく、私はドイツ語がよくわからなかったので、いざ現地に着いてみたらウィーン学友協会ホールは工事中で中には入れず、建物の外から雰囲気を感じ取ることしかできませんでした。母は「それはそれ」として、それ以外の観光をそれなりに喜んで楽しんでくれました。母は現実をそのまま受け入れて、私だったら残念な気持ちを自分の中で処理できず、不平不満をタラタラと吐きながら周りに八つ当たりしているはずのことも、「まぁいっか」と切り替えることがとても上手な人です。それは母の遺伝子情報に刻まれていて、私には頂けなかったものなのか、私にも頂いているのに活性化できていないだけなのか、はたまた母が彼女の人生の経験と訓練の中で培ってきたものなのか、まだわかりません。

写真の話に戻ります。探していた写真はすぐに見つかりました。母が小さなアルバムに一枚一枚美しい文字で場所とその日の感想を添えて整理してくれていたので助かりました。被写体は主に観光名所の前でポーズを取る3歳の娘でした。それらの中からいくつかピックアップした画像をデータにして娘に送りました。

後日、ウィーンを発って欧州の別の街へ帰る途中の娘から、当時3歳と現在23歳の彼女が同じ場所と構図でポーズを取る画像のコラージュが送られてきました。胸がキュっとなりました。あの親子3代の旅行後の20年間は、アップダウンと急な右左折と旋回を繰り返すジェットコースターライドのような時間だったな。今回の旅で、娘は私に連れられて乗ったジェットコースターをやっと降りることができたんじゃないかな。そうだといいな。母のとも私のとも違う道を行って、この後しばらくはどうか三半規管に優しい時間を過ごしてほしいな。母の「まぁいっか」遺伝子は、私を飛び越えて娘に受け継がれているといいな。そんなことを想いながら、母にもコラージュ画像を転送してあげました。

 

 

 


メタファーとしてのライアン・ゴズリング 続き

2023-01-12 12:46:31 | 映画・ドラマ

 前回はライアン・ゴズリングが私にもたらしてくれる”濃い異文化中和効果”を発見して、節目にライアンを注入しているという話をしていましたが、ここでは「ブルーバレンタイン」のライアンに着目したいと思います。

 先月「メイドの手帖」を観ました。「メイドの手帖」では、主人公アレックスの夫のショーンが出てくると、「ブルーバレンタイン」でライアンが演じたディーンが重なってしまって、何なら名前の語呂も似てるので、ショーンの人物像がぼやけるようにさえなっていました。私の脳内の記憶領域で、ショーンの情報を既にディーンの情報が入っているのと同じフォルダに入れようとしているような。これは40代になってから増え続ける現象で、脳内の情報処理がめんどくさくなっているのか、新たに取り込もうとする情報に過去の何かとの類似性を検知すると、私自身の認識できていないところで脳が勝手に情報を仕訳して同じところに”重ねて”収めようとするのです。とは言っても脳の中は見えないので、そういう風に感じるという話です。

引き続き概念の話になります。ショーンとディーン(ライアン)が格納されているフォルダは、どういう仕訳ルールになっているのかな?と、通勤バスの中で考えてみました。よくよく掘り下げてみると、そのフォルダには既存データが入っています。どうやら20年弱前のデータのようです。階層を一つ上がってフォルダ名を確認してみたらびっくり、なんと元夫の名前が書いてありました!そうか、そういうことだったのか。

どういうことだったのかと言うと、元夫は若かりし頃、ショーンとディーン(ライアン)を重ねて、それぞれのパートナーと離れる原因となった幾つかの出来事をもうちょっと悪く、うるさく、激しくしたことを何度もやらかしました。つまり2つの動画の二人の登場人物によって、過去に葬っていた記憶が刺激されてしまったのです。それでもDVとかアル中というキーワードだけで一括りにして切り離せないところもあって。小さな子供の存在も強い意味を持っていて。

元夫の名前が付いているフォルダの仕訳ルールは、強いて言えば、自尊心の輪郭が絶望的に薄れていく中で判断や決断をすることへの迷いと揺らぎ、それでも終わりにしなければいけないことを終わらせるためのプロセスを生きる苦味、かつて一度は自分の最大限の無防備を曝け出した相手ともう二度と一緒に思い出を振り返ることはないんだということを理解する痛み。身体的な痛みとは分離された、だからこそ記憶の中でとても鮮明な、固有名詞に収まらない、遠い日々のあの気持ちなんだろうな。


メタファーとしてのライアン・ゴズリング

2023-01-11 11:59:32 | 映画・ドラマ

今日は趣味の映画・ドラマ視聴についてです。

最近の趣味の一つとして、動画視聴のために幾つかのサブスクサービスを転々としています。私の動画視聴の癖というかパターンというか、気がついたことがあったので書いておこうと思いました。それは映画やドラマに深くハマった時の箸休めに、ライアン・ゴズリングを求めがちということです。

具体的なエピソードとしては、昨年夏頃に「エートス」というトルコのドラマシリーズに始まって、レバノンやイスラエルなど、映画やドラマを通して周辺国を巡る旅に出てしまいました。秋頃には「シュティセル家の人々」にどハマりして、架空の家族だと知りながら、Googleマップで毎日イスラエルのストリートビューを眺めて、黒い帽子とフロックコートのアキバの姿を探していたほどです。それから動画を通して垣間見られる中近東の国々の文化、特に食生活やインテリアにも見入ってしまいました。

そんな動画の中での海外旅行をしばらく続けていると、ライアン・ゴズリングが欲しくなるのです。

世の中、ライアン・ゴズリングが大好きな方々は数多いらっしゃると思います。私の場合は「ライアンLOVE!」という感じの熱量ではなくて、もちろん好きは好きなのですが、おそらく彼の声のトーンと所作に角がないところ、それがとても目と耳に優しくて、動画の趣向の区切りに注入したくなるのだと思います。

ライアン・ゴズリングの”濃い異文化中和効果”に気がついたのは「ラブ・アゲイン」を観た後でした。どこか掴みどころのない声と衣擦れみたいなシュルシュルと品の良い音がしてそうな所作。「ラ・ラ・ランド」でも「ラースと、その彼女」でも、演じた役のキャラクターは全く違うのに、同じ効果が得られました。もちろん、映画を見終わった後の余韻が心地良いというのも大切な要素なのかも知れませんが、一番最近に注入した「ドライブ」のサイコパス的な世界でも、ライアンはやはりとても高い精度で私の頭の中の環境設定をニュートラルな状態に戻してくれました。

 ライアン(の出演作)が不足してきたので、2周目に入る前のバックアップ対策として、同じ”濃い異文化中和効果”を発揮する他の俳優はいないかを考えてみました。普段動画はサブタイトルで見るので、声の質がとても大事です。期待していたフランス、スペイン、ドイツ他、ヨーロッパ諸国の俳優は効きませんでした。声の質と同等に言語の響きが重要なようで、ヨーロッパの言語は私の耳にはちょっと濃かった。ボリウッド全般も効きませんでした。そりゃそうです。私にとってボリウッドはガッツリ濃い異文化なことを忘れていました。結局その後に一旦ライアンの「ブルーバレンタイン」を注入しました。ボリウッドで目的を見失ったがために、またライアンが減ってしまいました。こうなったら仕方がないので、英語圏絞りでもう少し探してみます。


現実味を帯びた脈略

2023-01-06 15:50:27 | 日記

 暇な時にNetflixかU-NEXTかAmazon Prime Videoで動画を見ています。映画やドラマを観ていろんなことを考えたのでいつか整理したいのですが、今日は最近観た動画について。

 なんかサラリと観れてちょっと勉強になるやつを探していて、ラブ・オン・スペクトラムというドキュメンタリーシリーズのアメリカ版を観ました。自閉症を持つ人たちがマッチングアプリなんかでパートナーを探してデートをするのを追うドキュメンタリーです。私もADHDグレーゾーンにあるかも知れない説がつい最近浮上して、ちょうどその事実を頭の中で処理しているところなので、キーワード連想で興味をひかれました。

出会いから初めてのデートとか、2回目のデートはあるかな?無いかな?とか。生々しさがなくて純粋に応援したい気持ちになれるシリーズでした。生々しさとは、セックスとか駆け引きとか、はたまた家庭とか家計とか生活とか、語弊を覚悟で書いちゃうと、障害がある人たちという括りが前提にあるものだから、カップルに紐づいてくる現実味を帯びた脈略から切り離して観ていて、それが楽だったのかも知れません。そんなことを考えていたら、登場人物の中で私が一番応援していたケイリンが、元カレに「障害が重すぎるから都会に住んだり子供を育てたりすることが一緒にできない」と言われて振られたと話していて、ひっどいヤツだな!と思ったのと同時に、私も同罪だと気がつきました。

友達とマッチングアプリを見ながらこの人がどうとかこうとか話したり、初めてのデートの後にハグしていいか聞いたり、初めてのデートでキスはしないと宣言したり、そういう初々しいエピソードにハマってしまったものだから、少し羨ましくなっちゃったのでしょう。「マッチングアプリかぁ、いいなぁ、やってみようかな」という気分になってしまいました。しばらくそんなフワフワした感覚を楽しんだ後に、既婚者だったことを思い出して我に返っています。ちゃんと返って来られて良かったけれど、この瞬間的な記憶の欠落も更年期障害の症状なのでしょうか。。。こわいこわい。