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3月26日~3月29日/ カトマンズからデリーへ
昼の便でデリーへ向かうので、それまでにブラブラとバザールを散歩します。
そこで購入したのが下の写真のタペストリーで、現在は我が家のリビングの壁に飾ってあります。 買ったのは購入係の兄で(実質的な交渉の大半はワシがやりました=買う気満々の兄に対し『こんなのつまらないからいらない』と説教する役&『こんなチャチイ作りじゃダメ』と店のヲヤジにケチをつける役&最後に『じゃあ、イクラだったら買ってやってもイイ』と言う役)長いこと実家に置いてあったのですが、いつの間にか我が家に移動しております。 非常に丁寧な作りで写真では分かりづらいのですが端正な顔立ちのコイツは、はっきり言って今回の旅で唯一のヒット商品でした。

このバザールをぶらついている時にMサンという日本人の少し上等そうな方が声をかけてください、なんと同じ便でデリーへ飛ぶということが分かり、何となく嬉しい気持ちで道中をご一緒させていただくことになりました。
そしてデリーの空港ではMサンの友人のインド人(日本語勉強中)が出迎えてくれたので、彼の案内で紹介してもらったのは、ニューデリーのハズレのGreen Park(ベタな地名)にある「Hotel Satkar」です。
交通は多少不便ですが、清潔だし落ち着いたホテルですが、信頼できるインド人の紹介というだけで何となく安心です。
夜はみんなでコンノートプレイスという繁華街で食事をして、久しぶりに少し知的レベルの高い話を楽しめました。
さて明けた翌日は、クトウブ・ミナールとかクワット・ウィモスク(← メモ丸写しなのでどこか分かりません)とかを兄と観光でまわったのですが、午後は兄は調子が悪いといって一足先にホテルに帰りました。
ワシは仕方がないのでリキシャと交渉して時間借りでオールドデリーからニューデリーあたりを散策します。
ところが、ニューデリーの官公庁街へ行こうとしたら、リキシャのヲッチャンがここで下りろと言い出します。 時間借りだろうと言ってもダメで、どうやらリキシャが入れないエリアのようでしたので、まあいいやということで後は歩いて行動します。

宿へ帰ると兄が発熱と下痢で苦しんでいるのは予想通りで、額に当てたタオルを取り替えてやると気持ちがよいというので朝4時くらいまで看病をしておりました。
当然のように兄はそんなコトは覚えていませんので、お礼も言われていませんが心が広いモードに入っているワシは気にしません。
そんな兄ですが看病の効果もあり(?)翌朝には唐突に回復します。
そして、農学部の学生である兄は農業地帯の見学に行くと言い残してオトートを残して出かけてしまいます。
残されたオトートはオールドデリーを散策することにして、ガンジーメモリアルとか巡っていたのですが、いつの間にか変な城塞の遺跡っぽいトコロに迷い混んでしまいました。 焦ったワシはかなり強引に壁をよじ登って抜け出した記憶があります。
実はこの日はもうひとつの使命(← 最初の使命ってナニ?)がありまして、秘蔵のジョニーウォーカー(赤)とヘイグの2本を売り捌かなければならないのです。 おみやげ屋に入りねばり強く交渉すればいい値段で売れるので、たいした交渉力は不要なのです。
しかし、ちょっと考えると店の奥の部屋に連れ込まれての交渉でしたから、後ろからアタマを殴られて身ぐるみ剥がれることだってないわけじゃないのによくやりましたねぇ…怖いモノしらずということなのでしょうか?
ちょっと話は飛ぶというか、この交渉の時とかもそうだったのですが、旅行中は「空手や柔道はできるのか?」と時々聞かれました。 日本人はすべからく空手や柔道の達人と思われていた時代でした… ちなみに中高時代は体操部だったワシは2メートル超の高さのモノを蹴れるフライングハイキックが出来たので、空手の達人の振りをするため何回か披露してさしあげましたよ(笑)
その技のせいでもないでしょうが、結局、仕入れ値US$11.5(2500円くらい)を275RPS(7000円くらい)で売ったのでソコソコの儲けデス
ちなみにバックパッカー伝説では日本の100円使い捨てライターは高く売れるというので父親がアメ横辺りで10個くらい買ってきてくれたのですが、これは全くの不人気でした。 どうやら100円ライター再生システムというか、石とガスを交換してのリサイクル体制がしっかりしているのが理由らしかったのでした(笑)
そうそう、このホテルでも近所のガキになつかれまして頻繁に部屋に遊びに来てました。
ワシは基本的に子供は嫌いなのですが、兄がチヤホヤするのでつけあがりやがります。
「もう夜遅いから帰れ」
とか言っても、
「OK、OK、ノープロブレム」
とか言うばかりです。
兄はというと、
「具合が悪い…」
と言って、寝てるだけです。
ワシとしては、ヒトリでデリーの町を結構隅々まで探検&堪能したので楽しい3泊4日だったのですが、大半の時間をホテルの部屋で過ごした兄にはどんな思い出が残っているのでしょうか?
そして次回はいよいよ最終回デス!
【インドで考えたコト ⑤】
この旅の時点では兄20歳、オトート18歳ということで、我が兄弟は所詮は世間知らずの若輩者であったのです。 我が兄は昔から長男故のイバリン坊なのでオトートには常々偉そうに説教をしたがる傾向があるのに加え、オトートが兄のためにナニかするのは当然、ましてインドに連れてきてやったのだから言うことを聞くのは当然であると考えています。
この旅で出会ったり、旅の一部を同行した人々は、ある意味百戦錬磨の強者達なのですが、(ワシへの体面があるので)見栄っ張りの兄は一所懸命背伸びして対応しようとします。
そんな兄のやりとりを端でみていると実に面白かったというのはさておき、そんな皆様は
「オトートは苦労してるよねぇ」
「まあ、いつかアニも分かってくれる(かもしれない)よ」
「お前の兄貴、オトートがいなけりゃどうなってんだろなぁ?」
などとコッソリと励ましてくれたりします。
今考えれば、百戦錬磨の強者と思っていた当時の彼らも今のワシからみたらモノ知らずの無謀、且つ見栄っ張りの若者達なのですが、うまく年齢を積み、且つ道をハズしていなければ素敵なヒト達になっているに違いありません。
そんな30年後のコトなど全く想像もしていなかったのでかかる先達の行動をみて、
「彼らと同じような方向性で人生を過ごすのはあまり好ましくないのではないか?
楽しそうであるし、今回の旅も勇気ありのように見えるだが、大半のヒトは自分の人生のベースをしっかり持っているので社会復帰も計算に入れているのだろう。
まあ、Oサンは別にして、日本に戻ればキチンとサラリーマンとかになるのだろうなぁ…
確かに知らないモノを知ろうとすることは大事だし、若い頃にしかできないことも一杯あるのだろうけど、そんなのに誤魔化されてついウッカリと世界放浪の旅に出たりしないように気を付けよう!
う~ん、そうは言っても『世界放浪の旅』って憧れるよなぁ…」
などと、まあ、そんなコトを『インドでワシは考えた』のデシタ♪
(続く…)