2015年9月18日 沼島を16:20ごろ出発して、淡路島のオノコロ神社へ向かいました。 到着したのは約17:00。
第一印象は、 それにしても、大きな鳥居だな ~ です。 神様にこんな大きな鳥居が必要なのだろうか?
全体のバランスを見れば、ご理解いただけると思います。 右奥が社務所です。 次に手水舎、 左側には、
社名柱 真ん中の道の階段を進むと本殿という配置です。 それにしても、まだ十分あかるかったのですが、
駐車場には一台も車はなく、神社にも、社務所にも人影はありませんでした。
そこに、この鳥居 です。 どう考えたらいいのでしょうか。 神社全体は、コンパクトにきれいにまとまっているのです
が、、、、社殿の中でも社務所がより大きい感じですし、神社の規模からいったら思いのほか大きな駐車場です。
そして、この頑張っている感いっぱいの大鳥居。 何か、エネルギーを感じました。
気づくと、大きな看板がありました。 そこには、大鳥居の塗り替えご奉賛のお願いと、鳥居建立の概要が誇らしげに
示されていました。
どうやらこの神社は、神様のご意向というよりは、神様につどう人々の願いが厚く込められたエネルギーがある神社
という感じがしました。 この時間で、参拝者がいないのですから、よけいにそのことを感じます。
さて、お参りの順路は、真ん中の階段を進みます。
そして、正面の階段を上がると、右側にこの神社のメインのうり、「鶺鴒石」 (セキレイいし)があります。
鶺鴒(セキレイ)石のいわれが、左の小さな案内板に書かれていました。 この石の上に、つがいのセキレイが
止まり、夫婦の契りを交わしている姿を見て、伊弉諾命(イザナギノミコト)と 伊弉冊尊(イザナミノミコト)は夫婦
の道を開かれて、国生みをされたといわれています。 現在でもそのセキレイのしぐさを、神前結婚式に象徴的に
あらわしているのが、三、三、九度だそうです。 え!~ そうなんだ!~ 恥ずかしながら、初めて知りました。
さて、ここで、二つの疑問が生じます。
一つは、古事記での国生み、神生みの話とセキレイがどう結び付くのか?
イザナギノミコトがイザナミノミコトに問ひて曰(ノ)りたまはく、「汝が身は如何に成れる」と曰(ノ)りたまへば、答へ
たまわく、「吾(ア)が身は成り成りて成り合はざる処一処在り」とこたへたまひき、ここにイザナギノミコト詔りたまはく
「我(ア)が身は成り成りて成り余れる処一処在り。故、此の吾が身の成り余れる処を以ちて、汝が身の成り合わざる
処に刺して塞ぎて、国土を生み成さむと以為(おもう)ふ。生むこと奈何(いかに)」 とのりたまへば、イザナミノミコト
「然善(しかよ)けむ」 その後、天の御柱を右回り、左回りでまわってまぐはひをした。と若いころは何かワクワクして
呼んだ覚えがありますが、、そこではセキレイは出てきません。 すぐ気づくことは、セキレイは日本書紀に出てくる
事柄なのかなという事です。国生みとセキレイを書きネット検索すると即ヒットしました。 矢切通信というブログの
中で日本書紀とセキレイの関係が出てきました。 これで一つ問題解決です。
二つ目は、なぜセキレイ? なんだろうか? 他の生き物の方がよく見ることが出来るのではないかな?
セキレイは比較的身近にみられる鳥ですが、鳥の交尾までは見ることが難しいのでは? 自然観察の好きな人が
日本書紀を書いたのかな ? セキレイを見たのだから、海に近い所に住んでいたのかな? 単にセキレイの数が
多かったのかな? それとも、セキレイに注目した何か特別な意味でもあったのかな? など雑多に、、、?
私から見るとセキレイは、スマートな鳥で、素早い飛び方し、ユウモラスな歩き方をする鳥、位の認識しかありません
でした。 しかし、これもまた、困った時のネット検索をすると、あるブログ(但馬二千年桂)では、セキレイの 「白と黒の
配色がとても重要なことであった 」 とのことで、、ついには、鉄を作っていた集団まで出てきて話は広がっていきました。
リンク先を、ご一読ください。 二つのリンク先は、なかなか興味深いことを書いています。 世界が広がりますぞ!
さて、拝殿がなく、本殿の前に神楽殿という配置は、自分にとっては初めて見る形体でした。 拝殿がなくいきなり
本殿という形は、よく見かけるのですが、、、神様に舞を奉納することが重要視されていたのかな、、、
とても、コンパクトでスマートさを感じさせる神楽殿と本殿にお参りをし、あらためて由緒を読んでみました。
それには、日本の原点となる神社とうたわれていました。 しかし、それにしてはちょっと寂しかな。
この由緒書きの右側の奥に 御神木が大事に保管されていました。
左側の本殿横を通る小路を通って突き当りにあるのが、摂社の八百萬神社です。 ここには、伊弉諾命・伊弉册命
の御神徳をたたえて、ここにその御子神様をお祀りしているそうです。一度にすべての神様にご挨拶が
出来るようです。
きれいに整備されたこの神社に、人の姿が、感じられないのでよけいに、人の思いが感じられる神社でした。