今日は変則的なツアーで、まずはバスでサン・ピエトロ大聖堂に向かい、暫し見学の後コロッセオへ移動。そこから別ツアーでコロッセオとフォロ・ロマーノをじっくり見学。
スタートはいつも通りホテル近く。巨大なテルミニ駅の周りをぐるっと回る。昨日の朝もガイドさんが言ってたけど、ここが一番危険で、スリやヒッタクリが多発するので要注意との事。でも、昨日のガイドさんによると、「イタリア人は知らない人は殺さないので、ニュースでも殺人事件はほぼ有りません。」と。し..知らない人は殺さない??その感性も不思議と言えば不思議だけど、イタリアと言えば「マフィア」とか、超怖いイメージが有ったんだけど、なんか意外。どんどん、イタリア人の真面目さや常識的な所がクローズ・アップされてくる。
今日のガイドさん、日本人とイタリア人のハーフらしく、浅黒くて濃い~顔にサングラス。ご自分でも、とても日本人の顔じゃないと仰ってた。「しかも、吉岡ヨシタカって凄い名前を親に付けられちゃいました。」と笑いを取っていた。
バスの車窓から見える、サンタンジェロ城。
テヴェレ川を渡る時にいつも見える。城と言っても、ローマ皇帝の霊廟というのが主な役目で、途中から改装されて要塞となった。
今日も来ましたサン・ピエトロ大聖堂。流石に朝早いので人も少ない。
という事で、ガイドの吉岡さんと記念撮影。
やはりハーフ、濃いです。僕も日本では「濃い」と言われますが、彼と比べた日にゃ「ひらたい顔族」に属してると言わざるをえません。
ついでに、昨日の深夜のあの人の多さについて尋ねてみたところ、昨夜は、ローマの美術館という美術館がタダで入場出来る日だったらしく、みんな美術鑑賞をしてたんだと!なんて文化意識の高い国なんでしょう!!日本でそんなことやっても、夜中に街中が人で溢れるなんて事にならないだろな・・・。恐るべしイタリア。
大聖堂入口に有る「聖なる扉」。
もう、この辺りは昨日観た。でも、人が少ないので昨日よりのんびりと。
今日はミサが有るため、「ピエタ」の周りにバリケードみたいなのが張り巡らされ、遠巻きにしか見れなかった。
さて、いよいよ憧れのコロッセオに移動。今日はローマ市内でミニマラソン「KOMEN RACE FOR CURE MARATHON」が開催され道は封鎖されまくり。遠回りばかりさせられ、徐々に運転手さんイライラし始める。運転も荒くなり始め、堪らず吉岡さん「運転手さんの機嫌が悪くなってまいりました。シートベルトを締め、しっかりとおつかまり下さい!」とマイクで我々に注意勧告。(笑)
ここから吉岡さんに変わって角田さんがガイディング。
コロッセオの外観を写真に撮るのも忘れ、色々説明を聞く。当時は開閉可能な屋根が付いていた事、404年を最後に殺し合いのショーが無くなって無用の長物になってしまった事、考古学というコンセプトが生まれるまで、資材をここから取って行ったため現在の形になってしまった事、当時のローマ人の生活やコロッセオでの時間の過ごし方・・など、どれも興味深い話ばかり。
TVで何度も見て来た遺跡なので感動しないかも・・と思ったけど、ここは別格だった。
これだけの巨大建築物を頑強に作るためのアイディアを、残った遺跡を見ながら説明を受け思った。やはり、ローマ人凄いよ。いまだに、こうして残ってるんだもの。
地階が現在では露わになっている。向こう岸に少しだけ白いステージが復元されている。
ご覧の通り、ステージは楕円形で、現在の競技場の元になっている。かつては、全てステージで覆われていた。その下に剣闘士や猛獣が控えており、リフトに乗ってステージまでせり上がり、飛び出す仕組み。滑車のロープの溝などがまだ残っている。剣闘士はローマ帝国に敗れた国の奴隷で、自国の戦闘コスチュームと武具で戦わされた。相手(別の剣闘士または猛獣)が死ぬまで格闘は続き、良い闘いをした者には見物客達が親指を立てる。(これが現在の「Thumb Up」として欧米の習慣に残っている。) これで初めて生きる事を許され、晴れてローマ市民に昇格出来る。
「スゲー!」「デケー!」を連発する。
ここもかつてはカラカラ浴場と同じく大理石が敷き詰められた白亜の美しい建造物。その当時の状態まで復元すりゃいいのに・・と以前思った事があるけど、今はこの現状を見て、昔のその白亜だった頃のコロッセオを想像する楽しみってのを理解出来る。遺跡を見る時の最大の楽しみは「想像」なのだ。写真右端には地味に当時の水洗トイレが有り、ここでも細やかなローマ人の建築技術が光る。
コロッセオを始め、ローマ時代の闘技場は殺し合いを嫌うキリスト教の台頭と共に廃れてしまい、廃墟と化した遺跡には一般人が住みつき、1970年代頃まで、ツアーで行くと洗濯物が干してあったりしたそうな。(笑)
名残惜しいが、これでコロッセオともお別れ。フォロ・ロマーノに向かう。途中、先ほどのマラソンに巻き込まれる。フォロ・ロマーノの入り口からパラティーノの丘を上がる。ローマは「7つの丘の町」と呼ばれ、ローマの名付け親・ロームルスが都市を作ったのがこのパラティーノの丘だと言われている。ローマは当初湿地帯で丘の上に住むしかなかったのだが、領地を増やす必要に駆られ土木工事の技術が発展したと言われている。
「スタディオ」。
楕円形で乗馬訓練に使われていたらしい。当時の皇帝は身体もしっかり鍛える必要が有った。
ドムス・アウグスターナから眺めるサン・ピエトロ大聖堂。
建築物の多くは倒壊しているのだが、そのお陰でレンガの積み方が見える。表面上は真四角のレンガが均等に並んでいるだけに見えるのだが、実は三角形のブロックが底辺を外側に向け並んでいる。当然スペースが出来るわけだが、そこに違うブロックを入れてコンクリートで接地面を接着する。その方が強度が増すらしい。頭いいなぁ、ローマ人。
アウグストゥスの家。
フレスコ画が並ぶ。
とても2000年前に書かれたものとは思えない。
回廊に囲まれたパティオに佇んでるみたい。この立体感、ルネッサンス幕開けの1400年前なんですけど。
「ロムルスの神殿」。
パラティーノの丘を降り、フォロ・ロマーノにやって来た。元老院など政府の中枢、商業施設、図書館や教育施設が並び、市民の生活の場も出来た。
ティトゥスの凱旋門。
"Senatus Populus Que Romanus"とある。ローマ市民の議会、つまり「元老院」の事。
「ヴェスタの巫女の家」の中庭。
これ、なんとユリウス・カエサル(シーザー)の墓。
セヴェルスの凱旋門。フォロ・ロマーノの端っこにでんと構える。
フォロ・ロマーノの全貌。向こうに見えるのがパラティーノの丘。今立っているのがカンピドーリオの丘になる。
これがローマの象徴。
オオカミに育てられた双子ロームルスとレムス。後に二人は闘い、勝ったロームルスが自分の名に因んだ「ローマ」を町の名とした。ここで角田さんともお別れ。
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂のテラスからの眺望。
カンピドーリオ広場。この階段などの設計はミケランジェロ。
さぁ、喉もカラカラ、腹も減った。ランチの時間だ。
スタートはいつも通りホテル近く。巨大なテルミニ駅の周りをぐるっと回る。昨日の朝もガイドさんが言ってたけど、ここが一番危険で、スリやヒッタクリが多発するので要注意との事。でも、昨日のガイドさんによると、「イタリア人は知らない人は殺さないので、ニュースでも殺人事件はほぼ有りません。」と。し..知らない人は殺さない??その感性も不思議と言えば不思議だけど、イタリアと言えば「マフィア」とか、超怖いイメージが有ったんだけど、なんか意外。どんどん、イタリア人の真面目さや常識的な所がクローズ・アップされてくる。
今日のガイドさん、日本人とイタリア人のハーフらしく、浅黒くて濃い~顔にサングラス。ご自分でも、とても日本人の顔じゃないと仰ってた。「しかも、吉岡ヨシタカって凄い名前を親に付けられちゃいました。」と笑いを取っていた。
バスの車窓から見える、サンタンジェロ城。
テヴェレ川を渡る時にいつも見える。城と言っても、ローマ皇帝の霊廟というのが主な役目で、途中から改装されて要塞となった。
今日も来ましたサン・ピエトロ大聖堂。流石に朝早いので人も少ない。
という事で、ガイドの吉岡さんと記念撮影。
やはりハーフ、濃いです。僕も日本では「濃い」と言われますが、彼と比べた日にゃ「ひらたい顔族」に属してると言わざるをえません。
ついでに、昨日の深夜のあの人の多さについて尋ねてみたところ、昨夜は、ローマの美術館という美術館がタダで入場出来る日だったらしく、みんな美術鑑賞をしてたんだと!なんて文化意識の高い国なんでしょう!!日本でそんなことやっても、夜中に街中が人で溢れるなんて事にならないだろな・・・。恐るべしイタリア。
大聖堂入口に有る「聖なる扉」。
もう、この辺りは昨日観た。でも、人が少ないので昨日よりのんびりと。
今日はミサが有るため、「ピエタ」の周りにバリケードみたいなのが張り巡らされ、遠巻きにしか見れなかった。
さて、いよいよ憧れのコロッセオに移動。今日はローマ市内でミニマラソン「KOMEN RACE FOR CURE MARATHON」が開催され道は封鎖されまくり。遠回りばかりさせられ、徐々に運転手さんイライラし始める。運転も荒くなり始め、堪らず吉岡さん「運転手さんの機嫌が悪くなってまいりました。シートベルトを締め、しっかりとおつかまり下さい!」とマイクで我々に注意勧告。(笑)
ここから吉岡さんに変わって角田さんがガイディング。
コロッセオの外観を写真に撮るのも忘れ、色々説明を聞く。当時は開閉可能な屋根が付いていた事、404年を最後に殺し合いのショーが無くなって無用の長物になってしまった事、考古学というコンセプトが生まれるまで、資材をここから取って行ったため現在の形になってしまった事、当時のローマ人の生活やコロッセオでの時間の過ごし方・・など、どれも興味深い話ばかり。
TVで何度も見て来た遺跡なので感動しないかも・・と思ったけど、ここは別格だった。
これだけの巨大建築物を頑強に作るためのアイディアを、残った遺跡を見ながら説明を受け思った。やはり、ローマ人凄いよ。いまだに、こうして残ってるんだもの。
地階が現在では露わになっている。向こう岸に少しだけ白いステージが復元されている。
ご覧の通り、ステージは楕円形で、現在の競技場の元になっている。かつては、全てステージで覆われていた。その下に剣闘士や猛獣が控えており、リフトに乗ってステージまでせり上がり、飛び出す仕組み。滑車のロープの溝などがまだ残っている。剣闘士はローマ帝国に敗れた国の奴隷で、自国の戦闘コスチュームと武具で戦わされた。相手(別の剣闘士または猛獣)が死ぬまで格闘は続き、良い闘いをした者には見物客達が親指を立てる。(これが現在の「Thumb Up」として欧米の習慣に残っている。) これで初めて生きる事を許され、晴れてローマ市民に昇格出来る。
「スゲー!」「デケー!」を連発する。
ここもかつてはカラカラ浴場と同じく大理石が敷き詰められた白亜の美しい建造物。その当時の状態まで復元すりゃいいのに・・と以前思った事があるけど、今はこの現状を見て、昔のその白亜だった頃のコロッセオを想像する楽しみってのを理解出来る。遺跡を見る時の最大の楽しみは「想像」なのだ。写真右端には地味に当時の水洗トイレが有り、ここでも細やかなローマ人の建築技術が光る。
コロッセオを始め、ローマ時代の闘技場は殺し合いを嫌うキリスト教の台頭と共に廃れてしまい、廃墟と化した遺跡には一般人が住みつき、1970年代頃まで、ツアーで行くと洗濯物が干してあったりしたそうな。(笑)
名残惜しいが、これでコロッセオともお別れ。フォロ・ロマーノに向かう。途中、先ほどのマラソンに巻き込まれる。フォロ・ロマーノの入り口からパラティーノの丘を上がる。ローマは「7つの丘の町」と呼ばれ、ローマの名付け親・ロームルスが都市を作ったのがこのパラティーノの丘だと言われている。ローマは当初湿地帯で丘の上に住むしかなかったのだが、領地を増やす必要に駆られ土木工事の技術が発展したと言われている。
「スタディオ」。
楕円形で乗馬訓練に使われていたらしい。当時の皇帝は身体もしっかり鍛える必要が有った。
ドムス・アウグスターナから眺めるサン・ピエトロ大聖堂。
建築物の多くは倒壊しているのだが、そのお陰でレンガの積み方が見える。表面上は真四角のレンガが均等に並んでいるだけに見えるのだが、実は三角形のブロックが底辺を外側に向け並んでいる。当然スペースが出来るわけだが、そこに違うブロックを入れてコンクリートで接地面を接着する。その方が強度が増すらしい。頭いいなぁ、ローマ人。
アウグストゥスの家。
フレスコ画が並ぶ。
とても2000年前に書かれたものとは思えない。
回廊に囲まれたパティオに佇んでるみたい。この立体感、ルネッサンス幕開けの1400年前なんですけど。
「ロムルスの神殿」。
パラティーノの丘を降り、フォロ・ロマーノにやって来た。元老院など政府の中枢、商業施設、図書館や教育施設が並び、市民の生活の場も出来た。
ティトゥスの凱旋門。
"Senatus Populus Que Romanus"とある。ローマ市民の議会、つまり「元老院」の事。
「ヴェスタの巫女の家」の中庭。
これ、なんとユリウス・カエサル(シーザー)の墓。
セヴェルスの凱旋門。フォロ・ロマーノの端っこにでんと構える。
フォロ・ロマーノの全貌。向こうに見えるのがパラティーノの丘。今立っているのがカンピドーリオの丘になる。
これがローマの象徴。
オオカミに育てられた双子ロームルスとレムス。後に二人は闘い、勝ったロームルスが自分の名に因んだ「ローマ」を町の名とした。ここで角田さんともお別れ。
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂のテラスからの眺望。
カンピドーリオ広場。この階段などの設計はミケランジェロ。
さぁ、喉もカラカラ、腹も減った。ランチの時間だ。
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