プラハ6日目のメイン行程は、再び郊外の古城へと赴きます。
<<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-17>
電車に揺られて行き着いたのは、今はのどかな田舎といった風情の、カルルシュテイン。
小さな集落を城下に持つ、歴史のある古い城が、高台に聳えるように建っていました。
<カルルシュテイン城>
プラハ・スミーホフ駅(Praha Smíchov)から、プラハ南西にあるベロウン(Beroun)行の普通電車に乗っておよそ40分で到着した、カルルシュテイン(Karlštejn)という片田舎。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
駅からのどかな田舎道を歩くこと約20分程で、行く手には壮麗な古城が、姿を現してきました。
城の名は、カルルシュテイン城(Hrad Karlštejn)。
この旅に出るまで、西洋の古城というものは、おとぎ話に出てくるイメージでしか思い描けなかったので、こうした実物の古い城を実際に目にした瞬間は、とても感動しました!
城が聳え建つ高台の足元には、こじんまりとした集落がありました。
心なしか、集落の民家も小さなサイズのものが多く、集落を睥睨するかのようなカルルシュテイン城の威容が、より引き立つ印象を受けました。
1990年当時の世相を映す、壁の落書き。
「チェコスロバキア社会主義共和国大統領 バーツラフ・ハベル」という落書きですね。
共産主義政権を倒した、1989年のビロード革命の中心的人物であった、バーツラフ・ハベル(Václav Havel)です。
共産主義体制下で幾度も逮捕投獄されながら、自由を求めて反体制の筋を曲げなかった劇作家であり、共産主義政権崩壊後は、チェコスロバキアの大統領に就任しました。
共産主義に抵抗して自由を勝ち取った生き様が、チェコ国民の敬愛を集めていました。
落書きの「ČSSR」は、当時のこの国の正式国名「チェコスロバキア社会主義共和国(Československá socialistická republika)」の頭文字を取った、略称です。
1990年3月当時は、国名はまだ、共産主義時代の名称のままでしたが、4月に「チェコ及びスロバキア連邦共和国(チェコ語:Česká a Slovenská Federativní Republika/スロバキア語:Česká a Slovenská Federatívna Republika)」と改称され、略称の頭文字も、「ČSFR」となりました。
このチェコスロバキア連邦を構成していたチェコ共和国(Česká republika)とスロバキア共和国(Slovenská republika)は、1993年に連邦を解消して、それぞれが単一の主権国家として独立し、連邦国家としてのチェコスロバキアは消滅しました。
ハベルは、連邦分離後のチェコ共和国でも、初代の大統領に就任し、2003年までその任を務めた後、2011年に亡くなりました。
城下から仰ぎ見る角度によって、カルルシュテイン城の全貌は、その印象を変化させます。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
この角度からですと、先程まで大きな存在感を誇っていた、四角い塔屋が他の城郭によって、完全に隠されてしまいました。
とても存在感の感じられた塔屋だけに、これが見えなくなると、城というよりは、館のような雰囲気となりますね。
カルルシュテイン城に到着し、先程まで見上げていた城下の集落を、今度は見渡してみます。
城下の小さな谷を、集落の建物が埋めている様子が、よく分かりました。
この谷間を下りきった先に開けた平地に、プラハから乗車してきた電車を降りた、カルルシュテイン駅があります。
城内は、建物が重なるように密集して建てられています。
外壁の装飾は、基本的にシンプル。
軒下で建物を囲むように配された木材が、無骨な外観の、細やかなアクセントとなっていました。
角度を違えて、折り重なるように建て込んだ、このような風情が、結構好きです♪
木組みとなっている外壁の建屋も、見受けられました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
窓の周囲の木組みは、城下から見上げて眺めていた時にも、よく目立っていました。
大部分の外壁が、剥き出しの石壁のような外観で、このような一点アクセントは、効果的に見栄えを印象的に演出するものですね。
城壁もまた、城の建つ高台の傾斜にそって、凹凸に様々な角度が生じて、古城のムードを素敵に醸し出していました。
再び、ランドマーク的な、四角い塔の見える場所からの、眺めです。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
カルルシュテイン城を紹介する写真や絵画等には、大抵この塔屋がアングルに収められています。
よく見ると、他の棟からは、渡り廊下で繋がっていますね。
この塔屋だけで、独立して建てられていたようです。
カルルシュテイン城も、お化粧直しの真っ最中で、塔屋をぐるりと取り囲むように、足場が組まれていました。
この日は、城内へも入場可能で、色々な部屋を見て回ったはずなのですが、写真を探しても出てこず、外観のみの画像となってしまいました;
この城は1348年、プラハを中心とするボヘミア王国の繁栄を築いた、神聖ローマ皇帝カール四世(Karl Ⅳ.、ボヘミア王としては「カレル一世」/Karel Ⅰ.)によって築かれ、彼の名に因んだ名称を与えられています。
築城以来670年以上にわたって、この地からこの国の激動の歴史を見つめ続けてきた、カルルシュテイン城…動乱が過ぎ去り、ホッと一息ついているような風情が伝播したような、のどかな晴天の中で、ノンビリと古城探訪を堪能しました。
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-19>>
<<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-17>
電車に揺られて行き着いたのは、今はのどかな田舎といった風情の、カルルシュテイン。
小さな集落を城下に持つ、歴史のある古い城が、高台に聳えるように建っていました。
<カルルシュテイン城>
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プラハ・スミーホフ駅(Praha Smíchov)から、プラハ南西にあるベロウン(Beroun)行の普通電車に乗っておよそ40分で到着した、カルルシュテイン(Karlštejn)という片田舎。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
駅からのどかな田舎道を歩くこと約20分程で、行く手には壮麗な古城が、姿を現してきました。
城の名は、カルルシュテイン城(Hrad Karlštejn)。
この旅に出るまで、西洋の古城というものは、おとぎ話に出てくるイメージでしか思い描けなかったので、こうした実物の古い城を実際に目にした瞬間は、とても感動しました!
城が聳え建つ高台の足元には、こじんまりとした集落がありました。
心なしか、集落の民家も小さなサイズのものが多く、集落を睥睨するかのようなカルルシュテイン城の威容が、より引き立つ印象を受けました。
1990年当時の世相を映す、壁の落書き。
「チェコスロバキア社会主義共和国大統領 バーツラフ・ハベル」という落書きですね。
共産主義政権を倒した、1989年のビロード革命の中心的人物であった、バーツラフ・ハベル(Václav Havel)です。
共産主義体制下で幾度も逮捕投獄されながら、自由を求めて反体制の筋を曲げなかった劇作家であり、共産主義政権崩壊後は、チェコスロバキアの大統領に就任しました。
共産主義に抵抗して自由を勝ち取った生き様が、チェコ国民の敬愛を集めていました。
落書きの「ČSSR」は、当時のこの国の正式国名「チェコスロバキア社会主義共和国(Československá socialistická republika)」の頭文字を取った、略称です。
1990年3月当時は、国名はまだ、共産主義時代の名称のままでしたが、4月に「チェコ及びスロバキア連邦共和国(チェコ語:Česká a Slovenská Federativní Republika/スロバキア語:Česká a Slovenská Federatívna Republika)」と改称され、略称の頭文字も、「ČSFR」となりました。
このチェコスロバキア連邦を構成していたチェコ共和国(Česká republika)とスロバキア共和国(Slovenská republika)は、1993年に連邦を解消して、それぞれが単一の主権国家として独立し、連邦国家としてのチェコスロバキアは消滅しました。
ハベルは、連邦分離後のチェコ共和国でも、初代の大統領に就任し、2003年までその任を務めた後、2011年に亡くなりました。
城下から仰ぎ見る角度によって、カルルシュテイン城の全貌は、その印象を変化させます。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
この角度からですと、先程まで大きな存在感を誇っていた、四角い塔屋が他の城郭によって、完全に隠されてしまいました。
とても存在感の感じられた塔屋だけに、これが見えなくなると、城というよりは、館のような雰囲気となりますね。
カルルシュテイン城に到着し、先程まで見上げていた城下の集落を、今度は見渡してみます。
城下の小さな谷を、集落の建物が埋めている様子が、よく分かりました。
この谷間を下りきった先に開けた平地に、プラハから乗車してきた電車を降りた、カルルシュテイン駅があります。
城内は、建物が重なるように密集して建てられています。
外壁の装飾は、基本的にシンプル。
軒下で建物を囲むように配された木材が、無骨な外観の、細やかなアクセントとなっていました。
角度を違えて、折り重なるように建て込んだ、このような風情が、結構好きです♪
木組みとなっている外壁の建屋も、見受けられました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
窓の周囲の木組みは、城下から見上げて眺めていた時にも、よく目立っていました。
大部分の外壁が、剥き出しの石壁のような外観で、このような一点アクセントは、効果的に見栄えを印象的に演出するものですね。
城壁もまた、城の建つ高台の傾斜にそって、凹凸に様々な角度が生じて、古城のムードを素敵に醸し出していました。
再び、ランドマーク的な、四角い塔の見える場所からの、眺めです。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
カルルシュテイン城を紹介する写真や絵画等には、大抵この塔屋がアングルに収められています。
よく見ると、他の棟からは、渡り廊下で繋がっていますね。
この塔屋だけで、独立して建てられていたようです。
カルルシュテイン城も、お化粧直しの真っ最中で、塔屋をぐるりと取り囲むように、足場が組まれていました。
この日は、城内へも入場可能で、色々な部屋を見て回ったはずなのですが、写真を探しても出てこず、外観のみの画像となってしまいました;
この城は1348年、プラハを中心とするボヘミア王国の繁栄を築いた、神聖ローマ皇帝カール四世(Karl Ⅳ.、ボヘミア王としては「カレル一世」/Karel Ⅰ.)によって築かれ、彼の名に因んだ名称を与えられています。
築城以来670年以上にわたって、この地からこの国の激動の歴史を見つめ続けてきた、カルルシュテイン城…動乱が過ぎ去り、ホッと一息ついているような風情が伝播したような、のどかな晴天の中で、ノンビリと古城探訪を堪能しました。
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-19>>
チェコはかつて、輩出した王朝が神聖ローマ皇帝となったり、ハプスブルク家の支配も受けてきたことから、おのずとドイツやオーストリアの影響を、建築面でも感じられるのでしょうね。
他の部分が簡素な装飾な分、木組みが良く映えているのは、狙ってそうしたのか、気になるところです。
初ヨーロッパで、実物の城の外観に感動してシャッターを押しまくり、内部へ入る頃には、フィルムが足りなくなっていたのかもしれません;
当時はまだ、フィルムカメラの時代…フィルムの枚数は、とても貴重であったですよね。
木組みを使ったお城はドイツやオーストリアでも見かけたことがありますが、良いアクセントになりますよね。
内部の写真がないのは、写真撮影が不可だったか、大して見るものがなかったか(この手のお城は中が空のことが多いみたいです)、或いは今ほどカメラの性能が良くなかったからフラッシュなしだと良い写真が撮れなかったからなのでしょうね。