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人間をとる漁師

2021-09-17 | 日記
めっきり秋めいて夏の終わりを感じられる頃になりました。
皆さんは、この夏どのようにお過ごしになられたでしょうか。
何か思い出が残ることありましたでしょうか。

私は幾つかありますが、今日はそのなかの一つをお話ししたい。

今年の夏、7、8年ぶりに釣りに行きました。
その日は、朝8時ぐらいに港の堤防で釣りを始めました。2時間ぐらい経った頃、60代後半ぐらいの年配のご夫妻がやって来ました。
そのご夫妻が二人で釣りを始めようとして椅子や竿を準備していることを認知はしていましたが、
自分の竿に魚が食いつくことに集中。
釣り人が何時間も集中できるのは、魚が食いつき、竿がしなり、魚が必死に抵抗するあの引きの重さがあるからだ。
今日もそんな重さを待ち、竿をじっと見つめていました。

その時、「バッシャーン」という大きな音が聞こえました。あきらかに物とは違い、もっと重いものが落ちた音。
何かが落ちた音と同時に、女性の大きな声で「うゎー、何してんのよ」。
その辺りにいた釣り人の視線が一斉に落ちた方に集まり、緊張感が支配していることを感じました。

海に落ちたのは、ご夫妻で来ていた年配の御主人。
私はすぐさま、かけより、「大丈夫ですか」と声をかけながら、状況を確認しましたが、
落ちた御主人の体力は見た目よりあるようだったので、海に飛び込まずにロープを投げ、
そのロープに捕まってもらい、70mぐらい先の梯子があるところまでひっぱりました。

人生初の人間を釣った瞬間でした。魚とはけた違いの「重さ」を体験しました。

陸にあがったご主人は恥ずかしそうに「サンダルだったから」と言い訳していました。
そんなご主人に私は、人生初でしたが、「よくあることですよ」、「いい思い出を作ってくださりありがとうございました」と感謝し、
励まそうと言葉をかけました。

その後もひとしきり談笑で和やかな雰囲気になりました。
御主人は腰が低く、人格的な深みや強さのようなものを感じられ、
奥様も優しさと凛とした両方を兼ね備えた人格者という印象で、好感が持てるお二人でありました。
白河から来たというご夫妻、その後、お元気だろうか。

ご夫妻は私に「私たちのいのちの恩人です。」とまで言ってくださいました。
確かに、御主人の肉体のいのちを助けることが出来たことは嬉しいのですが、
それ以上に、キリストを与えることのほうが重いことなのだと私は信じている。
なぜなら、この肉体のいのちはやがて死を迎えるけれど、その死を超えて神のいのちで生かすことができるからだ。

奇しくも聖書に記されている主キリストが、これから弟子になるペテロとアンデレに、
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と語られました。

ここで主キリストが語られている意味は、人々に主キリストの永遠のいのちを与えて生かすために「とる」という意味で語られた。

その日は、一匹も魚は釣れませんでした。いや、釣れなくてよかった。
私が釣りに行ったのは、「人間をとるためで、このことのためだったのだ」と強く思えた。
同時に、どんなことがあっても「生きてほしい」という主キリスト熱い思いを感じられずにいられなかった。

私は今日も人間をとる漁師として生きたい。人間のいのちは重いのだから。



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