よっちゃん公記。。。since2009

何かと忙しい40男
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長谷川等伯にみる仕事への情熱と交友関係(動物達?)

2010年03月23日 | 歴史
先日の『長谷川等伯』展は見応えがあったと同時に、当時の様子や世相、そして人間関係を考えると非常に面白いです。

まずはライバル狩野永徳との仕事の受注合戦
今で言う、「官庁」の仕事の大部分を狩野派が占めていた中で、なんとか受注しようと千利休などと交友を広げたりする営業力は、地方から出てきた一絵師の決意と執念を感じるし、実力を認めさせる力量にも驚かされる

それから天下人豊臣秀吉との距離感
狩野永徳が亡くなった翌年に祥雲寺の障壁画を依頼されたのですが、直後に仲の良かった千利休が切腹させられるという事件が起きる。だが、秀吉は等伯には何もお咎めはないし、仕事も立派にこなしている。ということは、あくまで一絵師、職人という立場をわきまえていたのだろうと思われる。

そして、徳川家康との関係
等伯は家康の仕事は行っていない?模様で、それはやはり秀吉に対する忠義からなのだろうか?最後に江戸へ呼んだのは、よくよく考えればこの時二代目将軍徳川秀忠だと思われるが、旅路の途中にある駿府にいたはずの家康には会ったという記録はなく、素通りしているのだ。ということは、家康とは全く交流がなかったのではないか?

おまけとして、当時の「外来動物」について
前回の記事でも書いたが、「仏涅槃図」には多くの動物が登場している。が、不明な動物も多い
あくまで推測だが、当時は草食動物以外の猛獣は生きては日本に連れてこれなかったのではないだろうか?従ってトラやヒョウも毛皮や聞きづて話などから想像されたと思われる(秀吉はトラの肉を好んで食べたらしいが)。特にライオンについては、存在していた場所が日本から遠すぎて、毛皮もなく、あくまで噂話でしか描くことができなかったのだろう。狩野派の有名な唐獅子の絵などでもわかるように、とんでもないライオンとなっている。
微妙なのは「象」サンで、同時期の京都養源院にある宗達の襖絵もそうだがかなり正確に描かれているので、おそらくすでに日本に連れてこられたと思われる。が、きっと一頭だけ(白い象?)だったのだろう、想像で描いたところも多く目撃した人は少なかったのではないだろうか?
また、おとなしい牛や小さなサルなどは容易に輸入できたのだろうが、400年前の時点でラクダが描かれているのにはびっくり!だ

というわけで色んな事を考察するのも楽しいけれど、長谷川等伯もいつの日か大河ドラマで取り上げたら面白い、と思いました













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