ろるかの徒然まび日記

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リアルの報告

2007-11-25 22:52:19 | マビノギ(過去記事)
リアルな報告というか、思いをぶちまけたいと思います(@@;)

いつものことですが、リアルのことなんて・・・というかた。

読んで不快になりそうな方。。。w

などなど、続きを読まないでくださいませねw

明るい話ではないです。

が、皆さんの参考になればいいなとは思います。。。






さてはて。いきなりですが。
祖父が亡くなりました。
享年91歳。
世間でいえば、大往生です。
・・ですが、正直、まだまだやりたいことが一杯あった。無念の死です。

祖父の死因は、前立腺がんです。
「前立腺」というのは、男性しか持っていないもので、
中高年から、その場所が癌になる確率が高くなってくる。といわれています。
近年は、欧米化が進んでいるということがあり、
男性の死因の上位を占めるようになりました。
男性なら、誰でもなりえる病気ではあるのですが、
他の癌に比べて進行が遅く、死亡率も他の癌に比べて高いものではありません。
(ちなみに、女性で多い病気として、乳がんがありますが、
乳がんは、男性でもなる確率があるので、女性特有の病気ではありません。)

祖父が病気になっていて、祖父の家に行っている事はお話したことがありましたが、
正直、病気がこんなにも早く、祖父を奪い去るなんて思いもしなかったのです。
必ず、家に帰れるものかと思っていました。
あれもやってあげたい、これもやってあげたい。
色々考えていたこともありました。

そもそも、祖父が体がちょっとおかしいな。
と思うことは、前々からあったようでした。
足が痛い、腰が痛い。
そういい始めたのが9月頃だったかと思います。
高齢だから、足腰も痛くなるよね。と、当たり前のようにかんがえていました。
が、その話を聞いていたので、温泉でも連れて行ってあげよう。
と、10月の頭に、皆で日帰り温泉旅行に行きました。
しかし、実はその前日に、近くの内科医から
「癌かもしれないから、大きな病院で見てもらいなさい」
と、紹介状と、レントゲン写真をもらって帰ってきたとのことでした。
そのショックで、補聴器をどこにやったのか分からなくなり、
祖父は、魂が抜けていた感じで、食事ものどを通らない状態になりました。

その後、10月中旬に一泊入院検査(泌尿器科)
一週間後に内科検査、さらに一週間後に、内科の結果が出ました。
内科の結果で、前立腺がんを告知され、
癌が全身転移しているからと、モルヒネをもらいました。
内科医の話では、「痛くて堪らないだろうから、これを飲んでください」
とのことでした。

それから本人は、急に力を落としてしまい、病人になってしまいました。
今まで、二階まで昇り、洗濯物を干しに行っていた祖父が、
たった3センチほどの段差を、またぐことも出来なくなりました。
また、自我を失い、認知症のような行動をすることもありました。
歩けなくなったのは、足に癌が転移しているからだった。
ということは、後日分かりましたが、
認知症の症状が出ていたのは、モルヒネの副作用だということも分かりました。

「来れるなら、来て助けて」
と言われたのは、泌尿器科の結果がでる一日前、10/30でした。
「日に日に、坂を転がり落ちるように悪くなっている」
そう聞いていた私は、話を聞いてかなり精神的に参っていました。
祖父が死んでしまうかもしれない。
それだけで、涙がこみ上げてきたのでした。
「ショックを受けるだろうから、行かないほうがいいんじゃないか」
そう両親はいいましたが、
状態をこの眼で確かめたい。そう思った私は、祖父の家に向かいました。

この眼で見た祖父は、つい二週間前に見た祖父とは違っていました。
人は、こんなに突然衰えてしまうのだろうか。
そう思うほど、急に数十歳も老け込み、
歳相応の老人になっていたのです。
話を聞くと、体に発疹がひどいので、モルヒネを今日は飲んでいない。
との事でした。
祖父は、あまりの激痛と、副作用に苛まれて、自我を失っていたのでした。
しかし、私をすがるような目で見る祖父の両目は、
認知症ではないことを物語っていたので、ほっとしたのを覚えています。
薬を飲ませて、ぐっすり眠った祖父を見て、早く治療をしてほしいと願いました。

次の日、祖父は、昨日のことなどなかったかのように、正気でした。
大正生まれの、昭和の頑固親父である祖父は、
べらべらと話す人ではありませんでした。
正直、語り合った記憶などありません。
ただ、ちゃんと話を聞いていて、それに対して、数言的確な言葉を返す。
それがまた、説得力ある。そんな人でした。
もちろん、弱音なんて聞いたこともありませんでしたが、
そんな祖父が、ポツリと冗談ぽく言ったのです。
「病気で苦しむなら、長生きなんてしたくないな」
と。
病気だと分かる前には、
「この子(ワンコ・オス2歳)をおいては死ねないな」
とか、
「これから、絵をボランティアで教えたい」
など言うような祖父だったというのに。
それほどまでに、激痛だったのでしょう。
そんなこといわずに、また旅行に行こうね。
そういって、私は帰ってきました。
今となって考えれば、ずっと正気だった祖父といたのは、
その日が最後になりました。

その次の日11/2。
泌尿器科の結果がでて、祖父はそのまま入院になりました。
前立腺がんが転移していて、
頚椎(首)、腰椎(腰)、肺、足に進行しているとのことでした。
足は、今にも折れる寸前で、歩かないでください。
と言われるほどの状態でした。
しかし、余命宣告はされず、3週間の加療目的入院となったのです。
肺炎などにならなければ、100歳だって夢じゃない。
そう言われたと聞いて、ほっとしたのでした。

実は、11/3に、皆でバーベキューをする約束をしていました。
それを楽しみにしていた祖父は、
家に帰りたいと意地をはり、看護婦さんに大層迷惑をかけたそうです。
そして、昔から自分のことは自分でやっていた祖父は、
足が折れるかもしれないと、皆に言われるのにもかかわらず、
勝手に立とうとしては、先生などに怒られていたということでした。
最終的には、ナースステーションが祖父の部屋。
その隣が祖父の寝室になりました。。。

そんな祖父のところに、お見舞いで行ったのは、
入院して10日目のことでした。
お茶より、コーヒーが好きな祖父のために、
マックでコーヒーを買っていき、祖父と一緒にコーヒーを飲みました。
酸素マスクをつけた祖父は、さらに老け込んでいて、
最初は私のことが分からないようでしたが、
時間がたつと、私の名前を呼んで、話してくれました。
そして、いつものように冗談っぽい口調でこういったのです。
「これから帰るんだろ?一緒に帰ろうか」
そう聞いて、私は笑っていいました。
「もう少し良くなってから、一緒に帰ろうね」
それから、夕ご飯の介助をしたり、付き添いをしました。
それが、祖父と一緒にすごした、最後の時間になりました。

それから5日後。祖父は亡くなりました。
「容態が急変しているから、会わせたい人がいたら、会わせたほうがいいですよ」
そう病院に言われたと、叔母からメールがあり、
その日仕事が終わってから、両親と3人で病院に向かいました。
着いたときには、祖父はもう亡くなっていたのでした。
もうすでに、なくなって2時間ほどが経過していましたが、
祖父の顔はまだ温かく、本当に眠っているようでした。
話によると、昼には正気な状態で、連絡を聞いて駆けつけた叔父叔母たちと話し、
眠りについたとのことでした。
そして、眠りについたまま、目覚めぬ眠りについたとのことでした。
臨終に立ち会った叔父叔母、手をずっと握り締めていた祖母ですら、
なくなったことに気づかないほど、安らかに息を引き取りました。
看護婦さん曰く、
祖父の状態は、肺がまったく機能していない状態だったそうです。
本当だったら、痛くてのた打ち回るほどの状態だったところ、
脳が先に死んでしまい、その後、心臓が止まったので、
痛みもなく、苦しむこともなかった。
とのことでした。
「日ごろの行いがよかったんですね」
そう、励ましてくださったとのことです。

本当は、すぐにでも家に帰してあげたい。
そう家族でお願いしましたが、式場の関係で、式が6日後になりました。
火葬は一週間後。
家に置いておいては置けない期間だということを、葬儀屋さんに説得され
泣く泣く病院に預かってもらうことになりました。

正直、理想の死だった。と思います。
祖父も、幸せだったと思います。
私も、どうせなら苦しまず、眠るように死にたいです。
しかし、祖父には、もっともっとあれもこれも色々やってあげたかった。
早く帰りたい。そういう祖父の顔を思い出して、
一時帰宅の夢すら叶わなかった祖父の願いを思い、
湧き上がる感情をとめることが出来ませんでした。
「バーベキューで秋刀魚を焼いて食べさせてやりたい」
そう祖父が意気込んでいたのを思い出して、
秋刀魚を見て泣いたりしました。
よそから見ると、へんな人だったでしょうが、
葬式までの約一週間、心が空っぽの状態でした。
面倒を見ていた叔母は、毎日のように霊安室に面会に行き、
毎日顔を見に行っていました。
私も、死んでまで、病院にいなければいけない祖父が
あまりにも不憫で、かわいそうでなりませんでした。
早く葬ってあげたい。
そう思ったのでした。

本当は、退院するはずだった日。
祖父は死亡退院しました。
来ては欲しくないけど待ちに待った日。
式は、葬儀屋さんのおかげで、散々省略してもらったというのに、
立派で、満足のいく内容でした。
次の日の告別式。
祖父の棺に、手紙を添えました。
職場の方が、だんなさんが亡くなったときに、手紙をいれたのよ。
と教えてくださったので、私も、思いをつづってみようと思ったのでした。

実は、なくなった次の日、
母が私のところに、絵を持ってきてくれたのでした。
それは、祖父が私にと、描いてくれた絵だったのです。
模写が上手だった祖父は、本に描いてる水墨画の絵を見ては、
良く描いていました。
鳥の絵をリクエストした私に、祖父が描いてくれた絵と今回の絵は、
まるっきり同じの構図でしたが、祖父が言っていたそうです。
「この鳥は、前の鳥とは違うんだ。前のはヒナでこっちのは成長した鳥。目の輝きに、枝にしっかりつかまっているだろ。これは、今の(ロルカ)なんだ」
その言葉を聞いて、ありがたくて、嬉しくて、悲しくて、祖父が思っているほど立派になってない自分の不甲斐なさに、涙が止まりませんでした。
語り合った記憶もない。
遊びに行けば、ワンコばかりかまっていて、祖父母に目もくれない。
実は、仕事が嫌でたまらなくて、現実逃避をしている。
そんな孫だったけれど。
成長を見守っていてくれていて、それを喜んでいてくれた祖父。
死んでから改めて知る、祖父の一面。
祖父からの感謝の気持ち。
生きているうちに、「ありがとう」
が言いたかった。
それが言えなかった後悔の念。
それを手紙に込めました。
手紙に、紙粘土で作った饅頭も添えました。
(饅頭を作ってあげようとして、失敗して食べさせてあげられなかったので)
祖父は、右に私からの手紙、左に叔母の手紙
描きかけの龍の絵と、修理して返ってきたばかりの補聴器など愛用していた品物と、
祭壇を飾っていたすべての花に埋め尽くされて、
あの世に旅立っていきました。
骨は、しっかりと残っていて、灰しか残らないのでは。
と、心配していた家族たちを、最後の最後まで安心させてくれました。

つらつらと、この一ヶ月のことを書いてしまいましたが・・
結局何がいいたいか。
ですが、
91歳の老人が亡くなった。それは仕方ないことなのです。
ただ。
たくさんのことをやってあげた。そう今でも自負はできるのですが、
それでもなお、後悔が残ってやまないのです。
ああしてあげればよかった、こうしてあげればよかった。
そんなことばかりが頭をよぎりるのです。
90歳過ぎた祖父でこれなのですから、
両親、兄弟だったらどうなってしまうのでしょうか。
たしかに、うるさかったり、めんどくさかったり、
さまざまな思いがあるかとは思います。
しかし、突如病気が発覚したり、別れが訪れたりするかもしれない。
隣で笑ってる人が、次の日にはいなくなってしまうかもしれないということ。
当たり前のことが、本当は幸せだという事実。
辛くて苦しいことが、実は自分を成長させてくれていた真実。
それを、祖父が教えてくれました。

葬儀が終わって、
姿を見ることが出来なくなったのは、何より悲しいですが
やっと眠らせてあげられた。
そういう気持ちで、心が落ち着いてきたのを感じています。
亡くなって3日ほどで荼毘に付されてしまうのは、本当に切ないのですが、
しかし、待たされることのほうが辛いことを知りました。
仕事をしていても、涙が出ることもなくなりました。
皆の優しさが身にしみます。

これからまたしばらくは、
休みの日には、残った祖母の面倒をみにいかなければいけならない生活が続きます。
マビも、出来るだけ入るつもりでいますので、
入ったときにはよろしくお願いしますね。

最後になりましたが、
歳をとったら、病気の進行が遅いから大丈夫。
っていうことはないことを、身にしみて分かりました><
そして、これから、団塊の世代が定年退職していきますが
これくらいの年齢の方が、病気になり、亡くなる場合が多いのですヨ。
どうか、周りの大切な方が、どこかおかしいと気づいたら、
すぐに病院での検査を進めてあげて下さいね。


それでは、長くなりましたが、最後まで読んでくださった方、
ありがとうございました。
これからも、ロルカをよろしくお願いします><





「これからは毎日、笑って過ごすんだ」
闘病が始まった日。そういって笑った叔母。
「元気だった?」
仕事帰り病院によって、祖父の頬をぐりぐりとかき混ぜると、
祖父は、にこーっと笑いました。
見たこともなかった満面の笑み。
そこには確かに、家族の絆と、愛情と幸せがありました。

もう会えないけれど。
おじいちゃんに感謝を込めて。
本当にありがとう。
家族の一員で、本当によかった。