僕は、契約金なしの元プロ野球選手です

昨今、プロ野球選手の契約金問題が巷で話題になっています。契約金なしでプロ野球選手になった僕の人生を振り返ります。

阪神タイガース・親愛なるチームメイト

2012-04-14 21:15:43 | 日記
平成13年3月から、阪神タイガースの社長は、野崎勝義社長になり、心機一転が図られました。



野崎社長は、阪神電鉄の航空営業部本部旅行部長を経て、平成8年7月に阪神電鉄から出向する形で、阪神タイガースの常務取締役に就任されていた方です。僕が天国に来た平成10年当時は、常務取締役という役職の上、連盟担当、総務部分担、営業部分担と幅広く球団業務に携わっておられました。

野崎社長は約3年間、阪神の社長を務められました。その間、内部で人事異動がありました。野崎社長の就任直後の平成13年4月、沼沢正二という電鉄の社員が、阪神電鉄から出向してきて、総務部長になりました。さらに、平成13年7月、福島広之という電鉄の社員が、総務部次長として、阪神電鉄から出向してきました。

沼沢総務部長は、阪神タイガースに出向して間もない平成13年春ころ、当時広報部長をしていた本間(勝)に、僕が亡くなった当時、広報担当であった笠間雄二が、僕が亡くなった平成10年8月31日当日、どんな行動をとっていたのか、確認をとったそうです。僕が亡くなって3年が過ぎようとするころ、なぜ、3年前の笠間の行動について、確認を取る必要があったのか。その真意はわかりません。

本間勝は、僕の後輩で、昭和33年に阪神タイガースに入団した元野球選手です。昭和41年に西鉄ライオンズに移籍し、引退後、西日本新聞社に入って新聞記者をされた後、昭和57年ころ、阪神タイガースのフロントに戻ってこられました。その時、僕は本間に「おう、帰ってきたか。頑張ろうぜ」と声をかけました。本間は、僕が天国に来た当時、たまたま阪神の広報部長でした。そのため、あの時、僕が亡くなったことをマスコミ関係者に広報する役目があったのですが、古くからチームメイトの関係でもあるのです。本間は、僕の親愛なるチームメイトの一人です。

本間は、平成14年12月に、阪神タイガースを辞められました。平成17年5月、阪神とは関わりがなくなった後に、神戸地検特別刑事部の事情聴取に応じてくれました。この事情聴取は、末永と広報担当の笠間が、平成15年に僕の娘、直子を、名誉棄損罪の容疑で神戸地検に刑事告訴したことを受け、最近、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件で話題の大坪弘道部長が、当時、神戸地検特別刑事部で独自捜査を開始された事件です。大坪部長は、今、検察庁におられませんが、内偵捜査は今も続いています。

笠間は、なぜ、僕の娘、直子を、名誉毀損罪の容疑で刑事告訴したのでしょうか。聞くところによると、僕が亡くなった時に、僕が亡くなったビルのエレベーターの中に、笠間らしき人物がいたという目撃者がいらっしゃるそうです。目撃者が見た人は、本当に笠間だったのでしょうか。僕はわかりません。

平成17年5月当時の本間に対する事情聴取の内容は、僕が亡くなった日前後の阪神タイガース広報部の業務内容でした。本間は、当時の業務内容について、大坪部長の部下で主任検事の宮本健志検事につぎのように話してくれました。




「平成10年8月28日から阪神タイガースは、読売ジャイアンツの3連戦に臨むため、東京遠征に出ていました。当時、広報部部長の私は、こうした遠征の際、常にチームに同行しておりましたし、広報担当をしていた笠間も同様にチームに同行して、東京に行っていたのです。読売ジャイアンツの3連戦を終えて、平成10年8月31日は、移動日となっていました。

私は、この日、チームと一緒に朝の10時前後の新幹線に乗って、東京駅を出発し、昼の1時前に新大阪駅に到着した後、自宅に直帰しました。他方、笠間は、メモにありますように、平成10年8月31日の昼から甲子園球場で一軍の主力投手の練習が予定されていましたので、広報担当としてマスコミ対応をするため、私の指示で、チームより一足早く東京を出発し、関西に戻ったのです。笠間が何時の新幹線に乗ったかまでは把握しておりませんが、昼の練習に立ち会うため、チームより一足早く早朝の新幹線で関西に戻ったことは間違いありません。

それから、笠間は、この日の昼に、甲子園球場で予定されていた一軍の主力投手の練習に立ち会い、広報担当としてマスコミ対応をしてくれたのです。こうした移動日の練習は特に珍しいことではなく、頻繁に行われていましたので、笠間がきちんと立ち会っていたかどうかを、私の方で一々確認したり、笠間から一々報告を受けてはおりませんでした。ですが、広報担当が不在であれば、取材に来たマスコミの整理がつかずに現場が混乱し、後で選手やマスコミから苦情が出るはずでしたが、平成10年8月31日について、そうした苦情はなくスムースに取材が行われていたと記憶していますので、笠間がこの日の投手陣の練習に立ち会って、マスコミ対応をしてくれたことは間違いないと思っています」

◆◆◆
本間には、このとき、長時間の事情聴取に応じてくれ、調書にも署名、押印してくれたことを、感謝します。本間の話によると、笠間は、僕が亡くなった時刻ごろ、関西にいたことは確かということです。本間らは、僕が亡くなった時刻とほぼ同時刻に、新大阪駅に着いたということです。

僕の現役時代の経験上、遠征先から甲子園に帰るのは、だいたい宿泊先のホテルのチェックアウト時刻ころの朝10時ごろの列車に乗ることが多かったです。試合があった夜は、選手はなかなか寝付けないので、早く起きるのはつらいことです。

この日は、笠間の他、前日の巨人戦で勝利投手になった藪(投手)らが、本間らとは別の新幹線で帰阪し、昼の12時からあった甲子園球場での練習に参加したと言います。藪は、早起きも厭わず、練習意欲に燃えていたのでしょうか。

笠間の話によると、練習には、藪の他、川尻投手、中込投手、山村投手、ダリル・メイ投手、福間コーチ、続木トレーニングコーチ、猿木トレーナー、常川トレーナー、丸本通訳が参加し、午後2時ころまで行われ、それに立ち会っていたそうです。僕は、そのころ、神戸市中央区の京町筋の11階建てビルの前で、生田警察の実況見分に立ち会っていました。



福島総務部次長という人は、平成14年10月ころ、僕と一緒にスカウト活動をしていた横溝に対して、僕が亡くなった当時の状況を、陳述書にまとめるよう指示したそうです。横溝の話によると、球団の顧問弁護士も一緒になって指示されたそうです。

横溝は、昭和30年に広島カープに入団し、昭和44年まで現役を続け、引退後、コーチとなりました。その後、中国放送の解説者、南海ホークスのコーチ、阪神タイガースのコーチなどを経験した後、阪神のスカウト業務に携わりました。僕と横溝とは、年齢も近いことで、兄弟のような親近感を持ちながら、一緒に仕事をしてきたつもりです。ですが、僕は、この陳述書を見て、眼を疑うほどに、驚きました。



「私が『ガンなら手術をしますか』と言うと、『その必要はない』と言いました。故、渡辺氏は、他の医者の診察も受けていました。私が、『キリッと痛むのか』と尋ねると、『鉛かなんかを入れているようだ』と言いました。故渡辺氏の体調は、平成10年3月頃、マンション1階の美容院が差し押さえられてから、ずっと悪かったのです。同年4月頃には、西宮協立病院に行っていました。それから胃薬を飲んでいました。その後も、食欲不振や胃が重たい状態が続いて、本社事務所の近所の病院にも行っていました。そこでは薬をいっぱい貰ってきていました」

僕は、こんな会話を、横溝と一度もしたことがありません。この文面を読むと、まるで僕がガンを患って、体調不良を訴えていたようにとれます。それに、亡くなる半年前の3月に、僕が所有するマンションが差し押さえられたようにとれます。これを読むと、まるで僕が金銭苦だったようです。体調不良に金銭苦が重なって、自殺したような印象を受けます。
僕は、たまに、胃の調子が悪くなることがありましたが、ガンと診断されたことはありません。体調面のことは、捜査機関から、病院へ診断書の提出を要望すれば、はっきりわかることです。差し押さえの事実の有無は、裁判所に確かめれば、すぐ、わかることです。なぜ、横溝が、こんな、子供だましのようなウソを文章に残したのか、僕は全く理解できません。

さらに、それが神戸地検の手に渡っているというのも理解できません。虚偽の文書を捜査機関に提出するということは、捜査の糸口を、提供しているようなものです。裏を返せば、虚偽の文書を捜査機関に提出することは、国家権力を愚弄しているとも言えると思います。

横溝は、福島総務部長と球団の顧問弁護士から、どこに対して「陳述書」を書くよう言われ、「陳述書」を書いたのか。聞いてみたいところです。

野崎社長は、平成16年10月に発覚した明治大学野球選手を巡る裏金事件で当初、球団の関与を否定するコメントを出されていました。しかし、後で、阪神のスカウトも約25万円を渡していたことがわかってしまい、社長を退任されました。
野崎社長の後任には、牧田俊洋球団専務が平成17年1月1日付けで就任されました。牧田社長が就任直後の平成17年5月6日、神戸地検特別刑事部の事務官が甲子園球場内の球団事務所に出向き、証拠資料などを領置しています。



地検は、領置した証拠資料を基に、末永、笠間、本間、横溝らの事情聴取を始めました。

地検とすれば、証拠資料を球団事務所から領置できなければ、証拠と照らし合わせて末永らに事情聴取できなかったわけですが、福島総務部長が、証拠資料を、神戸地検の事務官に任意で提出しているのですから、証拠資料があって捜査がやり易かったと思います。福島総務部長は、なぜ、証拠資料を任意で提出したのか。また、それを牧田社長は知っていたのか。その点も知りたいものです。

この年の秋口に、村上ファンドが「既成権力に立ち向かう反骨精神や関西人の気骨がグループ全体に影響をもたらすだろう」としてタイガースの株式上場を提案し、村上ファンドが阪神電鉄の筆頭株主になりました。牧田俊洋社長は、「株式上場の計画はない」と反論するなど、この年、阪神はいつもにない問題を抱えていました。

牧田社長は、2年半、阪神の社長を務められ、平成19年7月1日付けで退任されました。後任に、南信男専務が社長に就任されました。南社長は、昭和52年に慶応大を卒業後、阪神電鉄本社に入社され、昭和62年に球団広報課長に就任しました。南社長という人は、昭和63年に16年ぶりに阪神の指揮を執った村山の専属広報となった人で、シーズン途中に、古谷真吾代表が、東京のホテルニューオータニから飛び降り自殺を遂げられた時には、迅速に広報活動に勤しんだ人です。



その後、甲子園球場長を務め、球場リニューアル構想も推進され、平成16年から常務として球団に復帰されていました。今、僕と村山は、南社長の手腕について、語り合ったりしています。



村山が最初に監督になった昭和45年当時は、僕がピッチングコーチをしていました。村山とは、その時代のことも、よく話すんです。(文責:渡辺直子)

参考文献:デイリースポーツ「本間勝交遊録 10人目渡辺省三」     
      本間勝「供述調書」(平成17年5月24日付け)
      横溝桂「供述調書」(平成17年5月16日付け)
      笠間雄二「供述調書」(平成17年5月9日付け)



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1 コメント

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アイドントライクサタン (ヘスス)
2016-05-19 12:29:11
あなたは幽霊ですか?
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