創世記11章までは、おおらかな神話の形を借りて、大切なメッセージを私たちに伝えている。天地創造の物語は、世界が7日間でできたことを言いたいのではない。すべてのものは神様がつくり、そのつくったものを神様が自己点検して、「良いものだ」と言っておられる。世界が何日でできたのか、どれだけ時間がかかったのか。それらは、科学が語る。聖書が語っているのは、Howではなく、Whyである。世界がどのようにできたのか、ではなく、なぜできたのか、である。
夏の間のささやかな楽しみは、仕事をしている間、ラジオを聞くことである。好きな番組がある。それは、NHKの「子供電話何でも相談」である。お月様がいつも、僕についてくるのですが、何でですか。お父さんは、僕のことが大好きだからついて来る、と言っていました。どう答えるのか、と思っていたら。地球と月との距離があって、それでついて来るように見えるんだよ、という。質問者は5歳の子である。科学で、小さな子供たちに説明するのは大変である。今年は特に哲学的な質問が多かった。なんで、人間はお猿さんから進化しなければいけなかったのか。解説する人は、知識の無さで困っている場合もあるが、なぜ、という問いに答えられない。それは、科学の実像である。かつて、科学に信仰が介入してしまったときがあった。天動説と地動説の問題である。しかし、聖書が語っているのは、世界がどうできたかではなく、なぜできたか、である。なぜ、人をつくられたか。人に何をせよとおっしゃっているか、である。信仰が答えなければならないことと、科学が答えるべきことを、信仰者がきちんと分けていないと、迷った信仰「迷信」になってしまう。わたしたちは、冷静な、人間の理性で、信仰を持っている信仰者である。わたしたちが、この日本という国に生きているということである。聖書に耳を傾けるのは、非常に少ない。それは1%に満たない。しかし、世界の人口の4割がキリスト者である。また、ほぼ同数の人々がイスラム教である。共通しているのは、旧約聖書である。旧約聖書の民ユダヤ教を合わせても、少なくとも世界の8割の人々が、旧約聖書を土台としている。これは、知識として知っていなけれなならない。おおらかな神話の形を借りて、神様が私たちにメッセージを与えていると知っている人は、けっこうな数になる。それらの人々が、信仰の父と読んでいるのが、アブラハムである。先週、アブラハムの召命の場面から御言葉を聞いた。神様が、この歴史に介入して来られたという歴史的事実について聞いた。高き天の御鞍におられて、眺めているだけの方ではない。このアブラハムのお墓は、この地上に存在している。もう一度、読んでみよう。
創世記12章1~3節
イスラエルの誕生も、出エジプトも、イエスキリストの誕生も、十字架と復活も、教会の誕生も、私たちの今の生活も、このアブラハムの創世記12章と関わりのない状態で起こっているのではない。神に対して帰依することにあれほどに熱心なのか。すべては、この言葉にある。
そして4節にアブラムは主の言葉に従って旅立った、とある。アブラムは特別な民として立てられた。事実、歴史は、イスラエルに特別の地位を与えて、その信仰の継承者が人口の8割になるまでになっている。なぜ、神はアブラムを祝福したのか。それは2節、3節の後半に書いてある。祝福の源となるように。地上の支族はあなたによって祝福に入るように。どんなことがあっても、あなたを見捨てないというインマヌエルメッセージである。これが、祝福の根幹である。結婚式のときに、祝福をお与えくださいとよく言っている。どんなことがあっても、この二人を見捨てない、と言っているのである。祝福するというのは、「おめでとう」というのとは違う。どんなことがあっても、私たちはその二人を引き受ける。それが、祝福を与えるものの務めである。聖書には、祝福は自分に対して行ってはいけないと書いてある。神様の祝福が私にあるように、と祈ることは許されている。しかし、私の祝福は、私以外のものに宛てられなければいけない。祝福の源となるということは、そこが源流だということである。アブラムによって、すべての支族が祝福に入る。だから、あなたが祝福するものを祝福し、あなたが呪うものを私は呪うと言ったのである。そのイスラエルが主の祝福を担うつもりがない、と言ったときに起こったのが、バビロン捕囚である。
先週、私たちは教会として、同じ祝福を担っているということを聞いた。わたしたちの責任、祝福の担う者に与えられている責任が、今日の箇所に具体的に示されている。
創世記18:16~25
主と呼ばれているのが、神様である。これが、ソドムとゴモラの滅亡前の姿である。これはよく知られていて映画にもなった。しかし、18章の物語は多くの人は知らない。ソドムとゴモラの話は、19章以下よりも、18章の方が重要である。特に、私たちにとっては。アブラハムは祝福を担うものとなった。そのアブラハムに主はなんと言ったか。
「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」神様は、アブラハムを選んだ。祝福を担うものとして、祝福の中に入れた。私たちも同じ祝福を受けて地上を生きている。礼拝の最後に祝福を受けている。地上に遣わされている。そのアブラハムに対して、(すなわち私たちに対して)主はこう言われている。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」と。神様からの祝福を受けるというのは、神様からの祝福を担うというのは、神様がしようとしておられるということを、聞かされるということである。自分の心を、この人達には明らかにされる、ということである。これが、祝福を担うものにとって、最も大事なことである。
多くの人達は、神様を信じるというときは、自分の気持を神様に言う。ああしてくれ、こうしてくれ、こういう困難から開放してくれ、と。しかし、アブラハムが聞かされたのは、神の心であって、自分の心を言う話ではない。一方的に神様がアブラムを選んで、祝福の源とすると言った。人間の心を聞くために、アブラムを選んだのではない。アブラムが神様を選んだのではない。神様がアブラムを選んだのである。祝福を受けるとは、神様の心を聞くということである。だから、はじめて教会に来た人はびっくりする。どうやって神様を拝んだらよいのか、と思って入ってきたら、讃美歌を歌って、長々と説教が続く。教会は神様、神様と訴えに来る場所ではなく、神様の言葉を聞きにくる場所になっている。昔から、神の言葉は聞くものであった。神の民は、神の言葉を聞くものとして立てられた。聞いて行うものとして、神の民は立てられた。
主がアブラムに約束されたことを成就するためである。私の心を全部かたって聞かせよう、と神様がおっしゃっている。多くの人々は神様を見たいと言う。どこにいるんだ、と言う。姿形を見ることと、神様の心を知ることと、どちらがより近いのか。彼氏の顔が見たいというのと、心が知りたいというのとでは、どちらが結婚の条件になるのだろうか。彼氏の気持ちを聞かなければ、結婚の決断はできない。これは、北陸学院高校では受けの悪い話であった。でも、神を見たものは死ぬのである。神の心を知ったものは、救われる。これも伝わらなかったなあ。私たちにとって大事な事柄は、神様の心を知っていることである。神様の心を知っているのは、大事。それが、祝福を担っているものたちの務めである。心を知らされたアブラハムは、その神の心に愕然とするのである。
創世記18章23~25節
ソドムとゴモラの町に50人の良い人がいたら、その50人のために町を赦すということを考えないのか。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。全能のなんでもおできになる神様の心を聞くことのできる。議論をし、意見をし、やめてくださいと訴えることができる。神と直談判が許されたのは、祝福の源である、祝福を受けたものだけである。それが、神様が祝福してくださるという中身である。アブラハムは訴えた。「正義を行われるべきではありませんか」これは祈りである。神と語り合い、神の心を帰ることさえも、神によって許されているということなのである。
私たちが、イエスキリストの名によって祈ることが許されていることは、安請け合いすることではない。誰にでもひょいひょい言う話ではない。神様に祈るとは、特別なことである。市長は誰か。あの人のところに行くには、議員の一人も必要である。全能の神に直談判できるということは、すごいことである。神様を奴隷だと思っている人には、大したことではないかもしれない。全能の神であると知っている神に祈ることの凄さ。しかも、その神様が、アブラハムの言うことを聞いたのだから。ところが、聞いてもらったアブラハムの方に自信がなかった。
創世記18:26~32
クリスチャンの数が多くても少なくても関係ない。100人の礼拝を守ろうが、1000人の礼拝を守ろうが、あまり変わりはない。一人ひとりの信仰者が、神様に従うことは大事である。しかし、10人の真なるキリスト者がいなければならない。わずか10人でも極めて厳格な10人がいれば、とりなしの祈りの対象になる。大きな教会を目指す必要はないが、アブラハムと同じ、このとりなしの祈りができる、10人の信仰者がこの地にいなければいけない。そうでなければ、七尾がほろばされる、能登が滅ぼされる。一人ひとりが救われるために洗礼を受けているのではない。とりなしの祈りをするものとして、この礼拝堂に集わされている。このまちのために、愛するもののために、とりなしの祈りをし続けなければならない。私は、キリストの十字架と復活を受け入れたあなたたちを義としようとおっしゃっている。この10人がいなかったから、ソドムとゴモラは滅ぼされた。愛するもののために、この七尾のために、石川県のために、北陸のために、日本のために、世界のために、とりなしの祈りをし続けていく10人にならねばならない。その合間に、ご自分のお祈りはどうぞ。しかし、とりなしの祈りこそ、祝福を受けたものの最大の務めであることを覚えておきたい。
(2011年8月28日 釜土達雄牧師)
夏の間のささやかな楽しみは、仕事をしている間、ラジオを聞くことである。好きな番組がある。それは、NHKの「子供電話何でも相談」である。お月様がいつも、僕についてくるのですが、何でですか。お父さんは、僕のことが大好きだからついて来る、と言っていました。どう答えるのか、と思っていたら。地球と月との距離があって、それでついて来るように見えるんだよ、という。質問者は5歳の子である。科学で、小さな子供たちに説明するのは大変である。今年は特に哲学的な質問が多かった。なんで、人間はお猿さんから進化しなければいけなかったのか。解説する人は、知識の無さで困っている場合もあるが、なぜ、という問いに答えられない。それは、科学の実像である。かつて、科学に信仰が介入してしまったときがあった。天動説と地動説の問題である。しかし、聖書が語っているのは、世界がどうできたかではなく、なぜできたか、である。なぜ、人をつくられたか。人に何をせよとおっしゃっているか、である。信仰が答えなければならないことと、科学が答えるべきことを、信仰者がきちんと分けていないと、迷った信仰「迷信」になってしまう。わたしたちは、冷静な、人間の理性で、信仰を持っている信仰者である。わたしたちが、この日本という国に生きているということである。聖書に耳を傾けるのは、非常に少ない。それは1%に満たない。しかし、世界の人口の4割がキリスト者である。また、ほぼ同数の人々がイスラム教である。共通しているのは、旧約聖書である。旧約聖書の民ユダヤ教を合わせても、少なくとも世界の8割の人々が、旧約聖書を土台としている。これは、知識として知っていなけれなならない。おおらかな神話の形を借りて、神様が私たちにメッセージを与えていると知っている人は、けっこうな数になる。それらの人々が、信仰の父と読んでいるのが、アブラハムである。先週、アブラハムの召命の場面から御言葉を聞いた。神様が、この歴史に介入して来られたという歴史的事実について聞いた。高き天の御鞍におられて、眺めているだけの方ではない。このアブラハムのお墓は、この地上に存在している。もう一度、読んでみよう。
創世記12章1~3節
イスラエルの誕生も、出エジプトも、イエスキリストの誕生も、十字架と復活も、教会の誕生も、私たちの今の生活も、このアブラハムの創世記12章と関わりのない状態で起こっているのではない。神に対して帰依することにあれほどに熱心なのか。すべては、この言葉にある。
そして4節にアブラムは主の言葉に従って旅立った、とある。アブラムは特別な民として立てられた。事実、歴史は、イスラエルに特別の地位を与えて、その信仰の継承者が人口の8割になるまでになっている。なぜ、神はアブラムを祝福したのか。それは2節、3節の後半に書いてある。祝福の源となるように。地上の支族はあなたによって祝福に入るように。どんなことがあっても、あなたを見捨てないというインマヌエルメッセージである。これが、祝福の根幹である。結婚式のときに、祝福をお与えくださいとよく言っている。どんなことがあっても、この二人を見捨てない、と言っているのである。祝福するというのは、「おめでとう」というのとは違う。どんなことがあっても、私たちはその二人を引き受ける。それが、祝福を与えるものの務めである。聖書には、祝福は自分に対して行ってはいけないと書いてある。神様の祝福が私にあるように、と祈ることは許されている。しかし、私の祝福は、私以外のものに宛てられなければいけない。祝福の源となるということは、そこが源流だということである。アブラムによって、すべての支族が祝福に入る。だから、あなたが祝福するものを祝福し、あなたが呪うものを私は呪うと言ったのである。そのイスラエルが主の祝福を担うつもりがない、と言ったときに起こったのが、バビロン捕囚である。
先週、私たちは教会として、同じ祝福を担っているということを聞いた。わたしたちの責任、祝福の担う者に与えられている責任が、今日の箇所に具体的に示されている。
創世記18:16~25
主と呼ばれているのが、神様である。これが、ソドムとゴモラの滅亡前の姿である。これはよく知られていて映画にもなった。しかし、18章の物語は多くの人は知らない。ソドムとゴモラの話は、19章以下よりも、18章の方が重要である。特に、私たちにとっては。アブラハムは祝福を担うものとなった。そのアブラハムに主はなんと言ったか。
「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」神様は、アブラハムを選んだ。祝福を担うものとして、祝福の中に入れた。私たちも同じ祝福を受けて地上を生きている。礼拝の最後に祝福を受けている。地上に遣わされている。そのアブラハムに対して、(すなわち私たちに対して)主はこう言われている。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」と。神様からの祝福を受けるというのは、神様からの祝福を担うというのは、神様がしようとしておられるということを、聞かされるということである。自分の心を、この人達には明らかにされる、ということである。これが、祝福を担うものにとって、最も大事なことである。
多くの人達は、神様を信じるというときは、自分の気持を神様に言う。ああしてくれ、こうしてくれ、こういう困難から開放してくれ、と。しかし、アブラハムが聞かされたのは、神の心であって、自分の心を言う話ではない。一方的に神様がアブラムを選んで、祝福の源とすると言った。人間の心を聞くために、アブラムを選んだのではない。アブラムが神様を選んだのではない。神様がアブラムを選んだのである。祝福を受けるとは、神様の心を聞くということである。だから、はじめて教会に来た人はびっくりする。どうやって神様を拝んだらよいのか、と思って入ってきたら、讃美歌を歌って、長々と説教が続く。教会は神様、神様と訴えに来る場所ではなく、神様の言葉を聞きにくる場所になっている。昔から、神の言葉は聞くものであった。神の民は、神の言葉を聞くものとして立てられた。聞いて行うものとして、神の民は立てられた。
主がアブラムに約束されたことを成就するためである。私の心を全部かたって聞かせよう、と神様がおっしゃっている。多くの人々は神様を見たいと言う。どこにいるんだ、と言う。姿形を見ることと、神様の心を知ることと、どちらがより近いのか。彼氏の顔が見たいというのと、心が知りたいというのとでは、どちらが結婚の条件になるのだろうか。彼氏の気持ちを聞かなければ、結婚の決断はできない。これは、北陸学院高校では受けの悪い話であった。でも、神を見たものは死ぬのである。神の心を知ったものは、救われる。これも伝わらなかったなあ。私たちにとって大事な事柄は、神様の心を知っていることである。神様の心を知っているのは、大事。それが、祝福を担っているものたちの務めである。心を知らされたアブラハムは、その神の心に愕然とするのである。
創世記18章23~25節
ソドムとゴモラの町に50人の良い人がいたら、その50人のために町を赦すということを考えないのか。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。全能のなんでもおできになる神様の心を聞くことのできる。議論をし、意見をし、やめてくださいと訴えることができる。神と直談判が許されたのは、祝福の源である、祝福を受けたものだけである。それが、神様が祝福してくださるという中身である。アブラハムは訴えた。「正義を行われるべきではありませんか」これは祈りである。神と語り合い、神の心を帰ることさえも、神によって許されているということなのである。
私たちが、イエスキリストの名によって祈ることが許されていることは、安請け合いすることではない。誰にでもひょいひょい言う話ではない。神様に祈るとは、特別なことである。市長は誰か。あの人のところに行くには、議員の一人も必要である。全能の神に直談判できるということは、すごいことである。神様を奴隷だと思っている人には、大したことではないかもしれない。全能の神であると知っている神に祈ることの凄さ。しかも、その神様が、アブラハムの言うことを聞いたのだから。ところが、聞いてもらったアブラハムの方に自信がなかった。
創世記18:26~32
クリスチャンの数が多くても少なくても関係ない。100人の礼拝を守ろうが、1000人の礼拝を守ろうが、あまり変わりはない。一人ひとりの信仰者が、神様に従うことは大事である。しかし、10人の真なるキリスト者がいなければならない。わずか10人でも極めて厳格な10人がいれば、とりなしの祈りの対象になる。大きな教会を目指す必要はないが、アブラハムと同じ、このとりなしの祈りができる、10人の信仰者がこの地にいなければいけない。そうでなければ、七尾がほろばされる、能登が滅ぼされる。一人ひとりが救われるために洗礼を受けているのではない。とりなしの祈りをするものとして、この礼拝堂に集わされている。このまちのために、愛するもののために、とりなしの祈りをし続けなければならない。私は、キリストの十字架と復活を受け入れたあなたたちを義としようとおっしゃっている。この10人がいなかったから、ソドムとゴモラは滅ぼされた。愛するもののために、この七尾のために、石川県のために、北陸のために、日本のために、世界のために、とりなしの祈りをし続けていく10人にならねばならない。その合間に、ご自分のお祈りはどうぞ。しかし、とりなしの祈りこそ、祝福を受けたものの最大の務めであることを覚えておきたい。
(2011年8月28日 釜土達雄牧師)