エアー御用学者筆頭の菊池誠がすごいことに
松浦晋也さんがリツイート
kikumaco(9/7ベアーズ) @kikumaco
トリチウムを含む水を基準値以下まで希釈して海に流しても影響はないし、ましてその海で獲れた魚を食べたところでなんの問題もないのですが、要は「影響がない」ことを誰にどう納得してもらうかという話なので難しい。僕たちとしては、「影響はない」と言い続けるしかないのでしょう
6:29 - 2018年8月30日
210件のリツイート 235 件のいいね
きむらとも @kimuratomo
「トリチウム水の処理については、基準値以下に薄めて海へ放出する案が、期間も短く、コストも低く抑えられると国は評価」
海に撒いても大丈夫と言うなら、東京湾に撒けばいい。
東京五輪で「原発事故を克服した日本」をアピールできて一石二鳥だ。海外選手が来るかは知らんが。
2:25 - 2018年8月30日
@azukiglg
東京湾に放出どころか、東京に打ち水として撒いてもいいんじゃないかと思うんで、どんどん撒くべきである。
希釈して撒くならそれで別に何等問題ない気がする。
kikumaco(9/7ベアーズ) @kikumaco
たいていの科学者は「流しても影響ない」って言うと思うので、科学者に聞いてみるといいのじゃなかろうかなあ
17:43 - 2018年8月30日
44件のリツイート 32 件のいいね
1950年代初頭のアメリカの人気玩具「ミニ研究室キット」ポロニウムとウラン入。(カジノで有名な当時のラスベガスでは観光客向けにネバダ州の核実験場での原子爆弾のキノコ雲見物の観光ツアーが用意され暢気なアメリカ人に人気になっていた)
1950年代、「Tho-Radia」社は香水、スキンクリーム、パウダーやリップスティック放射能による特別な「輝き」を宣伝していた。(第五福竜丸が被曝して無線長だった久保山愛吉さんが死亡した1954年(昭和29年)のビキニ水爆などアメリカが地上で核実験を繰り返いていた)
渡邉英徳 @hwtnv
先日,広島で「核戦争は起きたことがない。これからも起こらない」と主張されるかたにお会いしました。いえ,起きてます。1945年8月6日から9日にかけて。
21:49 - 2018年8月29日
ちなみに,元ツイートは,グラウンド・ゼロ著「核戦争」の一節を受けたものです。広島と長崎についての章の締めのことばは,これです。「核戦争は起こりうる。それは実際に起こったのだ。」
数年前から菊池誠と二人で、二人三脚でツイートしていた松浦晋也も凄いことになっていた。
第二次世界大戦でゼロ戦のパイロットが覚醒剤を使用していたことは良く知られているエピソードだが、敗戦後には日本軍のストックが大量に市場に出回り、眠気覚ましの特効薬としてタクシー運転手とか受験生に愛用されるが、中毒者が続出したことから、1951年(昭和26年)に禁止されている。(禁止されるまで覚醒剤は薬局で売っていたし、もちろん新聞広告も普通に行われていた)
第30回 阿片を巡る読書の補足――覚醒剤と音楽、そして水爆 松浦晋也の“読書ノート”
覚醒剤の実体はメタンフェタミンで、脳内の神経伝達物質であるノルアドレナリンとドーパミンの分泌を促進し、分解を阻害する作用があり、服用者は「頭がすっきりする、疲労が取れる」と感じる日本起原の薬剤だ。
1893年に薬学者の長井長義(1845~1929)が合成に成功、覚醒作用があるので日米開戦の1941年から軍人の疲労回避のために大日本製薬(現・大日本住友製薬)が「ヒロポン」の製品名で大量生産。ギリシャ語の「ヒロポノス(労働を愛する)」からの命名。
戦争中に大量に作られ本土決戦用に備蓄されていたヒロポンは、敗戦後の日本に大量に出回ることになった。
当時は、薬局で普通に購入することができた。
ヒロポンには経口錠剤と注射用アンプル剤とがあり、注射のほうが効きが良かった。「徹夜の友」として、ヒロポンは社会に浸透し、やがて大量の中毒患者が発生。ついに1951年に覚せい剤取締法が制定されてたが、その害は完全に根絶することなく社会を蝕んでいる。
覚醒剤を使っていた作曲家
尾高尚忠(1911~1951)――指揮者・作曲家で39歳で死去。過労死だったという。
新橋の「貨物船」という飲み屋に、尾高尚忠がいつも主のようにたむろしていた。その彼が悠々と密造どぶろくを嗜む。そして合間に、鼠色したハンケチに包んだ携帯用の注射器の箱をおもむろにポケットから取り出し、蓋を開いて針やら何やら細々と机の上に並べ、何の薬か、透明な液体の入ったアンプルを切って、セットした注射器に吸い込ませ、腿を開いてブッスリと注射しては、また悠々と飲んでいた。
後、彼の急死を知る。突然、針ダコの出来たあの腿の皮膚の色が僕の目に浮かんで消えた。
(『北風と太陽』p.195)
ヒロポンの常用が尾高の寿命を縮めた可能性は高いだろう。激務に邁進する尾高が、「疲労回復剤ヒロポン」の害に関していくらかでも知識を持っていたならば――我々は覚醒剤により、人類の遺産となるほどの名曲を失ったのだ。
尾高の記述に続いて小倉は、自らもヒロポン錠剤を試してみた経験を書いている。「その爽快さ! まるで天下を取ったようである。」「特攻隊用にはまさにうってつけと思ったが、劣等感に苛まれる小心翼々にもこたえられない薬と見た。」(同書p.196)。
世界的大作曲家となる武満徹(1930~1996)も覚醒剤を使ったと告白している。
もうほんとうにめちゃくちゃでしたね。毎日が徹夜で、数時間しか寝ていないから、とても身体がもたないんです。(中略)町の医者にいって、覚醒剤のヒロポンを打ってもらったんです。いまじゃとても考えられないことだけれど、そのころはその辺の医者に頼むと打ってくれたんです。(中略)だけどその副作用で、突然よだれが出てきて止まらなくなったり、幻覚を見たりしたんです。ピアノの上のゴミが急にウワーッと動き出したりするんです。気味が悪かったな。
(立花隆著『武満徹・音楽創造への旅』(文藝春秋刊、p.151)
覚せい剤取締法の施行が1951年7月末なので、この時点でヒロポンの使用は非合法化されたが、末端の町医者まで徹底していたわけではなかった。
1954年3月、第五福竜丸事件
米国の水爆実験「ブラボー」の放射性物質を、第五福竜丸が浴びて、乗組員23名が被爆した事件で、同年9月に久保山愛吉無線長が死亡した。直接の死因は肝臓障害。医師団はこの死を「放射能症」と発表し、反核の世論は沸騰した。
しかし現在では、この死は放射線障害ではなくC型肝炎によるものと推定されている。
米国は第五福竜丸と同時に被爆したロンゲラップ環礁の住人の長期間追跡調査を行っている。白血病、甲状腺がんは発生したが、肝臓障害を患った者はいない。
第五福竜丸乗組員の長期追跡調査では、その後肝臓疾患を患った者が多数発生。これは治療として大量輸血が行われた結果、当時は知られていなかったC型肝炎ウイルスに感染したものと推定されている。
久保山氏は、被爆後、診察を受けた時点で肝臓障害の兆候を示していた。被爆以前に久保山氏が肝炎ウイルスに感染していた可能性を示唆する。実際、現在では久保山氏の直接の死因は放射線障害ではなく、C型肝炎ウイルスによる肝炎と推定されている。
当時は注射針の使い回しが当たり前に行われており、集団予防接種などでも肝炎ウイルスの感染が起きていた。あるいはそのような経緯だったのかも知れない。しかし――。
『水爆実験との遭遇』。第五福竜丸の乗組員の健康診断を続けた放射線医の熊取敏之(1921~2004)へのインタビュー。
奥歯に物が挟まったようなあいまいな物言いは。注目すべきは「プライベートなことで言いたくない」という前置きの後だ。「久保山氏の親族で薬物の治療を受けていて肝炎になった者が2名いる」。言いたくない「薬物の治療」とは? そして、そのことがなぜ久保山氏の肝炎に関係するのか。
熊取医師は、親類の影響で久保山氏もなにかの薬物を使ったことを疑っているのではなかろうか。それも注射によって。
注射を使う薬物として敗戦後の日本でもっとも一般的だったのはヒロポンだった。
漁師という長時間の激務を伴う職業からしても、久保山氏が覚せい剤取締法の施行以前に、親類の誘いでヒロポンの注射を試してみた可能性が、そしてその際に注射針の使い回しで肝炎ウイルスに感染した可能性があるのではなかろうか。
敗戦後に放出された軍需物資である覚醒剤は、肝炎ウイルスと水爆を介して、日本の戦後史を大きく変えたということになる。久保山氏が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と言い残して死亡したことにより、反核兵器の世論は一気に盛り上がった。原水爆禁止の署名運動は同年12月までに2000万人もの署名を集め、翌1955年8月に、広島で第1回原水禁世界大会が開催された。
死をもたらしたのが実際には肝炎ウイルスであった。そしてもし、ウイルス感染の原因が当時は合法であった「疲労のとれる薬」のヒロポン注射で、注射針を使い回した結果だった。
(抜粋)
松浦晋也さんがリツイート
kikumaco(9/7ベアーズ) @kikumaco
トリチウムを含む水を基準値以下まで希釈して海に流しても影響はないし、ましてその海で獲れた魚を食べたところでなんの問題もないのですが、要は「影響がない」ことを誰にどう納得してもらうかという話なので難しい。僕たちとしては、「影響はない」と言い続けるしかないのでしょう
6:29 - 2018年8月30日
210件のリツイート 235 件のいいね
きむらとも @kimuratomo
「トリチウム水の処理については、基準値以下に薄めて海へ放出する案が、期間も短く、コストも低く抑えられると国は評価」
海に撒いても大丈夫と言うなら、東京湾に撒けばいい。
東京五輪で「原発事故を克服した日本」をアピールできて一石二鳥だ。海外選手が来るかは知らんが。
2:25 - 2018年8月30日
@azukiglg
東京湾に放出どころか、東京に打ち水として撒いてもいいんじゃないかと思うんで、どんどん撒くべきである。
希釈して撒くならそれで別に何等問題ない気がする。
kikumaco(9/7ベアーズ) @kikumaco
たいていの科学者は「流しても影響ない」って言うと思うので、科学者に聞いてみるといいのじゃなかろうかなあ
17:43 - 2018年8月30日
44件のリツイート 32 件のいいね
1950年代初頭のアメリカの人気玩具「ミニ研究室キット」ポロニウムとウラン入。(カジノで有名な当時のラスベガスでは観光客向けにネバダ州の核実験場での原子爆弾のキノコ雲見物の観光ツアーが用意され暢気なアメリカ人に人気になっていた)
1950年代、「Tho-Radia」社は香水、スキンクリーム、パウダーやリップスティック放射能による特別な「輝き」を宣伝していた。(第五福竜丸が被曝して無線長だった久保山愛吉さんが死亡した1954年(昭和29年)のビキニ水爆などアメリカが地上で核実験を繰り返いていた)
渡邉英徳 @hwtnv
先日,広島で「核戦争は起きたことがない。これからも起こらない」と主張されるかたにお会いしました。いえ,起きてます。1945年8月6日から9日にかけて。
21:49 - 2018年8月29日
ちなみに,元ツイートは,グラウンド・ゼロ著「核戦争」の一節を受けたものです。広島と長崎についての章の締めのことばは,これです。「核戦争は起こりうる。それは実際に起こったのだ。」
数年前から菊池誠と二人で、二人三脚でツイートしていた松浦晋也も凄いことになっていた。
第二次世界大戦でゼロ戦のパイロットが覚醒剤を使用していたことは良く知られているエピソードだが、敗戦後には日本軍のストックが大量に市場に出回り、眠気覚ましの特効薬としてタクシー運転手とか受験生に愛用されるが、中毒者が続出したことから、1951年(昭和26年)に禁止されている。(禁止されるまで覚醒剤は薬局で売っていたし、もちろん新聞広告も普通に行われていた)
第30回 阿片を巡る読書の補足――覚醒剤と音楽、そして水爆 松浦晋也の“読書ノート”
覚醒剤の実体はメタンフェタミンで、脳内の神経伝達物質であるノルアドレナリンとドーパミンの分泌を促進し、分解を阻害する作用があり、服用者は「頭がすっきりする、疲労が取れる」と感じる日本起原の薬剤だ。
1893年に薬学者の長井長義(1845~1929)が合成に成功、覚醒作用があるので日米開戦の1941年から軍人の疲労回避のために大日本製薬(現・大日本住友製薬)が「ヒロポン」の製品名で大量生産。ギリシャ語の「ヒロポノス(労働を愛する)」からの命名。
戦争中に大量に作られ本土決戦用に備蓄されていたヒロポンは、敗戦後の日本に大量に出回ることになった。
当時は、薬局で普通に購入することができた。
ヒロポンには経口錠剤と注射用アンプル剤とがあり、注射のほうが効きが良かった。「徹夜の友」として、ヒロポンは社会に浸透し、やがて大量の中毒患者が発生。ついに1951年に覚せい剤取締法が制定されてたが、その害は完全に根絶することなく社会を蝕んでいる。
覚醒剤を使っていた作曲家
尾高尚忠(1911~1951)――指揮者・作曲家で39歳で死去。過労死だったという。
新橋の「貨物船」という飲み屋に、尾高尚忠がいつも主のようにたむろしていた。その彼が悠々と密造どぶろくを嗜む。そして合間に、鼠色したハンケチに包んだ携帯用の注射器の箱をおもむろにポケットから取り出し、蓋を開いて針やら何やら細々と机の上に並べ、何の薬か、透明な液体の入ったアンプルを切って、セットした注射器に吸い込ませ、腿を開いてブッスリと注射しては、また悠々と飲んでいた。
後、彼の急死を知る。突然、針ダコの出来たあの腿の皮膚の色が僕の目に浮かんで消えた。
(『北風と太陽』p.195)
ヒロポンの常用が尾高の寿命を縮めた可能性は高いだろう。激務に邁進する尾高が、「疲労回復剤ヒロポン」の害に関していくらかでも知識を持っていたならば――我々は覚醒剤により、人類の遺産となるほどの名曲を失ったのだ。
尾高の記述に続いて小倉は、自らもヒロポン錠剤を試してみた経験を書いている。「その爽快さ! まるで天下を取ったようである。」「特攻隊用にはまさにうってつけと思ったが、劣等感に苛まれる小心翼々にもこたえられない薬と見た。」(同書p.196)。
世界的大作曲家となる武満徹(1930~1996)も覚醒剤を使ったと告白している。
もうほんとうにめちゃくちゃでしたね。毎日が徹夜で、数時間しか寝ていないから、とても身体がもたないんです。(中略)町の医者にいって、覚醒剤のヒロポンを打ってもらったんです。いまじゃとても考えられないことだけれど、そのころはその辺の医者に頼むと打ってくれたんです。(中略)だけどその副作用で、突然よだれが出てきて止まらなくなったり、幻覚を見たりしたんです。ピアノの上のゴミが急にウワーッと動き出したりするんです。気味が悪かったな。
(立花隆著『武満徹・音楽創造への旅』(文藝春秋刊、p.151)
覚せい剤取締法の施行が1951年7月末なので、この時点でヒロポンの使用は非合法化されたが、末端の町医者まで徹底していたわけではなかった。
1954年3月、第五福竜丸事件
米国の水爆実験「ブラボー」の放射性物質を、第五福竜丸が浴びて、乗組員23名が被爆した事件で、同年9月に久保山愛吉無線長が死亡した。直接の死因は肝臓障害。医師団はこの死を「放射能症」と発表し、反核の世論は沸騰した。
しかし現在では、この死は放射線障害ではなくC型肝炎によるものと推定されている。
米国は第五福竜丸と同時に被爆したロンゲラップ環礁の住人の長期間追跡調査を行っている。白血病、甲状腺がんは発生したが、肝臓障害を患った者はいない。
第五福竜丸乗組員の長期追跡調査では、その後肝臓疾患を患った者が多数発生。これは治療として大量輸血が行われた結果、当時は知られていなかったC型肝炎ウイルスに感染したものと推定されている。
久保山氏は、被爆後、診察を受けた時点で肝臓障害の兆候を示していた。被爆以前に久保山氏が肝炎ウイルスに感染していた可能性を示唆する。実際、現在では久保山氏の直接の死因は放射線障害ではなく、C型肝炎ウイルスによる肝炎と推定されている。
当時は注射針の使い回しが当たり前に行われており、集団予防接種などでも肝炎ウイルスの感染が起きていた。あるいはそのような経緯だったのかも知れない。しかし――。
『水爆実験との遭遇』。第五福竜丸の乗組員の健康診断を続けた放射線医の熊取敏之(1921~2004)へのインタビュー。
奥歯に物が挟まったようなあいまいな物言いは。注目すべきは「プライベートなことで言いたくない」という前置きの後だ。「久保山氏の親族で薬物の治療を受けていて肝炎になった者が2名いる」。言いたくない「薬物の治療」とは? そして、そのことがなぜ久保山氏の肝炎に関係するのか。
熊取医師は、親類の影響で久保山氏もなにかの薬物を使ったことを疑っているのではなかろうか。それも注射によって。
注射を使う薬物として敗戦後の日本でもっとも一般的だったのはヒロポンだった。
漁師という長時間の激務を伴う職業からしても、久保山氏が覚せい剤取締法の施行以前に、親類の誘いでヒロポンの注射を試してみた可能性が、そしてその際に注射針の使い回しで肝炎ウイルスに感染した可能性があるのではなかろうか。
敗戦後に放出された軍需物資である覚醒剤は、肝炎ウイルスと水爆を介して、日本の戦後史を大きく変えたということになる。久保山氏が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と言い残して死亡したことにより、反核兵器の世論は一気に盛り上がった。原水爆禁止の署名運動は同年12月までに2000万人もの署名を集め、翌1955年8月に、広島で第1回原水禁世界大会が開催された。
死をもたらしたのが実際には肝炎ウイルスであった。そしてもし、ウイルス感染の原因が当時は合法であった「疲労のとれる薬」のヒロポン注射で、注射針を使い回した結果だった。
(抜粋)