城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

蝦夷国 五稜郭

2024-06-24 00:00:00 | 城館
蝦夷国蝦夷五稜郭 [ゴリョウカク]
別称なし
城郭構造稜堡式平城
築城年不明
廃城年不明
指定史跡市指定
住所函館市五稜郭町44‐2 [MAP]
スタンプ設置場所
御城印販売場所

概要
五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行配下の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎成章により、中世ヨーロッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。稜堡とよばれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟が建てられました。安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が
移転して蝦夷地における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治2年5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治4年に開拓使もより郭内建物のほとんどが解体され、大正時代以降は公園として開放されています。五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています。
※現地案内看板より

大手口

二の橋

表門




榎本武揚顕彰碑

オランダ留学を経て幕府の海軍副総裁になり、幕府崩壊後に新政府への軍艦引き渡しを拒否して脱走した。
箱館に旧幕臣による仮政権を築いたが、箱館戦争で敗れて降伏することとなった。
そして明治政府要職に就いた人物である。 

身隠土塁

一文字土塁とも呼ばれ、外部から内部を見られないように虎口の内側に造られた「蔀」である。


箱館奉行所
箱館奉行所は、幕末の箱館開港により設置された江戸幕府の役所で、奉行所の防御施設として築造されたのが五稜郭です。
安政4年(1857)に着工して7年後の元治元年(1864)に完成し、蝦夷地の政治的中心となりました。
明治維新の際には戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台となり、明治4年(1871)に奉行所庁舎は解体されました。
それから140年の時を経て、平成22年(2010)に箱館奉行所が復元されました。
※現地案内看板より


裏門


明治34年頃、本道開拓の先覚者川田男爵が海外旅行し、
帰途数個の種馬鈴薯を手に入れ、七飯町に植えて、繁殖させ、
「男爵薯」と命名したのを記念した石碑。 



跳出石垣


跳出は、石垣の上部に庇のように張り出している部分で、石垣を登ろうとする敵兵を跳ね返す構造を持っている。

五稜郭タワー

土方歳三像
剣術を学び、徳川幕府の紀冊組織の一つである「新選組」の副隊長となり、京都に於いて、反徳川勢力を取締っていた。
五稜郭の徳川幕府軍では、陸軍の副司令官として戦いを指揮しました。 

30ポンド短カノン砲

展望台からの眺望

五稜郭復元模型

半月堡
当初はすべての稜堡間に設ける予定だったが、予算の都合で
この一か所だけになった。

2018/5訪問


 
 



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