武蔵国 由木城 <ユギジョウ> | ||
別称 | 柚木城・由木氏館・大石氏館 | |
城郭種別 | 城郭 | |
縄張り | 平山城 | |
築城者 | 由木氏 | |
築城年 | 不明 | |
廃城年 | 不明 | |
主な城主 | 由木氏、長井氏、大石氏 | |
指定史跡 | 市指定 | |
住所 | 東京都八王子市下柚木 [Google] [地理院地図] | |
城址碑 | あり | |
現地案内板 | あり | |
スタンプ | ||
現存建造物 | なし | |
復元建造物 | なし |
概要
武州滝山城主大石源左衛門尉定久の居館があったといわれ、由木城とも呼ばれてる。
定久はのちに隠居し「心月斎(真月斎)」と名のり、この一帯100万㎡の広大な地を永林寺々領としたという。このあたり野猿峠までを殿ヶ谷戸というが、これは「往昔由木氏が旧跡なるゆえ、おのずから殿のあとという心にて殿ヶ谷戸と唱えて、村の小名に称すなり」と「武蔵名勝図会」に記されているとおり、由木氏の居住地でもあったと推定される。
定久はのちに隠居し「心月斎(真月斎)」と名のり、この一帯100万㎡の広大な地を永林寺々領としたという。このあたり野猿峠までを殿ヶ谷戸というが、これは「往昔由木氏が旧跡なるゆえ、おのずから殿のあとという心にて殿ヶ谷戸と唱えて、村の小名に称すなり」と「武蔵名勝図会」に記されているとおり、由木氏の居住地でもあったと推定される。
総門
天文15年(1546年)建立。文禄4年に野火により焼失。宝暦元年(1758年)に再建される。1間薬医門切り妻造り銅板葺き。公卿格式10万石を徳川家康公により与えられた永林寺は、朱塗りの門と壁の5条線が許され、これより、由木の赤門と呼ばれている。総門は、文政11年(1828年)に八王子小町土佐棟梁により再大改修され現在に至る。
※現地看板より
三門
天文15年(1546年)建立。文禄4年に野火により焼失。寛文9年(1669年)相州藤原貞通棟梁により、再建3間1戸総円柱二階二重門入母屋造り銅版葺き。安永4年(1775年)12月に解体大改修され、その後昭和40年に大改修され現在に至る。三門上には、16羅漢木造を安置し、正面両側に仁王像を安置する。
三門とは、空門(一切を空と観ずる)無相門(迷いの煩悩を離れ悟りを得る)無願門(真実を悟り願求するところがない)三解脱門のことである。この三解脱を得て本堂に向かう大切な門である。
※現地看板より
中雀門(勅使門)
金峰山 永林寺
永林寺は、大石源左衛門尉定久公の居館(由木城)であったものを、定久公が滝山城主として滝山城に移るに至り、叔父である一種長純大和尚に譲り、天文元年(1532年)3月永鱗寺として創建された。その後八王子城主北条氏照公の助成を受けて天文15年七堂伽藍の完備された大寺院が完成された。天正15年後陽成天皇より勅願寺の綸旨を受け護国殿の勅額を受ける。天正19年9月徳川家康公が当寺に巡拝された折り、朱印10石、公卿格式10万石を授けられ、赤門の建立が許可された。又永鱗寺の鱗の文字を林に変え、現在の永林寺の寺名となり今日に至っている。又、当地域に10ヶ寺の末寺を有する、格地本寺寺院である。永林寺には、大石家丸に三つ星、北条家三つ鱗、天皇家菊、53の桐、徳川家三つ葉葵等五つ紋を有しており、往時を偲ぶ事が出来る。
※現地看板より
下馬
主郭
城址碑
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周辺地図
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※ 城址等は、私有地になっている場合もありますので、有権者の確認を行うなどをし他の人の迷惑になるような行為はやめましょう。
※ 自分で出したゴミは、家に持ち帰り処理を行うようにしましょう。
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