城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

陸奥国 千石城

2024-07-17 06:40:45 | 城館
陸奥国千石城 [センゴクジョウ]
別称千石館・松山城・松山館・文覚館Coming Soon
城郭構造山城
築城年1401年
廃城年不明
指定史跡指定なし
住所大崎市松山千石本丸6 [MAP]
スタンプ設置場所
御城印販売場所

概要
千石城は千石村に所在したのでその名称がつきました。「茂庭家記録」によると文覚館といわれ、文覚上人が築いたとありますが明確な築城年代はわかりません。しかし初期の居館が鎌倉時代には存在したともいわれます。城を築いたとされる文覚上人の後裔が遠藤氏であったと伝えられており、盛継が鎌倉公方足利満兼から志田・玉造・加美の三郡奉行に任ぜられ、応永8年(1401)に関東より長世保に下向したとされます。以後、遠藤氏は天正19年(1591)登米郡石森に移されるまで千石城に居住し、松山郷全域を支配しました。千石城が本格的に整備されるのは遠藤氏が松山に下向した南北朝期以降と推測されます。城が文献から確認できるのは天正16年(1588)の大崎合戦が最初で、城主は遠藤高康でした。戦国期には伊達領境目の城として大崎氏や葛西氏に対峙する重要な役割を果たしていました。その後石川昭光、古田重直が千石城を一時居館としますが、慶長8年(1603)からは茂庭良元が松山の領主となり、千石城の三ノ丸を修復して居館を構えました。しかし手狭という理由で、寛永8年(1631)に谷を挟んだ西向かいの丘陵上に下屋敷として上野館を築き、隠居して慶安4年(1651)に移ります。代って定元が千石城に入りますが、明暦3年(1657)藩の許可を得て上野館に居館を移し、千石城には留守居として家臣が置かれるだけとなりました。延宝年間(1673~80)の「仙台領古城書上」には志田郡松山四城の一つとして千石城が記されており、この時期には城として機能していなかったものと思われます。なお、千石城の規模や配置を復元する上で参考となる絵図が2点残っています。このうち「寛永絵図」と呼ばれるものは製作年が不明ですが、上野館が下屋敷とあるので寛永年間の後半に描かれた現存する最古の絵図と考えられており、城が使われた最後の状態を伝えるものといわれます。もう1点は、天和元年(1681)に製作された「志田郡松山之内千石村茂庭周防屋敷絵図」です。これらの絵図は往時の姿を伝える貴重な資料です。
※現地看板より



 
 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。