城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

武蔵国 江戸城

2024-07-24 16:05:10 | 城館
武蔵国江戸城 [エドジョウ]
別称千代田城
城郭構造輪郭式平城
築城年1457年
廃城年1868年
指定史跡特別史跡
住所千代田区千代田1?1 [MAP]
スタンプ設置場所渋沢×北区 飛鳥山 おみやげ館
御城印販売場所楠公休憩場、和田倉休憩場、北の丸休憩場

概要
江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。明治維新後江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。この江戸城跡は、3百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和38年5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。
※現地看板より

和田倉橋

この橋を、和田倉橋といいます。ここには、かつて江戸城の守衛のために築かれた内郭門の一つ和田倉門がありました。橋を渡った皇居外苑側には枡形石垣があり、橋と一体で門を構成していました。慶長7年(1602)頃といわれる「別本慶長江戸図」には橋が描かれ、「蔵の御門と云、士衆通行の橋」と記述があります。また、「御府内備考」には、橋の由来が「慶長12年頃の図に、ここに和田蔵と称せし大なる御蔵二棟を図せり。是御門の名の起こる処なり。(後略)」と記され、蔵があったため門が名付けられたとしています。なお、徳川家康が江戸に入った時、この辺は和田倉という村落であったという説もあります。和田倉門には、鉄砲10挺・弓5張・長柄槍10筋・持筒2挺・持弓1組が常備されています。警備は、譜代大名で2万石から3万石の者が担当していました。この橋は、昔そのままに復興されたものですが、江戸城の門と橋を偲ぶのにふさわしい景観をみせています。
※現地看板より

和田倉門跡

桜田巽櫓と富士見櫓


大手門 

大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城しました。大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃し易い構造になっています。大きい方の門は、昭和20年(1945年)4月の空襲で焼失し、昭和42年(1967年)に復元されました。焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、頭部に「明暦3丁酉」(1657年)と刻まれています。この明暦3年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火が起きており、鯱は、大火の後、江戸城再建時に製作されたものと考えられます。
※現地看板より

同心番所 

「番所」とは警備詰所のことで、江戸城にあった番所のうち、百人番所、大番所、同心番所の3つが残っています。ここには主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視に当たっていました。屋根瓦には、皇居の菊の御紋のあるものや徳川家の葵の紋があるものが見られます。
※現地看板より

百人番所 

江戸城本丸への道を厳重に守る大手中之門に向き合って設けられた警備詰所です。甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組という4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していました。各組は、20人の与力と、100人の同心で構成されていました。
※現地看板より

中之門跡 


大番所
大番所は、大手中之門の内側に設けられていた警備詰所です。ここには位の高い武士が勤務していました。この番所は、明治期に改築され、作業所として使われていましたが、昭和43年(1968年)に江戸時代の姿に復元されました。
※現地看板より


中雀門跡 

本丸跡 


天守台 

徳川家康の入城以来、江戸城では、慶長度天守(1607年)、元和度天守(1623年)、寛永度天守(1638年)と3度、天守が建てられました。最も規模が大きかった寛永度天守は、地上からの高さが約58mあったといわれています。この天守台は、寛永度天守が明暦の大火(1657年)により焼失した後、天守再建を目指して万治元年(1659年)に築かれたものですが、幕府内で、天守は不要との結論が下され、この天守台には天守が建てられないままになりました。江戸時代の江戸城は、天守があった50年間の後、天守がない状態が210年間続いたことになります。
※現地看板より

天守台穴蔵 



北桔橋門 


乾門 


半蔵堀 

半蔵門 
江戸城内郭門の一つで、「こうじまち口」とも呼ばれ、四谷門とともに甲州街道の要衝となっていました。名前の由来は、伊賀者の服部半蔵がこのあたりに配下とともに屋敷を拝領していたという説があります。ほかにも、この門から城内に入る山王祭礼の象の山車が枡形門をくぐることができず、半分だけしか入らなかったという説もあります。門は1620年(元和6年)仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗ほか6名の東国大名により築造されました。江戸時代には、半蔵門から入り北に進み、現在の代官町通りを通って、竹橋門(現在の竹橋駅付近)に抜けることができました。1871年(明治4年)に渡櫓門は撤廃され、現在は高麗門だけが残り、皇室の皇居への通用門として使用されています。
※現地看板より
桜田堀 

城跡碑 


外桜田門

現在この門は桜田門と呼ばれていますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。
外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外枡形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(320坪)。建築されたのは寛永年間(1624~44)とされ、現存する門は、寛文3年(1663)に再建された門がもとになっています。大正12年(1923)の関東大震災で破損し、復元されました。万延元年(1860)3月3日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。
※現地看板より

桜田門

二重橋
皇居前広場から宮殿へ至るまでに2つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」です。奥の橋はかつて「下乗橋」と言われ、橋桁を支えるために二重構造となっていたことから、「二重橋」の名がつきました。
※現地看板より



桜田巽櫓


2017/6訪問
2024/1訪問


 
 


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