我が家の平日の夕食は、仕事で少し遅くなりがちな私とチーコさんが二人で食べることが時々ある。
で、先日、そういう状況でテレビの某バラエティ番組から、こんなエピソードが流れてきた。
初老の男性が、近所に住む娘さんの住まいを訪ねた時に、台所の水道に浄水器が設置されていないことに気付いた。
この男性は配管工の資格を持っており、また自宅に少ししか使っていない浄水器があったので、それを娘の家の水道に設置した。
するとその浄水器を通した水を飲んだ娘は、ひどい腹痛を起こして入院する破目になってしまった。
実はその浄水器は、少ししか使ってないとはいえ、水を通した状態で何年も経過していたために、内部で雑菌が繁殖しており、それが腹痛の原因となったのだ。
そしてこの顛末を聞いたチーコさん曰く。
「資格を持っているのに、何で(そんな浄水器を設置した)?」
そこで私は「配管工の資格を持っているからといって、衛生の知識があるとは限らない。専門家というのは得てしてそういうものだ」と、気持ちとしては助け舟に近い意味合いで言ってみた。
…のだが、チーコさんは「頼りないなあ」と一刀両断。
ここで私はもう少し、
「いや、つまり誰にでも得手不得手があるのだ」とか、「だから各々が得意分野でフォローしあえば良いのだ」とか、「そもそも何かを極めるということは、何かを犠牲にするということだ」とか、そういう意味合いのことを言いたかったのだが、適切な表現が思いつかなかった。
私は昔からアドリブが苦手なのだ。というか、実は今でも思いついていない。
大体、何かを極めたり特化したりしたために、他の部分が脆弱になるようなら、それはやはり「頼りない」と言われても仕方ないのではなかろうか。
こういう時には「まだ二十歳かそこらの若者には分からない」というのも一法かもしれないし、私もそういう物言いが許される年齢にはなったのかもしれない。
だが私は元々「大人になれば分かるよ」的な表現が苦手である。
例えば師匠然とした老人が、未熟な弟子に向かって「お前にも何れ分かる。時が来ればな」などと諭す場面など、想像するだけでイライラしてしまうのだ。
ひょっとしたら若い頃よりも、50歳をとうに過ぎた今の方がイライラ度は高いかもしれない。
それは多分、分かったような顔をした年配者も、実は結構な高確率で分かった振りを(時には自分に対してさえ)しているだけだということを知ってしまったからであろう。
まあ、チーコさんに対してそんな「分かった振りをした年配者」のような真似を咄嗟にしなかっただけでも良しとしよう。