十兵衛と語ろう

十兵衛と語ろう

月之抄25

2011-08-02 12:51:22 | 月之抄
無理拍子という心持の事
親父殿曰く。これは立ち会い時に、ハタハタと途切れなく叩きかかることを云う。「打ちの中に打ちがある」の心持である事。この間を敵が勝とうとすると、それをも打ちこんでしまって勝つのである。さもなくば、叩きこんで、追い込んで敵が打ってくることならざるものなのである。たとえて言うなら大鼓、小鼓のもみだし打ちのようなものである。間へ入る所を勝つのである。間には入れないのなら、合うところを又勝つのである。目の前にあることであるけれども、一つの心持がなければそれもかなわない。
一習いの事
 爺様の目録に、三個の拍子の習いについて、三重の大事で真の位は上詰の方法であると呼んでいる、と書いている。理論は書いていない。この教えは徳川家康公の御稽古の目録に爺様が書いたものである。親父殿曰く。「一つ」と言って、一の字を動作でも、心でも筆を取って書いて体得しなさい。「一」というところから何事も出てくるのである。兵法話の例えに、一の裏は六というように、一と十が一つになる心持のことである。一を二つすれば、二になる。一を縦横にすれば十になるのである。十となって又、一に帰るのである。至極になっては初心に帰る心持である。初心に帰った芸は、名人の芸である。初めて始まる所は一つである。修まって又一つである。これが「一つの習い」の教えである。格を修めてから、格を離れる心持である。
いずれも相構えの心持のこと
 親父殿曰く。昔、飯篠(天真正伝香取神道流宗家)が、敵が陰の構えならば、自分も陰の構え、敵が陽の構えであるなら、自分も陽の構えが良い、と云ったと伝え聞いている。この考えは面白い。敵のように構えを用いる時、敵に勝つことは難しくないだろう。自分が試合する心持に「ゆきたつ?}と云う。爺様の目録には別に意味を書いていない。又曰く。構えるならば相構えが良い。所作の道はいずれにしてもこの心持がいい。
先々の事
 親父殿曰く。是は勝つところの極めつけの要点である。兵法の至極である。数々の教えもこれに至らんためのものである。ここに至れば、教えはいずれも不要だよ。悪いお話となる。悪いと知りながら、高望みをするよりは、悪い教えである。捨てるに捨てられぬ教えである。教えなくして、自然に教えに出逢う。自覚のないまま至極に至る、この極意が「先々の心」である。自分の心を敵にして試合をすれば、この先々のことを早く思い掛けた方が勝つ。無理に仕掛けて、無理に勝ち、これも非も入らずに初めの思い一念に早く至った方が先々の勝ち口なのである。善悪は一つである。この心構えは、たるんでくるものである。うっかりするものである。うっかりしないでおこうとすると、居固まる(固まってしまう)のである。これをよくしようとするには、「指目西江水」の教えである。心は、それ一本である。初めの一念の起こり始まる元は心である。この心を「西江水」において是は、初めの一念の起こる所は、先々と勝つところなのだ。起こる初めの一念を「指目」と云うのである。心は考えの元であるので、心が先である。初めの一念は、技の先である。故に、先々なのである。是が極意である。初め一念は、技の元なのである。初め一念に間のなき(間髪いれない)打ちを茂拍子というのである。心を先にする教えに「先性」という心境がある。是が心の至極と知るべし。「空」が先であると云うのも心である。平常心のことである。爺様の目録には理は書いていない。公方様が御普請の時に、「待」と「懸」とは同じ先であるのか?と親父殿に尋ねられた。親父殿曰く。「待」の心は「先」にとっては誤りです。良くないことです。しかし、敵の先を取って待つのは、「待」ではありません。この心境が得られたなら、「待」も「懸」も先々なのです。又、先々だよと思っていればそれが動作に現れるものです。この心境を得るには以心伝心の所業です、と。公方様が沢庵和尚へ尋ねられた。立上がりの段階から先を取って、このまま行くと思っていても、先をしくじる事があるのは何故なのか?と。沢庵和尚は答えられた。思い始めた心は、変わらないのだけれど、途中で物事に囚われたのです。一本の木が末の先まで、一本であっても、枝葉で分かれているようなものです。教えからまれであるほどです?と言われた。たとえば、まっすぐに歩いている人の後ろから、左を見るな、右を見るな、まっすぐに行け、というのに囚われて、まっすぐに行けないようなものである。蠅は明かりのあるところへ出よう出ようとして、障子などにぶつかります。障子に当たったのなら、後ろへ帰ったならば、明りの方へ出られるのを知らないのです。仏法の上でも、是が本文であるとばかり思いつめるのは、その蠅のたとえの云うのです、等々と言われた。