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―インドの描いた新鮮な日英関係史―(GHQ焚書図書開封 第155回)

2022-02-20 14:46:19 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第155回

-インドの描いた新鮮な日英関係史―

したたかにして、冷酷にして、計算づくで、しかも驚くほどの奸智にたけたイギリスの統治のやり方、単に残虐というだけでなく、心理的にしたたかで、政治的陰謀や、起こりうる可能性を徹底的に計算づくして、人心を操縦する。貿易も軍事も経済も全て翻弄するイギリスのしたたかなやり方を事例でインド人が告発した例を前回は取り上げた。

 地球上の地表の30%を領土としたイギリスは、未開民族に文明を与え、指導するのが白人の重責という使命のもとに、各国民の自由と全てのものを奪った。

 太陽の没するところがない大英帝国といわれるほど、五大州(アジア州、ヨーロッパ州、 アフリカ州、アメリカ州、オセアニア州)の多くの場所にユニオン・ジャックがはためいたのである。

これは、商品と聖書を持ち、貿易と軍隊で新しい牧場(未開の地)に乗り出した結果である。

この極悪非道なやり方に「NO」と言った民族がいた。それが我国日本である。

 世界の覇権を握ったイギリスにとって、次に伸びてくるヨーロッパにおける強敵は、ドイツ、フランス、ロシアであった。特に、科学技術分野で著しく国力をつけ、海洋に出てこようとしたドイツはイギリスにとって最大の脅威であった。

また、アジアにおいてはイギリス領チベット、インドが、ロシアの南下によって侵略される危機にあった。

1902年(明治35年)の日英同盟は、日本とロシアが戦争をするために結ばれた。その背後には、日本とロシアを戦わせたいという英国の陰険な勢力の陰謀があった。日露戦争が、英国とロシアの代理戦争と言われる所以である。

 日本とロシアと長く戦わせて、両方の国力を削ごうとしていたのである。英国に、日本の「至誠」は通じなかったのである。

 第一次世界大戦後、英国は日本に対して忘恩的態度を執るようになった。戦争で、国力の落ちた英国は、台頭してきた米国に依存せざるを得ず、米国の方針に従うようになったからである。

ロシア革命5年後、支那の学生、若者は英米キリスト教会からコミンテルンに走るようになった。ソ連が英米側についたのであるが、どうしてそうなったのかは謎である。その後、説明のできない歴史上の同時代的な大きな事件が続くのである。これは、英米を支配していたロスチャイルド家の世界戦略(NWO)によるものであることが今日明らかになっている。

スペイン内乱が支那事変が勃発する前に起こり、いずれも、イギリス、ソ連、アメリカが関与しているのである。支那事変の場合は日本の支那の意思を越えた戦争へと発展していったのである。欧州大戦が進行し、ドイツとソ連によるポーランド侵攻が行われた。こうして、第二次世界大戦の構図ができあがった。

 参考文献:「英帝国敗るるの日」エ・エム・サハイ、「THE ROTHSCHILD」林千勝

2018/01/17に公開

 



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