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柳緑花紅-香山便り

日々の記録です

桓武天皇・文徳天皇の郊祀「交野柏原」

2018-05-08 01:20:40 | 民俗学・民族学・地域

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郊祀

 

冬至の頃、河内国交野郡での桓武天皇・文徳天皇の郊祀が行われた場所はどこでしょう?

 

 

郊祀の記録

 

延暦4年(785年)11月10日(グレゴリオ暦12月20日

 


十一月……壬寅祀㆓天神於交野柏原㆒賽㆓宿禱㆒也


""延暦四年十一月"続日本紀,第三十八巻,藤原継縄[他],明暦3 [1657]

 

延暦6年(787年)11月5日(グレゴリオ暦12月22日

 


十一月甲寅祀㆓天神於交野㆒其祭文曰維延暦六年歳次㆓丁卯㆒十一月庚戌朔甲寅嗣
 天子臣謹遣㆓従二位行大納言兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣継縄㆒敢昭告㆓于昊天上帝㆒臣恭膺㆓睠命㆒嗣㆓守鴻基㆒幸賴穹蒼降㆑祚覆燾謄㆑徴四海妟然万姓康楽方今大明南至長晷初昇敬采㆓燔祀之義㆒祇修㆓報徳之典㆒謹以㆓玉帛犠牲粢盛庶品㆒備㆓茲禋燎㆒祇薦㆓潔誠㆒
 高紹天皇配神作主尚饗又曰維延暦六年歳次㆓丁卯㆒十一月庚戌朔甲寅孝子皇帝臣謹遣㆓従二位行大納言兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣継縄㆒敢昭告㆓于 高紹天皇㆒臣以㆓庸虚㆒忝承㆓天序㆒上玄錫㆑祉率土宅㆑心方今履長伊始粛郊褾用致㆑燔祀㆓于昊天上帝
  高紹天皇慶流㆓長發徳冠㆓思丈㆒封越昭升永言配㆑命謹以制㆓幣犠㆒齊㆓粢盛庶品㆒式陳㆓明廣㆒侑神作主尚饗   


"延暦六年十一月"続日本紀,第三十九巻藤原継縄[他],明暦3 [1657]

 

斉衡3年(856年)11月25日(グレゴリオ歴12月26日)、11月25日「夜漏上㆑水一尅」とは水時計の漏刻の夜漏水上一尅(刻)という意味でしょうか?

 辛酉(※廿二)遣㆘権大納言正三位安陪朝臣安仁侍從從四位下輔世王等向㆗後田原山陵㆖告以配㆑天之事策(命)曰  天皇大命掛畏平城宮(尓)天下所(?)㆑知(尓)倭根子天皇御門(尓)申賜(閇止)奏今月廾五日河内國交野(乃)原(尓)昊天祭(止志天)掛畏御門(乎)主(止)定奉(天)可㆑祭事(乎)畏(牟)畏(牟毛)申賜(久止)奏攝津守從五位上清原眞人益吉散位從五位下仲井王等賜㆓姓文室眞人㆒
壬戌(※廿三)大㆓祓於新成殿前㆒諸陣警戒帝進出㆒庭中㆒大納言正三位藤原朝臣良相跪授㆓郊天祝板㆒左京大夫從四位下菅原朝臣是善捧㆓筆硯㆒
 帝自署㆓其諱㆒訖執班北面拜㆑天乃遣㆘大納言正三位藤原朝臣良相右大弁從四位上清原眞人岑成左京大夫從四位下菅原朝臣是善右中弁從四位上藤原朝臣良繩等向㆓河内國交野郡柏原野㆒設蘊習礼祠官盡會
甲子(※廿五)有事圓丘㆒夜漏上㆑水一尅大納言藤原朝臣良相等歸來獻㆑胙


日本文徳天皇実録 10巻. [8],藤原基経編,寛政8(1796)

 

交野柏原諸説

 

交野柏原諸説

 

杉ケ本神社(大阪府枚方市片鉾本町)

 


後田原天皇即此壇上有老杉今曰交野原一本杉


P.421,"河内志 十一"並河永,日本古典全集刊行会,国立国会図書館デジタルコレクション - 五畿内志. 下巻,昭和4年-5年

 

交野天神社

 

継体天皇即位の樟葉宮も候補です

 

片埜神社

 

阿弖流為の墓の伝承があります

 


 

柏原(かしわばら)と堅磐(かしわ)

 

交野柏原の柏原の読み方は郊祀を実施した桓武天皇=柏原天皇(かしわばらてんのう)の「かしわばら」や「かしはら」「かしわら」等と読むと思われます。

 

堅磐(かしわ)

 

昔の柏(栢)は常緑針葉樹を指していました。
堅磐も「かしわ」とも読むので、「交野柏原」は柏の原野ではなく堅磐の原の野ではないか?と仮説します。
ちなみに常盤木は常緑樹、常盤堅磐(ときわかきわ(かしわ))は永久不変の磐の意味なので王統の永久継続を祈る象徴性は所持しています。

 

天の堅石(あめのかたしは)の原=交野柏原説

 

斉衡3年(856年)郊祀が行われた柏原野は河内國交野乃原(交野ヶ原)と記録されていますが、今も天の川が流れています。古事記の天岩戸の段で「天の堅石(あめのかたしは)」「天の金山」「鍛人・天津麻羅」が登場します。

 


常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、天安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度売命に科せてを作らしめ、玉祖命に科せて、八尺の勾たまの五百津の御須麻流のを作らしめて、


nihonsinwa.com
"古事記(現代語訳・口語訳の全文)

 


集常世長鳴鳥、令鳴而、取天安河之河上之天堅石、取天金山之鐵而、求鍛人天津麻羅而麻羅二字以音、科伊斯許理度賣命自伊下六字以音、令作、科玉祖命、令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之而、


古事記 上-3 天照大神と須佐之男命

 

天の川の畔には鍛冶遺跡「森遺跡(5世紀後半~7世紀前半),地図」、解析から砂鉄を材料にしていたと判明した「郡津渋り遺跡,Google マップ」、「交野郡衡跡,Google マップ」他複数点在し、森遺跡から見た冬至の日の出(郊祀は冬至の頃に行われている)は三輪山奥の院と呼ばれているという雄神神社と野野上岳から昇ります。

 

 

冬至の日の入りは文徳天皇嘉祥三年(850年)九月壬午(八日)から記録のある八十嶋祭(※大嘗祭の翌年に行われる)が行われたという御霊神社(圓神祠)へ沈みます。

 


壬午……向攝津國祭八十嶋是日右京大(人)夫(邑)主岑成於攝津國嶋上郡河上獲白龜獻之


国立国会図書館デジタルコレクション - 日本文徳天皇実録 10巻. [2]嘉祥三年九月壬午,嘉祥三年(八五一)九月壬午(八日)条

 

 

八十嶋祭では金銀人像や玉、鏡・鈴等金属製品がそなえられます。

 


卌口 三貫文 (二貫文散料 一貫文雜鮮魚菓子直) 金銀人像各八十枚 金塗八十口 八十二面 (二面五寸 八十面一寸) 一百枚 大刀一口


国立国会図書館デジタルコレクション - 延喜式 10巻. [2]八十嶋祭

 

金銀人像は6月晦・12月晦の大祓でも用いられるので祓の人形でしょうか。

 


金銀塗人像各二枚 (已上東西文部所預)


国立国会図書館デジタルコレクション - 延喜式 10巻. [1] 六月晦日大祓(十二月准此)

 

禁足地・野野上岳をご神体とする雄神神社には大きな「金銀銅鉄」と書かれた額が飾られていて鉱山の守護か臨時祭・鎭新宮地祭(地鎮祭)の何かだと思われますが、日出る野野上岳を古事記の「天の金山」と見立てて俯瞰し、「鍛人・天津麻羅」が大陸等から来た鉄の塊や隕鉄(天堅石あめのたかしは)を叩く原が次第に柏原かしわばらへ変化した説はいかがでしょう

 


金銀各五兩 銅鐵各五十斤……国立国会図書館デジタルコレクション - 延喜式 10巻. [2]鎭新宮地祭

 

百重ヶ原(かしえがはら)=交野柏原

 

河内名所図会では交野ケ原または私市村の別名・百重ヶ原という地名が登場します。地域史では「ももえがはら」と呼ばれていますが、河内名所図会では「かしえがはら」と仮名うたれているようです。中国語読みでは百も柏もpak、ヒャク・ハク。
堅磐原→柏原→栢原→栢重原→重原→百重ヶ原(かしえがはら)となったのではないでしょうか?
百重ヶ原は交野ケ原または私市村の別名。天の堅磐でふれた天の川の畔の旧私市村には花崗岩の野原たった場所がありますが、ここが堅磐原=柏原だったのではないでしょうか。そのすぐ東の山の上の獅子窟寺脇の亀山院陵は百重ヶ原陵と地域史では記されています。その私市山手からの冬至の日の出が昇るのは、郊祀で祀る天神の山、天神山と室生龍穴神社。

 

 

私市山手から冬至の日の入りが沈むのは坐摩神社旧社地の坐摩神社行宮と龍王山。

 

 

 

 

柏原(かしわばら)と太陽を呼ぶ黄鶏(かしわ)原説

 

古事記の天の岩戸伝承の常世長鳴鳥は引きこもりを起こした太陽神・天照大神を呼ぶ鳥。郊祀が行われる冬至は各地の宗教祭祀でみられるように太陽の復活と関係した暦。柏原の「かしわ」は太陽を呼ぶ和鶏・黄鶏・鶏(かしわ)かもしれません。かしわ=堅磐=黄鶏、交野ヶ原に天岩戸の長鳴鳥・鏡・玉が揃います。

 


The crowing of Long crower.東天紅鶏の長い鳴き声。

 

鳥立原

 

交野には鳥立原 という地名があると河内名所図会で記載されています。交野乃原の禁野で鷹によって狩られた雉は最高位のもてなしの品でした。交野ヶ原には調子家惟喬親王と在原業平の金色三足雉退治の伝承があります。

 

雉Phasianus colchicusは中国語で野雞(野鸡・野鶏)・雉鸡・普通雉・華蟲。

日本の雉Phasianus versicolorは中国語で綠雉。

 

(下毛野氏の鷹術伝承 ― 山城国乙訓郡調子家所蔵の鷹書を手がかりに ―,二本松泰子)

 

扶桑と太陽の三足烏

 

中国の山海経の扶桑(羿と太陽の三足烏の神話)は日本国の雅名。中国から見た日本方面の神話的イメージは太陽の生まれる方向のようです。

 

 

 

大陸系神話の天鶏の鳴く扶桑や桃の樹。日本神話では桃は地下の死の国から地上の生の国をわかつ功績により意富加牟豆美命という名を持ちます。

 

王秀文氏は中国神話で桃は神仙の不死の果実で、桃都山の桃の巨樹、扶桑の樹の天雞は三足烏と同じく太陽の鳥で、王と西王母の桃・仙桃の崑崙山の神仙世界の間を行き交い、桃は人間を神仙・桃源郷の世界へ導くと論じています。

 

(王秀文,桃をめぐる蓬莱山・崑崙山・桃源郷の比較民俗学的研究,国際日本文化研究センター紀要,22巻,69-109頁,2000-10-31)

 

金の桃と日本国

 


磅磄山去扶桑五萬里日所不及其地甚寒有桃樹千 圍萬年一實一説日本國有金桃其實重一斤


述異記卷上,梁任昉(460年 - 508年)撰 

 

天雞鳴く扶桑と桃都山の大樹

 

清中期 銅錯金銀天雞尊-Vessel in the Form of a Heavenly Rooster MET LC-14 58 176 003

 


蓬萊之東,岱輿之山,上有扶桑之樹。樹高萬丈。樹巔常有天雞,為巢於上。 每夜至子時,則天雞鳴,而日中陽烏應之;陽烏鳴,則天下之雞皆鳴。古玉圖譜二十四


玄中記 : 玄中記 - 中國哲學書電子化計劃 (西晋代(265年-316年))(31)


東南有桃都山,上有大樹,名曰桃都,枝相去三千里。上有一天雞,日初出,光照此木,天雞則鳴,群雞皆隨之鳴。


玄中記(西晋代(265年-316年))(30) 


大荒之東極至鬼府山臂沃椒山脚巨洋海中昇載海 日盖扶桑山有玊雞玊雞鳴則金雞鳴金雞鳴則石鷄 鳴石雞鳴則天下之雞鳴悉鳴則潮水應之矣


神異經 漢 東方朔(紀元前154年 - 紀元前92年) 

 

桓武天皇が眠る伏見桃山の柏原天皇陵付近が伏見城取り壊しの後で一面の桃畑となったのも大陸側から見て-桓武天皇の母方の遠い祖先は帰化人でもあった-金の桃のある国・日本国の帝-不死の世界と現世を行き交う天鶏・金鶏を祭祀した-桓武天皇=柏原天皇(かしわばらてんのう)の法要の意味があったのでしょうか?

 

今は正確な陵墓の場所がわからないそうですが、地元では谷口古墳、宮内庁は古御香宮の隣大亀谷陵墓参考地としているようです。

 

 

吉江崇博士は櫻町大神宮の可能性を示唆されているそうです。神社案内板には深草郷柏原と記載されています。

 

(京都歴史研究會 新説・本当の桓武天皇陵)

 


神明神社(桜町大神宮)
通称桜町大神宮。社記によれば、第八十代高倉帝治承二年(一一七八)、藤原中納言成範卿は、天照大神を篤く祈誓されていたが、桜花の短命を惜しんで、落下の遅きを神明に祈願された。神明はその願いの切なるを憐れみ、花の齢を三七日(みなのか)延ばされたので、卿はその神徳の深さを感じ、霊社建立の志を立てられた。
 ある夜の夢に、十四・五歳の神童が白羽の矢を持って枕頭に立ち、「汝久しく祀社建立の志深ければ今その願いを遂げしめん。よってこの白羽の矢を深草郷の柏原に指し置くべし。探し求めて宮造りをせよ」との夢のお告げがあった。成範卿は、家臣を多く召し連れて深草郷を訪ね、ついに白羽の矢を探し当て、ここに両大神宮(天照大神・豊受大神)を勧請して、数株の桜を植えて神木とされた。
?、文禄三年(一五九四)豊公伏見城築城の際?城郭内となった「佐田彦神社」をここに移して合祀された。秀吉はこの地の桜花の永きを愛し、春ともなれば度々桜花を愛でるために武運祈願の参拝を兼ねて盛大な雅宴を催した。
この社は、佐田彦大神の徳「縁結び」「交通安全」の神として尊崇されている。
京都市


桜町大神宮の案内板,深草大亀谷万帖敷町(英語・中国語・韓国語表記あり)

 

以上、郊祀の交野柏原について。


節分豆と雷と柊とへそ-春と鳴神

2018-01-22 02:37:38 | 民俗学・民族学・地域

節分豆と柊と雷と春


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節分の豆まきや柊鰯は、春と雷と稲の実りの神話的背景を持つと思われます。大昔の雷神信仰の重要拠点、奈良市 鳴神神社への信仰の面影が食生活の中に残っているのかもしれません。



初雷と立春の節分


立春の節分の後、初めて鳴る雷は初雷(虫出しの雷)。節分の豆の残りを災い除けの為に初雷を聴いてから食べる習慣があります。初雷は啓蟄の地面の中の虫達を目覚めさせる雷。春雷-春と雷は関係性が深いと考えられていたようです。



一節分の大豆を取て置て、初がみなりの時、くひつむ事、今の世のならはし也、京都將軍の御代には、節分の大豆を取て置て、二月初午の日に參らせし由、年中恒例記にみへたり"貞丈雜記  十六雜事"古事類苑,歳時部十九,節分,挿柊鰯門戸



(延喜式通りな追儺巻きなら、あり??)



節分と正月と大晦日と祈年祭


現在の節分で行われている追儺 は元々は大晦日の行事。立春の節分と旧暦正月は近く、重なると立春正月。延喜式の祈年祭は旧暦二月四日で現在の春分に近い日辺りの行事。延喜式の祭祀は元々下記の通りで、大晦日追儺鎮火祭道饗祭も重なります。これらが現在は暦の変更の影響で混ざり合っています。


延喜式 大祀


 践祚大嘗祭(オオムベノ)。


中祀


 祈年(トシゴヒ鳴神神社他二月四日)★


 月次(ツキナミ六月十二月十一月)


 神嘗(カムニヘ・伊勢神宮九月十一日)


 新嘗(ニイナヘ・旧暦11月の二の卯の日)。


 加茂(葵祭)等の祭。


小祀


 大忌(広瀬大忌祭四月)、


 風神(竜田祭七月四日)


 鎮花(ハナシズメ・大神神社旧暦3月)


 三枝(サイクサ率川神社、孟夏(陰暦4月))、


 相嘗(アヒムベ旧暦十一月上夘)、


 鎮魂(タマシツメ石上神宮他旧暦11月の2度目の寅の日)、


 鎮火(6月と12月の晦の夜道饗の後・巻八)★


 道饗(ミチアヘ,鬼魅防止)★



蓽(𦸩・荜)は豆と棘-節分豆と柊鰯と巻き寿司と


雷の古い漢語名「靈蓽」(2019年2月8日追記:靈蕐(華)かもしれません)の蓽=豆・イバラが節分の豆まきの由来ではないでしょうか。靈(神様)の蓽(豆・イバラ)すなわちイナビカリが、鬼(陰)を追い払うのかもしれません。黒いヒハツは少し巻き寿司の外観に似ています。故事を知る方がヒハツを巻き寿司に喩えたのかも?



雷公-伊加豆知/イカヅチ、鳴神=奈流加美/ナルカミ-稲光:伊奈比加利/イナビカリ稲交接-伊奈豆流比/イナツルビ稲妻-伊奈豆萬/イナヅマ


国立国会図書館デジタルコレクション - 和名類聚抄 20巻. [1]


靈蓽(靈𦸩)イナヒカリ 和漢音釈書言字考節用集 巻1



靈蓽(イナヒカリ)の蓽(𦸩・荜)は豆、蓽豆ヒハツ、畢撥、蓽茇、Piper longum L.、Long pepper。(集韻:蓽、豆也)。


Long pepper,蓽豆、蓽茇、ヒハツ


蓽は澡豆(ソウズ古代の身体洗浄剤)も意味します。儺祭詞(なのまつりのことば)の「穢悪伎疫鬼」を追い祓うのは、豆のサポニン、すなわち界面活性剤=石鹸による菌・ウイルスの不活性化ということかもしれません。疫病退散は、昔も手指消毒だと経験則で知っていたのでしょうか。


蓽澄茄(ひっちょうか)Piper cubebaクバブ 黒コショウのような豆


Cubebae1


蓽麻子 牽牛子(けんごし) マルバアサガオやアサガオ(牽牛)の成熟種子。


牽牛子,蓽麻子,Pharbitis nil seed



はイバラ


はイバラの意味もあります。柊鰯です。また蓽域は京師(京都、帝都、都)です。真鰯は「七星」、北斗七星です。




雷と天神


雷の神でもある五條天神さんでは、立春の節分の日は今も白朮と勝餅と宝船の絵を配布しています。戦前は節分に餅を食べる家庭も多かったようです。天神さんは元々は少名彦名命です。八坂神社の大晦日のおけら火は有名ですが昔は五條天神も行っていたようで、元々は追儺または旧暦六月・十二月の晦日の鎮火祭の行事の名残なのかもしれません。



〔日次紀事 十二月〕 節分の夜は、五條の天神にまいり、餅白朮をうけてかへることあり、五條天神は少彥名命にて、天下の疫癘を守らんとちかひ給ふ神なるゆへ、一年中の疫癘をいのらんためにまいる事なり、白朮は濕はらふ藥なれば、風濕疫癘をのぞくの心にて、神前にてうけて歸り、火にてたくなり、


古事類苑データベース(全文・抜粋検索版) 詳細画面


,歳時部十九,節分,勝餅/焚白朮




天神(雷)と稲と恵方


稲妻、雷のイカズチは稲の妻。稲の実りと雷は関係があると考えられているようですが恵方神(年神)と稲も日本神話では関係が深く、恵方詣の歳徳神は陰陽道の神様ですがその恵方神と同一視される大年神は古事記では穀物神(稲荷神)宇迦之御魂神(稲魂)と兄弟です。現在五條天神で配布されている宝船の絵には稲穂が描かれています。



鳴神(雷)と龍と水神(蛇)


雷の神・香山(こうざん)の鳴神神社(奈良市)は延喜式では祈年祭においても新嘗祭においても宮廷から使者が来る重要な神社として書かれていて、今も新嘗祭が行われています。今も皇居にある鳴神神社はこちらからの分祀ではないかといわれています。仏教の八大龍王・龍神信仰とも関係がある鳴神神社の祭神は天水分神、水の神。祈年祭が民間では意識されなくなり、天神信仰が菅原道真公の信仰へ変化していくにつれて、天神としての少彦名命も春日奥山の鳴神神社も意識されなくなりました。春日龍珠箱の外観



春日をめぐる龍神信仰は複雑であるが、春日神には根源的に水神・雷神(農耕神)的な性格があったとされており、また御蓋山(みかさやま)の南方・香山(こうぜん)には鳴雷(なりいかずち)神社と龍池があって、古来龍神信仰と関係の深いところであったと考えられる。一方、本品の伝来したとされる室生寺の近くにも龍神信仰の拠点である龍穴(りゅうけつ)神社があり、室生寺とともに興福寺の支配を受け、先の香山の龍神信仰とも深い関係を有していた。重要文化財 春日龍珠箱かすがりゅうじゅばこ、奈良国立博物館,神仏習合-かみとほとけが織りなす信仰と美―, 2007, p.311




室生寺(むろうじ)伝来とされる二重の箱。被蓋造(かぶせぶたづくり)の内箱は身の側面に逆巻く波濤(はとう)を描き、蓋表には海中の岩礁(がんしょう)に立つ八体の鬼形(きぎょう)を、蓋裏には七体の鬼形と一体の童子形を描く。……一方、唐櫃(からびつ)形式の外箱は、身の側面に鹿に乗る春日五所の神々と眷属(けんぞく)を描いている。正面は春日二宮(本地・薬師如来)と十二神将及び三宮(本地・地蔵)と十王・司命(しめい)・司録(しろく)、向かって左側面には春日一宮(本地・釈迦如来)と四天王・十天、向かって右側面には四宮及び若宮と十二宮(じゅうにきゅう)を描き、背面は無地としている。……春日をめぐる龍神信仰は複雑であるが、若宮神もそのはじめは小蛇の姿で顕現したとされており、龍神信仰が根底にあったことは疑いない。重要文化財 春日龍珠箱かすがりゅうじゅばこ、奈良国立博物館,おん祭と春日信仰の美術. 奈良国立博物館, 2006, pp.52-53, no.38.




鳴神神社と善女龍王と神泉苑の恵方社


奈良の鳴神神社の前の龍王池には八大龍王の善女龍王の伝説があり、京都の神泉苑と室生龍穴神社ともつがっています。弘法大師と西寺の守敏との雨乞いがあった神泉苑の恵方社(歳徳神)は毎年大晦日に祠を恵方へむけます。まるで恵方巻のようです。


東伯郡三朝町坂本I家の歳徳神・亥の子行事神泉苑の善女龍王社室生龍穴神社恵方社の大晦日




鳴雷神祭と祈年祭


延喜式の祭祀の中でも最大規模の祈年祭・旧暦二月四日の鳴神神社の鳴雷神祭の神饌は関西風の太巻き+布類のような取り合わせです。大阪船場の小田巻蒸し+バッテラ(鯖寿司)で模倣できそうです。小田巻おだまきは糸巻きの苧環と同じ読み方で布類もカバーできています。案外こういう縁起物的な由来があるのかもしれません。巻き寿司も食物部分については模倣できているようです。



鳴雷神(コイカツチ・ナルカミ)祭一座 大和国添上郡


絁(あしぎぬ・平絹)二疋。絲(いと)二絢。綿二屯。五色の薄絁各六尺。倭文四尺。調布二端。庸布二段。木綿。麻各一斤。鍬四口。


白米五斗。糯米二斗。大豆小豆各一斗。


酒二斗。稲四束。


鰒(あわび)堅魚・雑腊(くさぐさのきたい)各二斤。鮭五隻。雑鮨二斗。海藻二斤。雑海藻二斤。鹽(しお)二斗。


菓直銭。明櫃(あかひつ)二合。折櫃四合。高案一脚。缶二口。堝(ナヘ)四口。片盤(サラ)廿口。匏(ひしゃく)四柄。槲(柏)一俵。席四枚。食薦(すごも)六枚。輦籠(コシコ)一口。


国立国会図書館デジタルコレクション - 延喜式 : 校訂. 上巻




香山と崑崙山


香山は仏教の香酔山すなわち崑崙山で、崑崙山は道教の人体小宇宙説ではへそにあたります。ここで先日の記事の節分の小田巻蒸しとつながってきます(後述)。



阿香車はイカズチ


道教の雷神・阿香(あこう・あきょう・あかう)は雷の車を押した少女で、阿香車もまたイカズチを意味します。



易経の震


易経の震に出て来るお酒の「鬯」は鬱金草(ターメリック)の「香」で震(雷)を降ろす神前酒であり、恵方巻の起源の一説に鬱金草で色付けする「お新香」が出て来たのも、何かが縁起物として存在していた可能性(方相氏の金の四つの目のように)はあるとも思えます。


鬯は黍で作った酒に鬱金草を漬けたもの、神前の地面に注いで、香りによって神を降ろす。159頁,易 下 本田済,朝日文庫1978


奈良元興寺の八雷神の鬼退治


奈良の元興寺の鬼は八雷神に退治されます。雷神は鬼退治をする神です。この春日信仰の八大龍王と何か関係があるのかもしれません。




おへそと雷と年神様


雷がよくおへそをとるといわれます。へその緒は糸のようによじれていますが、糸巻である苧環(おだまき)の別名もへそ(綜麻・巻子・閇蘇)です。苧環や綜麻は三輪山神話で三輪の神を追いかける糸巻で、神や縁を辿る糸巻きです。



年神と苧環


伊勢物語 32段「いにしへの賤乃おだ巻(倭文の苧環)くり返し(繰り返し) 昔を今になすよしもがな」の歌にあるように、昔の布の倭文を糸にして繰り返し織るは、延々と重ねゆく歳月-御年神-の営みをあらわしてもいます。苧環・へそは新年の様です。へそをとるとは、新年をむかえる苧環をとる、つまり時間の営みをとるですから、命を奪うという意味ではないでしょうか。



小田巻と苧環と綜麻(へそ)


先日の記事の正月や大晦日にも食べられた大阪船場の小田巻蒸しは追儺が大晦日に行われていた時代の名残もあり節分でも食べられていたと思います。豆も柊も雷と鬼につながっていたのですが、小田巻蒸しも苧環=へそを通じてすぐ東方の香山(こうざん-香酔山、崑崙山すなわち道教のへそ)の雷の神、鳴神神社へつながっています。



鬼と水神・山神


和名類聚抄では鬼は死人の魂や魑魅-須太萬スダマ、水神の魍魎(和名は水津霊・美豆知/ミズチ)。戦前の節分の食事でうどんやそうめんを食べていた理由が水神としての蛇たる鬼の身体を食べるという意味であるのならば、端午の節句で粽を鬼として食べるように細巻きの恵方巻であれば現代的な意味はあるのかもしれません。中世における粽伝承と年中行事─室町期食文化の周辺─ 小林美和・冨安郁子 著 帝塚山大学現代生活学部紀要 第5号 23~32(2009)


恵方巻(節分)の起源は大阪の小田巻蒸し?

2018-01-16 11:19:20 | 民俗学・民族学・地域

恵方巻は小田巻蒸しが起源?-節分と立春、大晦日と正月と

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恵方巻は節分の年越蕎麦と大晦日の晦日蕎麦として船場で御馳走として食べられた小田巻蒸し(略称「まき」「巻」)や節分の粽・茅巻ちまき(略称「まき」船場言葉・京ことば)が、巻き寿司(略称「まき」「巻」)と混同された上で、節分の歳徳神を恵方へ詣でる年越詣がミックスされて産まれたのではないかと調べてみて思いました。

 


「恵方詣りをしてすっぽん雑炊や小田巻蒸しや寿司を食べる」は大阪言葉で「エホォをモウて、マル(すっぽん)のママ(飯)マキ(小田巻)(や)鮨(を)丸口(マルグチ・丸かじり)」とも聞こえるので、当時地方から来た方が急増していた大大大阪で違う意味として聴きとった?等かもしれません。本来の関西方言には「てにをは」を飛ばす特徴があります。

 

 

昭和初期、戦前の節分の食事

 

戦前の節分(立春前)の日の食事を調べたレポートでは巻き寿司の習慣は掲載がありません。小田巻蒸しは茶碗蒸しの中にうどんが入ったものですが京都では茶碗蒸し大阪ではうどんが食されるので、船場の商家は裕福なので同じうどんでもご馳走な小田巻蒸しを食べていたのではないでしょうか。

 

東京都 大豆、いわし、福茶、赤飯、混ぜ御飯、煮しめ/大豆、いわし、五目ちらし
静岡県 大豆、いわし、年越しそば、海苔巻き、五目ずしにぎりずし/大豆、落花生、いわし
京都府 大豆、いわし、かぼちゃ、麦飯/ 大豆、いわし、餅、団子、おこわ、かまぼこ、茶わん蒸し
大阪府 大豆、いわし、麦飯、なます/大豆、いわし、うどん、餅、麦飯、飴
兵庫県 大豆、いわし、餅、雑煮/大豆、いわし、煮しめ、豆腐汁、麦飯、餅、雑煮、そうめん
徳島県 大豆、いわし、煮しめ、すし/大豆、いわし、こんにゃく
愛媛県 大豆、いわし、こんにゃくの煮しめ、麦飯、すし/大豆、いわし
pp.3-20松本美鈴「現代家庭における年中行事と食べ物」,青山学院女子短大総合文化研究所年報』(2005) 

 

https://ci.nii.ac.jp/els/contents110006245932.pdf?id=ART0008267157

 

京阪奈の「巻:マキ」

 

京ことば・船場言葉ではマキは節分でも作られていた粽(茅巻チマキ)の略語で、大阪ことばでは「巻:マキ」は小田巻蒸しの略でもあり、巻き寿司の略でもあります。粽はかつては節分でも作られ、それが豆へ移り変わったとのことです。では大阪発祥のマキとは巻きずしの玉子巻のことだったのでしょうか?関西では巻きずしは必ずしも海苔巻きを指さず、かんぴょう巻、昆布巻、湯葉巻、玉子巻等があります。

 

まき=小田巻おだまき(苧環=綜麻・巻子)

 

「小田巻の略。巻き焼(玉子巻)・巻きずしの略。うどん屋とまむし屋、または鮓屋とで扱う品がわかれているので、間違いはない。」664頁,牧村史陽「大阪ことば辞典」講談社学術文庫,1984年

 

「あのシッポク(※しっぽくうどん)のことウドン屋で「キヤ」ちゅうなぁ……アンペェ(※はんぺん)のことあれ「ヤスベェ」ちゅうやろ……オダマキ(※小田巻蒸し)のこと「マキ」ちゅうやろ……ソバが「シマ」ちゅうやろ……アンカケのこと「ヨシノ」ちゅうやろ……キツネのことあれ「シノダ」ちゅうやろ、タヌキちゅうのはキツネソバのことをタヌキちゅうねん」上方落語「吉野狐」 http://kamigata.fan.coocan.jp/kamigata/rakug320.htm

 

 

まき=粽(ちまき)

 

中国大陸の故事に因むちまきは節分でもつくられていたようです。

 

中国の古典、楚辞に屈原(くつげん)という人が出てきます。非常な愛国者で有能な人であったのですが、ざんそによって左遷され汨羅(べきら)と言う河に身を投じて死んでしまいます。その後、屈原の怨霊〔鬼〕がたびたび現れ、汨羅を通る人々に災をもたらしました。そこで、人々は災を鎮めるため、節分〔5月5日・屈原の忌日〕の日に「ちまき」を河に投じ霊を慰めたと言うことです。 もともと「ちまき」は節分には必ずつくられていたようですが、今では、5月の節供菓子になってしまいました。やがて「ちまき」は五穀にかわり、さらには豆に代表されるようになりました。追儺会(東金堂),奈良・興福寺 http://www.kohfukuji.com/event/festival/02.html

 

新しい伝統の「恵方巻」

 

恵方巻は寿司・海苔業界やコンビニエンスストアがプロモーションした昭和の新・伝統のようですが、元になる風習はあったのでしょうか?

 

年越しと節分、大晦日とお正月

 

太陽暦に切り替わった後も明治43年まで旧暦も併記していたそうで、昭和初期あたりまで年越し(節分と旧正月)は共に新暦の太陽暦においての2月を指すという感覚であったようです。

 

年越し 現在は二月節分の夜を年越しと呼んでいるが、もとは旧年から新年に移る夜、すなわち大晦日の日の称であったことは、その字義によっても明らかである。旧暦(太陰暦)による正月は、大抵立春と前後しているのが例である。このように、一年の別れ目の大晦日(年越)と、二十四気の別れ目の節分とが毎年ほとんど前後しているところから、これがいつの間にか混同してしまったものである。490頁,牧村史陽「大阪ことば辞典」講談社学術文庫,1984年

 

としこし年超 旧年を越して新年に移りかわること。……大晦日の夜または節分の夜をいう。1357頁,日本国語大辞典〔縮小版〕7巻,小学館,昭和58年

 

年越し

 

年越しは節分の夜と大晦日の夜です。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992951/27

 

節分の年越蕎麦

 

年越しそばといえば現在は大晦日の晦日蕎麦と同義ですが、節分に食べる蕎麦も年越蕎麦であったようです。今も京都の吉田神社の節分会では年越し蕎麦は食べられています。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/863016/575

 

としこしそば年越蕎麦 細く、長くあれと祝い、大晦日の夜または節分の夜に食べるそば。1357頁,日本国語大辞典〔縮小版〕7巻,小学館,昭和58年

 

 

みそか

 

みそか(晦日・三十日・晦)は月の末日を意味しています。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992952/23 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562807/18 関西ではつごもり(月盡つきごもり→つごもり、月盡・尽日)とも言われていました。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562797/27

 

晦日蕎麦(みそかそば・つごもりそば)

 

今は大晦日だけの風習となった晦日蕎麦ですが、月末に蕎麦を食べて祝う習慣があったようです。大阪船場では小田巻蒸しを食べていたのではないでしょうか。月ノ末日ニ、祝シテ食フ蕎麦切。478頁,大言海,富山房,昭和十年九月

 

恵方と歳徳棚

 

今も恵方へ神棚を向ける為に歳徳棚や向きを変えられる神棚をもうける家がありますが、年越しに歳徳神の恵方を詣でる習慣は節分で記載されています。

 

としこしまいり年越参 節分の夜、翌年の歳徳(としとく)の方角にあたる社寺に参詣すること。年越詣。1357頁,日本国語大辞典〔縮小版〕7巻,小学館,昭和58年

 

巻:マキ(小田巻蒸し)と蕎麦・うどんと晦日蕎麦

 


巻=小田巻蒸し

 

小田巻蒸しは茶碗蒸しの具にうどんや蕎麦を入れる大阪・船場のハレの日の料理で正月や大晦日に食べていたようです。 http://toraya-group.blogspot.jp/2012/08/blog-post_22.html http://cayenne4.blogspot.jp/2012/07/blog-post_7.html

 

「おだまき」は「小田巻」と書くこともありますが、「苧環」とする説が有力のようです。苧環とは、紡いだ麻糸を空洞ができるよう丸い輪に巻いたもので、これが茶碗蒸しの底にしかれたうどんの形に似ていることから名付けられたようです。 「おだまき蒸し」は、かつての大阪では年末から正月にかけての祝いの席でよく食べられたと言い、うどんの台に、鶏肉、サワラやアナゴなどの魚介、シイタケ、クワイ、ユリ根、ギンナンなどの野菜、カマボコなどの具を惜しみなく乗せ、だし汁で溶いた卵液をかけて蒸し、仕上げにユズやミツバを散らします。豪華な具材を数多く使用し、調理に手間や時間がかかることから、高級料理として大阪船場あたりで人気があったと言います。 大阪 おだまき蒸し「全国粉料理MAP」日清製粉

 

小田巻=苧環は織物に使うもので繰り返しという意味があったようです。暦は、年を越してまた新年を迎える営みも「おだまき」となると思いますし、生命にとって立春は死と再生の瞬間です。

 

おだまき……おだまきの正月(しょうがつ)(伊勢物語-三二)の「いにしへの賎(しず)のをだまきくりかへしむかしを今になすよしもがな」の歌から、くりかえしの正月の意)閏(うるう)正月。615頁,日本国語大辞典〔縮小版〕,小学館,昭和58年

 

倭文の苧環

 

昔の織物の倭文を紐解き糸にしてまた織る「おだまき」は、歳月の循環と永続性を祈る大晦日-新年の夜や立春前日の節分の夜にピッタリのようです。 京都ではかつて節分に「おばけ」という風習があって、吉田神社へ若い女性は年ふりた女性、年配の女性は若い女性の恰好をしてお参りする習慣がありました。それもまた、おだまき-新と旧の交代と若返りと同時に歳をとるということ-をあらわしているのかもしれません。 苧環は七夕(乞巧奠)の飾りにも出てきます。舞踊や歌舞伎の流星も苧環を手にして踊ります。 伊勢 32「いにしへの賤乃おだ巻(倭文の苧環)くり返し(繰り返し) 昔を今になすよしもがな」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532303/20

 

節分の年越蕎麦と晦日蕎麦の巻=小田巻蒸しと恵方の年越参

 

節分の年越蕎麦・大晦日の晦日蕎麦として食べていたハレの日のご馳走である小田巻蒸しの略称は巻(まき)で蕎麦屋やうどん屋で出されます。節分の粽も略称はまきで、寿司屋での巻(まき)は玉子巻や巻き寿司の略語でもありますから、混同されて節分の巻きずしとなったのではないでしょうか。そこへプラスして節分に恵方をまいる年越詣が重なり、恵方へ沈黙して巻きずしを食べるという新アイデアになったように思いました。結果、みんなで歳徳神の恵方へ向くので、いいことがあるかもしれません。細く長いものが縁起がいいのであれば、超細巻き寿司のほうが太巻きよりもいいかも?