私はカニ坂ロックフェスティバル実行委員会代表のチアキさんのお店に行ってまいりました。週末に全体ミーティングがあるので事前の打ち合わせ。100人以上の方々の協力があって成り立つイベントなので、皆様がスムーズに動いていただくための段取りは毎年苦労します。今年も楽しく過ごせることを目指しましょう♪写真は資料の山。
8:00 ロビーに集合し、鹿屋、知覧研修二日目にバスで出発。
9:30 夢郷館という公民館に到着。ここでは鳥濱明久の講演を聴かせていただいた。鳥濱氏は特攻の母と呼ばれていた鳥濱トメさんの御孫さんにあたる。鳥濱トメさんは冨屋食堂の女将であり、全国各地から招集された特攻兵の母親代わりのとして慕われていた。戦争の悲劇、特攻兵の想いを受け止め、後生に伝えなければならないという使命感を持っていた。御孫さんの鳥濱明久がその想いを引き継ぎ、今でもそのことを伝えている。
11:00 知覧特攻平和記念館の見学。ここが今回の研修で一番重要な場所である。見学時間も二時間。参加者に笑顔はなくほとんどの参加者が個人行動で館内を見学した。私は特攻隊の遺品を見学した後、特攻兵の遺書を30分以上黙読した。体中の血が冷たくなってしまうような感覚に襲われた。祖国を想う気持ち、家族を想う気持ち、彼らの勇気があって今がある。この国の平和は彼らが望んでいた平和なのだろうか?
知覧特攻平和記念館の外に三角舎という建物があった。ここで特攻兵達は寝泊まりをする。
三角舎の中はとても狭い。ここで特攻前夜は酒を飲み、歌をうたい、訪れるべく祖国の平和を喜んだという。
14:00 昼食を済ませ、ホタル館冨屋食堂へ。ここは午前中に御講演いただいた鳥濱明久が館長を務める建物。戦時中の冨屋食堂を再現し、映画「ホタル」にも使われたという。この建物の中に特攻兵達がいたと思うと胸が苦しくなる。
第51振武隊 荒木春雄 宮城県出身(当時21才)
彼には茂子という許嫁がいた。結婚を控えていた時、国から特攻の令が下り結婚を取りやめた。彼は勇敢に任務を果たした。その後、茂子のお腹に宿った子どもが生まれた。荒木春雄の子どもである。子どもは生後一年で病死した。茂子は子どもの遺骨を持って知覧に来た。荒木春雄が飛び立った知覧飛行場の跡地にその骨を埋めた。
私はこの話をホタル館で聴き、涙が溢れてきた。
15:30 知覧町護国神社特攻観音堂を礼拝。私達が東京から時間を掛けてやって来た一番の目的である。
17:00 鹿児島空港近くの西郷公園にて解団式。話では聞ける。本で読める。映画で観れる。しかし、現地に来なければ分からないことってあるのです。そのことを全員で実感した解団式となりました。写真は西郷隆盛像。上野公園の像よりも大きいです。
20:00 鹿児島空港から羽田空港へ。羽田からは自由解散。帰宅は23:30頃でした。
私は生かされています。生かせていただいております。何のために生きているのか?何のために生かせていただいているのか?愛する人がいます。愛してくれている人がいます。そういう人達を命を掛けてでも守りたい。それが人というものでしょう。きっと分かっているのです。誰だって分かっているのです。それでも忘れてしまうのです。ここに来ると嘘はつけない。特攻兵の勇気に嘘はつけない。特攻兵の功績に嘘はつけない。自分に嘘をついてはいけない。一生懸命生きなければならない。愛する者のため、愛する地域のため、愛する日本のため、愛する地球のため。そして、愛する福生のため。
9:30 夢郷館という公民館に到着。ここでは鳥濱明久の講演を聴かせていただいた。鳥濱氏は特攻の母と呼ばれていた鳥濱トメさんの御孫さんにあたる。鳥濱トメさんは冨屋食堂の女将であり、全国各地から招集された特攻兵の母親代わりのとして慕われていた。戦争の悲劇、特攻兵の想いを受け止め、後生に伝えなければならないという使命感を持っていた。御孫さんの鳥濱明久がその想いを引き継ぎ、今でもそのことを伝えている。
11:00 知覧特攻平和記念館の見学。ここが今回の研修で一番重要な場所である。見学時間も二時間。参加者に笑顔はなくほとんどの参加者が個人行動で館内を見学した。私は特攻隊の遺品を見学した後、特攻兵の遺書を30分以上黙読した。体中の血が冷たくなってしまうような感覚に襲われた。祖国を想う気持ち、家族を想う気持ち、彼らの勇気があって今がある。この国の平和は彼らが望んでいた平和なのだろうか?
知覧特攻平和記念館の外に三角舎という建物があった。ここで特攻兵達は寝泊まりをする。
三角舎の中はとても狭い。ここで特攻前夜は酒を飲み、歌をうたい、訪れるべく祖国の平和を喜んだという。
14:00 昼食を済ませ、ホタル館冨屋食堂へ。ここは午前中に御講演いただいた鳥濱明久が館長を務める建物。戦時中の冨屋食堂を再現し、映画「ホタル」にも使われたという。この建物の中に特攻兵達がいたと思うと胸が苦しくなる。
第51振武隊 荒木春雄 宮城県出身(当時21才)
彼には茂子という許嫁がいた。結婚を控えていた時、国から特攻の令が下り結婚を取りやめた。彼は勇敢に任務を果たした。その後、茂子のお腹に宿った子どもが生まれた。荒木春雄の子どもである。子どもは生後一年で病死した。茂子は子どもの遺骨を持って知覧に来た。荒木春雄が飛び立った知覧飛行場の跡地にその骨を埋めた。
私はこの話をホタル館で聴き、涙が溢れてきた。
15:30 知覧町護国神社特攻観音堂を礼拝。私達が東京から時間を掛けてやって来た一番の目的である。
17:00 鹿児島空港近くの西郷公園にて解団式。話では聞ける。本で読める。映画で観れる。しかし、現地に来なければ分からないことってあるのです。そのことを全員で実感した解団式となりました。写真は西郷隆盛像。上野公園の像よりも大きいです。
20:00 鹿児島空港から羽田空港へ。羽田からは自由解散。帰宅は23:30頃でした。
私は生かされています。生かせていただいております。何のために生きているのか?何のために生かせていただいているのか?愛する人がいます。愛してくれている人がいます。そういう人達を命を掛けてでも守りたい。それが人というものでしょう。きっと分かっているのです。誰だって分かっているのです。それでも忘れてしまうのです。ここに来ると嘘はつけない。特攻兵の勇気に嘘はつけない。特攻兵の功績に嘘はつけない。自分に嘘をついてはいけない。一生懸命生きなければならない。愛する者のため、愛する地域のため、愛する日本のため、愛する地球のため。そして、愛する福生のため。
(社)日本青年会議所関東地区東京ブロック協議会、鹿屋知覧研修に参加させていただきました。
7:00 今回の参加者は約150名。私達はJALで鹿児島空港まで行きましたが、参加者のうち57名は入間基地から自衛隊のC1輸送機で鹿児島空港まで行きました。今回の研修は、鹿児島県の鹿屋、知覧の地で、日本の歴史、戦争の歴史、戦没者の想いを学ぶという趣旨であり、そのことを防衛省に理解していただきC1輸送機を飛ばしていただけることとなりました。何度も掛け合い、何度も断られ、それでも諦めずに想いを伝えたことで実現の運びとなりました。
10:00 鹿児島空港に到着。鹿児島ブロックのメンバーがお出迎えしてくれました。同じ志を持った仲間達への友情に感謝です。
12:00 海上自衛隊鹿屋基地に到着。一足お先にC1輸送機が到着していました。
12:15 C1輸送機が降り立った海上自衛隊鹿屋基地の格納庫内にて決断式。今回の研修を実現させるために、多くのご支援をいただいた鹿児島県のJCメンバーの方々も合流。壇上に立つ方々の挨拶から今回の研修の厳しさが伝わってきた。自衛隊の方々のご厚意で格納庫の中に色々な物を展示していただきました。まずはP-3C哨戒機。
P-3C哨戒機から落とされる潜水艦の探知機。この探知機を海に落とすことで、潜水艦がどこに潜んでいるのか分かるそうです。直径10cm長さ1m位です。値段は1本5万円程度で、海に落としても環境に悪くないそうです。
そして本物のミサイル!うぉ~
続きまして救命ボート。海上に落とすと一瞬にしてボートの状態にるという高性能。
自衛隊とは戦争をするのが仕事ではなく、テロから日本も守るのが主な仕事であるそうです。インド洋の給油活動においても大きな功績があるのです。何もないのが一番の成果であり、何かあってからでは遅いのです。我々国民はいつでも守っていただいているということを実感させていただきました。
14:00 海上自衛隊鹿屋基地資料館を見学。敷地にはさくさんの飛行機が展示。写真に写っているのはほんの一部です。
資料館の中は撮影禁止ですが、一部撮影出来る所があったので撮りました。こちらは本物の特攻機です。実物を間近で見ると、意外と小さく感じました。これに乗って敵国に突撃したと思うと…
終戦日の新聞。敗戦の報から国民は何を感じたのだろう?
他にも沢山の遺品があり、戦争の傷跡を体験することができました。
15:00 小塚公園内の慰霊塔を参拝。参加者全員で黙祷を捧げました。
16:00 垂水フェリーターミナルよりフェリーで鴨池港へ。天気がイマイチだったため、桜島がはっきり見えませんでした。
17:30 ベイサイドガーデンに到着。ここからは(社)日本青年会議所鹿児島ブロック、福岡ブロック、宮崎ブロック、佐賀ブロック、大分ブロック、熊本ブロック、長崎ブロックと合流。写真は8人のブロック会長。一番左にいるのが東京ブロックの埴村会長。
ここからは8ブロックの合同事業。島津義秀氏による講演会でした。この著書の作者です。表紙の絵はスラムダンクでお馴染みの井上雄彦氏。伝えることの大切さを教えていただきました。
講演の後はテーブルディスカッションを含めた懇親会。400人以上の参加者ともなるとすごいです。
せっかく鹿児島まで来て、せっかく8ブロックの仲間が集まって、ただ懇親だけしても意味がないということで、全員で行動決議をしました。秋に行われる(社)日本青年会議所の全国大会の際、大懇親会の後に率先してゴミを拾うおうということになりました。福岡ブロックが提言している「大人の背中運動」です。我々JCが率先して大人の背中を見せていこうという運動を8ブロックから発信するのです。
22:00 ここからは各自で懇親会。私は2006年の同期理事長さん達8名で飲みに行きました。一緒にいた埴村会長、伊東副会長は一日目の成功にとても上機嫌でした。ここでは鹿児島ブロックの中馬直前ブロック会長、鹿屋JCの松下理事長等に設えていただきました。更にもう一件。ここではカラオケで大盛り上がり!就寝は3:00をまわっておりました。
以上、二日目につづく。
7:00 今回の参加者は約150名。私達はJALで鹿児島空港まで行きましたが、参加者のうち57名は入間基地から自衛隊のC1輸送機で鹿児島空港まで行きました。今回の研修は、鹿児島県の鹿屋、知覧の地で、日本の歴史、戦争の歴史、戦没者の想いを学ぶという趣旨であり、そのことを防衛省に理解していただきC1輸送機を飛ばしていただけることとなりました。何度も掛け合い、何度も断られ、それでも諦めずに想いを伝えたことで実現の運びとなりました。
10:00 鹿児島空港に到着。鹿児島ブロックのメンバーがお出迎えしてくれました。同じ志を持った仲間達への友情に感謝です。
12:00 海上自衛隊鹿屋基地に到着。一足お先にC1輸送機が到着していました。
12:15 C1輸送機が降り立った海上自衛隊鹿屋基地の格納庫内にて決断式。今回の研修を実現させるために、多くのご支援をいただいた鹿児島県のJCメンバーの方々も合流。壇上に立つ方々の挨拶から今回の研修の厳しさが伝わってきた。自衛隊の方々のご厚意で格納庫の中に色々な物を展示していただきました。まずはP-3C哨戒機。
P-3C哨戒機から落とされる潜水艦の探知機。この探知機を海に落とすことで、潜水艦がどこに潜んでいるのか分かるそうです。直径10cm長さ1m位です。値段は1本5万円程度で、海に落としても環境に悪くないそうです。
そして本物のミサイル!うぉ~
続きまして救命ボート。海上に落とすと一瞬にしてボートの状態にるという高性能。
自衛隊とは戦争をするのが仕事ではなく、テロから日本も守るのが主な仕事であるそうです。インド洋の給油活動においても大きな功績があるのです。何もないのが一番の成果であり、何かあってからでは遅いのです。我々国民はいつでも守っていただいているということを実感させていただきました。
14:00 海上自衛隊鹿屋基地資料館を見学。敷地にはさくさんの飛行機が展示。写真に写っているのはほんの一部です。
資料館の中は撮影禁止ですが、一部撮影出来る所があったので撮りました。こちらは本物の特攻機です。実物を間近で見ると、意外と小さく感じました。これに乗って敵国に突撃したと思うと…
終戦日の新聞。敗戦の報から国民は何を感じたのだろう?
他にも沢山の遺品があり、戦争の傷跡を体験することができました。
15:00 小塚公園内の慰霊塔を参拝。参加者全員で黙祷を捧げました。
16:00 垂水フェリーターミナルよりフェリーで鴨池港へ。天気がイマイチだったため、桜島がはっきり見えませんでした。
17:30 ベイサイドガーデンに到着。ここからは(社)日本青年会議所鹿児島ブロック、福岡ブロック、宮崎ブロック、佐賀ブロック、大分ブロック、熊本ブロック、長崎ブロックと合流。写真は8人のブロック会長。一番左にいるのが東京ブロックの埴村会長。
ここからは8ブロックの合同事業。島津義秀氏による講演会でした。この著書の作者です。表紙の絵はスラムダンクでお馴染みの井上雄彦氏。伝えることの大切さを教えていただきました。
講演の後はテーブルディスカッションを含めた懇親会。400人以上の参加者ともなるとすごいです。
せっかく鹿児島まで来て、せっかく8ブロックの仲間が集まって、ただ懇親だけしても意味がないということで、全員で行動決議をしました。秋に行われる(社)日本青年会議所の全国大会の際、大懇親会の後に率先してゴミを拾うおうということになりました。福岡ブロックが提言している「大人の背中運動」です。我々JCが率先して大人の背中を見せていこうという運動を8ブロックから発信するのです。
22:00 ここからは各自で懇親会。私は2006年の同期理事長さん達8名で飲みに行きました。一緒にいた埴村会長、伊東副会長は一日目の成功にとても上機嫌でした。ここでは鹿児島ブロックの中馬直前ブロック会長、鹿屋JCの松下理事長等に設えていただきました。更にもう一件。ここではカラオケで大盛り上がり!就寝は3:00をまわっておりました。
以上、二日目につづく。
玉川上水遊歩道を考える会に初めて出席させていただきました。青木会長をはじめ、総勢30名ほどの会議。市長、議長、市役所の都市建設部都市計画課、課長、係長などなど、玉川上水に遊歩道を実現させるために熱心な議論が繰り広げられました。
福生市内においては、玉川上水沿いに遊歩道があったりなかったりという状態とのこと。お隣の羽村や昭島では、100%玉川上水沿いに遊歩道があるそうなのです。なぜ福生にはないのかというと、350年前に玉川上水を作る際、その頃から福生には人が住んでいたので所々で遊歩道を作れなかったそうなのです。今から作るとなるとお金が掛かって大変ではあるが、出来ることからコツコツとやっていこうというスタンスでとても好感が持てました。本日より私も会員として仲間に入れてもらいました。写真は青木会長です。今後ともよろしくお願いいたします。
福生市内においては、玉川上水沿いに遊歩道があったりなかったりという状態とのこと。お隣の羽村や昭島では、100%玉川上水沿いに遊歩道があるそうなのです。なぜ福生にはないのかというと、350年前に玉川上水を作る際、その頃から福生には人が住んでいたので所々で遊歩道を作れなかったそうなのです。今から作るとなるとお金が掛かって大変ではあるが、出来ることからコツコツとやっていこうというスタンスでとても好感が持てました。本日より私も会員として仲間に入れてもらいました。写真は青木会長です。今後ともよろしくお願いいたします。