室蘭、町を見る目

2011年10月24日 04時43分16秒 | 室蘭
 東室蘭駅から室蘭駅まで歩いてみたことがある。あっちで道の草を食べ、こっちでコーヒーを飲んだりランチを食べ、そして行く先々で写真を撮りながら歩いたので、一日がかりの道程となった。歩くといっても直線的に伸びる国道沿いをいったのではないから、おそらく10キロほどの道のりになったのではないだろうか。僕が歩いた道は、国道を一部いきながらも、その多くは札幌本道と呼ばれていたかつての主要道である。かつての主要道、であるからクネクネと曲がりくねり、登ったり降ったりの道である。

 明治のはじめ、函館から札幌に至る道を拓いた人々がいた。北海道における大動脈の開削である。ここ室蘭もその行程の一部となり、それが札幌本道と呼ばれる道となったのである。札幌本道開削の頃、札幌は建府の命こそ出ていたものの、いまだ北海道の都市といえば函館であった。札幌などは石狩の片田舎に過ぎなかったのである。
 尚、札幌が北海道第一の都市に成り上がるのは、昭和の戦後の話である。

 であるから、明治の頃に室蘭に通った道に与えられた札幌の名を、地元の人々がどのような面持ちで聞いたかはわからない。けれど近代的な測量と、囚人労働も合わせた多くの労働力によって完成したこの道を、新たな時代の息吹とともに見入ったと想像しても、あながち外れてはいないと思う。「砂利道ながら日本で初めての馬車道」 でもあった。
 ちなみに、現在ではテレビ局各社のアンテナの林立によって電波塔のような出で立ちになっている測量山の名の由来は、札幌本道を開削するにあたり、明治のお雇い外国人のワーフィールドがこの山の頂上から測量を行ったことによる。

 明治の頃であるから、もちろんモータリゼーションなど気配もないころである。この道を行き交った人々は歩くか人力車か、よくて馬車に乗るかであった。であるから、ボクも歩くことによって当時の人々とできるだけ同じスピードと目線で風景を見、同じ労苦をしてこの間を行ってみたいと思ったのである。

 約10キロの道のりであった。今と100年前の風景に何か変化があっただろうかと考えてみれば、当然すべてがと言えるくらい、建物も町並みも、そのすべてが変わった。でもそれらは、時代とともに変化していくものであり、驚くべきことではない。むしろ、社会インフラに残る当時の街の骨格の一部を、いまでもあまり変わらずにうかがうことができることの方が、驚きである。
 しかし一方で、歩いて見て初めて分かった変化もある。それは町を眼差す人の視点であり、その位置である。

 ボクが歩いた10キロの道のりを、人々が交通の要路として行き交っていたのは今は昔の話であり、主として戦後のインフラの整備とモータリゼーション化によって、幹線道路としての国道や新道が整備された。そしてそれらの道によって、人も車も平面、直線的に、そしてより高速をもって行き交うようになった。起伏が激しく、曲がりくねった旧道は、幹線道路としての役割を終え、今では忘れ去られてしまったような場所もある。

 さて、現在。街の中をまさしく縦断する交通網の整備は、単に交通体系の変化や、従来の商店街の衰退といった目に見える変化とともに、より根源的な、町を眼差す視点を変えた。そしてそれは同時に、町のアイデンティティも変えたのではないだろうか。この道を歩いて、そう思った。



<写真を読む>

 まず一際目を引くのが、写真の中央を走る道である。町を分断しているように見えるこの道の名は、「国道36号線室蘭新道」。昭和56年に完成したこの道は、無料の自動車専用道であり、当時の一般道の渋滞緩和に大きく貢献した道である。地元紙によると、「車と人の流れ、マチを大きく変化させたバイパスでもある」。もっともマチを大きく変化させたということは、写真を見ても一目瞭然であるし、マチを歩けばさらに実感としてわかる。道は町から隔離され、東室蘭から室蘭へと盲目的に突き進むこの道で、町を感じることはほとんどできない。

 さて、新道の左に見えるのは、新日鉄である。ここから直線距離にして数キロの広大な敷地が、ひたすら写真外左へと伸びていく。
 一方で、国道を挟んで右手に見えるのが輪西の町並みである。新道の横を併走しているのが室蘭本線であり、ちょうど写真下の電車がいる辺りが輪西駅になるのだけれど、そのあたりに新日鉄の正門もある。輪西は新日鉄の社宅街として発展し、最盛期の昭和38年にはこの小さな地区の住民だけで「19898人に達し、富士鉄(新日鉄の前身)社宅住民は4149人と2割を占めていた」そうである。
 「肩と肩がぶつかり合う」ほどの賑わいだったという輪西の商店街は、ちょうど写真に納まっている辺りである。富士鉄の社員が仕事終わりに町に繰り出し、ここで懐を軽くしてから自宅に帰ったということだろう。

 「室蘭(中央町)に次いでにぎわっていた」というように、相当な繁華街であったことは、今でもうかがい知ることはできる。ただしそれは廃屋の数からであるけれど。そしてこの輪西は、労働者の町であったことからも、室蘭(中央町)のほうは、「改まったときに行く町」とされていたであろうことも頷ける。
 しかしこの輪西の街の疲弊具合は惨憺たるもので、室蘭(中央町)の比ではないように見える。昼間から商店街を行き交う人は皆無に近く、多くの店がガランドウとなっているのである。室蘭のほうの寂れ方には、居心地の良さと人の温もりを感じるが、こちらの町の衰退には、閉口するしか仕様のない有り様である。

 この町の衰退は各種の原因があるのだろうけれど、その一つに新道ができたことを挙げることができる。新道の横を併走しているのが室蘭本線であり、さらにその横を走っているのが、新道以前の道である。この二つの道を見れば、人と車の流れが変わるのも当然であると言うしかない。
 そしてもう一つは持ち家政策によって、郊外に発展した戸建住宅に社員の住居が移っていき、車通勤をするようになった社員は、町をスルーするようになってしまったことも一因である。

 次に、写真の奥へと目を移す。正面奥に見える高層の茶色の建物は市営住宅であるが、この辺り一体がかつては日鋼の社宅街だった。もっともこの写真を撮ったときに背にしているのが御前水、母恋といった町なのだけれど、そちらが日鋼の大社宅街で、それは今でも変わらない。日鋼の門前町である。
日鋼とともに、国鉄の社宅街も茶の市営住宅の辺りにあった。

 数棟立ち並んだ市営住宅の左手に独立してある高層の建物はルートインであるが、その横にポツンとある赤い建物が東室蘭駅である。尚、東室蘭駅の右手にかの有名な鳩山御殿があるのだけれど、この写真ではわからない…かな。
 また、ルートインや東室蘭駅の前を走っている道が国道37号線であり、この道が伊達を抜け、函館方面へ向かう主要道である。明治の初めには、ここから先が難所であり、道路を開削するのには不向きと考えられたため、森・室蘭間は海路が取られたのである。
 37号線と併走して、伊達方面へ向かう室蘭本線も走っている。
 ちなみに、明治の頃、室蘭に入植した屯田兵たちが居を構えたのがこの辺り一体である。ただし、室蘭での開墾は軌道に乗らなかった。
 さらに戦中に話を飛ばすと、新日鉄、日鋼と、大軍需工場を抱えていたここ室蘭は、米軍からの激しい艦砲射撃にさらされた。戦後の写真を見ると、新日鉄の敷地外ではあるけれど、この辺り一体が砲火にさらされたことを物語るように、大地のそこら中に穴ぼこが開いている。

 東室蘭駅の左手にずっと伸びていく町が中島町と言われる地帯で、ここに東室蘭の夜の町がある。またこの中島町が東室蘭の商業集積地であり、新日鉄資本のショッピングモール・モルエ中島がある。また昨年までは北海道のローカルデパートの雄である丸井今井室蘭店もあったが、丸井今井の経営難(というか、潰れた)により閉店し、その跡地には今年ヤマダ電機が入った。
 蛇足であはあるけれど、丸井今井は、現在、三越伊勢丹HDの完全子会社となっていることからもわかるように、東京などにある丸井とは全く関係のない別会社である。
また、長崎屋も撤退の意向を示しているらしく、過日の地元紙に、市長が撤退しないよう本店?に陳情に行った旨が記されていた。
 室蘭市において気を吐いていたここ東室蘭も、今過渡期にある。

 最後は、一番奥に太平洋に沿って伸びている町である。もっとも奥まった辺りが登別市の鷲別であり、さらにその先は登別市の幌別町という町になるのであるが、この写真の中にどこの町まで納まっているかは判然としない。
 いずれにしても、この辺りは新日鉄などのベットタウンとして発展した町である。いわゆる郊外型の風景が多少見られるのもこの地域である。とは言っても、ツタヤやマックはあるものの、苫小牧などのように荒涼とした郊外型の風景が延々と広がっているわけではなく、チョコチョコと言った感じである。これも室蘭の町の傾斜を表わしているのだろうか。

 室蘭市の人口が減った要因の一つには、登別市が人口を吸収したこともある。幌別の駅を降りると、規律正しい町並みが広がっており、その辺一体には富士という町名が付けられている。おそらくこの富士とは、新日鉄の前身の富士鉄に由来するものなのではないだろうか。今度、きちんと調べたいと思う。町名由来の真偽はさて置き、一昔前のこの辺りの写真を見ると、炭住と呼ばれるスタイルの住宅が規則的にびっしりと立ち並び、ここが社宅街であることを強烈に主張している。今では持ち家に姿を変えてしまっているが、「社宅十字街」といった名は残っている。

 最後に、この写真を撮ったのは、おそらくかつての札幌本道と呼ばれていた道の一角からである。町を見渡すことができ、新日鉄も一望できる。工場の鈍く重い音も聞こえてくる。高炉から時おり激しく吹き上がる炎がまぶしい。
 明治の頃の人々は、こんな光景を瞼に焼き付けながら歩いたのだろう。

■リンク
室蘭民報の「室蘭新道」記事
室蘭民報の「輪西」記事