写真:閉鎖前の浦賀船渠(浦賀港、2003年ころ)
日本の近代は、産業革命で富強を呈した欧米の経験を模倣することからはじまった。資源に乏しい貧乏国だったので、いきおい未だ近代に踏み出していない周辺諸国のそれらを漁った。すなわち製鉄所を建設して鉄を練りだし、その鉄で軍艦を造り、強兵して他国に資源を求めて富国につとめたのである。
近代的な製鉄所の濫觴は、1880(明治13)年に創立した官営の釜石製鉄所であろう。しかしそこは操業に失敗して三年後に閉鎖し、民間人の田中長兵衛に払い下げられた。田中と横山久太郎らは2基の小型高炉を新設し、1886(明治19)年ころから釜石鉱山田中製鐵所として操業を軌道に乗せることに成功した。ここは太平洋戦争中に米軍の艦砲射撃で壊滅し、戦後、日本製鐵が解体された後は富士製鐵の主力製鉄所のひとつとなった。
もうひとつ室蘭製鉄所は、1907(明治40)年、北海道炭礦汽船株式會社(北炭)と英国アームストロング・ウイットウォース社、および英国ビッカース社の共同出資により北海道室蘭町に設立され、1909(明治42)、北海道炭礦汽船の輪西製鐵場として操業を開始した。アームストロング社とは、幕末の佐賀藩が英国から輸入し、後に自藩で製造したアームストロング砲の生みの親である。室蘭製鉄所は1917年に北海道製鐵、1934年には日本製鐵の発足にともない同社の傘下に入る。戦後の1950年、連合国最高司令官総司令部(GHQ)による財閥解体令で日本製鐵が富士製鉄と八幡製鉄に分割され、室蘭製鉄所は富士製鐵傘下になり、1970年(昭和45)年に八幡製鐵と富士製鐵が合併して新日鉄が発足、室蘭製鉄所は新日鉄傘下の企業になった。釜石も室蘭も近代日本の製鉄業をリードした国策企業で、ここで生産された鉄が時を同じくして勃興した造船業によって幾多の軍艦になり、富国強兵政策の礎となったのである。
時代はすこしもどって江戸の末期、ペリーの黒船をつぶさに観察した浦賀奉行所の技術者たちは見ようみまねで洋式船鳳凰丸を進水させた。浦賀造船所のはじまりである。この事業は後年、あらたに鎮守府が置かれた横須賀に移ったが、明治27(1894)年、旧幕臣で新政府の海軍卿をつとめた荒井郁之助が浦賀に新たな民営船渠(ドック)の建設を目論み、農商務大臣の榎本武揚らをかついで明治30(1897)年、かつての浦賀造船所と同じ場所に浦賀船渠が設立された。同時期、やはり浦賀に建設された石川島造船所分工場との間で艦船の建造、修船の受注合戦などが繰り広げられ、ほどなく浦賀船渠が石川島の浦賀分工場を買収することで浦賀における造船事業の一本化が図られた。
以来、浦賀は造船の町として明治、大正、昭和の時代を駆けぬけ、幾多の軍艦や商船、あるいは内外船舶の修理、海上自衛隊の指定ドックなどを経て、平成15(2003)年3月に護衛艦「たかなみ」を進水させ、翌月、約百年の歴史に幕を引いた。日本の近代において花形産業であった重厚長大の造船業はもはや日本の産業構造にそぐわなくなり、多くが東アジアの後発国にその拠点が移っていったからである。造船事業の衰退は日本の近代が終焉したひとつの証明であり、このとき浦賀の近代も終わったといえよう。以下に浦賀船渠の盛衰を通して、浦賀の町を沸騰させ、そして通り過ぎていった近代という時代の肖像をさぐってみよう。
日本の近代は、産業革命で富強を呈した欧米の経験を模倣することからはじまった。資源に乏しい貧乏国だったので、いきおい未だ近代に踏み出していない周辺諸国のそれらを漁った。すなわち製鉄所を建設して鉄を練りだし、その鉄で軍艦を造り、強兵して他国に資源を求めて富国につとめたのである。
近代的な製鉄所の濫觴は、1880(明治13)年に創立した官営の釜石製鉄所であろう。しかしそこは操業に失敗して三年後に閉鎖し、民間人の田中長兵衛に払い下げられた。田中と横山久太郎らは2基の小型高炉を新設し、1886(明治19)年ころから釜石鉱山田中製鐵所として操業を軌道に乗せることに成功した。ここは太平洋戦争中に米軍の艦砲射撃で壊滅し、戦後、日本製鐵が解体された後は富士製鐵の主力製鉄所のひとつとなった。
もうひとつ室蘭製鉄所は、1907(明治40)年、北海道炭礦汽船株式會社(北炭)と英国アームストロング・ウイットウォース社、および英国ビッカース社の共同出資により北海道室蘭町に設立され、1909(明治42)、北海道炭礦汽船の輪西製鐵場として操業を開始した。アームストロング社とは、幕末の佐賀藩が英国から輸入し、後に自藩で製造したアームストロング砲の生みの親である。室蘭製鉄所は1917年に北海道製鐵、1934年には日本製鐵の発足にともない同社の傘下に入る。戦後の1950年、連合国最高司令官総司令部(GHQ)による財閥解体令で日本製鐵が富士製鉄と八幡製鉄に分割され、室蘭製鉄所は富士製鐵傘下になり、1970年(昭和45)年に八幡製鐵と富士製鐵が合併して新日鉄が発足、室蘭製鉄所は新日鉄傘下の企業になった。釜石も室蘭も近代日本の製鉄業をリードした国策企業で、ここで生産された鉄が時を同じくして勃興した造船業によって幾多の軍艦になり、富国強兵政策の礎となったのである。
時代はすこしもどって江戸の末期、ペリーの黒船をつぶさに観察した浦賀奉行所の技術者たちは見ようみまねで洋式船鳳凰丸を進水させた。浦賀造船所のはじまりである。この事業は後年、あらたに鎮守府が置かれた横須賀に移ったが、明治27(1894)年、旧幕臣で新政府の海軍卿をつとめた荒井郁之助が浦賀に新たな民営船渠(ドック)の建設を目論み、農商務大臣の榎本武揚らをかついで明治30(1897)年、かつての浦賀造船所と同じ場所に浦賀船渠が設立された。同時期、やはり浦賀に建設された石川島造船所分工場との間で艦船の建造、修船の受注合戦などが繰り広げられ、ほどなく浦賀船渠が石川島の浦賀分工場を買収することで浦賀における造船事業の一本化が図られた。
以来、浦賀は造船の町として明治、大正、昭和の時代を駆けぬけ、幾多の軍艦や商船、あるいは内外船舶の修理、海上自衛隊の指定ドックなどを経て、平成15(2003)年3月に護衛艦「たかなみ」を進水させ、翌月、約百年の歴史に幕を引いた。日本の近代において花形産業であった重厚長大の造船業はもはや日本の産業構造にそぐわなくなり、多くが東アジアの後発国にその拠点が移っていったからである。造船事業の衰退は日本の近代が終焉したひとつの証明であり、このとき浦賀の近代も終わったといえよう。以下に浦賀船渠の盛衰を通して、浦賀の町を沸騰させ、そして通り過ぎていった近代という時代の肖像をさぐってみよう。