浦賀船渠の創立

2012年03月03日 18時56分12秒 | 浦賀
写真:閉鎖前の浦賀船渠(浦賀港、2003年ころ)


 日本の近代は、産業革命で富強を呈した欧米の経験を模倣することからはじまった。資源に乏しい貧乏国だったので、いきおい未だ近代に踏み出していない周辺諸国のそれらを漁った。すなわち製鉄所を建設して鉄を練りだし、その鉄で軍艦を造り、強兵して他国に資源を求めて富国につとめたのである。
 近代的な製鉄所の濫觴は、1880(明治13)年に創立した官営の釜石製鉄所であろう。しかしそこは操業に失敗して三年後に閉鎖し、民間人の田中長兵衛に払い下げられた。田中と横山久太郎らは2基の小型高炉を新設し、1886(明治19)年ころから釜石鉱山田中製鐵所として操業を軌道に乗せることに成功した。ここは太平洋戦争中に米軍の艦砲射撃で壊滅し、戦後、日本製鐵が解体された後は富士製鐵の主力製鉄所のひとつとなった。
 もうひとつ室蘭製鉄所は、1907(明治40)年、北海道炭礦汽船株式會社(北炭)と英国アームストロング・ウイットウォース社、および英国ビッカース社の共同出資により北海道室蘭町に設立され、1909(明治42)、北海道炭礦汽船の輪西製鐵場として操業を開始した。アームストロング社とは、幕末の佐賀藩が英国から輸入し、後に自藩で製造したアームストロング砲の生みの親である。室蘭製鉄所は1917年に北海道製鐵、1934年には日本製鐵の発足にともない同社の傘下に入る。戦後の1950年、連合国最高司令官総司令部(GHQ)による財閥解体令で日本製鐵が富士製鉄と八幡製鉄に分割され、室蘭製鉄所は富士製鐵傘下になり、1970年(昭和45)年に八幡製鐵と富士製鐵が合併して新日鉄が発足、室蘭製鉄所は新日鉄傘下の企業になった。釜石も室蘭も近代日本の製鉄業をリードした国策企業で、ここで生産された鉄が時を同じくして勃興した造船業によって幾多の軍艦になり、富国強兵政策の礎となったのである。
 時代はすこしもどって江戸の末期、ペリーの黒船をつぶさに観察した浦賀奉行所の技術者たちは見ようみまねで洋式船鳳凰丸を進水させた。浦賀造船所のはじまりである。この事業は後年、あらたに鎮守府が置かれた横須賀に移ったが、明治27(1894)年、旧幕臣で新政府の海軍卿をつとめた荒井郁之助が浦賀に新たな民営船渠(ドック)の建設を目論み、農商務大臣の榎本武揚らをかついで明治30(1897)年、かつての浦賀造船所と同じ場所に浦賀船渠が設立された。同時期、やはり浦賀に建設された石川島造船所分工場との間で艦船の建造、修船の受注合戦などが繰り広げられ、ほどなく浦賀船渠が石川島の浦賀分工場を買収することで浦賀における造船事業の一本化が図られた。
 以来、浦賀は造船の町として明治、大正、昭和の時代を駆けぬけ、幾多の軍艦や商船、あるいは内外船舶の修理、海上自衛隊の指定ドックなどを経て、平成15(2003)年3月に護衛艦「たかなみ」を進水させ、翌月、約百年の歴史に幕を引いた。日本の近代において花形産業であった重厚長大の造船業はもはや日本の産業構造にそぐわなくなり、多くが東アジアの後発国にその拠点が移っていったからである。造船事業の衰退は日本の近代が終焉したひとつの証明であり、このとき浦賀の近代も終わったといえよう。以下に浦賀船渠の盛衰を通して、浦賀の町を沸騰させ、そして通り過ぎていった近代という時代の肖像をさぐってみよう。





浦賀と近代

2011年09月14日 16時19分43秒 | 浦賀
上;天然の良港 浦賀湾
下:浦賀湾東岸の明神山麓に建つ東叶神社


浦賀が日本の富国強兵の歯車、すなわち近代システムの一環として取り込まれたのは、この地に造船業が興ったからに他ならない。

江戸湾の入り口にある天然の良港という自然条件に着目した幕府は、ここに奉行所をおいてお船検(あら)ためという制度を確立した。いまで言う臨検である。江戸表を扼す湾口には蝦夷や出羽の国から船積みされた物産を江戸に運んだ東廻り航路の商船や、上方から江戸への物流を担った樽廻船などが頻繁に来航した。それらを臨検して幕府に危害を加える恐れのある勢力や、経済を混乱させる闇荷を運ぶ船舶を取り締まる必要があったからである。海の関所としての浦賀は、当然、太平洋を遊弋する欧米の捕鯨船や軍船、各種商船の知るところとなった。その意味で、浦賀は鎖国時代から世界と繋がっていた。ペリーの黒船艦隊も南シナ海から浦賀をめざして北航し、開国と通商の要求を江戸幕府に突きつけ、やがてその目的を達成した。

開国に踏み切った江戸幕府は大政奉還して執政権を放棄し、時代は大きく廻転して明治維新をむかえる。幕府を瓦解に導いたのは薩摩、長州、土佐などを中心とした諸藩が西洋の東漸(ウェスタン・インパクト)を察知し、帝国主義列強に伍していくに足る国家システムと新政府の創出を企図したからだ。米英勢力は産業革命で得たハイテク技術を後ろ盾にした圧倒的な物量で、東アジア諸国を震撼させた。維新で新政府を戴いた日本は西欧帝国主義諸国の物量に対抗するためになりふり構わぬ富国強兵の道を突進し、鋼鉄艦船を主体とする海軍力の育成と増強につとめた。その先導役をつとめたのが横須賀鎮守府(大日本海軍横須賀基地)で、フランスの援助で横須賀製鉄所(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)を建設し、軍艦の国産化に着手した。近代を象徴する鉄の時代=いわゆる富国強兵の近代システムが稼働し始めたのである。




天皇、横須賀へ

2011年02月22日 09時32分53秒 | 浦賀
写真上:横須賀造船所行幸。軍艦の舳先などに取り付ける「菊のご紋章」の鋳型に金属を流し込む作業を天覧する明治天皇。前列右端に立っているのがウェルニー
写真下:明治天皇が横須賀行幸時に宿泊した向山行在所。後景は明治13年ころの横須賀港と造船所



 明治新政府は日本を国民国家に組み換えて近代を創出するために、天皇制を徹底的に活用した。日本人に国民意識を醸成するために、天皇はまず東京および京都周辺への行幸を明治政府によってアレンジされ、行幸範囲はやがて全国に拡大していく。それと同時に軍隊への行幸あるいは天覧が積極的に進められた。日本の国土に近代を創出し、その成果を欧米列強に認めさせて不平等条約の頚木(くびき)と西欧の東漸から逃れるためには、建設途上の国家を防衛する軍隊の確立が急務だったからだ。天皇は1871(明治4)年、海軍が主管する建設途上の横須賀製鉄(造船)所に第1回行幸を挙行し、以後1910(明治43)年までに19回、浦賀および観音崎砲台への行幸、天覧を含めれば合計21回も横須賀へ足を運んだ。

① 横須賀造船所への初行幸
 1872(明治4)年1月1~3日、ウェルニーらによる再三の要請に応えて横須賀造船所に行幸した。御召艦「龍驤」で横須賀港に到着した明治天皇は初日にスチームハンマー、製缶所、鋳造所、二日目には製鋼所、滑車製造所、第2号ドック、クレーン操作を、三日目には猿島沖で当時の第一艦隊、第二艦隊の大砲発射を展覧して帰還した。

② 横須賀造船所への行幸啓
1873(明治6)年12月17~18日、皇后をともない横浜港から内海御召艦「蒼龍丸」に乗船して行幸啓した。各皇族、大隈重信(大蔵卿)、勝安芳(海軍卿)、寺島宗則(外務卿)、各国公使が招待された。初日はウェルニーらの先導で建造中の「迅鯨」、「清輝」を天覧し、二日目には猿島沖で展開中の艦隊操練を向山行在所の屋上から天覧した。

③ 新造艦「清輝」進水式への行幸
1875(明治8)年3月5~6日、国産軍艦第1号「清輝」の進水式に行幸した。「清輝」は当初、外洋御召艦として建造がスタートしたが、途中で軍艦に設計変更された。横須賀造船所で建造した最初の軍艦でもある。皇族、三条実美(太政大臣)、岩倉具視(右大臣)、大久保利通(参議)、海軍関係者多数が随行参列した。翌日は横須賀の海軍兵学寮分校、学舎などを巡覧した。

④ 横須賀造船所巡覧
1881(明治14)年5月18日午後4時すぎ、前日から浦賀に行幸して観音崎砲台を天覧した天皇は横須賀に向かい若松町平坂から行在所の藤倉楼に到着、宿所の前に広がる海上に水上消防演習を観た。翌日、機関学校で授業を参観し、その後は造船所で船具所、船台、組み立て中の第三水雷艇、海門艦建造、錬鉄所、鋳造所などを巡覧した。そして新埠頭仮玉座で水雷水爆発の演習、開鑿中の大船渠(現第二号ドライドック)を観た。

⑤ 皇后が軍艦「武蔵」の進水式に行啓
 
 未完!

※集中力が低下して一気に書けないので、すこしずつアップしていきます。
 

 
 

〔参考文献〕
原武史『可視化された帝国』(みすず書房、2001年)
横須賀の文化遺産を考える会『明治天皇行幸の軌跡 鎌倉・横須賀・浦賀』(横須賀の文化遺産を考える会、平成22年)










天皇の横須賀行幸

2010年12月09日 10時22分53秒 | 浦賀
御練兵の図〔聖徳記念壁画=明治神宮所蔵、『明治天皇行幸の軌跡 鎌倉・横須賀・浦賀』(横須賀の文化遺産を考える会、平成22年)より再引〕。明治天皇が赤坂仮皇居内で近衛兵を練兵している
  

鎌倉幕府からはじまる武家政権は天皇家に万世一系という歴史的な連続性の権威を与え、それを巧妙に利用して連続性に乏しいみずからの正統性を担保した。いわゆる天皇制の政治利用である。

江戸期には全国が藩という小国に分かれ、それらの国に属する人々の領主はあくまでもその藩を統率する武家のお殿さまであり、江戸に君臨した将軍ではなかった。ましてや京都にいた天皇などでは決してありえなかった。日本は藩という小国と、それに比べたら大きな「日本」という国の権力の二重構造にあった。

日本という大きい方の国を統率する政権は直接的な領民を持たず、いわば全国の小国である藩を支配し、みずから「将軍」を名乗ることを生業とした。そんな日本の権力構造を刷新するためにとられた荒療治が「大政奉還」だった。大政奉還とは天皇に政権を奉還することを意味したが、維新で権力の中枢を支配したのは幕府を大政奉還に追いやった薩長の出身者を中心とする権力者たちで、必ずしも「大政」は天皇に「奉還」されたわけではなかったのである。権力の中枢を握ることが出来なかった天皇はしかし、将軍とその側近たちにとって代わった新たな支配者たちの正統性を担保し、さらには小国に分散していた各藩の領民を日本という国の国民に統合するための道具として徹底的に利用された。この天皇という制度を使って日本の国民を統合し、国民国家を形成していく過程が日本の近代であろう。

それでは日本を国民国家に組み変えて近代を創出するために、天皇はどのように利用されたのか。明治の為政者たちは、天皇をどのように使いこなしたのだろうか。

江戸時代を通じて社会の支配層に君臨したのは武士階級だったことはすでに述べた。武士が社会の実権をにぎり、頂点に立っていることを保証するための制度としていわゆる「士農工商」の身分制が準備され、それを固定化しても大きな不満が出ないようにガス抜きする仕組みとして「士農工商」の下位に「エタ・ヒニン」が置かれた。武士が社会階層の頂点に立つという支配者の意志は、参勤交代の長大な行列などによって武士以下の階層に可視的に示されたのである。

明治政府を牛耳った為政者たちには、国民を支配する装置としての「士農工商」制を廃し、各藩の支配者たちの権勢を可視化した参勤交代の制度もなかった。明治の為政者たちにはこれらの消失した制度に代わり得る国民統合を達成するための装置が必要だった。その装置の機能がふたたび天皇制に求められたのはいうまでもない。

明治の天皇制を担保したのは明治憲法である。明治憲法は大日本帝国憲法ともよばれ、1889(明治22)年2月11日に発布、翌90年11月29日に施行された。しかし明治政府は維新直後から天皇制の確立とその利用に着手し、天皇を国民の眼前にさらす行幸を実施して国民に新たな統治システムを可視化させることで天皇制を、国民を統合する装置として活用した。

天皇はまず東京および京都周辺への行幸を開始し、その範囲はやがて日本全国に拡大していく。それと同時進行する形で天皇の軍隊への行幸あるいは天覧が積極的に進められた。明治政府が近代国家を防衛する軍隊の確立を急いだからだ。天皇は1871(明治4)年、海軍が主管する建設途上の横須賀製鉄(造船)所に第1回行幸を挙行し、以後1910(明治43)年までに19回の行幸をくり返す。

明治政府の所在地である東京の直近ではフランスの援助で製鉄所(造船所)を建設中の横須賀が海軍の中枢になった。横須賀には後に東海鎮守府(横浜)が移転して、そこが横須賀鎮守府に改編される。海軍は軍隊の練成に天皇を徹底的に利用した。軍神としての天皇を演出し、軍の最高指導者としての立場を天皇に付与した。天皇の軍隊であることを兵員に意識させて士気を高め、欧米の軍隊に対抗できる近代化された強い軍隊をつくることを目指した。天皇の横須賀行幸がその軍隊の狙いを推進したことは間違いない。

 

〔参考文献〕
原武史『可視化された帝国』(みすず書房、2001年)
横須賀の文化遺産を考える会『明治天皇行幸の軌跡 鎌倉・横須賀・浦賀』(横須賀の文化遺産を考える会、平成22年)





明治新政府による横須賀製鉄所の接収

2010年10月31日 19時03分16秒 | 浦賀
写真上:海上自衛隊横須賀地方総監部。山の向こう側に当初の製鉄所予定地だった長浦湾がある
  下:軍港逸見門


京浜急行安針塚駅から山側に展開する按針台の上り坂をどんどん登っていくと、頂上付近で江戸幕府のお雇い外国人(外交顧問)だった三浦按針(ウィリアム・アダムス、1564~1620年)の墓所に行き当たる。そこは春には桜の花が咲きほこる山の上の公園でもあり、桜の樹間に横須賀湾と長浦湾を一望できる。按針もまたそこから逸見村や横須賀の海岸を眺め、三浦半島の入り江を江戸湾の海の要衝に定めたに違いない。安針塚から隣の逸見駅に移動し、海にむかってしばらく歩くとJR横須賀駅にぶつかる。そこはもう横須賀軍港の入り口で、かつては横須賀製鉄所あるいは横須賀造船所とよばれた日本海軍の戦略要地であった。現在は米軍と自衛隊が敷地を分け合って共棲し、東アジアにおける海略の要衝であることにかわりはない。

横須賀製鉄所の建設は、横須賀製鉄所起立原案(日本海軍用之製造場取建規則書)にはじまる。それは製鉄所の創設に関する基本事項を規定したもので、第1節に造船所起立端緒、第2節 工廠設立方法、第3節 船廠事務制限、第4節 仏人組織事項、第5節 邦官組織事項、第6節 仏国品購入概略、第7節 内国品購入概略、第8節 船廠起立順序からなる基本計画ともいうべきものである。製鉄所には船渠二条、船台三基を設け、フランス人40名、日本人2000名を雇用し、西式工業の初起に係るので百事をフランス海軍士官の力に頼ることなどが明記されている。

この製鉄所起立原案にもとづき、1865(慶応元)年1月(旧暦、以下おなじ)にフランス公使との間で約定書が交わされ、製鉄所の建設が委嘱された。約定書は、①製鉄所1カ所、修船場大小それぞれ2カ所、造船場3カ所、武器蔵および役人と職人らの住居などを4年以内に完成させる、②施設はツーロン港に倣い横450間、竪(たて)200間の敷地を手当てする、③建設費は1年60万ドル、4年で240万ドルとする、④フランス側は上等機械官ウェルニー(寧波造船所技師)、日本側は勘定奉行松平対馬守、軍艦奉行木下謹吾、目付山口駿河守、栗本瀬兵衛、浅野伊賀守らを建設取扱に命ずること、などを日仏双方が確認した。16~17世紀、江戸幕府でお雇い外国人のアダムスが外交の相談役として働いたように、幕末維新の横須賀ではウェルニーが製鉄所の首長として日本に近代を誘導するハイテク技術で貢献した。

同年3月、横須賀の三賀保、白仙、内浦の3湾にわたる74359坪の敷地埋め立て工事が立案され、人足には囚徒200人が充てられた。製鉄所建設の鍬入れ式は同年9月27日に挙行され、それは今日の横須賀がはじまった日でもある。築造に必要な資材として相州足柄下郡から切り出した石塊や、伊豆大島三原山の火山灰などが利用された。横須賀の連絡を密にする必要から汽船の航路新設が計画され、横浜の米国商人を通じて小汽船を3037ドルで買い入れ、同時に横須賀製鉄所で30馬力と10馬力の小型船を2隻建造した。この2隻が同製鉄所における艦船製造の嚆矢である。

倒幕運動の中で起こった鳥羽伏見の戦いは官軍が大勝し、1868(慶応4)年4月11日、最後の将軍徳川慶喜は江戸城を明け渡し、大政奉還して政権が徳川氏から天皇に還った。新政府は4月1日、神奈川裁判所長官の東久世中将通禧と鍋島侍従直大に横須賀製鉄所の接収を命じた。横須賀製鉄所は建設の途上で政権の移譲が行なわれて政治体制が変遷したため管轄部署がしばしば転変し、1869(明治2)年10月27日には神奈川裁判所から大蔵省に代わり、同年11月18日付けで長州藩士の山尾庸三が製鉄所の事務を統括するようになった。翌年3月、民部省は太政官の許可を得て全国の蒸気船舶保有者および府藩県に対して横須賀製鉄所が船舶の修理取り扱いに応じることを通告し、同年8月には所轄が同省に移った。横須賀製鉄所は1871(明治4)年2月8日、4年11ヵ月を費やして明治政府のもとで完成し、開業式が挙行された。同年4月7日には名称を横須賀造船所とあらため、10月23日からは工部省の管轄にかわり、翌年10月16日には海軍省の主船寮がこれを主管することになった。

製鉄所の実権は海軍省が主管部門となった後もウェルニーらのフランスお雇い外国人の手に握られていた。そこで同省は1875(明治8)年5月20日、肥田主船頭名で横須賀造船所事務改革案を立案し、管理指導権をフランスから取り返す算段を開始する。改革案は、従来艦船の修理や建造は直接造船所もしくは同所の首長に依頼するものと決められていたが、以後は海軍省の許可を必須として海軍の威信確立を計り、さらに翌1876(明治9)年1月1日より首長以下フランス人雇員の雇用期間および条約改正の事項は海軍卿の裁定を仰ぐこととして、実質的にウェルニーを始めとするお雇い外国人の解雇が決められる。

ウェルニーは横須賀造船所事務改革案に基づき、1875(明治8)年12月31日をもって首長の職を辞し、翌年3月10日に10年間住み慣れた横須賀を後にして帰国した。1866(慶応2)年から本格的にはじまった造船所の建設はウェルニーが離任したころまでには大部分の必要施設が完成し、1886(明治19)年には日本人のみの手によって造船事業が進められるまでに発展した。

現在の横須賀湾は逸見から汐入までの湾岸に美しい長大なプロムナードが延びてウェルニー公園となり、市民に憩いのスペースを提供している。公園の東端、つまりJR横須賀駅の入り口付近では横須賀製鉄所の先進性を伝えるウェルニー記念館が開放されている。そこから西へ50メートルほど行くとプロムナードの中ほどに製鉄所の建設に貢献したウェルニーと小栗上野介忠順の胸像が海に向って立っている。軍港逸見門の見張り所の古いボックスが、横須賀製鉄所からつづく海軍施設としての近代の歴史を物語っている。


 
〔参考文献〕
横須賀市史編纂委員会『横須賀市史』(横須賀市役所、昭和32年)222~242頁参照。
横須賀百年史編纂委員会『横須賀百年史』(横須賀市役所、昭和40年)36~44頁参照。








長浦湾

2010年10月08日 16時56分45秒 | 浦賀
写真上:長浦湾は自衛隊と海上保安庁、民間の三者が港を分け合っている
  下:長浦湾への道には日本の近代を支えた「伝統」工場が操業している



維新前後の三浦半島は、日本の近代を担う尖端技術の根幹になりつつあった。理由はいくつか挙げられるが、そのひとつが江戸表に向う海路の要衝であったこと、もうひとつは東日本の諸港を統括する東海鎮守府が横浜から横須賀に移転(1884年)し、横須賀鎮守府が生まれて海軍の中枢が三浦半島に成立したからだろう。乱暴な表現をすれば、日本の近代とはハイテク兵器としての軍艦をつくって列強に伍し、天皇を頂点とした皇国体制を築くことであった。軍隊が身の程も知らずにその頭脳になったことは日本の近代における最大の不幸で、結果的にはそのことが国家を滅亡させる主因になった。

幕末の三浦半島のことである。
諸外国との通商条約締結にともなって加重した外圧と国内諸藩が抱いた倒幕論の勃興などにより、江戸幕府の海軍拡張事業は急務となった。長崎造船所や、神戸の操練所に併設する予定の造船所はあったがいずれも江戸から遠く、幕府の危急に応えるには理想的な立地ではなかった。幕府は水戸藩が所有する石川島造船所に「国立」の造船所を併設する計画を案出したが、充分な広さの敷地が確保出来ずに行きづまった。勘定奉行の小栗上野介忠順は造船所の建設を重要な国家事業と位置づけ、海外の進んだ技術による施設を江戸湾沿岸に建設することを提案した。

現在でも九州人にとって佐賀は特別な存在であるらしい。それは「佐賀者の歩いた後にはぺんぺん草も生えない」という強烈な言いぐさにも現れている。その意味は様々にとれるが、要するに周辺の九州人は知力の面で佐賀者にかなわないということなのだろう。そうした佐賀の特性はすでに江戸時代から発揮され、幕末には軍隊の制度や装備はほぼ西欧の二流国なみに近代化され、工業技術もアジアの最高レベルであった(司馬遼太郎1988)。上野の森で幕府軍の彰義隊を壊滅させたアームストロング砲を国産化したのも佐賀藩(鍋島斉正=閑叟藩主)だった。佐賀は江戸時代、日本が諸外国に開いていた唯一の小窓=出島を擁した長崎の隣接県である。あるいは長崎に拠点をおいて暗躍した武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover、1838~1911年)も佐賀藩の開明的な経営に寄与したに違いない。

その佐賀藩(鍋島斉正藩主)が幕末にオランダから蒸気工作機械を輸入して造船工場を設立計画中だったが経費と人材の不足に苦しみ、購入した設備を幕府に献納した。幕府は鍋島斉正からもらった設備を利用し、横須賀の長浦湾に造船所の建設を企図した。小栗上野介が上に主張した江戸湾沿岸というのは、このことが念頭にあったものと思われる。幕府が造船所の建設を進めている事実は、ナポレオン三世の意を受けて日本に植民地的野心を抱いていたフランス全権公使レヲン・ロセスの知るところとなり、また幕臣のフランス通であった栗本瀬兵衛(鋤雲)がフランス領事館のメルデ・カシュン書記官と親しかったことも影響して、造船所の建設はフランスに委託することになったのである。

老中水野和泉守は1864(元治元)年11月10日、フランス全権公使ロセスに造船所建設の斡旋を正式に依頼した。小栗上野介、栗本瀬兵衛、軍艦奉行の木下謹吾、浅野伊賀守らはロセス、ジョーライス(フランス艦隊司令長官)らをともない幕府の艦船「順動号」で横浜と横須賀の間にある長浦湾を検分した。フランス側の要員が錘を下ろして測量したところ水深が浅く造船所の建設予定地としては相応しくなかった。一行はさらに隣接する横須賀湾に移動して錘測し、そこに充分な水深があり、なお且つ湾曲した地形がフランスのツーロン港に似ていたことから好感され、当初の予定地だった長浦湾が捨てられ、横須賀湾を造船所の建設地とすることに決めた。

現在の長浦湾は京浜急行電鉄の京急田浦駅から徒歩で10分ほどのところに展開する静かな入り江である。横須賀造船所になりそこねた町には、特急も快特も停車しない。そのことが長浦湾界隈の風土を心地よく保全している。長浦湾と隣の横須賀湾は箱崎半島(吾妻山)で隔てられていたのだが、明治19年に軍事上の要請で半島のもっともくびれた部分が開削され、両湾は人工水路(新井掘割水路)で結ばれた。以来、長浦湾は横須賀湾の副港として活用された。田浦の町には横須賀鎮守府を背負った軍人の娯楽場としての花街が栄えたのだが、長浦湾の衰退とともに花街の灯りも消え、現在は軍港に併設する地帯で小野田レミコン(生コンクリート)や東芝の電球工場などの「近代」工場がかろうじてこの街の活気を支えている。

〔参考文献〕
横須賀百年史編纂委員会『横須賀百年史』(横須賀市役所、昭和40年)33~37頁参照。
横須賀市編『新横須賀市史 資料編』近現代1(横須賀市、平成18年)429~433頁参照。
司馬遼太郎『アームストロング砲』(講談社文庫、1988年)









製鉄と造船

2010年09月12日 12時33分38秒 | 浦賀
写真上:明治12年の横須賀港(製鉄所)鳥瞰図(出典:横須賀百年史)
  下:現在の横須賀港。骨格は明治12年の状況とほぼおなじである。造船所だった部分は、現
    在、ダイエーなどの大型ショッピング・センターになっている


日本に近代を誘導した明治維新は国の屋台骨を木材から鉄鋼に換骨した。それにともない木製の和船は鋼鉄の洋式船に代わり、そのことが日本を列強の仲間に入れ、大日本帝国を滅亡に導いた帝国主義の道を歩むことになったのである。鎖国政策をとった江戸幕府は諸藩が外国と交通し通商するのを怖れ、大船の建造を禁止(寛永15=1638年)し、新造船は竜骨のないマスト1本の500石積以下と決めた。さらに念を入れ、船体の密封性を保つ上部甲板を備えることを禁じたので、その構造は蓋のないお椀が海に浮いているようなもので、大波をかぶれば簡単に水没した。幾多の難破、漂流の悲劇を生んだ元凶である。嵐の海では船の底板一枚が現世と地獄を分けたのである。

幕府に大船の建造禁止令を諦めさせたのはペリーの黒船だった。突然、江戸湾口の浦賀沖に現れた巨大な外輪駆動装置を持つ鋼鉄船を見た日本人は、役人も武士も、町人も農民も、そして男も女も一様に度肝を抜かれて大騒ぎになった。黒船が煙を吐いて沖を疾走しているのである。米国の開国要求に屈した江戸幕府は日本の国がすでに西洋列強に包囲されていることを感じとり、一転海防に目覚め、諸藩に大型船舶の建造を促し、大船建造禁止令を解いた(嘉永6=1853年)のだ。そして翌年に交わされた日米和親条約(神奈川条約)を契機にしてその4年後には米国、オランダ、ロシア、英国、フランスの5国と修好通商条約が結ばれ、日本の国内状況は外交的な必要から軍艦製造、蒸気船伝習、海軍の増強へと急展開していく。

幕府は諸藩に率先して、浦賀で洋式船の模倣建造に着手した。その指揮を執ったのが浦賀奉行所でペリーとの交渉窓口になった与力の中島三郎助である。江戸幕府のヒエラルヒーから言えば一奉行所の中間管理職にすぎなかった中島は、ペリー対策と洋式船の建造という役割を担うことによって歴史に名前を残すことになった。中島が建造を指揮した洋式模倣船の鳳凰丸は安政元(1854)年に進水したが、洋式というのは外観だけで、その船体構造は竜骨も肋骨もない和船そのものだった。堅牢性はなく、もちろん外航にも適さなかった。この鳳凰丸はその後、水戸藩が幕府の委嘱で整えた(嘉永6=1853年)石川島の造船所で改造されて豊島形とよばれ、日本初の様式艦となっている。

大船禁止令が解かれて後、幕府のみならず諸藩も競って大型船の建造を進めたが、充分な施設や設備、資材、建造技術に乏しかったのでなかなか目指すような洋式艦船を進水させることはできなかった。そのため必要な艦船の大半はオランダや英国、米国、フランスから購入し、慶應末(1867)年には幕府が外国から購入した軍艦が8隻、汽船などその他の船舶36隻の総計44隻(333万6000ドル)、諸藩(29家)所有の船舶は94隻(449万4000ドル)に達した。当時、幕府所管の造船所は神戸の海軍操練所付属造船所、長崎飽の浦の鍛冶、工作、溶鉄工場、それに鳳凰丸を建造した浦賀造船所などがあったが、神戸の操練所付属は操練局が廃止されたので頓挫し、長崎や浦賀の造船所は外国から購入した艦船の修理を担当するのが精一杯で、未だ本格的な洋式艦船を建造する設備も技術も保有していなかった。

こうした洋式大船ブームの中で造船技術の習得はもちろんのこと、差し迫った課題として増え続ける輸入洋式船の修理技術や消耗品の船具の供給体制を整えることが急務になる。幕府は元治元(1864)年8月、長崎海軍伝習所の2期生で石川島造船所の機関部を司っていた肥田浜五郎をオランダに派遣して造船技術を視察させるとともに、造船に必要な設備類の物色に当たらせた。肥田は任務を全うして2年後に帰国している。

肥田浜五郎はオランダから帰国後、出身母体の石川島造船所の近傍に幕府直轄の本格的な造船所を建設すべきだと進言したが、紆余曲折の後、オランダではなくフランスから人材と技術、設備の提供を受けて横浜に製鉄所を設け、その付属施設を横須賀に建設することになった。当時、製鉄所と造船所はほぼ同義である。日本の近代初期において、製鉄の主要な目的は洋式艦船を建造することだったからである。いよいよ横須賀に製鉄所(造船所)が建設されることになったのだ。


〔参考文献〕
横須賀市史編纂委員会『横須賀市史』(横須賀市役所、昭和32年)216~218頁参照。
横須賀百年史編纂委員会『横須賀百年史』(横須賀市役所、昭和40年)31~33頁参照。







横須賀線の開通

2010年08月29日 12時18分06秒 | 浦賀
写真上:北久里浜市街を流れる平作川。かつては久里浜港から半島各所を結ぶ水運の要だった
  下:横須賀線田浦駅


近代以前、東海道から三浦半島への入り口は主に戸塚、保土ヶ谷、藤沢の三村にあった。これらの村から江戸湾に沿って浦賀に至るルートが浦賀道とよばれ、現在でも通行することができる。相模湾に沿って三崎を目指す道が三崎道で、浦賀道とあわせ海岸沿いに三浦半島を一周する循環道路として機能していた。さらに小坪村新宿(逗子市新宿)から半島内奥の平作村を通って浦賀に至る道路が三浦中道とよばれ、これら三道が三浦半島の三大幹線を成していた。

三浦半島の交通は明治維新以降も徒歩もしくは人力車、あるいは馬車にたよる状況がつづいた。1873(明治)年当時の人力車の運行台数は公郷村が1台、深田村2台、中里村6台、大津村6台、浦賀町59台で、三浦半島の南部一帯では人力車の運行台数からも浦賀が他町村を圧倒して江戸時代以来の繁栄を謳歌していたことがわかる①。

横須賀線の JR 横須賀駅には、現在でも他の駅と一線を劃す独特な雰囲気が漂っている。それはこの駅が軍略上の要請に基づいて敷設された横須賀線の最重要戦略駅だったからだろう。東海鎮守府が横浜から横須賀に移され(1884年)、その名称も横須賀鎮守府と改称されたのを機に神奈川(現在の横浜市神奈川区)近傍から横須賀への直線馬車道の建設が計画され、それが横須賀線という鉄道路線に発展した。横須賀線の実質は東海道線から枝分かれする大船、北鎌倉、鎌倉、逗子、東逗子、田浦、横須賀、衣笠、久里浜の9駅で湘南情緒にあふれ、とくに衣笠~久里浜間の平作川沿いに南行する沿線は現在も三浦半島の原風景を保存していて興味深い。

横須賀線は近代以降の産物で、軍事目的で1888(明治21)年に鉄道局新橋建設課長のもとに六等技師であった大屋権兵衛が主任となって着工し、翌1889(明治22)年に大船~横須賀間が竣工した。汽車は新橋駅を1時間ごとに発着し、横須賀までおよそ2時間の旅程だった②。主に人が歩く三道しかなかった三浦半島に鉄道が敷設され、首都圏からの輸送能力が大幅に増強された。

横須賀線が営業運転を開始したのは1889(明治22)年である。利用客は年々漸増したものの急激な増減はなく、開通から18年を経た1907(明治40)年の年間乗客数は67万4755人、1日平均1843人だった。手荷物(チッキ)の年間発送量は2万3233トン、貨物は1万2844トンだった③。チッキは旅客が乗車券を提示して旅行に必要な物品を別便(無料)で送る便利な制度だったが、国鉄は1986年にこれを廃止している。宅配便などの普及で利用者が旅行時に大型荷物を携行しなくなったのが廃止に至った主な理由なのだろう。チッキという名称は「check」(チェック)が訛ったものとされる。

横須賀線の開通当時(明治22年)の乗車賃は新橋~横須賀間(38哩)の三等が39銭だった。米1升が11銭前後だったので、現在の運賃と比べるとずいぶん高かったようだ。江戸前寿司が10銭(明治35年)、うな重30銭(明治30年)、天丼3銭(明治26年)、カレーライス5~7銭(明治35年)、もりそば、かけそばが1銭(明治20年)くらいだった④。現在の物価で換算すると、かけそば1杯が1銭=500円として新橋~横須賀間の運賃は39銭=19500円ということになり、新幹線で九州あたりまで行ける運賃である。

横須賀線は大船からスタートして鎌倉、逗子、田浦と三浦半島の付け根を横断し、横須賀で海岸線に到るとまたすぐに三浦半島の内奥に向かい、衣笠を経由して半島のほぼ真ん中を平作川沿いに終着地の久里浜にむかう。この鉄道はなぜ平作、衣笠などの半島内部に分け入ったのだろうか。それは線路が敷かれた時点で海岸線の逸見や汐入、堀之内、大津などよりも、内陸の水運が盛んだった平作、衣笠のほうが発展の可能性を秘めていたからにちがいない。ところが予想に反して内陸水運を担った平作川は寂れにさびれ、京急電鉄が担った沿海部の方に都市化の波が押し寄せた。もちろん、東京から横浜、あるいは大船経由で横須賀、久里浜までの物流を担い、三浦半島と首都圏を結んで人や物質の輸送を促す大動脈の役割を受け持ったのは横須賀線にほかならない。

〔注〕
① 横須賀市史編纂委員会『横須賀市史』(横須賀市役所、昭和32年)275~281頁参照。
② 前掲『横須賀市史』280頁参照。
③ 前掲『横須賀市史』280~281頁参照。
④ 週間朝日編『明治・大正・昭和 値段の風俗史』上・下(朝日文庫、昭和62年)







三浦半島の諸道

2010年08月11日 11時12分47秒 | 浦賀
写真上:浦賀道の地蔵尊
  下:逸見から汐入に至る浦賀道


開国と幕府の崩壊で江戸湾の海の番人としての役割を喪失した浦賀は、日本の近代に造船というハイテク産業で貢献するようになるまでの30年間①を清潔な港町として静かに送った。1884(明治17)年から1902(明治35)年まで約20年間も断続的に日本を訪れ、生活したエリザ・ルーアマー・シドモア(紀行作家、米国国立地理学協会初の女性理事)はその著『シドモア日本紀行』で「まるで絵のように可愛らしく清潔な」浦賀と特産だった琥珀色の甘美な水飴(粟蜜)のイメージを重ねあわせ、この町をきわめて美しく描いている。

  店構えの古い老舗が優れた品質の水飴製造を300年以上も変えずにつづけています…
  …古く褐色の水飴であればあるほど良い品となり、バタースコッチ菓子の究極品、東
  洋の栄光タフィ(落花生入りの糖菓)と呼んでもおかしくありません。また、これは
  健康によく効く食品として勧められ、今では「胃弱や肺病に有効性あり」と日本在住
  の内科医にも認知されているほどです。日本のどこで作られようが、この薬用水飴は
  浦賀特産です……大道芸人は小さなパトロン(子供)のために水飴を捏ねてペースト
  状にし、パイプで吹いて無数の幻想的な形を創造します。また特筆すべきは、最高級
  の大宴会はもちろんのこと、天皇の食卓にも登場し、幻想的な花となってあらゆる御
  馳走を華やかに飾り立てていることです② 。

浦賀の水飴については実際に品質が良く、世界に販路を拡げようとした思惑があったようだ。1892(明治25)年2月、浦賀町田中15番地で水飴を製造販売する尾島善四郎が翌年米国シカゴで開催されるコロンブス世界博覧会③に出品するために神奈川県の内海忠勝知事に出品願いを提出している④。

シドモアは横須賀から海岸沿いに蛇行して浦賀に到達した、と記している。それが1889(明治22)年以前であれば、横須賀までの道のりは保土ヶ谷あるいは戸塚あたりから浦賀道を人力車で走ったものと思われる。1889年以降なら新橋から横須賀まで横須賀線が開通しているので、汽車を利用したにちがいない。

近代以前、東海道から三浦半島への入り口は主に戸塚、保土ヶ谷、藤沢の三村にあった。これらの村から江戸湾に沿って浦賀に至るルートが浦賀道とよばれ、現在でも通行することができる。浦賀道は江戸から浦賀奉行所まで役人が通った御用道路で、山あいに細道が拓かれているので静かで見晴らしがよい。浦賀の片田舎から江戸に通じる出世街道であり、あるいは江戸から浦賀への左遷路でもあった。相模湾に沿って三崎を目指す道が三崎道で、浦賀道とあわせ海岸沿いに三浦半島を一周する循環道路として機能した。さらに小坪村新宿(逗子市新宿)から平作村を通って浦賀に至る道路が三浦中道とよばれ、これら三道が三浦半島の諸道(三大幹線)を成した⑤。

明治天皇は1871(明治4)年以来、横須賀海軍造船所への行幸、そこで建造された軍艦「清輝」、「武蔵」、「高雄」、「八重山」、「橋立」、「秋津洲」、「須磨」、「千早」、「音羽」、「薩摩」、「筑波」、「河内」などの進水式、試乗への行幸、あるいは日清戦争の戦利艦「鎮遠」、「済遠」、「平遠」、「鎮東」、「鎮北」の天覧のため横須賀まで行幸している。また中国、四国、九州の西国巡行(1872=明治5年)に使うお召し艦「龍驤」の試乗⑥、あるいは観音崎砲台天覧の行幸で浦賀を訪れているが、横須賀線が開通する以前は東京から横須賀あるいは浦賀まで海路を移動し、横須賀線が開通して後は新橋~横須賀間をお召し列車で走った⑦。

現存する浦賀道は海岸線を避けて山あいを拓いているために狭隘でアップダウンが激しく、とても天皇を乗せた轎車(かご)が通行できるような道路ではなかったことが判る。後に造船で日本の近代を支えた浦賀の発展には鉄道の敷設が不可欠だった。三浦半島の幹線として横須賀線や湘南電気鉄道、京急電鉄が敷設された所以である。


〔脚注〕
①榎本武揚が主唱して浦賀湾内に浦賀船渠が創立されたのは1896(明治29)年9月28日のことである。浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)1頁参照。
②エリザ・R・シドモア著、外崎克久訳『シドモア日本紀行』(講談社学術文庫、2002年)66~67頁参照。
③1893年5月1日~10月3日までイリノイ州のシカゴで開催された国際博覧会(シカゴ万国博覧会)である。コロンブスのアメリカ大陸発見400周年を記念して開催された。19カ国が出展し、会期中に2750万人が訪れた。
④横須賀市編『新横須賀市史 資料編 近現代』(横須賀市、平成18年)412~413頁参照。
⑤横須賀市史編纂委員会『横須賀市史』(横須賀市役所、昭和32年)271~275頁参照。
⑥ドナルド・キーン著、角地幸男訳『明治天皇』上巻(新潮社、2001年)335頁参照。
⑦長浜つぐお編著『明治天皇行幸の軌跡』(横須賀の文化遺産を考える会、平成22年)







近代への助走

2010年07月29日 08時54分03秒 | 浦賀
写真上:西伊豆の戸田港
  下:戸田港の西岸にある洋式船ヘタ号建造跡地


浦賀の入り江を約100年かけて造船の町に育て上げた浦賀船渠(浦賀ドック)は、なぜここに設立されたのだろうか。

江戸幕府が大船建造の禁を解いたのは、ペリーが浦賀に来航した1853(嘉永6)年のことだ。大船建造の禁は諸大名の水軍力を弱め、幕藩体制下で幕府の統治を盤石にする目的で1609(慶長14)年に第2代将軍の秀忠が制定した。その禁止令が250年の星霜を経て解かれたのは西洋の東漸(ウェスタン・インパクト)で欧米の艦船が日本の近海を遊弋し、これに危機感を抱いた幕府が海防の充実を迫られたからだろう。幕府は諸藩に率先して浦賀港で見よう見まねの西洋型帆船鳳凰丸を建造し、これを機に各藩に対して大型船の進水を奨励した。1854(安政元)年のことだった。浦賀に造船拠点(浦賀造船所)が設けられたのは、諸外国が江戸湾の入り口を扼する浦賀港を目指して艦船を回航し、浦賀の船大工や役人がしばしばこれらの洋式艦船を目撃し、実地に多少の西洋艦船の建造に関する研究を積んでいたからである。

この年、下田沖に接近したロシア帆船ディアナ号が下田地震(1854年11月4日)による津波で大破し、修理環境が整っていた西伊豆の戸田(へだ)まで回航途中に駿河湾で沈没した。戸田の船大工たちは遭難したロシア船員の指揮のもとに洋式帆船ヘタ号を突貫工事で建造してロシア使節の窮地を救った。このことは日本の船大工が洋式船の構造や建造技術を会得するのに大きな役割を果たしたようだ。

諸藩も一気に大船建造に動いている。水戸藩は隅田川河口に設けた造船所で西洋型船「旭日丸」の建造に着手した。この造船所が石川島播磨重工業(IHI)の前身である。薩摩藩は3本マストの西洋型船「昇平丸」の建造を始めた。

鳳凰丸の建造主任は浦賀奉行の与力職にあった中島三郎助だった。中島はペリーが浦賀沖に現れた際、最初に旗艦のサスクエハンナ号に乗り込み、その後も数回に渡って米艦との応接に当たったため、黒船を詳細に観察していた。そのことは中島が建造主任に任命された有力な理由になったにちがいない。『ペルリ提督 日本遠征記』には中島三郎助が久里浜で挙行された国書受渡儀式の後、もう一人の与力であった香山栄左衛門とともにサスクエハンナ号に乗船した際の光景が以下のように記されている。

  これ等の日本役人は何時もの通りその好奇心を多少控えめに表していたが、しかも汽
  船の構造及びその装備に関するもの全部に対して理解深い関心を示した。蒸気機関が
  動いている間、彼等はあらゆる部分を詳細に検査したが恐怖の表情をせず、又その機
  械について全く無智な人々から期待されるような驚愕をも少しも表さなかった。彼等
  はすぐ様蒸気の性質を多少洞察したらしく、又蒸気を使用して大きな機関を動かす方
  法及び蒸気の力で蒸気船の水輪を動かす方法についても多少洞察したらしかった。

幕府は1855(安政2)年、長崎に海軍伝習所を設立し、翌年にはオランダから咸臨丸を回航してきたファン・カッテンディーケを所長に迎え、中島はそこに派遣されて造船学や航海術などを学んだ。

幕府はさらに1857(安政4)年、築地に軍艦操練所を設け、その5年後の1862(文久2)年には榎本釜次郎(武揚)ら15名をオランダに派遣し、造船や航海術、国際法、軍事知識を学ばせ、海軍の創設に備えた。

この時期、浦賀造船所以外に長崎製鉄所、石川島造船所、横浜製鉄所、横須賀製鉄所などが相次いで設立され、西欧型艦船の造船による海防の充実が図られた。この浦賀造船所が後にこの小さな入り江の町で浦賀船渠がスタートするきっかけとなるのである。浦賀船渠の創立者は、オランダに留学して造船や航海術を学んだ榎本釜次郎(武揚)その人である。


〔参考文献〕
浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)
須藤利一編『船』ものと人間の文化史1(法政大学出版局、1968年)
土屋喬雄ほか訳『ペルリ提督 日本遠征記』(三)〔岩波文庫、昭和28年〕
カッテンディーケ著、水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』(東洋文庫、1964年)
星亮一『長崎海軍伝習所』(角川文庫、平成元年)







ペリー久里浜上陸

2010年07月06日 18時23分52秒 | 浦賀
手前からサスクエハンナ号(外輪蒸気船)、ミシシッピ号(同前)、サラトガ号(帆船)、プリマス号(同前)


浦賀に来航したペリーの黒船に最初に乗船したのは、浦賀与力の中島三郎助だった。浦賀副奉行と身分を偽って黒船の副官と商議し長崎への回航を求めたが容れられず、ペリーは合衆国大統領から将軍に宛て認められた親書を手交する幕府役人の来船を求めた。翌日、今度はやはり与力の香山栄左衛門が浦賀奉行に成り済ましてサスクエハンナ号に訪船し、相変わらず長崎への回航を要請した。これに対してペリーは、幕府が親書を受け取る役人を派遣して来ないのなら武力を持ってしても上陸し、親しくこれを将軍に奉呈すると恫喝した。

幕府は協議の結果、浦賀の隣村の久里浜の仮館でペリーと会うよう浦賀奉行に命じ、嘉永6(1853)年6月9日に米国使節の日本上陸が実現したのである。黒船が浦賀沖に投錨してから6日目のことだった。上陸した米国人の人数は水兵、陸戦隊、楽師および士官をあわせて約3百人、これに対して日本側は5千人以上だった。浦賀奉行所付与力の合原総蔵の聞き書きは当日の米兵の様子を次のように伝えている。

  小屋の側を浦賀人數にて固める。小屋の左右を彦根、川越の人數にて圍む。異人何れ
  もゲヘル(剣付鉄砲)にて備を固む。彦根、川越の備の前を歩き、組頭様の者、剣を
  ひらめかしなどして指図す。浦賀人數の固めを見て、異人共、耳こすりなどし、或は
  指さしなどして、悉く嘲弄の體に見え、無念いわん方なし。又異人調整の能く整い候
  こと、奇妙驚人候。

厳粛で緊張した雰囲気の幕府側に比して米国士官たちは一様に陽気で、耳を掻いたり、なにかを指差したりしてリラックスしていたようだ。しかし合原の聞き書きが伝えるように「異人調整の能く整い候こと、奇妙驚人候」で、隊列は整然として一糸乱れぬ様子に日本側は驚愕し、さすがは東インド艦隊の士官というべきだろう。

無事に親書を手渡したペリーの黒船艦隊は浦賀から琉球を経て香港にもどって太平天国の乱に遭遇した米国居留民の保護に当たり、翌嘉永7年1月にふたたび江戸湾に至った。幕府と米国が和親条約を結んだのはその年の3月3日のことだ。下田、函館を開港して薪水、食糧、石炭等を供給し、遭難船員およびその財産の保護、開港場における遊歩区域の設定、最恵国待遇の提供、外交官の駐在などが決められた。米国との和親条約が締結されて間もなく、ロシア、英国、オランダとも同様の条約を交わさざるを得なかった。安政5(1858)年にはさらに米国、オランダ、ロシア、英国、フランスと通商条約を結び、日本の近代は欧米諸国によってなかば強制的に抉じ開けられたのである。よどんだ平穏が破られた幕末の日本は大騒ぎになった。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)、たった四杯で夜も寝られず」とは、あながち大きな誇張ばかりではなかったようである。


〔参考文献〕
浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)
浦賀古文書研究会『浦賀中興雑記』(浦賀古文書研究会、昭和56年)
加茂元善『浦賀志録』(浦賀志録刊行委員会、2009年)
横須賀百年史編纂委員会『横須賀百年史』(横須賀市役所、昭和40年)
三谷博『ペリー来航』(吉川弘文館、2003年)







黒船来航

2010年07月03日 17時38分33秒 | 浦賀
明神山の頂上から浦賀水道を望む。対岸に見えるのは房総半島


日本の近代は、いつどこで明けたのだろうか。さまざまな見方があると思うが、近代の幕開けにもっとも大きなインパクトを与えたのがペリーの浦賀来航であることに異論はないでしょう。黒船は4隻でやってきた。旗艦のサスクエハンナ号とミシシッピ号は舷側に水車のような推進装置を備えた外輪式の蒸気船で、サラトガ号とプリマス号は帆船だった。これら4隻が鴨居村の沖合いで船首を浦賀に向けて一列になって停泊したのである。ちょうど浦賀水道に突き出た明神山の半島直下だった。ここから4隻の船上で甲板作業に従事する水夫の姿や巨大な外輪が回転する音などが見え、聴こえたはずである。せいぜい数百石積みの樽廻船か檜垣廻船しか見たことのなかった浦賀の人々は、ど肝を抜かれた。とくにサスクエハンナ号とミシシッピ号は大きな煙突からもくもくと黒煙を天高く吹き上げていたからだ。

浦賀湾の入り口にある神寂れた明神山の頂上には、かつて北条氏水軍(小田原)の海賊城がそびえていた。この城は戦国時代の後期、安房里見氏の水軍攻撃に対抗するため築城されたものらしい。浦賀の人々は役人も、町人も、そして農民や犬猫までもがこの海賊城趾の空き地からペリーの黒船を認め、驚愕の叫び声をあげたに違いない。江戸や東海道の近隣から噂を聴いて駆けつけ、明神山の天辺からおっかなびっくり黒船を眺めた人もいただろう。

ここからは眼と鼻のさきに展開する房総半島が視界に入り、右手には日本最初の灯台といわれる灯明堂が浦賀湾を隔てた対岸に広がる西浦賀の東京湾岸に立っている。その場所はいま灯明崎とよばれ、夏になると海水浴や磯辺のバーベキューで賑わうのだが、地元の人は積極的には足を向けない。なぜなのか…。

ここは江戸が終わるまで浦賀奉行所が管轄する首切り場だったからである。ここで首を刎ねられた罪人で引き取り手のない仏は奉行所の西に隣接した寿光院に無縁仏として納骨された。いま浦賀奉行所の跡地には、浦賀ドック(住友)の従業員住宅が古びた老醜をさらしている。その住宅のぐるりを小さな掘り割りが囲み、そこが奉行所と外界を画する境だったのだという。

浦賀の町を丹念に歩くと、近世にまで散策の触覚をひろげることができる。それら近世の事跡の集合が、この町の近代の礎になったとみることもできる。ペリーの黒船は近世と近代の錯綜する無数の糸を電光のごとく繋ぐ触媒のような役割を果たしたのではないだろうか。明神山の天辺から150年前に浦賀水道を遊弋した黒船の勇姿を想像していると、そんな想念にとりつかれてしまうのである。


〔参考文献〕
浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)
浦賀古文書研究会『浦賀中興雑記』(浦賀古文書研究会、昭和56年)
横須賀百年史編纂委員会『横須賀百年史』(横須賀市役所、昭和40年)
三谷博『ペリー来航』(吉川弘文館、2003年)







近世における浦賀の繁栄

2010年06月27日 17時23分11秒 | 浦賀
相州浦賀(歌川広重画)


歌川広重(1797~1858年)の画に『相州浦賀』という作品がある。まだ風景写真が普及していなかった江戸末期の浦賀をビジュアルで伝える貴重な資料である。この絵は現代の私たちにふたつのことをもの語ってくれていると思う。ひとつは当時の浦賀港の様子であり、もうひとつは著名な浮世絵師の広重が浦賀を訪れているという事実である。いま悲しくなるほど寂れてしまったこの町に江戸末期の売れっ子絵師が来訪し、その殷賑を活写したのだ。なにが広重を浦賀に向かわせたのだろうか。

亨保5(1720)年、関東の海の表玄関だった伊豆下田の番所が相模国の浦賀に移され、そのときが浦賀の発展に転機を与えたというのは政治領域でのことである。徳川家康が豊臣秀吉から所領として関東を与えられ江戸城に入ったのが1590(天正18)年である。秀吉が没し、関ヶ原の戦いを経て江戸が政治都市になると、そこに居住する武士と庶民が消費するための膨大な物資が上方から樽廻船、檜垣廻船で江戸に運ばれた。お船改めの要港を拝命して江戸湾の入り口を扼した浦賀はその恩恵を存分に浴し、「浦賀港は是れ日本無双の津にして万国の商船出入り自在なり。海向より朝日滔々として舛り、両岸の人家は甍を並べ、港中の危檣は屋を貫くが如し。岸に山の如く荷を重積み、日市をなす。繁栄の地なり…」(加藤山寿『三浦古尋録(1812年)』)という盛況を呈した。こうした繁栄によってもたらされた資金力は町人の文化意識を高揚させ、江戸をはじめとする徘徊、歌壇、和漢学などの著名人との遊歴交流が盛んになり、書画においては北斎、広重らがしばしば来浦したと伝えられる。

浦賀は古来、江戸湾の入り口に位置した天然の良港である。近世からイワシ漁の基地として太平洋に面した諸港から漁船が集まった。北海道から北前船で上方に運ばれたニシンほど肥料効果はなかったものの、干鰯(ほしか)、魚油、〆粕などの加工と販売の要港として諸国の商人が蔵や出店を構えて繁栄をきわめた。

浦賀の繁栄は全国津々浦々あるいは外国からの諸船が直接に横浜、東京港に向かうようになった明治維新以降の一時期に衰え、数百年もつづいた天然の良津としての地位を失うが、明治29年に榎本武揚らの主唱によって創立された浦賀船渠(ドック)の創立を機に日本の近代(富国強兵)を担う重工業部門の一角に組み込まれ、ふたたび歴史のスポットライトをあびることになる。


〔参考文献〕
浦賀船渠株式会社『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)
浦賀古文書研究会『浦賀中興雑記』(浦賀古文書研究会、昭和56年)
大日本地誌大系(23)『新編相模国風土記稿』第五巻(雄山閣、昭和55年)






表裏の逆転

2010年06月19日 07時08分06秒 | 浦賀

近代以前の時代において、日本の表は日本海側であり、外国といえばまず朝鮮、そして中国大陸の明国であり、後の清国であった。日本におけるそうした文明論的な秩序が転換し、日本海が裏になって太平洋側が新たに表になり、外国といえば欧米という表裏の逆転が起こったのは何時のことだったのだろう。また何がきっかけとなって、表裏の逆転が進行したのだろうか。

右の機窓に白く波立つ日本海が輝いている。そのなかにリアス式の入り組んだ海岸線を美しく際立たせた隠岐の島々を望む。さっき関西空港を飛び立ったエアバスは淡路島の南岸で北に大きく旋回して瀬戸内海から岡山上空に進入し、たったいま鳥取県を飛び越え、日本海に達した。かつて山陰の海岸に立ってこの大海に相対したとき、その縹渺として神々しくもある広大な海原に呆然とすることがあった。しかし、機窓から鳥にでもなったつもりでふわふわとこの大海原を俯瞰していると、やがて前方に朝鮮半島の陸影が見えてくる。機内誌の航路図に印刷された日本海は、半島から沿海州に沿い弧を描いてたゆとう内海である。対馬海峡と間宮海峡が細くくびれている。地図を眺めながら、勢いをつければ、ひょいっ!と跳んで渡れるかもしれない、と妄想しそうだ。近い、のである。
 
上対馬にある魚瀬の海岸で、あるいは半島南岸に真珠のように散らばる多島海の島嶼から、お互いの島影を認めあうことができる。海峡はそれほどに狭いのだ。いにしえの人も、渡れるのではないか、と思ったにちがいない。そして、中国や朝鮮半島の人や物ばかりか、これから行こうとしているユーラシアの最果ての気配までが海峡を越えて渡来し、日本からは人の移動とともに古伊万里などがはるか西方のオスマントルコなどに旅立っていった。いにしえ人が、妄想を妄想と諦めなかったことによって果たされた異文化の交叉であろう。近代以前の日本の表は日本海であり、文明は朝鮮や中国など西方の国々にあり、異文化もまた西から渡来した。商品経済が沸騰した江戸時代、北海道からニシンや昆布などを上方に輸送した北前船は日本海沿岸を主要な航路とした。このことからも日本の表は日本海であり、玄海灘であり九州の長崎や鹿児島、松浦の平戸であったことがわかる。

日本の表と裏をひっくり返したのは裏から、すなわち太平洋側に押し寄せた西洋の東漸(ウェスタン・インパクト)であろう。裏から大型蒸気船でやって来る夷荻を攘ち払おうと、幕末の一時期に日本の各地には攘夷を目的とする過激な運動が起こったのだが、肝心の幕府が西欧諸国の物質文明と最先端の兵器に恐れおののき、開国に向かった。北海道の択捉島から厚岸、室蘭、函館にかけての沿岸には南下するロシアの艦船が遊弋接近し、東北から紀伊半島、四国、九州、琉球にかけての沿岸では米国の捕鯨船が水や食料の補給にたびたび寄港するようになった。消費都市としての江戸の欲求を満たすために上方から江戸湾を往復する樽回船の航行が頻繁になり、英国や米国の艦船も江戸を目指して来航し、下田や浦賀の港がにわかに活況を呈するようになる。

文明論的な視点から見れば、日本の中国に対する対抗意識が高まり、国学が隆盛する。中国において夷荻の満州族が漢民族から政権を奪取して全国を統一したことも、中国への対抗意識を助長する一因となった。夷荻が中国を支配したことにより「中華」が衰え、真の中華はむしろ日本に在るのだとする言説の流行である。このことにより、古来、文明は西にあるとする考え方に亀裂が走り、上述した西洋の東漸とあいまって地政学的な意味において日本に裏と表の逆転が進行した。日本の近代化はこの表裏の逆転と同期しながら強力に推進されるのである。〔地図の出典:網野善彦『「日本」とは何か』日本の歴史00(講談社、2000年)〕






歴史に登場する浦賀

2010年06月13日 13時04分29秒 | 浦賀

江戸湾の入り口を扼した浦賀が歴史に登場してくるのは、いったい何時のころからだろう。年表を追っていけば、それは徳川家康が豊臣秀吉より関東を与えられて江戸城に入った1590(天正18)年以降であるらしいことがわかる。有名な関ヶ原の戦いの10年前のことで、いまから520年ほど以前になる。浦賀が政治的な地位を得たのはそれからさらに130年を経た1720(亨保5)年、関東の海の表玄関だった伊豆下田の番所を相模の浦賀に移してからだろう。浦賀番所の始まりだ。番所が出来たため、役人が江戸から往来するのに使う道、すなわち浦賀道が東海道の保土ヶ谷宿と戸塚宿から枝分かれして三浦半島に入り、逸見や汐入の山や海岸を踏み固めて浦賀に達した。浦賀番所の役目は江戸湾を出入りする船舶の管理で、船改番所(ふなあらためばんしょ)と称された。

浦賀に港としての価値を見い出したのはオランダ商船で世界を航海中に漂流して大分県に流れ着き、幕府のお雇い外国人として召し抱えられた三浦按針ことウィリアム・アダムスにちがいない。アダムスは家康の親任を得て江戸時代初期の海外交通に重要な役割を果たした。浦賀はアダムスによって世界とつながった、と言ってもよいだろう。

浦賀に小さな造船の炎が灯ったのは1853(嘉永6)年、幕末の社会が攘夷か開国かで沸騰していたころのことだった。アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル提督の来航(1846年)やペリー提督の黒船出現(1853年)に刺激された幕府が、大船建造の禁を解き浦賀で洋式木造大船の鳳凰丸を建造したのである。維新後、横須賀に造船所がつくられたため浦賀の造船事業はしばらく中断したが、1896(明治29)年に榎本武揚らの主唱で浦賀船渠株式会社が設立され、ここに浦賀の近代を演出する産業がスタートする。

絵図出典:浦賀船渠株式会社編『浦賀船渠六十年史』(浦賀船渠株式会社、昭和32年)、安政年間の東浦賀(絵巻浦賀紀行図)