北海道の室蘭という街を、いったいどれほどの人が知っているのだろうか。この街は観光地としての知名度はほとんどないと言っていいだろう。観光資源としてはホエールウォッチングと地球岬くらいのものじゃないだろうか。でもこの街の知名度は全国区だろう。そしてそれはおそらく鉄の街であることによる。
明治のはじめ、室蘭の人口はわずか千人に満たなかった。いまだ眠りのなかにあるこの町が、北海道が誇る工業都市へと変貌していくには、まだ数十年の時を待たなければならない。そしてこの街の静けさを見たとき、これからわずか百年あまりの間に室蘭の世紀を迎え、そしてそれも過ぎ去るのを経験することになるとは、誰が想像できただろう。
この街の第一の発展は、北海道で産出した石炭の積出港としてであった。鉄道が敷設され、炭田地から石炭が輸送されてきたのだけれど、北海道の鉄道事業中に占めるこの地域の石炭輸送の重要性は、他に類例を見ないほどであった 。それだけ北海道における石炭と、それを積み出す港の重要性が高かったということでもある。
そしてその後の1907年に一大転機を迎える。鉄と室蘭が結びついたのである。日本製鋼所が設立されたのだ。さらに二年後の1909年には、北海道炭礦汽船輪西製鉄場(現新日本製鉄株式会社室蘭製鉄所)が操業を開始する。その後の街の発展は、製鋼所と製鐵所、そして港の繁栄と期を一にした。富国強兵、「鉄は国家なり」路線を日本が採ったことによって、室蘭は日本の成長を一身に担ったのである。二大工場を中心として、無数の中小町工場が所狭しと立ち並び、周囲の山肌は工場に通う人々の住宅で埋め尽くされた。そして1970年前後に室蘭は最盛期を迎える。
しかしその後いくつかの要因によって室蘭は衰退を始める。そして成長が早かったから、衰退も早かった。1990年ごろには最盛期の半分ほどの人口となってしまったのである。室蘭の繁栄は、わずか半世紀とちょっとで終わってしまったことになる。あれだけ軒を連ねていた工場群もだいぶ数を減らし、街の様相は大きく様変わりをしてしまった。隆盛を極めた石炭積み出しもなくなり、専用の積み出し埠頭も今はない。ちょうど人間の齢と同じくらいの期間に盛衰を経て、今では町は死に体となってしまったのだ。
死に体というのは比喩表現ではない。町が茶褐色で、通りからは灯りが消えてしまっている。そしてグローバルなパワーがほとんど入ってきていない。グローバルはぺんぺん草まで食い尽くすけれど、死んでしまった町には入ってこないのだろう。茶褐色なのは、この町が鉄の町だったことによる。錆びた工場の群れが町の色となった。
もちろん今でも工場は稼動しているし、景気のいい設備投資も行われている。町の人口だって10万人程度はいるだろう。そして全国チェーンの店も多い。それでもこの町の息吹を取り返すことはできない。
街のある人は、「行政もすごく頑張った」のだと言う。街が活気を失い始めてから、何とかそれを食い止めようと、行政も、そして街の人たちも頑張ったのだろう。手が届きそうなほどこじんまりとしたこの街で、多くの悲惨な出来事や悲しみを目の当たりにして、黙していられることなどあるはずもないのだ。打つ手は打った。それでもだめだった。
きっと街の盛衰というものは、小さなひとつの行政単位でどうにかできるほど小さな力によるものではないのだ。
開発から取り残された町が衰退していくのと、盛を経験した町が衰退していくのとでは決定的に異なる何かがある。盛があると平泉のように、街に一つのストーリーが出来上がるからなのかもしれない。
室蘭の街をとぼとぼと歩きながら、人一人しか通れないような路地にも立ち入ってみる。細い路地にはスナックが軒を連ねているが、営業している店はいくつもない。その先の、看板だけが妙にまぶしい商店街を通り抜けたところで珈琲休憩をとる。
その後、室蘭名物の「焼き鳥」に舌鼓を打ちに行く。室蘭の「焼き鳥」は、串に刺さっているのが鳥ではなく、豚というところにその大きな特徴がある。そしてねぎまが長ネギではなく玉ねぎを使うのも、また室蘭の特徴である。豚のほどよい油と玉ねぎの甘さがなんともいえず旨い。なぜ鳥ではなく豚になったのかはよくわからないらしいけれど、鉄の街で働く人間たちにとって、鳥では物足りず豚になったのかもしれない。
是非試してみるべき味である。
店を出ると、町は完全に寝静まっていた。それほど遅い時間ではないのに。
さて、室蘭。この町は死に体と書いたのだけれど、それはみすぼらしいとか魅力がないということではなく、むしろその逆で、こんなにも死臭のする魅力的な街を他に知らない。ギラギラしていくつもの欲望を飲み込んでいる街もそれはそれで魅力的なのだけれど、欲望も贅肉もすべてそぎ落とし、あとは座してその時を待つのみのこの街は、無駄な意識を一切働かせなくてよく、とても居心地がよいのである。歩いていればどこからともなく物悲しい演歌でも聞こえてきそうでもある。
この街は、立身出世を夢見た小国日本が向かえた怒涛の世紀の中で、「日本」という子どもを立派に育て上げ、街としての役割を終え、今は静かな余生をおくっている。それは一方では、この室蘭という街そのものが、「日本」という国家の縮図だったと言うことなのかもしれない。
そこに住まうものや、欲望を見ているものの意思とはまったく無関係に、静けさを取り戻した街は、その時を待っているようだった。
明治のはじめ、室蘭の人口はわずか千人に満たなかった。いまだ眠りのなかにあるこの町が、北海道が誇る工業都市へと変貌していくには、まだ数十年の時を待たなければならない。そしてこの街の静けさを見たとき、これからわずか百年あまりの間に室蘭の世紀を迎え、そしてそれも過ぎ去るのを経験することになるとは、誰が想像できただろう。
この街の第一の発展は、北海道で産出した石炭の積出港としてであった。鉄道が敷設され、炭田地から石炭が輸送されてきたのだけれど、北海道の鉄道事業中に占めるこの地域の石炭輸送の重要性は、他に類例を見ないほどであった 。それだけ北海道における石炭と、それを積み出す港の重要性が高かったということでもある。
そしてその後の1907年に一大転機を迎える。鉄と室蘭が結びついたのである。日本製鋼所が設立されたのだ。さらに二年後の1909年には、北海道炭礦汽船輪西製鉄場(現新日本製鉄株式会社室蘭製鉄所)が操業を開始する。その後の街の発展は、製鋼所と製鐵所、そして港の繁栄と期を一にした。富国強兵、「鉄は国家なり」路線を日本が採ったことによって、室蘭は日本の成長を一身に担ったのである。二大工場を中心として、無数の中小町工場が所狭しと立ち並び、周囲の山肌は工場に通う人々の住宅で埋め尽くされた。そして1970年前後に室蘭は最盛期を迎える。
しかしその後いくつかの要因によって室蘭は衰退を始める。そして成長が早かったから、衰退も早かった。1990年ごろには最盛期の半分ほどの人口となってしまったのである。室蘭の繁栄は、わずか半世紀とちょっとで終わってしまったことになる。あれだけ軒を連ねていた工場群もだいぶ数を減らし、街の様相は大きく様変わりをしてしまった。隆盛を極めた石炭積み出しもなくなり、専用の積み出し埠頭も今はない。ちょうど人間の齢と同じくらいの期間に盛衰を経て、今では町は死に体となってしまったのだ。
死に体というのは比喩表現ではない。町が茶褐色で、通りからは灯りが消えてしまっている。そしてグローバルなパワーがほとんど入ってきていない。グローバルはぺんぺん草まで食い尽くすけれど、死んでしまった町には入ってこないのだろう。茶褐色なのは、この町が鉄の町だったことによる。錆びた工場の群れが町の色となった。
もちろん今でも工場は稼動しているし、景気のいい設備投資も行われている。町の人口だって10万人程度はいるだろう。そして全国チェーンの店も多い。それでもこの町の息吹を取り返すことはできない。
街のある人は、「行政もすごく頑張った」のだと言う。街が活気を失い始めてから、何とかそれを食い止めようと、行政も、そして街の人たちも頑張ったのだろう。手が届きそうなほどこじんまりとしたこの街で、多くの悲惨な出来事や悲しみを目の当たりにして、黙していられることなどあるはずもないのだ。打つ手は打った。それでもだめだった。
きっと街の盛衰というものは、小さなひとつの行政単位でどうにかできるほど小さな力によるものではないのだ。
開発から取り残された町が衰退していくのと、盛を経験した町が衰退していくのとでは決定的に異なる何かがある。盛があると平泉のように、街に一つのストーリーが出来上がるからなのかもしれない。
室蘭の街をとぼとぼと歩きながら、人一人しか通れないような路地にも立ち入ってみる。細い路地にはスナックが軒を連ねているが、営業している店はいくつもない。その先の、看板だけが妙にまぶしい商店街を通り抜けたところで珈琲休憩をとる。
その後、室蘭名物の「焼き鳥」に舌鼓を打ちに行く。室蘭の「焼き鳥」は、串に刺さっているのが鳥ではなく、豚というところにその大きな特徴がある。そしてねぎまが長ネギではなく玉ねぎを使うのも、また室蘭の特徴である。豚のほどよい油と玉ねぎの甘さがなんともいえず旨い。なぜ鳥ではなく豚になったのかはよくわからないらしいけれど、鉄の街で働く人間たちにとって、鳥では物足りず豚になったのかもしれない。
是非試してみるべき味である。
店を出ると、町は完全に寝静まっていた。それほど遅い時間ではないのに。
さて、室蘭。この町は死に体と書いたのだけれど、それはみすぼらしいとか魅力がないということではなく、むしろその逆で、こんなにも死臭のする魅力的な街を他に知らない。ギラギラしていくつもの欲望を飲み込んでいる街もそれはそれで魅力的なのだけれど、欲望も贅肉もすべてそぎ落とし、あとは座してその時を待つのみのこの街は、無駄な意識を一切働かせなくてよく、とても居心地がよいのである。歩いていればどこからともなく物悲しい演歌でも聞こえてきそうでもある。
この街は、立身出世を夢見た小国日本が向かえた怒涛の世紀の中で、「日本」という子どもを立派に育て上げ、街としての役割を終え、今は静かな余生をおくっている。それは一方では、この室蘭という街そのものが、「日本」という国家の縮図だったと言うことなのかもしれない。
そこに住まうものや、欲望を見ているものの意思とはまったく無関係に、静けさを取り戻した街は、その時を待っているようだった。