室蘭の世紀 13

2010年12月25日 11時55分51秒 | 室蘭
 北海道の室蘭という街を、いったいどれほどの人が知っているのだろうか。この街は観光地としての知名度はほとんどないと言っていいだろう。観光資源としてはホエールウォッチングと地球岬くらいのものじゃないだろうか。でもこの街の知名度は全国区だろう。そしてそれはおそらく鉄の街であることによる。

 明治のはじめ、室蘭の人口はわずか千人に満たなかった。いまだ眠りのなかにあるこの町が、北海道が誇る工業都市へと変貌していくには、まだ数十年の時を待たなければならない。そしてこの街の静けさを見たとき、これからわずか百年あまりの間に室蘭の世紀を迎え、そしてそれも過ぎ去るのを経験することになるとは、誰が想像できただろう。

 この街の第一の発展は、北海道で産出した石炭の積出港としてであった。鉄道が敷設され、炭田地から石炭が輸送されてきたのだけれど、北海道の鉄道事業中に占めるこの地域の石炭輸送の重要性は、他に類例を見ないほどであった 。それだけ北海道における石炭と、それを積み出す港の重要性が高かったということでもある。
 そしてその後の1907年に一大転機を迎える。鉄と室蘭が結びついたのである。日本製鋼所が設立されたのだ。さらに二年後の1909年には、北海道炭礦汽船輪西製鉄場(現新日本製鉄株式会社室蘭製鉄所)が操業を開始する。その後の街の発展は、製鋼所と製鐵所、そして港の繁栄と期を一にした。富国強兵、「鉄は国家なり」路線を日本が採ったことによって、室蘭は日本の成長を一身に担ったのである。二大工場を中心として、無数の中小町工場が所狭しと立ち並び、周囲の山肌は工場に通う人々の住宅で埋め尽くされた。そして1970年前後に室蘭は最盛期を迎える。

 しかしその後いくつかの要因によって室蘭は衰退を始める。そして成長が早かったから、衰退も早かった。1990年ごろには最盛期の半分ほどの人口となってしまったのである。室蘭の繁栄は、わずか半世紀とちょっとで終わってしまったことになる。あれだけ軒を連ねていた工場群もだいぶ数を減らし、街の様相は大きく様変わりをしてしまった。隆盛を極めた石炭積み出しもなくなり、専用の積み出し埠頭も今はない。ちょうど人間の齢と同じくらいの期間に盛衰を経て、今では町は死に体となってしまったのだ。

 死に体というのは比喩表現ではない。町が茶褐色で、通りからは灯りが消えてしまっている。そしてグローバルなパワーがほとんど入ってきていない。グローバルはぺんぺん草まで食い尽くすけれど、死んでしまった町には入ってこないのだろう。茶褐色なのは、この町が鉄の町だったことによる。錆びた工場の群れが町の色となった。
 もちろん今でも工場は稼動しているし、景気のいい設備投資も行われている。町の人口だって10万人程度はいるだろう。そして全国チェーンの店も多い。それでもこの町の息吹を取り返すことはできない。

 街のある人は、「行政もすごく頑張った」のだと言う。街が活気を失い始めてから、何とかそれを食い止めようと、行政も、そして街の人たちも頑張ったのだろう。手が届きそうなほどこじんまりとしたこの街で、多くの悲惨な出来事や悲しみを目の当たりにして、黙していられることなどあるはずもないのだ。打つ手は打った。それでもだめだった。
 きっと街の盛衰というものは、小さなひとつの行政単位でどうにかできるほど小さな力によるものではないのだ。
 開発から取り残された町が衰退していくのと、盛を経験した町が衰退していくのとでは決定的に異なる何かがある。盛があると平泉のように、街に一つのストーリーが出来上がるからなのかもしれない。

 室蘭の街をとぼとぼと歩きながら、人一人しか通れないような路地にも立ち入ってみる。細い路地にはスナックが軒を連ねているが、営業している店はいくつもない。その先の、看板だけが妙にまぶしい商店街を通り抜けたところで珈琲休憩をとる。
 その後、室蘭名物の「焼き鳥」に舌鼓を打ちに行く。室蘭の「焼き鳥」は、串に刺さっているのが鳥ではなく、豚というところにその大きな特徴がある。そしてねぎまが長ネギではなく玉ねぎを使うのも、また室蘭の特徴である。豚のほどよい油と玉ねぎの甘さがなんともいえず旨い。なぜ鳥ではなく豚になったのかはよくわからないらしいけれど、鉄の街で働く人間たちにとって、鳥では物足りず豚になったのかもしれない。
是非試してみるべき味である。

 店を出ると、町は完全に寝静まっていた。それほど遅い時間ではないのに。
 
 さて、室蘭。この町は死に体と書いたのだけれど、それはみすぼらしいとか魅力がないということではなく、むしろその逆で、こんなにも死臭のする魅力的な街を他に知らない。ギラギラしていくつもの欲望を飲み込んでいる街もそれはそれで魅力的なのだけれど、欲望も贅肉もすべてそぎ落とし、あとは座してその時を待つのみのこの街は、無駄な意識を一切働かせなくてよく、とても居心地がよいのである。歩いていればどこからともなく物悲しい演歌でも聞こえてきそうでもある。

 この街は、立身出世を夢見た小国日本が向かえた怒涛の世紀の中で、「日本」という子どもを立派に育て上げ、街としての役割を終え、今は静かな余生をおくっている。それは一方では、この室蘭という街そのものが、「日本」という国家の縮図だったと言うことなのかもしれない。
そこに住まうものや、欲望を見ているものの意思とはまったく無関係に、静けさを取り戻した街は、その時を待っているようだった。


室蘭の世紀 12 ~天皇と宮沢賢治2~

2010年12月16日 00時02分47秒 | 室蘭
 ここまできてわかることはなんであろうか。行く先々で賢治が眼にし、驚嘆の感慨をもって接した北海道。そしてそれは北海道を訪れることを切望した賢治が「いま窓の右手にえぞ富士が見える。火山だ。頭が平たい。焼いた枕木でこらえた小さな家がある。熊笹が茂っている。植民地だ」 と車窓からの風景をメモを取りながら辿った道であり、別の見方をすれば、道順、立ち寄った場所、方法すべてがまさしく近代そのものであったということである。
 
 目まぐるしい分刻みの行程は驚くべきものがあるが、これは鉄道を利用することによってはじめて可能となった。人力や馬車で移動していた時代には考えられなかった時間の管理、そして移動の距離。大正も中ごろとなれば鉄道はかなり敷設されていたから、管理された時間の中で移動を繰り返すことは、もはや不可能ではなくなっていたのだろう。すべては管理され始めたのである!

 次に、より重要なこととして、賢治一行の辿った道程は天皇の巡幸の追体験であったということである。時間的、予算的な問題からであろうか、賢治たちの行程は道央と道南に限られてしまっているので、道東まで足を伸ばしている巡幸とまったく道順が一致しているわけではない。しかし、小樽、札幌、苫小牧、そしておそらくは白老、室蘭においても、概ね天皇と同様の施設などを見学しているのである。それは天皇が行く先々で眼差し、客体化し、近代化させた対象を、賢治一行も同様に眼差していたことを意味するのである。
 明治天皇の巡幸からは40年ほどの月日が流れてしまっていたものの、大正天皇の皇太子時代の行啓からは10年ほどしかたっておらず、もしかしたら行く先々で「ここは両天皇がご覧になられた…ですよ」などと話をしていたかもしれないということは容易に想像がつく。

 そもそも学校における修学旅行は、自然発生的に始まったことが知られているが、その中でも修学旅行の嚆矢とされる東京師範学校における最初の頃の旅の形は、「生徒は軍装で各銃器及び背嚢に外套」という出で立ちで、「生徒総員を3小隊の1中隊に編成」しての長途遠足というものであった。その後の各校の修学旅行も、物見遊山的な雰囲気はあるものの、目的はたとえ建前にしろ、軍事的教練に置かれることが常であった。そしてそのような軍事的教練に加え、明治後期からは日本の大陸進出と機を合わせて、関西、九州地方の学校を中心に、満韓旅行が行われるようになったのである。
 軍事的教練、そして近代の光を観るという観光の先駆けのような修学旅行であったから、賢治たちが天皇の追体験をするように北海道を駆け巡ったのは、決して不思議な話ではないのである。

 けれど、同時代の他の学校の修学旅行の行程を考え合わせると、賢治たちが天皇の足跡を辿ることを意識的に行っていたというわけではないだろう。むしろ行程を組む過程で、結果的に同じような道筋と施設になったのではないだろうか。しかしもしそうであるとすれば、それこそが近代的な魔力であったと言える。それは、決められた輸送方法と“観るべき”施設、この両者が否応なく決められてしまうことである。
 北海道へ修学旅行に行くと決めた時点で、鉄道を利用しない選択肢はほぼないだろう。さらに鉄道を利用することによって分刻みの行程となり、偶然性は消えうせ、必然性の世界が広がり始める。
 必然ではあるが、そこにはマスの論理に支えられた大きな物語が無数に転がっている。さらに、観る観られるという両者の共同作業によって構築されたもの。これらを、我々は拒否することが出来るのであろうか。同調圧力と大衆の創出。

 天皇の巡幸も、賢治の修学旅行も、立ち寄った施設は、官、民、そして軍関係と、その存立基盤は様々である。しかし、天皇という近代の最高機関によって眼差され、客体化され、平準化される。そしてそれを機構の末端に位置する学校が追随するのである。
 賢治たち一行によって眼差された客体に、例えば小林多喜二の見た世界は存在しない。あるいは賢治たちが利用した鉄道は囚人労働によっており、多くの命を代償としているという暗く陰鬱な近代は存在しない。あるいは、「白老のアイヌ」は立ち寄っているものの、近代そのものからこぼれ落ちたその他多くの人々という負の側面は見出されることがない。

 近代の光、それは疑う余地のないほど圧倒的な力をもって、賢治たち一行の眼前に現れたのであろう。鉄道という文明の利器を使い、時間管理された中で分刻みのような移動を繰り返しながら、それでも賢治たちの見たかったものとは一体なんだったのだろうか。
 東北の片田舎の決して裕福とはいえない農民の子弟たちを前にした賢治が、胸を躍らせ涙を流しながら行きたいと願ったその場所とは、きっと時代の光に彩られた明るく、新しい近代的な町並みだったのだろう。
 大正も半ばとなったこの時代、一方には都会的な華やかな世界が広がり始めていた時代であり、しかし一方では農村のいまだ絶望的な貧しさから抜け出せない状況に陰鬱な苦しみを抱いている者もまだまだ多かった時代である。
 そんな農村から出てきた賢治たちが、北海道の明るさに希望を見出していたことは想像に難くない。そしてそのような町並みのひとつひとつが、天皇という近代の統治者によって眼差された客体であり、そこで上に頂いた天皇、そして平等な国民、この両者の結託によって理想の近代が語られ、作り上げられていった近代像が見出されるのである。

室蘭の世紀 11 ~天皇と宮沢賢治1~

2010年12月14日 00時05分11秒 | 室蘭
@昭和36年、昭和天皇の北海道行幸(写真提供:登別市教育委員会)

 大日本帝国憲法には、第1章第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。これは近代的な法治国家として、日本が列強諸国に示した最高典範の「天皇」の条である。以後の日本はこの憲法の各条に基づき、陰に陽に天皇を掲げ、統治機能を構築していった。万世一系という「魔術的」な発想による「近代」の統治である。
 さて、このような近代日本を統治するものとしての天皇は、全国を巡幸することによってその存在を示し、国民国家を形成していった。北は北海道から南は九州まで、日本全国津々浦々までくまなく回り、その身体を人々の前に曝し続けてきたのである。

 天皇は、巡幸することによって「「軍事的指導者」や「開化の象徴」「産業や学芸の奨励者」」 といった近代の規範を示した。そしてそのために天皇が回ったのは軍事施設や学校、産業施設などであった。さらに天皇が回るためには公共インフラが整備されていなければならなかったため、行く先々には立派な道路や鉄道、あるいは宿泊施設などが建設されていった。
 行く先々にインフラが忽然と出現するその様は、さながら大地に栄養を与える「現人神」の様相であった。天皇は軍服に身を包み、あるときは鉄道に乗り、またあるときは軍艦に乗り、マスキュリンな近代の象徴と前近代的な現人神の間を行き来しながら、西へ東へ駆け巡ったのである。

 天皇の巡幸は、もう一方の受け入れる側でもある村の重大事件になるほどであった。明治天皇の北海道巡幸の際に、室蘭では天皇が訪れると歓迎の花火が上がり、在港船は祝砲を放ち、海軍軍楽隊は夜の10時まで演奏を続けた。市井の人々も「陛下をおがもうと近在から出てきた人の数も大変な」ものであったから、まさしくお祭り騒ぎのようであっただろう。なにしろ百三十戸ほどしかない村に、300人からの大団体が押し寄せたのである。
 この天皇の巡幸は、明治14年の話である。この時期にはおそらくまだ「天皇」の認識が末端の国民まで浸透してはいなかったであろうことが考えられるが、過剰ともいえる演出や市井の人々の喧騒ぶりは、中央からの達しだけではなく、地方から発生した演出も多く含まれていたはずである。そしてそのことによって天皇や近代的な模範が示され、国民の間に浸透する契機となった。

 さて、天皇と賢治の関係性について、多くを語ることはできない。しかし、それでもいくつかを探してみると、まずは賢治が稗貫農学校(現岩手県立花巻農学校)で教鞭をとっていたころ、すでに全国の学校には天皇の御真影が下付されており、したがって賢治も事あるごとにそれを拝めていたかもしれないであろうことである。 
 そもそも学校と軍隊は日本国民を形成するもっとも有効な装置として、明治以降の近代国家においてその役割を期待され、十分に果たしていたのである。そしてその学校の教師として、あるいは軍隊の頂点に立つ君臨者として、両者の立場はある点で一致していた。

 そしてもうひとつは、北海道を旅、あるいは巡幸したということである。賢治が三度目の北海道に修学旅行で訪れ、各地を周ったのは1924年(大正13年)のことだった。『或る農学生の日誌』には、修学旅行で北海道に行くことになったことを聞き、その興奮を書き綴っている。

 「津軽海峡、トラピスト、函館、五稜郭、えぞ富士、白樺、小樽、札幌の大学、麦酒会社、博物館、デンマーク人の農場、苫小牧、白老のアイヌ、室蘭、ああ僕は数えただけで胸が躍る」

 結果的には北海道の修学旅行に賢治も行くことになるのであるが、それまでには北海道という異郷に趣くに際して、金銭的な問題などから、行きたいけれど諦めなければならないといった心の葛藤が、あたかも小説のような筆致で日誌に綴られている。そしてそれは同時に、北海道という土地が当時、いかに異郷としてロマンチシズムの彼方に捉えられていたかを物語っている。

 では、実際に賢治たちの修学旅行の行程はどのようなものであったか。「修学旅行復命書」によると、まず小樽を訪れた。

5/19
青森から連絡船で函館に入港。過憐酸工場と五稜郭を見学。
5/20
午前9時小樽駅着、直ちに高等商業学校(現小樽商科大学)を参観する。その後小樽公園をめぐり正午12時30分小樽を後にする。
午後1時40分札幌着。まず山形屋旅館に宿泊を約してから北海道大学付属植物園に行く。植物園付属博物館。その後、北海道道庁内を通って寄宿。夜は中島公園。狸小路をめぐって夜9時30分就寝。

翌日

7時30分発。札幌麦酒会社。次に帝国製麻会社。10時30分に北海道帝国大学。その後、中島公園の植民館。帰途、北海道石炭会社を見やりながら停車場へ。4時3分、一路、苫小牧を目指す。
苫小牧では富士館に宿を取る。

 ここまでが賢治の復命書による北海道修学旅行の詳細である。その後の行程は、同僚の報告によると、苫小牧の製紙工場(王子製紙)を見学し、白老(午後3時発)、室蘭(午後4時着・午後5時発=室蘭-青森間連絡船)を経て帰途に着いたことになっている。

天皇の横須賀行幸

2010年12月09日 10時22分53秒 | 浦賀
御練兵の図〔聖徳記念壁画=明治神宮所蔵、『明治天皇行幸の軌跡 鎌倉・横須賀・浦賀』(横須賀の文化遺産を考える会、平成22年)より再引〕。明治天皇が赤坂仮皇居内で近衛兵を練兵している
  

鎌倉幕府からはじまる武家政権は天皇家に万世一系という歴史的な連続性の権威を与え、それを巧妙に利用して連続性に乏しいみずからの正統性を担保した。いわゆる天皇制の政治利用である。

江戸期には全国が藩という小国に分かれ、それらの国に属する人々の領主はあくまでもその藩を統率する武家のお殿さまであり、江戸に君臨した将軍ではなかった。ましてや京都にいた天皇などでは決してありえなかった。日本は藩という小国と、それに比べたら大きな「日本」という国の権力の二重構造にあった。

日本という大きい方の国を統率する政権は直接的な領民を持たず、いわば全国の小国である藩を支配し、みずから「将軍」を名乗ることを生業とした。そんな日本の権力構造を刷新するためにとられた荒療治が「大政奉還」だった。大政奉還とは天皇に政権を奉還することを意味したが、維新で権力の中枢を支配したのは幕府を大政奉還に追いやった薩長の出身者を中心とする権力者たちで、必ずしも「大政」は天皇に「奉還」されたわけではなかったのである。権力の中枢を握ることが出来なかった天皇はしかし、将軍とその側近たちにとって代わった新たな支配者たちの正統性を担保し、さらには小国に分散していた各藩の領民を日本という国の国民に統合するための道具として徹底的に利用された。この天皇という制度を使って日本の国民を統合し、国民国家を形成していく過程が日本の近代であろう。

それでは日本を国民国家に組み変えて近代を創出するために、天皇はどのように利用されたのか。明治の為政者たちは、天皇をどのように使いこなしたのだろうか。

江戸時代を通じて社会の支配層に君臨したのは武士階級だったことはすでに述べた。武士が社会の実権をにぎり、頂点に立っていることを保証するための制度としていわゆる「士農工商」の身分制が準備され、それを固定化しても大きな不満が出ないようにガス抜きする仕組みとして「士農工商」の下位に「エタ・ヒニン」が置かれた。武士が社会階層の頂点に立つという支配者の意志は、参勤交代の長大な行列などによって武士以下の階層に可視的に示されたのである。

明治政府を牛耳った為政者たちには、国民を支配する装置としての「士農工商」制を廃し、各藩の支配者たちの権勢を可視化した参勤交代の制度もなかった。明治の為政者たちにはこれらの消失した制度に代わり得る国民統合を達成するための装置が必要だった。その装置の機能がふたたび天皇制に求められたのはいうまでもない。

明治の天皇制を担保したのは明治憲法である。明治憲法は大日本帝国憲法ともよばれ、1889(明治22)年2月11日に発布、翌90年11月29日に施行された。しかし明治政府は維新直後から天皇制の確立とその利用に着手し、天皇を国民の眼前にさらす行幸を実施して国民に新たな統治システムを可視化させることで天皇制を、国民を統合する装置として活用した。

天皇はまず東京および京都周辺への行幸を開始し、その範囲はやがて日本全国に拡大していく。それと同時進行する形で天皇の軍隊への行幸あるいは天覧が積極的に進められた。明治政府が近代国家を防衛する軍隊の確立を急いだからだ。天皇は1871(明治4)年、海軍が主管する建設途上の横須賀製鉄(造船)所に第1回行幸を挙行し、以後1910(明治43)年までに19回の行幸をくり返す。

明治政府の所在地である東京の直近ではフランスの援助で製鉄所(造船所)を建設中の横須賀が海軍の中枢になった。横須賀には後に東海鎮守府(横浜)が移転して、そこが横須賀鎮守府に改編される。海軍は軍隊の練成に天皇を徹底的に利用した。軍神としての天皇を演出し、軍の最高指導者としての立場を天皇に付与した。天皇の軍隊であることを兵員に意識させて士気を高め、欧米の軍隊に対抗できる近代化された強い軍隊をつくることを目指した。天皇の横須賀行幸がその軍隊の狙いを推進したことは間違いない。

 

〔参考文献〕
原武史『可視化された帝国』(みすず書房、2001年)
横須賀の文化遺産を考える会『明治天皇行幸の軌跡 鎌倉・横須賀・浦賀』(横須賀の文化遺産を考える会、平成22年)