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聖書のことばを思い巡らす

神のことばは霊でありいのちであり食物です。

デボーション入門

2016-05-30 21:32:38 | その他

この記事の想定読者


この記事は、クリスチャン向けです。「デボーションってよく聞くからやってみたいけど、どうしたらいいの?」っていう人のために書きました。僕がプロテスタントなので、プロテスタントっぽさがあるかもしれませんが、教派色は薄くしているつもりです。


デボーションをきちんと知りたければ、『目からウロコ 聖書の読み方 レクチオ・ディヴィナ入門』(以下、『レクチオ・ディヴィナ入門』)がおすすめです。というか、僕はこの本からデボーションというものを学びました。


デボーションとは


「デボーション」、あまり日常的に使わない言葉ですね。英単語の devotion は「献身」という意味です。クリスチャン用語としてのデボーションには、もっと限定された意味があります。


共通理解のために、デボーションを簡潔に定義しておきましょう。デボーションとは「教会での礼拝や聖書研究以外の時間に、毎日、一定時間、神との交わりのために個人的に聖書を読むこと」です。クリスチャン同士の会話の中にデボーションという単語が出てきたら、だいたいこの意味で使われています。


「デボーション、最近やってますか?」


「忙しくて、ちょっと最近デボーションできていないですね」


僕は最初、「献身を毎日するってどういうことだろう」と疑問だったのですが、漠然と神に献身するということではなく、毎日の習慣なのですね。もちろん、献身というもともとの意味を失ったわけではなく、デボーションは神に心と時間を捧げているわけですが。


『レクチオ・ディヴィナ入門』によると、デボーションは聖書を「題材」として祈るのではなく、聖書を読むことがそのまま祈りであるような読書、のことだとしています。


古代の教父から学ぶデボーションの源流


デボーションとはとどのつまり、伝統的には「レクチオ・ディヴィナ」と言われてきたものです。これはラテン語です。「レクチオ」は「読むこと」、「ディヴィナ」は「聖なる」という意味です。訳すと、「聖なる読書」ですね。


レクチオ・ディヴィナは、古代の教父の時代にすでに実践されていました。『みことばを祈る』という本の中で、レクチオ・ディヴィナがこのように説明されています。



「聖なる読書」とは、キリストを捜すことである。聖アウグスティヌスの言うように、わたしが聖書の中で捜しているのは、その御方である」。オリゲネスによれば、それは「〔パンのように〕裂かれたみことばを神秘的にいただくこと」である。ナジアンズのグレゴリオは、「聖なる読書とは過越の小羊を食することである」と言う。それは「神的な読書(lectio devina)」、聖なる読書である。しかし、「読書」と訳すのはまずい。読書よりも、ずっと豊かなものだからである。「研究」といえば、あまりにも知的すぎる。「瞑想」も当たらない。本書では、"Lectio Devina"(聖なる読書)という述語を保存するか、さもなければ、「みことばを祈る」とでも翻訳しようか。(『みことばを祈る』P.22 教父の生存年代は本文から省略)



この引用に挙げられた人の中で最も古い人は、3世紀の教父、オリゲネスです。彼は別の手紙の中で「レクチオ・ディヴィナ」という言葉を使っています(正確には、ラテン語翻訳されたオリゲネスの手紙の中で、です)。



あなたが神にかたく結びついた信仰と誠実をもって聖なる読書(レクチオ・ディヴィナ)に献身しているとき、多くの人には隠されている神のことばの意味を捜し求めなさい。門を叩くことも捜し求めることもやめてはいけない。いちばん大切なことは、神のことばを理解できるよう祈ることなのだから。(グレゴリーへの手紙)



ここで確認しておきたいのは、デボーションとは目新しい方法ではないということです。聖書を読むことそのものが祈りであるような読書、あるいはここで訳された通り「みことばを祈る」ことは、キリスト教の歴史の中で培われてきた伝統です。私たちは「デボーション」という言葉と使ったからといって、新しい神との交わり方を発見したわけではありません。むしろ逆に、デボーションの意味を探求していくことは、歴史上のクリスチャンがどのように神と交わってきたかを見直す機会になります。


オリゲネスのアドバイスに耳を傾けましょう。「多くの人には隠されている神のことばの意味を捜し求めなさい」。聖書には「隠された意味」がある、と言っています。オリゲネスは聖書を文字通り読むよりは何かの「比喩」として解釈することが多かったようです。彼の読み方が現代的に見て正しかったどうかは議論があるでしょう。けれども、聖書の一節を読み解くために、隠された意味を決して見過ごすまいと「門を叩き続ける」姿勢は、今も私たちに教えてくれていると思います。


古代の修道院から学ぶデボーションの確立


デボーションの特徴は、毎日、決まった時間に、聖書を読むことです。そのような習慣がクリスチャンの規範として定着したのには、修道院に源流があります。


修道院のはじめを振り返ってみましょう。カトリックの修道制度の創始者と呼ばれているのは、6世紀の聖人、ヌルシアのベネディクトゥスです。ベネディクト会の標語 "ora et labora" 「祈り、かつ働け」は有名ですね。


ベネディクトゥスが書いた『聖ベネディクトの戒律』があります。これは修道院生活をする上での規範をまとめたもので、祈り、労働、食事、睡眠、清掃などが規則正しい時間割で定められています。少し引用します。



怠惰は霊魂の敵です。そこで修友は一定の時間を労働に当て、さらにほかの一定の時間を聖なる読書(レクチオ・ディヴィナ)に割くものとします。(『ポケット版 聖ベネディクトの戒律』(吉田暁 訳)第四十八章)



修道院の生活では、読書と労働を交互に行っていました。特に主の日、日曜日には、丸一日聖書を読むことにスケジュールが割り当てられていたようです。修道院というと一日中祈っているようなイメージがあるかもしれませんが、聖書なしで祈るような時間は、むしろ少なかったのかもしれません。


デボーションは聖書をゆっくり読むこと


『レクチオ・ディヴィナ入門』にはデボーションの簡単な実践方法が紹介されています。



最も簡潔に表現すると、レクチオ・ディヴィナとは「聖書を非常にゆっくり読むこと」なのです。



聖書を非常にゆっくり読むこと。あるいは、「反芻すること」「さわるように読むこと」「すべての言葉、すべてのセンテンスを読むこと」「何度も読むこと」「行きつ戻りつ読むこと」「はじめて読むように読むこと」「素手で読むこと」というふうに『レクチオ・ディヴィナ入門』では説明されています。


難しいことはありません。聖書を読むことそのものが、神との交わりの時間です。キリストを見上げる時間です。聖霊の臨在する時間です。そういう貴重な時間なのですから、自然とゆっくり読まざるをえません。


個人的な感覚では、一日に一章を読むのでも、「量が多すぎる」気がします。非常にゆっくり読んでいたら、一時間で数節読むのがやっとの時もあります。それでいい。それくらいのペースでいいのではないでしょうか。


デボーションは聖書研究と何が違うのか


デボーションは「聖書研究」とは違います。個人的な聖書研究はもちろん必要なものです。聖書研究の意義は疑いようがありません。ですが、デボーションは聖書研究ではありません。


なぜなら、デボーションの目的は知識の獲得ではないからです。デボーションの目的は神との個人的な交わりです。聖書のある節の深い解釈や、他の聖書箇所とのつながりや、歴史的背景を知ることはデボーションにとって役に立ちます。しかし、よくあることですが、すでに自分で知っている解釈が頭に固く入っているために、聖書を読みながら「ここはこういう意味だよな」と読み流してしまうことがあります。聖書を読むことが、すでに知っている解釈の再確認でしかなくなる。そうすると、聖書のテキストそのものを読むことが困難になります。


知識の豊富な人は特にこの落とし穴にはまりやすいかもしれません。自分の知っている聖書解釈が正しいと確信していればしているほど、聖なる交わりのために神と私の間に置かれた聖書の隣に、「既存の知識」をも置いてしまいたくなります。けれども、時には(いつもというわけではありません)、既存の知識を脇に置いて、今日、聖書が私に何を語っているかに耳を傾けようではありませんか。


ただ、繰り返し念を押しますが、聖書研究から得られる知識は大切です。現代の神学の成果も、デボーションに取り入れることができます。デボーションにおいて「主観的に自分が感じた通りに聖書を読み込めばいい」というのは間違いです。どんな言葉でも、文脈や背景を無視して一人歩きさせれば、自分に都合のいい解釈を生み出すことができます。それはまた別の極端です。


デボーションには神秘体験が必要なのか


別の極端。つまり、主観主義です。


デボーションは神との交わりだからといって、「神秘的な恍惚状態」を求めるのは良くありません。そのことについて、『みことばを祈る』ではこのように警告されています。



効果や心理的次元での感情的な情熱を求めないようにしよう。そのようなことをすれば、技術に逆戻りする危険があるし、世間やその誘惑に引きずりこまれないともかぎらない。前もって読書の効果を決めて、是が非でも、そこへたどり着こうとしてもいけない。それは自己満足の奴隷となるようなものである。



前もって読書の効果を決めないこと。これはとても大切です。デボーションをしても、これといって何も感じない日もあるでしょう。それはそれで良いのです。食べ物がおいしい日もあればそうでない日もありますが、毎日食べるものによって肉体は栄養を摂取しています。神のことばは「霊」のパンなのですから、食べることがとにもかくにも大切です。時々は感動的で新鮮な神秘体験をするかもしれませんが(それがどういうものか知りませんが)、感動がないからといって神と交わっていないわけではないのです。


デボーションは、人との会話と似ています。親密な人と毎日会話をするのに、いつも新鮮な話題があるとは限りません。時には深い話になったりもするでしょうが、ごくふつうの挨拶や近況報告で終わる日もあるでしょう。それでも、毎日会話を重ねていくうちに、その人のことを少しずつ知っていくようになります。人格的な交流をもって信頼関係や愛着関係を築いていくのはとても時間のかかることです。


今日からはじめるデボーション


いかがでしょうか。デボーションをしてみたくなりましたか?


デボーションをしたい、でもどこから聖書を読んだらいいかわからない、という方がいるかもしれません。もし、今までデボーションをしたことがなく、聖書をあまり読んだことがないのでしたら、「ヨハネの福音書」がおすすめです。旧約聖書も読まなきゃとか、通読しなきゃとか、あまり気負って大きな目標を立てると挫折しやすくなります。小さなことから始めるのがいいと思います。


あなたのデボーションがキリストにあって祝福されますように。




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