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聖書のことばを思い巡らす

神のことばは霊でありいのちであり食物です。

しもべの歌 イザヤ53:1

2015-03-05 21:38:57 | しもべの歌
シリーズ「しもべの歌を読む」の第四回です。
今回からイザヤ書53章に入ります。始めましょう。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 主の御腕は、だれに現れたのか。」(53:1)

この節は新約聖書のなかで二箇所、引用されています。ヨハネ12:38とローマ10:16です。順番に見ていきましょう。

ヨハネの福音書12章では、37節で「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった」と書かれています。

イエスさまはラザロを墓からよみがえらせました。そのときに一緒にいた多くの人々がラザロのよみがえりを証言しました。しかし、イエスさまの十字架の時が近づくにつれて、奇跡を見ても信じない人々も現れました。

イエスさまが行った奇跡には目的がありました。それは、福音を確証するための「しるし」を見せることです。そのことはヘブル人への手紙に書かれています。

「この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」(ヘブル2:3-4)

ところが、福音が真実であることの決定的証拠となるはずの「しるし」を見てさえも、イエスさまを信じない人々がいました。

どうして信じない人々がいたのでしょうか。

ヨハネの福音書12章を読むと、続く38節で、信じない人々がいたのは「私たちの聞いたことをだれが信じたのか」(イザヤ53:1)という預言が成就するためであったと説明されていまます。さらに40節では「主が彼らを盲目にされた」と再びイザヤ書を引用しています。

つまり、預言の成就のために、しるしを見ても信じない人々がいるように神は計画されました。キリストについて預言で書かれていることはすべて成就します。これは復活したイエスさまが弟子たちに再度強調したことでもあります(ルカ24:44)。信じない人々がいることさえも、「必ず成就すべきキリストについての預言」に含まれてました。

神のご計画には人知で計り知れない不思議さがあります。

先ほど書いたことは、奇妙なことに思われます。神はイエスさまが神のひとり子であることを証明するためのしるしを行いました。ところが、しるしを見ても信じることのないように、神はご自分で人々の霊的な目をふさぎました。一方で人の目に明らかになるように真実を証明し、他方で人の目から真実を遠ざけています。

どうしてこのような奇妙なことを神はなさるのでしょうか。

それは、より大きな栄光を現すためです。

出エジプトを思い出しましょう。パロは神がなさった数々の災いを見ても、かなくなになってイスラエルをエジプトから去らせませんでした。パロをかたくなにしたのは、神ご自身です。ちょっとやそっとの奇跡ではパロは信じませんでした。さまざまの災いののちに、エジプト中の初子が打たれてから、やっとパロはイスラエルを去らせました。パロがかたくなになったことによって、イスラエルは数々の恐るべき神のみわざをはっきりと目に焼き付けることができました。出エジプトの出来事は数千年にわたって子孫に語り継がれました。

では、イエスさまの時に神がユダヤ人をかたくなにしたのはどうしてでしょうか。

その理由も、より大きな栄光を現すためでした。具体的には、異邦人を救うためです。神の計画に無駄はありません。そのことを説明するために、イザヤ53:1を引用しているもう一つの箇所、ローマ10:16を見ましょう。

「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか』とイザヤは言っています。」(ローマ10:14-16)

福音のために人が遣わされ、福音を宣べ伝えられ、聞かされ、しかしすべての人が信じるわけではありません。ローマ人への手紙の中で、パウロはこのようにイザヤ書を引用しました。パウロは10章でいくつか預言のことばを引用してから、11章でユダヤ人がかたなくなにされた理由を説明しています。

「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」(ローマ11:25)

ユダヤ人がかたくなにされたことで異邦人が救われる。このことをパウロは「奥義」であると言っています。

出エジプトと対比すると、次のようなことが言えるでしょう。ユダヤ人がかたくなにされたからこそ、イエスさまの十字架の死と復活がますます栄光に富んだものとなった、と。ユダヤ人がイエスさまを処刑した直後、イエスさまの見張りをしていた百人隊長は「この方はまことに神の子であった」と告白しました。百人隊長は異邦人です。ここに、異邦人への救いの黎明を見ることができます。

私たち一人一人に対しても、神はこのように「悪を栄光のために用いる」としか言いようのないような不思議なご計画を持っておられるかもしれません。一見、最悪と思えることの中に、神の最良の配慮があるのかもしれません。

さて、もう一度イザヤ書53章1節を一文ずつ見ましょう。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。」

イザヤの預言のことばもイザヤが神から「聞いたこと」でした。福音のメッセージは人が頭の中で考えついたものではなく、人の外から、神から聞いたものです。それを他の人に伝言します。

預言者は「聞いたことば」を話します。ヨナのように、主から聞いたことばを町で叫ぶのが嫌で逃げ回る預言者もいます。エレミヤのように「まだ若いから」と辞退しようとする預言者もいます。「聞いたことば」を伝える仕事は中間管理職のような葛藤があります。

神からのことばを伝え聞かせなければいけない。けれども、「だれがが信じたか」。

この一言のうちに預言者の嘆きがあります。だれも信じてくれないじゃないか。しかし、そこには実は、主ご自身が人々をかたくなにし、人々の目と耳を閉ざしているという神秘があります。もっと大きなご計画のために。もっと遥かに大きな栄光を現すために。神は預言者に理不尽を強いているのではありません。

「誰が信じたか」という反語は嘆きでありますが、神の御手の中で「そうなるように定められている」という希望でもあります。

「主の御腕は、だれに現れたのか。」

だれに現れたのでしょうか。すべての人に現れました。
前章でイザヤは言いました。

「主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。」(42:10)

「主の御腕」が42章10節で「地の果て果て」にまで現されたのと対照的に、53章1節では直後から受難のみすぼらしい主の描写が続きます。主の御腕はまさしく十字架のイエス・キリストに現されました。

「御腕」とは第一に力強さの象徴であり、第二に神がご自身で事を行われる能動性の象徴です。

「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。」(イザヤ40:10)

神はその「御腕」で統べ治めます。次節のイザヤ41:11でも、「御腕」という表現があります。

「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。 」(40:11)

「御腕」は第三に「ふところに抱く」ために神の民を引き寄せるあわれみの象徴です。

優しく、力強く、あわれみ豊かな神の「御腕」は、十字架のイエス・キリストに現されました。キリストの受難には、人を救いに導くリアルな力があります。万物の根源である神ご自身が先立って苦しみを全うされたので、苦しみにある人を救うことができます。

「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(ヘブル2:10)

しもべの歌 イザヤ52:15

2015-02-25 23:21:03 | しもべの歌
シリーズ「しもべの歌を読む」の第三回です。
イザヤ書52章15節です。始めましょう。

「そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」(52:15)

前節と対句になっています。
14節「多くの者があなたを見て驚いた」
15節「彼は多くの国々を驚かす」
その「驚き」とはしもべの受難、すなわち神である方の苦しみと死であることは前の記事で延べました。

「多くの国々を驚かす」。

この「国々」「王たち」という表現は、異邦人にとっても驚嘆の的となることを示しています。

新改訳では多くの国々を「驚かす」と訳されていますが、英訳では多くの国々に「振りまくsprinkle」となっているものが多数あります。「振りまく」とすればキリストの血による「きよめ」のことを言っているのでしょう。多くの国々に小羊キリストの尊い血が注ぎかけられて、きよめられる。モーセがイスラエルの民に契約の血を注ぎかけたときの光景が思い出されます。

「モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。『主の仰せられたことはみな行い、聞き従います。』そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。『見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。』」(出エジプト24:5-6)

出エジプトでは血の注ぎを受けたのはイスラエルの民だけでした。今度は、血の注ぎかけによる契約が全世界的に交わされます。異邦人にも契約の血の効力が及びます。「すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。」(ヘブル9:22)異邦人である私たちも、キリストの血によって神の目に「きよいもの」とされました。

「王たちは彼の前で口をつぐむ」。

イザヤ49:7にこれと似た表現があります。

「主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。『王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。』」(49:7)

さげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷。一言でいうならば、社会の底辺層です。キリストは社会の底辺層にある人々を選んで「あなたがたは世の光である」と宣言されました。また、「あかりは燭台の上に置く。そうすれば、家にいる人々全部を照らす」とも言われました(マタイ5:14-15)。

神がご自分の栄光を現す方法は、ときに逆説的です。「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(マタイ23:12)というイエスさまのことばに要約されているとおり、神はご自分が人間の社会秩序に収まらないことを示すために、社会の底辺層にある人々を選び、社会秩序を逆転させる方法を取られます。もっと端的に、神は「権力ある者を王位から引き降ろされ、低い者を高く引き上げる」(ルカ1:52)方であるとも書かれています。

「王たちが彼の前で口をつぐむ」のはなぜでしょうか。
キリストが十字架において死なれ、三日目によみがえられたからです。

キリストの死と復活は、王のように人間社会で圧倒的な力を持っている者にとってさえ「口をつぐむ」しかない出来事です。なぜなら、人間には「一度死ぬことと死後さばきを受けることが定まって」(ヘブル9:27)いて、どれだけ財産や権力や業績を重ねてもその運命から誰も逃れることができないからです。キリストは、人間にはできないこと、すなわち死を打ち破る復活をなさった方です。

キリストの死と復活により王たちは口をつぐみました。
しかし、それだけではありません。
キリストはキリスト者の模範です。キリストにつらなるキリスト者もまた、王たちの口をふさぐ存在です。

社会の底辺層にある人がキリストと結ばれることにより「神の王・王妃」になります。さげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷が、キリストの死に連なることで、神のいのちにあずかって神の王権をいただくのです。このことには、社会に組み込まれた身分・格差・差別などの構造を破壊する力があります。

最後の文を読みましょう。

「彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」

ここは新約聖書のローマ15:21でパウロが引用しています。

「それは、こう書いてあるとおりです。『彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。』」(ローマ15:21)

異邦人のための使徒であったパウロがイザヤ52:15を引用したのは、パウロが「他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めた」(ローマ15:20)ことが、神のご計画のうちにあったことを証明するためでした。

福音は異邦人にも宣べ伝えられました。旧約聖書の預言を知らない異邦人にとって、福音は「まだ告げられなかったこと」「まだ聞いたこともないこと」です。福音は生活や文化の文脈を断ち切るようにして、突如、私たちに告げられます。

また、パウロはイザヤ52:15に個人的に応答して、キリストの御名がまだ語られていない所に宣教しました。パウロはイザヤ52:15を自分に語られた神の命令ととらえました。みことばへの応答です。その結果、パウロの業績は自分で成し遂げたものではなく、キリストが自分を通して成し遂げたものだと確信し、彼は栄光を神に返しました(ローマ15:18)。

私たちもみことばに応答するなら、そのみことばを成就するのは神です。このとき、すべての栄光は神にあります。

しもべの歌 イザヤ52:14

2015-01-30 01:17:42 | しもべの歌
シリーズ「しもべの歌を読む」の第二回です。
イザヤ書52章14節です。始めましょう。

「多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた――」(52:14)

13節から始まったしもべの歌は、栄光ある主の昇天を厳かに宣言したのちに、14節ですぐに主の受難の描写に入ります。先取りの勝利を述べて、次に時間をさかのぼって受難へ。キリストはむち打たれ、いばらの冠をかぶせられ、平手打ちされて、その顔立ちは損なわれる。

「多くの者があなたを見て驚いた」。

驚きについて。

キリストの十字架は、驚くべきことではないでしょうか。

キリストがどのような方として来られると書いてあったでしょうか。思い返しましょう。イザヤ書の9章にはこうあります。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
 主権はその肩にあり、
 その名は「不思議な助言者、力ある神、
 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
 ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
 さばきと正義によってこれを堅く立て、
 これをささえる。今より、とこしえまで。
 万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(9:6-7)

キリストはダビデの王座に着いて、とこしえに王国を治める方です。不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる方です。キリストは力ある神なのです!

その方が、十字架にかかって死なれました。

これこそが「驚き」です。

「多くの者」が主イエスの生涯を目にして驚くのは、奇跡やしるしや不思議や力あるわざや悪霊追い出しや権威あることばではなく、その凄惨な死です。福音書は十字架に向かっていく主イエスを驚きをもって描写しています。

十字架は一見、敗北としか思えない死です。
しかし、私たちは知っています。十字架の死で終わるのではなく、キリストはよみがえられて死を打ち破られたことを。

次は、醜さについて。

「ーーその顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた――」

キリストの顔形の醜さ。このテーマは53章2節で繰り返されます。王である方が、大祭司である方が、預言者である方が、神の子である方が、顔立ちが損なわれて人のようでなくなる。

人はキリストの傷つき醜くなった顔に驚きますが、神の目には必然でした。

ヘブル4章15節からすると、キリストの苦しみ・痛み・醜さはすべての人に同情(共苦)できるためにキリストが味わわなければならないものでした。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

主はすべての点で試みに会われました。あなたの、その苦しみ。あなたの、その痛み。あなたの、その醜さ。人には理解できない、同情されたくもないそれらを、主はカルバリの丘で、十字架の上で先んじて経験されました。

ここで、義人ヨブの理不尽な苦しみを思い出します。足先から頭のてっぺんまで腫れ物に覆われ、陶器のかけらで身をかき、灰の中に座ったヨブ。妻に「神を呪って死になさい」と言われても神を呪わなかったヨブ。

ヨブの苦しみにはイエスさまの受難が映し出されています。罪のない方が罪ある者のように扱われました。

イエスさまが十字架上で叫ばれたことばを思い出しましょう。

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」

これは詩篇22篇の一節です。
詩篇22編はメシヤ詩篇の一つですが、ここにも主の醜い形の描写があります。

「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。 人のそしり、民のさげすみです。」(6節)

主の損なわれた御顔。人のように見えないほどボロボロになった御姿。それは十字架の上で苦しまれる主の描写です。その十字架の上に私のすべての罪・病・呪いは乗せられました。

主の苦しみに思いを向けることは、私たちが贖われたときに支払われた対価の大きさを思うことでもあります。

しもべの歌 イザヤ52:13

2015-01-22 01:51:00 | しもべの歌
シリーズ「しもべの歌を読む(イザヤ書)」の第一回です。

このシリーズではイザヤ書52章13節から53章12節を一節ずつ読んでいきます。

この部分は「しもべの歌」と呼ばれ、旧約聖書の中でキリストの受難が最も克明に預言されています。一節ずつ味わいながら読むことで、キリストの受難の意味を学びたいと思います。

祈ります。どうか、みことばの学びによりイエス・キリストの十字架と復活による恵みを、私たちがより深く知ることができますように。


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それでは始めましょう。
イザヤ書52章13節です。

「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」(52:13)

「わたしのしもべ」という語がありますね。
これは「神のしもべ」という意味ですが、52章13節から53章12節まで、「神のしもべ」なる方について預言が続きます。

はじめに「しもべの歌」についての概略です。
イザヤ書には「しもべの歌」と呼ばれる箇所が四つあります。それぞれの章節は以下の通りです。

第一のしもべの歌:42章1節~4節
第二のしもべの歌:49章1節~6節
第三のしもべの歌:50章4節~9節
第四のしもべの歌:52章13節~53章12節

これらのしもべの歌は、どれもキリストの生涯を預言しています。この「イザヤ書しもべの歌シリーズ」では第四のしもべの歌を読み解いています。

第四のしもべの歌は、特にキリストの受難をありありと描写してます。あたかも目の前でキリストの十字架を目撃したかのように。それゆえ、「苦難のしもべ」の歌として知られています。

とはいえ、キリストの受難を描写しているのは第四の歌だけではありません。他の三つの歌にもそれは預言されています。

三つの歌にあるキリストの受難に少し触れておきましょう。第一から第三に進むにつれて、受難の具体的情景が徐々に現されているのがわかります。

第一の歌
「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。」(42:2)

第二の歌
「私はむだな骨折りをしました。いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。」(49:4)

第三の歌
「私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」(50:5-6)

これから学ぶ第四の歌では、キリストの受難というテーマが前面に出て、キリストの十字架はじつに罪の贖いのためであるという真理が明らかにされます。


さて、本題です。

第四の歌。苦難のしもべの歌です。

その導入である52章13節はキリストが栄光を受けて昇天するところから始まる。苦難の描写から始まるのではありません。

「見よ。わたしのしもべは栄える。」

この一節はあらかじめ十字架の後にある復活を告げています。苦難の先にある栄光を、死の先にあるいのちを、闇の先にある光を、敗北の先にある勝利を告げています。

次の節からすぐにキリストの受難が長く描かれますが、しもべの歌の導入部が「キリストの栄光」から始まることには意味がありそうです。

たとえば、こう教えてくれているかもしれません。私たちが福音書で十字架に至るイエスさまの受難を読むとき、その先にある「主はよみがえられた!」という復活の逆転劇を期待しながら読むべきである、と。希望は失望に終わりません。光は闇の中にこそ輝きます。

「見よ。わたしのしもべは栄える。」

ここで「栄える」という動詞はヘブル語で「成功する」「思慮がある」「賢くふるまう」などと訳せます。英訳聖書では「わたしのしもべは賢くふるまう」と訳しているものもいくつかあります。解釈によって翻訳が別れます。

「栄える」と訳すなら、キリストの栄光を述べている箇所であると解釈できます。キリストの死と復活により、悪魔の支配は打ち壊され、神の御子のご支配が地上に現れます。この栄光を告げ知らせています。
「思慮がある」と訳すなら、神の知恵を述べている箇所であると解釈できます。キリストは神の知恵です。神の奥義は、キリストの十字架の死による逆説的な勝利です(第一コリント2:7-8参照)。

「彼は、高められ、上げられ、非常に高くなる。」

ここで、「高められ、上げられ」で使われているヘブル語の二つの単語は、イザヤ6章1節とイザヤ57章15節で、神に対してその崇高さを表現するために使われています。

6章1節
「【高く上げられた】王座に座しておられる主」

57章15節
「【いと高くあがめられ、】永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方」

括弧【】内が「高められ、上げられ」と同じ単語の使われた箇所です。

神の高さ・偉大さ・崇高さを表現する語句が、神の「しもべ」にも使われています。

それだけではありません。

53章13節に使用される表現は、しもべが「高く上げられ」で満足せず「非常に高くなる」と付け加えています。

これはどういうことでしょうか。

端的に言うと、キリストは神と同等であり、神と等しく「いと高くあがめられるべき」方であることを述べているのではないでしょうか。

ピリピの手紙2章6節から11節を思い出しましょう。

イエスさまは仕える者の姿をとって現れました。しもべだったのです。その方が十字架の死に至るまで従順であったので、イエスの御名はすべての名の上に高くあげられました。

イエスさまはどこまで高く上げられたのでしょうか。

天にある神の御座の右まで上げられました。「彼は、高められ、上げられ、非常に高くなる。」この文はキリストが神の右にまで上げられることを、非常に強い表現で言い表しています。

53章13節はメシヤが神ご自身であることを預言している箇所の一つに数えられてもよいと思います。

キリストは、今もいと高き方の御座の右に座っておられます。小羊キリストをあがめ、ほめたたえます。