シリーズ「しもべの歌を読む」の第四回です。
今回からイザヤ書53章に入ります。始めましょう。
「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
主の御腕は、だれに現れたのか。」(53:1)
この節は新約聖書のなかで二箇所、引用されています。ヨハネ12:38とローマ10:16です。順番に見ていきましょう。
ヨハネの福音書12章では、37節で「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった」と書かれています。
イエスさまはラザロを墓からよみがえらせました。そのときに一緒にいた多くの人々がラザロのよみがえりを証言しました。しかし、イエスさまの十字架の時が近づくにつれて、奇跡を見ても信じない人々も現れました。
イエスさまが行った奇跡には目的がありました。それは、福音を確証するための「しるし」を見せることです。そのことはヘブル人への手紙に書かれています。
「この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」(ヘブル2:3-4)
ところが、福音が真実であることの決定的証拠となるはずの「しるし」を見てさえも、イエスさまを信じない人々がいました。
どうして信じない人々がいたのでしょうか。
ヨハネの福音書12章を読むと、続く38節で、信じない人々がいたのは「私たちの聞いたことをだれが信じたのか」(イザヤ53:1)という預言が成就するためであったと説明されていまます。さらに40節では「主が彼らを盲目にされた」と再びイザヤ書を引用しています。
つまり、預言の成就のために、しるしを見ても信じない人々がいるように神は計画されました。キリストについて預言で書かれていることはすべて成就します。これは復活したイエスさまが弟子たちに再度強調したことでもあります(ルカ24:44)。信じない人々がいることさえも、「必ず成就すべきキリストについての預言」に含まれてました。
神のご計画には人知で計り知れない不思議さがあります。
先ほど書いたことは、奇妙なことに思われます。神はイエスさまが神のひとり子であることを証明するためのしるしを行いました。ところが、しるしを見ても信じることのないように、神はご自分で人々の霊的な目をふさぎました。一方で人の目に明らかになるように真実を証明し、他方で人の目から真実を遠ざけています。
どうしてこのような奇妙なことを神はなさるのでしょうか。
それは、より大きな栄光を現すためです。
出エジプトを思い出しましょう。パロは神がなさった数々の災いを見ても、かなくなになってイスラエルをエジプトから去らせませんでした。パロをかたくなにしたのは、神ご自身です。ちょっとやそっとの奇跡ではパロは信じませんでした。さまざまの災いののちに、エジプト中の初子が打たれてから、やっとパロはイスラエルを去らせました。パロがかたくなになったことによって、イスラエルは数々の恐るべき神のみわざをはっきりと目に焼き付けることができました。出エジプトの出来事は数千年にわたって子孫に語り継がれました。
では、イエスさまの時に神がユダヤ人をかたくなにしたのはどうしてでしょうか。
その理由も、より大きな栄光を現すためでした。具体的には、異邦人を救うためです。神の計画に無駄はありません。そのことを説明するために、イザヤ53:1を引用しているもう一つの箇所、ローマ10:16を見ましょう。
「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか』とイザヤは言っています。」(ローマ10:14-16)
福音のために人が遣わされ、福音を宣べ伝えられ、聞かされ、しかしすべての人が信じるわけではありません。ローマ人への手紙の中で、パウロはこのようにイザヤ書を引用しました。パウロは10章でいくつか預言のことばを引用してから、11章でユダヤ人がかたなくなにされた理由を説明しています。
「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」(ローマ11:25)
ユダヤ人がかたくなにされたことで異邦人が救われる。このことをパウロは「奥義」であると言っています。
出エジプトと対比すると、次のようなことが言えるでしょう。ユダヤ人がかたくなにされたからこそ、イエスさまの十字架の死と復活がますます栄光に富んだものとなった、と。ユダヤ人がイエスさまを処刑した直後、イエスさまの見張りをしていた百人隊長は「この方はまことに神の子であった」と告白しました。百人隊長は異邦人です。ここに、異邦人への救いの黎明を見ることができます。
私たち一人一人に対しても、神はこのように「悪を栄光のために用いる」としか言いようのないような不思議なご計画を持っておられるかもしれません。一見、最悪と思えることの中に、神の最良の配慮があるのかもしれません。
さて、もう一度イザヤ書53章1節を一文ずつ見ましょう。
「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。」
イザヤの預言のことばもイザヤが神から「聞いたこと」でした。福音のメッセージは人が頭の中で考えついたものではなく、人の外から、神から聞いたものです。それを他の人に伝言します。
預言者は「聞いたことば」を話します。ヨナのように、主から聞いたことばを町で叫ぶのが嫌で逃げ回る預言者もいます。エレミヤのように「まだ若いから」と辞退しようとする預言者もいます。「聞いたことば」を伝える仕事は中間管理職のような葛藤があります。
神からのことばを伝え聞かせなければいけない。けれども、「だれがが信じたか」。
この一言のうちに預言者の嘆きがあります。だれも信じてくれないじゃないか。しかし、そこには実は、主ご自身が人々をかたくなにし、人々の目と耳を閉ざしているという神秘があります。もっと大きなご計画のために。もっと遥かに大きな栄光を現すために。神は預言者に理不尽を強いているのではありません。
「誰が信じたか」という反語は嘆きでありますが、神の御手の中で「そうなるように定められている」という希望でもあります。
「主の御腕は、だれに現れたのか。」
だれに現れたのでしょうか。すべての人に現れました。
前章でイザヤは言いました。
「主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。」(42:10)
「主の御腕」が42章10節で「地の果て果て」にまで現されたのと対照的に、53章1節では直後から受難のみすぼらしい主の描写が続きます。主の御腕はまさしく十字架のイエス・キリストに現されました。
「御腕」とは第一に力強さの象徴であり、第二に神がご自身で事を行われる能動性の象徴です。
「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。」(イザヤ40:10)
神はその「御腕」で統べ治めます。次節のイザヤ41:11でも、「御腕」という表現があります。
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。 」(40:11)
「御腕」は第三に「ふところに抱く」ために神の民を引き寄せるあわれみの象徴です。
優しく、力強く、あわれみ豊かな神の「御腕」は、十字架のイエス・キリストに現されました。キリストの受難には、人を救いに導くリアルな力があります。万物の根源である神ご自身が先立って苦しみを全うされたので、苦しみにある人を救うことができます。
「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(ヘブル2:10)
今回からイザヤ書53章に入ります。始めましょう。
「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
主の御腕は、だれに現れたのか。」(53:1)
この節は新約聖書のなかで二箇所、引用されています。ヨハネ12:38とローマ10:16です。順番に見ていきましょう。
ヨハネの福音書12章では、37節で「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった」と書かれています。
イエスさまはラザロを墓からよみがえらせました。そのときに一緒にいた多くの人々がラザロのよみがえりを証言しました。しかし、イエスさまの十字架の時が近づくにつれて、奇跡を見ても信じない人々も現れました。
イエスさまが行った奇跡には目的がありました。それは、福音を確証するための「しるし」を見せることです。そのことはヘブル人への手紙に書かれています。
「この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」(ヘブル2:3-4)
ところが、福音が真実であることの決定的証拠となるはずの「しるし」を見てさえも、イエスさまを信じない人々がいました。
どうして信じない人々がいたのでしょうか。
ヨハネの福音書12章を読むと、続く38節で、信じない人々がいたのは「私たちの聞いたことをだれが信じたのか」(イザヤ53:1)という預言が成就するためであったと説明されていまます。さらに40節では「主が彼らを盲目にされた」と再びイザヤ書を引用しています。
つまり、預言の成就のために、しるしを見ても信じない人々がいるように神は計画されました。キリストについて預言で書かれていることはすべて成就します。これは復活したイエスさまが弟子たちに再度強調したことでもあります(ルカ24:44)。信じない人々がいることさえも、「必ず成就すべきキリストについての預言」に含まれてました。
神のご計画には人知で計り知れない不思議さがあります。
先ほど書いたことは、奇妙なことに思われます。神はイエスさまが神のひとり子であることを証明するためのしるしを行いました。ところが、しるしを見ても信じることのないように、神はご自分で人々の霊的な目をふさぎました。一方で人の目に明らかになるように真実を証明し、他方で人の目から真実を遠ざけています。
どうしてこのような奇妙なことを神はなさるのでしょうか。
それは、より大きな栄光を現すためです。
出エジプトを思い出しましょう。パロは神がなさった数々の災いを見ても、かなくなになってイスラエルをエジプトから去らせませんでした。パロをかたくなにしたのは、神ご自身です。ちょっとやそっとの奇跡ではパロは信じませんでした。さまざまの災いののちに、エジプト中の初子が打たれてから、やっとパロはイスラエルを去らせました。パロがかたくなになったことによって、イスラエルは数々の恐るべき神のみわざをはっきりと目に焼き付けることができました。出エジプトの出来事は数千年にわたって子孫に語り継がれました。
では、イエスさまの時に神がユダヤ人をかたくなにしたのはどうしてでしょうか。
その理由も、より大きな栄光を現すためでした。具体的には、異邦人を救うためです。神の計画に無駄はありません。そのことを説明するために、イザヤ53:1を引用しているもう一つの箇所、ローマ10:16を見ましょう。
「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか』とイザヤは言っています。」(ローマ10:14-16)
福音のために人が遣わされ、福音を宣べ伝えられ、聞かされ、しかしすべての人が信じるわけではありません。ローマ人への手紙の中で、パウロはこのようにイザヤ書を引用しました。パウロは10章でいくつか預言のことばを引用してから、11章でユダヤ人がかたなくなにされた理由を説明しています。
「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」(ローマ11:25)
ユダヤ人がかたくなにされたことで異邦人が救われる。このことをパウロは「奥義」であると言っています。
出エジプトと対比すると、次のようなことが言えるでしょう。ユダヤ人がかたくなにされたからこそ、イエスさまの十字架の死と復活がますます栄光に富んだものとなった、と。ユダヤ人がイエスさまを処刑した直後、イエスさまの見張りをしていた百人隊長は「この方はまことに神の子であった」と告白しました。百人隊長は異邦人です。ここに、異邦人への救いの黎明を見ることができます。
私たち一人一人に対しても、神はこのように「悪を栄光のために用いる」としか言いようのないような不思議なご計画を持っておられるかもしれません。一見、最悪と思えることの中に、神の最良の配慮があるのかもしれません。
さて、もう一度イザヤ書53章1節を一文ずつ見ましょう。
「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。」
イザヤの預言のことばもイザヤが神から「聞いたこと」でした。福音のメッセージは人が頭の中で考えついたものではなく、人の外から、神から聞いたものです。それを他の人に伝言します。
預言者は「聞いたことば」を話します。ヨナのように、主から聞いたことばを町で叫ぶのが嫌で逃げ回る預言者もいます。エレミヤのように「まだ若いから」と辞退しようとする預言者もいます。「聞いたことば」を伝える仕事は中間管理職のような葛藤があります。
神からのことばを伝え聞かせなければいけない。けれども、「だれがが信じたか」。
この一言のうちに預言者の嘆きがあります。だれも信じてくれないじゃないか。しかし、そこには実は、主ご自身が人々をかたくなにし、人々の目と耳を閉ざしているという神秘があります。もっと大きなご計画のために。もっと遥かに大きな栄光を現すために。神は預言者に理不尽を強いているのではありません。
「誰が信じたか」という反語は嘆きでありますが、神の御手の中で「そうなるように定められている」という希望でもあります。
「主の御腕は、だれに現れたのか。」
だれに現れたのでしょうか。すべての人に現れました。
前章でイザヤは言いました。
「主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。」(42:10)
「主の御腕」が42章10節で「地の果て果て」にまで現されたのと対照的に、53章1節では直後から受難のみすぼらしい主の描写が続きます。主の御腕はまさしく十字架のイエス・キリストに現されました。
「御腕」とは第一に力強さの象徴であり、第二に神がご自身で事を行われる能動性の象徴です。
「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。」(イザヤ40:10)
神はその「御腕」で統べ治めます。次節のイザヤ41:11でも、「御腕」という表現があります。
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。 」(40:11)
「御腕」は第三に「ふところに抱く」ために神の民を引き寄せるあわれみの象徴です。
優しく、力強く、あわれみ豊かな神の「御腕」は、十字架のイエス・キリストに現されました。キリストの受難には、人を救いに導くリアルな力があります。万物の根源である神ご自身が先立って苦しみを全うされたので、苦しみにある人を救うことができます。
「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(ヘブル2:10)