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聖書のことばを思い巡らす

神のことばは霊でありいのちであり食物です。

【翻訳】アタナシウス『神のことばの受肉』第六章

2016-03-14 23:02:33 | 神のことばの受肉
2017/11/06更新。完成版は アレクサンドリアのアタナシオス『神のことばの受肉』 に置きました。

第六章 ユダヤ人の拒絶

第三十三節

ここまで、救い主の受肉について語った。主の肉体が復活したこと、主が死に勝利したことに関しても、明確な証明をしてきた。さて、次だ。ユダヤ人と異邦人それぞれに対して、これら同じ事実をどんなに不信仰な見方で、あるいはどんなに愚かな思い込みでとらえているかを調べることにしよう。両者とも、問題の本質は同じだと思う。つまり、みことばなる方が人間になったことと、その方が十字架にかかったこととが、(あくまでも彼らにとってそう見えるということだが)論理的に結びつかず、調和しないという点である。しかし、私たちはこれらの反論に対してひるまず応えよう。私たちの側にある証拠こそが疑いようもなく明白なのだから。

第一に、ユダヤ人を考える。ユダヤ人の不信仰は、彼ら自身が丹念に読んでいる聖書こそが証明している。最初から最後まで神の霊感によって書かれた聖書が、キリストに関することを、全体的なメッセージを通じても具体的な記述においても明確に教えている。あの処女のこともそうだ。キリストが処女から誕生するという驚異は、預言者が予告しているのだ。「見よ。処女がみごもって、男子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。神が私たちと共にいるという意味である。」(イザヤ七・十四)また、ユダヤ人はモーセを偉大な預言者として無条件に信頼しているが、モーセもやはり、キリストの来臨の重要性と真実性を認識していた。モーセはこう言った。「ヤコブから一つの星がのぼり、イスラエルから一人の男が出る。彼はモアブの支配者どもを粉々に打ち砕く。」(民数記二十四・十七)さらに、「ああ、ヤコブよ、あなたの住まいはなんと美しいのだろう。ああ、イスラエル、あなたの天幕はなんと慕わしいのだろう。その日陰は木のしげる谷間のように、川のほとりの草原のように、主の建てた天幕のように、小川のほとりの杉のように。彼の子孫から一人の男が出る。この方は多くの人々を支配する。」(民数記二十四・五~七)それだけでなく、イザヤはこう言っている。「その幼子が『お父さん』『お母さん』と呼べるようにならないうちに、ダマスコの権勢とサマリアの戦利品を、アッシリアの王の目の前から持ち去る。」(イザヤ八・四)これらのことばが予告している内容は、ひとりの人が現れるということである。聖書はさらに、来られる方はすべてのものの主であると宣言している。こう書いてある。「見よ。主が空高く雲に乗ってエジプトに来られる。人の手で作ったエジプトの偶像はおののき震える。」(イザヤ十九・一)御父がエジプトからこの方を呼び戻すことも書かれている。こう言われている。「エジプトから、わたしはわが息子を呼び出す。」(ホセア十一・一)

第三十四節

それだけではない。聖書はキリストの死についても黙っていない。それどころか、これ以上ないほどはっきりと死について語っている。死の原因についても雄弁だ。聖書が語っているキリストの受難の目的は、ご自分のためではなく、すべての人に不死と救いをもたらすためである。また、キリストに対してユダヤ人がくわだてる謀略も、ユダチ人の手によるあらゆる屈辱も、聖書に記されている。聖書を読む者は、それらの事実をうっかり読み飛ばしてしまったなどという言い訳がきかない。たとえば、この節である。「彼は苦しめられ、弱さを背負うことを知っている。彼は人から顔を背けられているからだ。彼はさげすまれていた。彼が私たちの罪を置い、私たちのために苦しんでいると、私たちは思わなかった。私たちのほうは、彼が自分のせいで苦しめられ、悩まされ、しいたげられているのだと思った。だが、彼が私たちの罪のために傷を負い、私たちのとがのために弱くされたのだ。彼へのこらしめによって私たちに平和がもたらされ、彼のうち傷によって私たちはいやされている。」(イザヤ五十三・三~五)ああ、みことばなる方がどんなに深く人間を愛しておられることか。私たちに義がもたらされるために、私たちの不義のために、彼は侮辱に甘んじたのだ。続けてこう書いてある。「私たちはみな、羊のようにさまよっていた。人は自分の道からさまよい出ていた。それで主は彼を私たちの罪のために手放した。彼自身はしいたげられても口を開かなかった。羊のように彼はほふり場に引かれていき、毛を刈る者の前で黙っている小羊のように口を閉ざしていた。はずかしめを受け、彼のさばきは取り去られた。」(イザヤ五十三・六~八)聖書はまた、彼の苦しみを見て彼がふつうの人間にすぎないと考える者が出てくることを見越していた。それで彼の行いにどのような力が働いているかを聖書は示しておいた。「彼がどの血筋の者かをだれが当てられようか。彼のいのちは地から取り上げられたのだ。人々の暴虐によって彼は死んだ。私は悪人には彼の墓で、富む者には彼の死で報いよう。彼は暴虐を行わず、偽りはその口に見出されなかったのだから。そして、主が彼の傷を癒すことは、主のみこころであった。」(イザヤ五十三・八~十)

第三十五節

キリストの死についての預言は以上である。さて、ではキリストの十字架についてどんな預言があるのか関心をお持ちかもしれない。十字架さえも聖書は惜しまず語っている。聖書を記した聖徒たちは、誤読の余地をまったく残さずに十字架を預言した。はじめにモーセがはっきりと予告した。「あなたは自分のいのちが目の前に吊り下げられているのを見るが、信じない。」(申命記二十八・六十六)モーセの後、預言者たちもこう証言している。「私は供え物として引かれていく傷のない小羊のようでしたが、そのことを知りませんでした。彼らは私に悪を企てて、言いました。『さあ、彼のいのちに木を投げ入れてしまえ。彼を生ける者の地から追い出せ』」(エレミヤ十一・十九)また、こう書かれている。「彼らは私の手と足を刺し通し、私の骨を数えた。彼らは私の衣を自分たちのために裂いて、くじ引きにして分け合った。」(詩篇二十二・十六~十八)さて、吊し上げられる死、しかも木の上で起こる死とは、何か。十字架の死にほかならない。手と足が刺し通されるのだから、なおさら十字架以外にはあり得ない。加えて、救い主が人間のあいだに来られてから、全世界の国々が神を知り始めている。このことも聖書ははっきり書いている。「エッサイの根がある。彼は立ち上がって国々を治め、国々は彼に望みを置く。」(イザヤ十一・十)

これらの聖句は、かの出来事を立証する証拠のうち、氷山の一角にすぎない。じっさいには、ありとあらゆる聖句がユダヤ人の不信仰を反駁している。たとえば、義人や預言者や族長のうち誰かひとりでも、聖書に「彼は処女から生まれる」と預言された者がいるだろうか。アベルはアダムから生まれた。エノクはエレデから生まれた。アブラハムはテラから、イサクはアブラハムから、ヤコブはイサクから生まれたのでなかったか。ユダはヤコブから、モーセとアロンはアムラムから生まれたのではなかったか。サムエルはエルカナの子、ダビデはエッサイの子、ソロモンはダビデの子、ヘゼキヤはアハズの子、ヨシヤはアモンの子、イザヤはアモスの子、エレミヤはヒルキヤの子、エゼキエルはブジの子ではないか。彼らには、父がいるではないか。では、処女から生まれる者、預言者がしるしとして語ったその方はいったい誰なのか。また、彼ら先人たちのうち、天の星によってその誕生が世界中に知らされた者がいるだろうか。モーセが生まれたとき、両親はモーセを隠した。ダビデは自分のいる地域でも知られていなかった。強大な権力を持っていたサムエル自身もダビデの存在を知らず、エッサイに他の息子がいるか尋ねたほどだ。アブラハムも、誕生ののちにやっと彼の地域で偉大な人として知られるようになった。だが、キリストはそうではない。彼の誕生を証言したのは人間ではなく、天に輝く星であった。その天から、彼はくだって来られたのだ。

第三十六節

まだある。地上の王のうち誰が、父と母を呼べるようにならないうちに、即位して敵を打ち破っただろうか。ダビデが即位したのは三十歳になってからだ。ソロモンの即位は若い青年に成長してから。ヨアシュが即位したのは七歳のとき、ヨシヤもヨアシュののちに同じ七歳で即位した。二人とも、父と母を呼べる年齢に達してからだ。ではいったい、生まれた直後から王として治め、敵を打ち負かした先人が誰かいるだろうか。このことについてユダヤ人に調べさせてみよ。そして、イスラエルやユダにそのような王がいるか言わせてみよ。全世界の国々が彼に希望を起き、彼に敵対するのではなく彼にあって平和を得るような王がいるのかを! エルサレムがそこにある限り、彼らの間に戦争が絶えることなく、異邦人はみなイスラエルと戦ってきた。アッシリア人はイスラエルを圧迫し、エジプト人は虐待し、バビロニア人は襲撃した。奇妙なことに、隣人のシリア人でさえイスラエルと戦争した。ダビデはモアブと戦い、シリア人を打ち倒し、ヒゼキヤはセナケリブの高ぶりにおじけずいたのではなかったか。アマレクはモーセと戦い、アモリ人もモーセと敵対し、エリコの住民はヌンの子ヨシュアと対決したのではなかったか。国々はたえずイスラエルのことを燃えるような敵意をもって憎んできたではないか。だからこそ、「国々が彼に希望を置く」と言われた方はいったいどなたなのか、とは尋ねるに値する問いなのだ。明らかにそのような方がいなければならない。預言者が嘘をつくなどありえないからだ。だが、聖なる預言者のひとりでも、あるいは昔の父祖たちのひとりでも、十字架の上ですべての人の救いのために死んだ者がいただろうか。ひとりでも、すべての人をいやすために傷つけられ、殺された者がいただろうか。義人や王のうちひとりでも、その人の前にエジプトの偶像が倒れることがあったろうか。アブラハムはエジプトに行ったが、エジプトの偶像崇拝はやまなかった。モーセもエジプトで生まれたが、やはり偶像崇拝は変わらなかったのである。

第三十七節

また、聖書が告げている、手足を刺し通され、木にかけられる者とは誰を指しているのか。十字架の上で、すべての人の救いのために供え物をまっとうする者とは、誰のことなのか。アブラハムではない。アブラハムは寝床で死んだ。イサクもヤコブもそうだ。モーセとアロンは山で死んだ。ダビデは自分の家で生涯を閉じた。誰もダビデに剣を突きつけなかった。サウルはダビデを殺そうとしたが、かすり傷一つ負わせられなかった。イザヤはのこぎりでひかれて処刑されたが、木にかけられたのではなかった。エレミヤははずかしめられたが、罪に定められて死んだのではなかった。エゼキエルは苦しんだが、人々の救いのためではなく、これから起こるべきことを告げるという使命のためであった。さらに、すべてここで挙げた者たちは、苦しみにあうときにも、人間であることに変わりなかった。だが、すべての人のために苦しみを受けると聖書が告げているこの方は、ただの人間ではなく、確かに私たち人間の性質に持っているものの、すべての人のいのちと呼ばれているのだ。「あなたは自分のいのちが目の前に吊り下げられているのを見る」と書かれている。「彼がどの血筋の者かをだれが当てられようか」とも。どんな聖徒でも、先祖をさかのぼってどの部族から出たかを調べることはできる。だが、聖書のことばは、いのちそのものである方がどの家の出自かは誰にもわからないと証言している。では、聖書が書き記したこの方は、いったい誰なのだろうか。預言者たちがその来臨を力強く予言した偉大な方は、いったい誰なのだろうか。聖書をすみずみまで探しても、すべての人の救い主、神のことばと呼ばれる方、私たちの主イエス・キリストのほかには、誰もいない。イエス・キリストは処女から生まれた。ひとりの人として地上に現れた。どの血筋の者でもない。人間の父から肉体を受けたのではく、処女から生まれたからである。ダビデも、モーセも、族長たちも、父系の先祖をさかのぼることができる。けれども、救い主にはそれができない。星が彼の誕生を予告したが、そうさせたのはほかならぬ彼ご自身だったのだ。みことばなる方が天から降ってこられたとき、天にもしるしを現したのはふさわしいことだった。被造物の王である方の来臨を全世界が目で見て確認できるようになさったのはふさわしいことだった。イエス・キリストはユダヤに生まれたが、彼を礼拝するためにペルシャから人が来た。肉体の現れの前にすでに、キリストは敵である悪魔から勝利を得、偶像礼拝者から戦利品を受け取った。このことが示しているとおり、全地から集まった異教徒たちが、今や父祖伝来の言い伝えと偽りの偶像礼拝を捨てて、キリストに望みを置くようになり、宗教的献身をキリストに鞍替えしているのだ。これは私たちの目の前で、ここエジプトで起きている。ここにおいて、もうひとつの預言が成就した。エジプト人が偽りの礼拝をやめるという事態はキリストが来られるまで起こったことがなかった。すべての人の主であるキリストが、雲に乗ってこられるようにして、肉体をもって地上に降り、偽りの偶像のむなしさを明らかにし、すべての人を彼の所有物として、また彼を通して御父の所有物として勝ち取ったからこそ、エジプトで偶像礼拝がやむようになった。彼こそが、太陽と月の証言のもとに十字架にかけられた方である。彼の死によって救いがすべての人に来た。今やすべての被造物は贖われた。彼こそがすべての人のいのちである。彼こそが、羊のようにご自分の肉体を死に明け渡し、私たちのために、私たちの救いのために、いのちを手放した方である。

第三十八節

それでも、ユダヤ人は信じない。この議論では満足しない。それなら、彼らが納得するように、彼ら自身の預言者のことばからほかの証拠を提示しよう。たとえば、預言者がこう言った。「わたしはわたしを探し求めなかった者たちにわたし自身を現した。わたしを求めなかった者たちがわたしを見出した。わたしはわたしの名で呼ばれたことのない国々に言った。『見よ、わたしはここにいる』と。不従順でかたくなな者たちにわたしは腕を伸ばした。」(イザヤ六十五・一~二)これは誰のことを言ったのだろうか。ここで現された人は誰なのか、と人はユダヤ人に尋ねるかもしれない。預言者が自分自身を指して「わたし」と言ったのなら、預言者がはじめにどうやって隠れたのかと尋ねなければならない。現されるためには隠れなければならないからだ。さらにまた、これらのことがらはそれらの義人のうち誰にも起こらなかった。それらが起きたのは神のことばなる方、もともとは肉体をもっておられず、私たちのために肉体をもって現れ、私たちすべてのために苦しみを受けられた方だけである。また、これでも不十分なら、ユダヤ人が黙らざるをえない動かぬ証拠がほかにある。聖書がこう言っている。「なえた手と弱った足を伸ばせ。小さな信仰を奮い立たせよ。強くあれ。恐れるな。見よ、私たちの神が裁きをされる。彼ご自身が来て、私たちを救う。目の見えない者たちの目が開き、耳の聞こえない者たちの耳が聞こえるようになり、口のきけない者たちがはっきりと話すようになる。」(イザヤ三十五・三~六)これにどんな言い逃れができるだろうか。真正面からこのことばを受け取るなら、どんな言い訳の余地があるだろうか。預言が宣言しているのは、神がこの地上に来られるということだけではない。神の来臨のしるしと時代をも示している。神が来られるとき、目の見えない者の目が開き、足のなえた者が歩き、耳の聞こえない者が聞き、口のきけない者が話すようになる、と言っているのだ。そのようなしるしがイスラエルで起きたことがあるだろうか。そのようなことがユダヤで起きたことがあるだろうか。ユダヤ人は答えられるだろうか。ナアマンのらい病がきよめられたのは確かだが、耳の聞こえない者が聞こえるようになったり、足のなえた者が歩いたりしたことはない。エリヤもエリシャも死者をよみがえらせた。だが、生まれつき目の見えない者を見えるようにはしなかった。確かに、死者をよみがえらせたのは素晴らしいことだが、救い主がなさったこととは違う。聖書がらい病人とやもめの死んだ息子について沈黙しなかったのだから、もしも足の不自由な男が歩いて、目の見えない人が視力を取り戻したのなら、聖書にその記録が当然残されたはずだ。聖書の沈黙は、それらの出来事が起こらなかったことを証明している。したがって、これらの出来事が起きたときが、神のことばご自身が肉体をもって来られたときでないとすれば、いったいほかの可能性がありうるだろうか。足の不自由な者が歩き、口のきけない者がなめらかに話し、生まれつき目の見えない者が見えるようになっったのは、キリストが来られた時ではなかったか。そして、ユダヤ人は自分たちでそれを目撃し、このようなことがこれまで起きたことがないという事実を証言した。「世が始まって以来、生まれつき目の見えない者の目が開くなどということは聞いたことがない。この方が神から来たのでなければ、何もすることができないはずだ。」(ヨハネ九・三十二、三十三)

第三十九節

だが、ユダヤ人も平易な事実の前には抵抗できない。これでもまだ、彼らは書かれていることを否定せずに、神のことばなる方はまだ来臨しておらず、これらの預言の起こるのを今も待っているのだという主張を擁護できるかもしれない。あらゆる証拠が彼らに反対しているにもかかわらず、いつも彼らは厚かましくも嫌気がさすほど繰り返しそう主張しているのだ。けれども、次の点において、ほかのあらゆる点にまさって明々白々に彼らに究極的に反駁する。私たち自身ではなく、最も賢い人ダニエルが反駁するのだ。ダニエルは、救い主の来臨の日付、主が私たちの間に住まわれる日がいつ来るのかを示しているからだ。ダニエルは預言した。「あなたの民と聖なる都の上に、七十週が定められている。それは、罪を完全に終わらせ、そむきの罪をやめさせ、咎が覆われ、罪の和解を得、幻と預言を封じ、聖者の中の聖者に油そそぐためである。だから、知りなさい。悟りなさい。返答のことばが出されてから(「返答」は七十人訳の誤訳であり、ヘブル語では「回復」)、エルサレムが再建され、王なるキリストが来られるまで。」(ダニエル九・二十四、二十五)ほかの預言に関してなら、「これは未来に実現する出来事を書いているのだ」と言い訳できるかもしれないが、これにはどんな言い訳ができるだろうか。いったい、この預言にどう説明がつくだろうか。油注がれた者キリストのことを書いているだけでなく、キリストがただの人間ではなく、聖者の中の聖者であると明言しているのだ!さらに、エルサレムがキリストの来臨まで残っていなければならない。そのあとで預言と幻がイスラエルで止むことになっているのだ! ダビデはかつて油注がれた。ソロモンも、ヒゼキヤも油注がれた。だが、その時はエルサレムとその場所は健在だった。預言者は預言していた。ガドとアサフとナタン、後にはイザヤとホセアとアモスとその他の預言者たち。それだけではない。油注がれたこの王たちは確かに「聖者」と呼ばれたが、彼らのうち誰ひとりとして、「聖者の中の聖者」と呼ばれた者はいない。彼ら聖者たちの存在は、捕囚に引かれていくユダヤ人にとって慰めにもならないものだった。捕囚のときには、エルサレムが破壊され、なくなっていた。預言者についてはどうだろうか。捕囚のはじめにダニエルとエレミヤがいた。エゼキエルとハガイとゼカリヤもその後、預言している。

第四十節

したがって、ユダヤ人は虚構にかまけている。現在を未来に先送りしている。預言と幻がイスラエルから消えたのはいつのことなのか。聖者の中の聖者、キリストが来られた時ではなかったか。エルサレムがもはやなくなり、預言も語られず幻も啓示されなくなることこそ、事実、みことばなる方の来臨を証明するしるしであり、顕著な証拠である。それには必然性がある。なにしろ、象徴の本体である方が来られたら、象徴がいまさら必要だろうか。真理そのものなる方が来られたら、真理の影にいまさら必要だろうか。この方のためにこそ、預言者は繰り返し預言してきたのだ。預言の存続は、すべての人の罪のために贖いの対価であられる、義の本体が来られる時までにすぎない。同じ理由で、エルサレムも、真理が知られる前に真理の型を予見できるようにと建てられたのだ。だから、エルサレムの存続も、真理そのものなる方が来られる時までである。それゆえ、当然のこととして、聖者の中の聖者が来られたら、幻も預言もやんだのである。また、エルサレムの王国も同じ時に消えた。なぜなら、王たちがユダヤ人の中で油注がれるのは、聖者の中の聖者に油注がれる時までだからだ。モーセも預言している。ユダヤの王国が続くのは彼の時までであると。「統治者はユダから離れず、王はユダの腰から途絶えない。ユダのために備えられた時が来て、国々の希望が彼にかけられるまで。」(創世記四十・十)そういうわけで、救い主ご自身がつねにこう明言しておられた。「律法と預言者とが預言したのはヨハネの時までであった。」(マタイ十一・十三)だからもし、今もなおユダヤ人の間に王や預言者や幻があれば、彼らはキリストが来られた事実を否定する証拠になるのである。だがもし、今は王も幻もなくなっていて、あの時以来、預言はやみ、町も神殿もなくなっているのなら、もう否定しようがない。それら象徴の指し示す本体であるキリストを否定するほどまでに、不信仰で事実無視の態度をどうして取り続けられようか。また、彼らは異教徒たちが偶像を捨て、キリストを通じてイスラエルの神に希望を置くようになるのを見ているのだ。どうしてそれでもなお、エッサイの根として肉をもってお生まれになり、王として統べ治めるキリストを否定できようか。これがもし、異教徒が崇めている神が他の神であって、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセの神を告白しないのなら、神がまだ来られていないのだという彼らの言い分はもちろん通るだろう。だがもし、異教徒がほめたたえている方が、モーセに律法を与え、アブラハムに約束を与えた神と同じ神であるなら、--もっとも、ユダヤ人は自分たちに与えられた神のことばを軽視したのであるが--どうして彼らは、聖書が預言した主が世の光として来臨され、肉体をもって世に姿を現されたということを理解しないばかりか、理解することを意図的に拒絶するのか。聖書は繰り返し述べている。「主なる神が私たちに現れた。」(詩篇百十八・二十七)また、「彼はみことばを送って彼らを癒した。」(詩篇百七・二十)「私たちを救ったのは、神のから遣わされた人でもなく、御使いでもない。主ご自身だった。」(イザヤ六十三・九)ユダヤ人たちの悩みはまるで、太陽の光で大地が照らされているのを見ても、大地に光を届けているのが太陽であることを懸命に否定している、気の狂った人の悩みのようだ。彼らの待ち望んでいる方が来れられたとして、これ以上何をすればよいというのか。異邦人を召すことか。だが、異邦人の召しはすでに起きている。預言と王と幻の終焉か。これもすでに起きている。偶像が神を否定していることを暴くことか。それもまたすでに暴かれ、罪に定められている。あるいは、死の敗北か。死はすでに打ち壊された。それでは、キリストがしなければならないことで、何が不足しているというのか。ユダヤ人がそれほどまでにやすやすと不信仰でいられるために、何が残っているのか。何が成就していないのか。単純な事実は、私が言うように、こうだ。王も預言もエルサレムも供え物も幻も、彼らにはもうない。だが、全地は神を知る知識で満たされている。異邦人は神なき思想を捨て、みことばなる方、私たちの主イエス・キリストを通じて、アブラハムの神を避け所としている。

そうであるなら、どんなに恥知らずな人にとっても、キリストが来られたこと、キリストが御父に関する神の真理を全地のすべての人に告げ知らせたことは、明らかであるに違いない。それゆえ、ここに挙げた議論によって、あるいは他の聖書の教えから議論しても構わないが、いずれにせよ、ユダヤ人の誤りが証明される。


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英語訳からの重訳である。

【翻訳】アタナシウス『神のことばの受肉』第五章

2015-12-04 13:27:04 | 神のことばの受肉
2017/11/06更新。完成版は アレクサンドリアのアタナシオス『神のことばの受肉』 に置きました。

第五章

第二十六節

さて、私たちのために十字架で死なれたことは、完全に目的にかなったものであった。それで、十字架の死がいかに妥当であるか、また、世の救いが他の方法ではなくどうしてこの十字架で成し遂げられなければならなかったのかをここで理解できる。十字架上にあってさえ、彼はご自分を人の目から隠されなかった。むしろ、造り主がそこにおられるという事実を、すべての被造物の目に焼き付けたのである。それから、肉体がほんとうに死んだことをひとたび確認させ、神殿たる肉体をいつまでも死にとどまらせず、三日目によみがえった。キリストの勝利のしるし、また勝利の証拠としての、苦しみも痛みもない、不朽のからだでよみがえったのである。

もちろん、ご自分の肉体を死んだ途端にすぐさまよみがえらせ、生きている肉体を公に見せることは、彼の力をもってすれば容易であった。しかし、知恵深い救い主はそうなさらなかった。彼が間違いなく死んだことをだれにも否定させないためである。加えて、死から復活までの期間が二日間しかなかったのは、彼の不朽の栄光を現すためであった。肉体が死んだことを明白に示すために、丸一日待ち、それから三日目に、その肉体が不朽のものであることをすべての者の目に明らかにした。死から復活までの期間が三日より長くなかった理由は、人々が生前の肉体のことを忘れ、復活した肉体がほんとうに同じものだろうかと疑い始めることのないためである。まだ十字架の事件が人々の耳に鳴り響いており、目が見開かれており、心が騒いでいるうちに、また、彼を死なせた者たちが現場にいて、彼ら自身がその事実を証言しているうちに、つまりちょうど三日目に、神の御子はひとたび死んだ肉体が不死で不朽のものとなったことを示したのだ。みことばなる方が内にとどまっておられた肉体が死んだのが、自然の弱さのせいではなく、その肉体にあって救い主の力によって死が打ち砕かれるためであったということが、すべての人に明かされたのである。

第二十七節

死がこのように十字架によって滅ぼされ、征服されたことを示す非常に強力な証拠は、次の事実によって与えられる。すなわち、キリストの弟子たちはみな、死を蔑視した。彼らは死に立ち向かい、死を恐れることなく、十字架のしるしにより、またキリストにある信仰によって、動かなくなったなきがらを踏むようにして、死を踏みつけたのだ。救い主が来られる前には、どんなに立派な聖徒でも死におびえ、死が滅びであるかのように死者を悼んだ。しかし、今や救い主が肉体をよみがえらせたので、死はいまや恐怖の対象ではなくなった。キリストを信じる者はみな、ちりのように死を足の下に踏みつけ、キリストへの信仰を否定するくらいなら死を選ぶのである。クリスチャンにとって死は滅びではなく、じっさいには生きていて、復活を通じて不朽の者とされるということをよく知っているからである。しかし、古い邪悪な悪魔が死において勝ち誇っていたが、今や死の苦痛は過ぎ去ったので、ほんとうに死んだままでいるのは悪魔ただひとりである。次のこともこの証明である。キリストを信じる前には、死をおぞましいものと考え、死におびえていた人々が、ひとたび回心すると、死を完全に見下し、それどころか死ぬ機会があるなら、彼ら自身が救い主の復活の証人となるために、熱心にそれを求めさえもするのである。子どもですら、死に急ぎ、男ばかりでなく女も、死にまみえるための肉体的な修練によって自分自身を訓練している。 死はその力を失った。女さえも、以前は死に欺かれていたが、いまは死をすべての力を奪われた死んだものとして、あざわらっている。死は、正統の王によって完全に征服された暴君のようになった。手足は縛られ、通りかかる者にやじられ、打たれ、ののしられ、もはや彼の冷酷や獰猛を恐れる者はだれもいない。王が彼を征服したからである。そのように、死は、救い主が十字架上で成し遂げられた勝利によって、征服され、焼印を押されたのだ。その手足は縛られている。キリストにある者はみな、死を踏みつけながら通り過ぎる。キリストの証人は死をあざわらい、軽蔑し、こう言う。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(第一コリント十五章五十五節)

第二十八節

これでもまだ死の無力化の証明は不十分である、とお考えだろうか。キリストにある年端もいかない男女でさえも、今のいのちを軽視して死のために自分を鍛錬しているということが、救い主の勝利を指し示す証拠として取るに足りないものだろうか。どんな人でも本能的に死を恐れ、肉体の消滅に恐怖をおぼえるものである。十字架の信仰に入れられた者がこの自然の恐れをさげすみ、十字架のためなら死に直面しても臆することがなくなるというのは、まさしく驚異の中の驚異なのだ。 火の自然の性質は燃えることだ。ところが、もしインドの石綿のような不燃性のものがあれば、燃やされることを恐れないどころか、火を近づけても燃え移らず、むしろ火の無力を明らかにする。この真理を疑う者がいるなら、その疑いを晴らすためには、ためしに自分の身を石綿で覆い、火に触れるだけでよい。つまり、もとの話題に戻ると、人々に恐れられていた暴君が今は縛られて何もできなくなっている姿を見たい人がいれば、簡単なことで、暴君を征服した王の国に行ってみればよい。それでもまだ死の征服を疑うなら、多くの証拠と、キリストにある多くの殉教者と、キリストの忠実なしもべたちが死を日常的にさげすんでいるのを見て、それらに圧倒され、驚愕するがよい。けれども、これらのシンプルな事実をかたくなに疑ったり無視したりしてはならない。そうではなく、石綿の不燃性を実証しようとする人のようにしなければならない。征服者の領地に縛られた暴君を見に行く人のようにならなければならない。死が征服されたことを疑っていたその人は、キリストの信仰に驚嘆し、キリストの教えに来るに違いない。それから、死がどれほど無力であるか、どれほど完全に征服されているかを彼は確認するだろう。じっさい、多くの先輩がたが、はじめは私たちを疑い、馬鹿にしていたけれども、信者になったあとでは、キリストのために彼ら自身が殉教者となるまでに死を軽蔑するようになったのである。

第二十九節

それで、もし死が足の下に踏みつけられるのが十字架のしるしとキリストにある信仰によるのであれば、死から力を奪い取った大勝利者がキリストご自身に他ならないことは明白である。かつて死は強く恐ろしかった。けれども、救い主が来られ、その肉体をもって死と復活をなさったいま、死は軽蔑の対象となった。そして明らかに、死を最終的に破滅させ征服したのは、十字架にかかられたキリストご自身なのだ。夜が明けて太陽がのぼると、世界中が照らされる。いたるところに光を注ぎ、暗やみを駆逐しているものが太陽であることを疑う者はいない。同じくらい明らかに、キリストを信じる者たちが死を完全に軽蔑し、蹂躙していることは、救い主が肉体をもって顕現し、十字架の上で死なれたことの結果である。死を無力化し、今もご自身の弟子たちの中に勝利の記念碑を日々建てておられるのは、主ご自身なのである。

それ以外にどう説明がつくだろうか。自然のままでは弱い人間が、死に向かって駆け、朽ちることを恐れず、ハデスに下ることも怯えず、いや、ハデスを挑発さえもし、拷問を前にして尻込みするどころか、キリストのためなら現在のいのちを惜しまずに捨てて、みずから死を選ぶ者となっているのを見て、どう考えればよいか。男も女も、それどころか子どもも、キリスト教のために喜んで死ぬ。あなたが自分の目でそれを確かめれば、彼らが口をそろえてかたく証言しているキリストこそが、彼らに勝利を与え、キリストの信仰と十字架のしるしを負う者たちのために死の力を完全に奪ったことを認識せずにはいられまい。よもやそれを見てまで否定するほど、頭が悪く、かたくなで、まともな思考のできない読者はおられないだろう。理性をもって考えれば、蛇が足の下に踏みつけられているのを見てもまだ疑うような者はいない。蛇がそれまでどれほど猛威をふるっていたかを知っていれば、なおさらである。あるいは、子どもがライオンを遊び道具にしているのを見て、この猛獣が死んでいるか、力が完全に奪われていることを疑う者はいない。これらのことは自分の目で確かめれば分かることであるが、死の征服についても同じである。だから、キリストを信じる者たちが死をあざけりさげすんでいるのをその目で見れば、もはや疑いようもなく、キリストが死を滅ぼしたこと、また死にともなう腐敗を解決し、終わらせたことがわかるだろう。

第三十節

ここまで述べてきたことは、主の十字架こそが死の滅ぼした勝利の記念碑であるという事実の証明として、決して小さなものではない。けれども、不死の肉体への復活は、言葉による証明よりも事実による証明のほうが、賢い読者にとっては、さらに効果的である。肉体の復活は、すべての人の救い主、また真実のいのちなる方、キリストが行われたみわざの結果としてこれから起こるのである。というのも、ここまで示したきたように、キリストのゆえに死が滅ぼされ、皆が死を踏みつけているのが事実だとすれば、キリストご自身がご自分の肉体を持って最初に死を踏みつけ、滅ぼしたのがどれほど確かな事実だろうか!キリストは死を殺害した。では、キリストの肉体の復活と、キリストの勝利の記念碑として復活を公に示したことのほかに、何か扱うべき問題が残るだろうか。もしも主の肉体がよみがえらなかったとしたら、いったいどうやって死が滅ぼされたことを目で見てわかるように示せるだろうか。だが、もしだれかがこれでも不十分だと感じるなら、次の事実を心にとめて、復活の証明とするがよい。死者は人に深く感化を与える行動をとれない。死者の影響力は墓までで終わりである。人々に力を与えるような行動は、ただ生きている者だけが行うことができる。では、ここで扱っている事実はどうだろうか。救い主は人々の間でいまも力強く働いている。目には見えないけれども、毎日、彼は非常に多くの人々を説き伏せ、そのため、ギリシャ語世界の中にとどまらず世界中の人々が彼の信仰を受け入れ、その教えに従うようになっている。この事実を直視してもなお、彼がよみがえって生きておられること、それどころか彼ご自身がいのちであることを疑う余地があるだろうか。先祖から受け継いできた伝統をまるごと投げ出して、キリストの教えの前にひざをかがめるようになるほどまでに人々の良心を刺し貫くことが、死者にできるだろうか。もしも彼がもう世界に働きかけていないのなら、もちろん彼が死んでいるなら当然そうなのだが、生きている者が彼によって罪の活動をやめるのは、いったいどうしてなのだろうか。つまり、姦淫を犯す者がその姦淫をやめ、殺人を犯す者が殺人をやめ、不正を行う者がむさぼりをやめ、さらには神を恐れぬ不敬虔な者が神を求めるようになるのは、いったいどういうわけなのだろうか。もしも彼が死んだままでよみがえらなかったとしたら、不信仰な者たちが生きていると思い込んでいる偽物の神々や、彼らがあがめている悪霊どもを、彼が追い散らし、なぎ倒しているのはいったいどうしてなのだろうか。というのも、キリストの名が呼ばれるところでは、偶像崇拝が破られ、悪霊の嘘が暴かれているのだ。じっさいに、悪霊どもはこの方の名に耐えられず、その名が発せられると一目散に逃げるのである。これは生きている者の働きである。死者になせるわざではない。そして、生きている者の働き以上のものだ。これは神の働きである。彼に追い散らされた悪霊どもや、彼に打ち壊された偶像のほうがじつは生きていて、追い散らした張本人である方、悪霊どもがみずから神の御子であると証言しているこの方のほうが死んでいる、などと言うことはまったくばかげている。

第三十一節

要約すると、復活を信じない人は事実に根拠を置いているのではない。キリストが死んでいると仮定しても、死んでいるはずのキリストを彼らの神々と悪霊どもが撃退できていないのだから。逆に、悪霊や偶像の神々のほうが死んでいる存在であると宣告しているのが、キリストというお方である。死者には何もできないが、救い主は毎日力強く働いておられるという点で、私たちは見解の一致を得られた。キリストは人々を信仰へと引き入れ、徳へと導き、不死について教え、天的な事柄を求める霊的渇きをもたらし、御父についての知識を啓示し、死に立ち向かう強さを与え、ご自分を一人ひとりに現し、偽りの偶像崇拝を退けている。その一方で、不信仰な者たちがあがめている偶像の神々や悪霊どもはこのようなことを何ひとつできない。それどころかキリストの御前で死んだものとなり、この者どもの虚飾は実を結ばず、むなしくされている。反対に、十字架のしるしによって、信仰の目が地上から天に向けられるとき、すべての魔術は止められ、すべての呪術はろうばいし、すべての偶像は破棄され、すべての無分別な快楽は止む。それなら、このような方をどうして死んでいると言えようか。このすべてをじっさいに働かせているキリストを、死者などと呼べようか。死者にはこのような影響力がない。それとも、私たちは「死」を死者と呼ぼうか。悪霊どもや偶像と同じように、もはや生命力も影響力もなく、何ら実質的な働きをすることのできない死を。神の御子は「生きていて、力があり」(ヘブル四章十二節)、毎日働いておられ、すべての人の救いのために力あるわざをしておられる。しかし、死は、そのすべての力をはぎとられたことが日々証明されている。死んでいるのはキリストではなく、偶像や悪霊どものほうなのである。したがって、キリストの肉体の復活に関して、疑いの余地はない。

じっさい、主の肉体の復活を信じない者は、みことばの力と神の知恵とを見過ごしているのではないか。もし主が肉体をとって来られ、すでに示したとおりに肉体をご自分の目的にかなって用いたのなら、主は肉体とどんな関係にあり、みことばなる方が携えて降ったその肉体は、最後にはどうなる予定だったのだろうか。主の肉体は、もともと死ぬべきものであり、すべての人のために死に明け渡される手筈だったから、肉体が死ぬのは不可避である。事実、救い主が肉体を用意されたのはまさにそのためであった。だが、他方で、それは死んだままではありえない。救い主の肉体は、いのちそのものである方の神殿となったからである。したがって、朽ちるべき肉体は死を免れなかったが、内におられるいのちのゆえに再び生きたのである。そして、彼の復活は、彼の作品を通して知らされている。

第三十二節

神がご自分の作品を通じて知られるべきであるという法則は、目に見えない神の性質に一致している。主がいまこの目で見られないからといって主の復活を疑う者は、まさに自然の法則を否定しているも同然である。証拠となる作品が不足しているのなら、信じない根拠もあろう。だが、作品たちが大声をあげて事実をこんなにもはっきりと証明しているのなら、はっきり示された復活のいのちをどうして故意に否定するだろうか。判断力に欠けていたとしても、たしかに彼らの目が、キリストの力と神性との論駁できない証明を与えることができる。目の見えない人は太陽を見ることができないが、太陽の光が与える熱から、上空に太陽があることを認識する。それと似たようなものだ。不信仰という盲目にとどまっている人も、キリストが人々を通じて現した力によって、キリストの神性を認識し、キリストがもたらした復活を認識できる。キリストが死んでいたのなら、悪霊を追い出したり偶像を退けたりすることは明らかに不可能だ。悪霊どもが死者の言うことに聞き従うはずがないからだ。他方で、もし、キリストの御名が悪霊を追い出しているなら、彼は明らかに死んでいない。霊どもは人間の目に見えないものを知覚しているのだから、なおさら、彼が死んでいるならそのことを知って、従わず反抗するにちがいない。けれども、事実はそうではない。神をけがす人々が疑っている真実を、悪霊どもは知っている。つまり、彼が神であるということを。それだからこそ、悪霊は彼から逃げ去り、足の下に踏みつけられ、彼が肉体にとどまっておられるときに彼らが叫んだように、いまも叫んでいる。「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」(ルカ四章三十四節)また、次のように。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」(マルコ五章七節)

それだから、悪霊どもの告白からも、彼の作品たちの毎日の証言からも、救い主がご自分の肉体をよみがえらせたということや、彼こそが神の御子であってその存在が御父からつまり神から来ているということや、彼が神のことばであり知恵であり力であるということは、もう明白である。だれにも疑いようがない。彼こそが、この終わりの日に肉体をもって私たちすべての救いのために来られ、御父に関して世に教えた方なのだ。彼こそが、死を滅ぼし、復活の約束を通じて不朽を私たち皆に惜しみなく与えてくださった方なのだ。その最初の実として、ご自分の肉体を復活させ、十字架のしるしによって、その肉体を、死と腐敗に対する勝利の記念碑としてお示しになったのである。

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英語版からの重訳である。
・聖書の引用は新改訳第三版による。

【翻訳】アタナシウス『神のことばの受肉』第四章

2015-08-20 11:07:24 | 神のことばの受肉
2017/11/06更新。完成版は アレクサンドリアのアタナシオス『神のことばの受肉』 に置きました。

第四章 キリストの死

第十九節

救い主は、以上のすべてをご自分が行なうにふさわしいとお考えになった。創造のみわざを見てもまだ神がおられることを理解できず、霊的盲目になっている者たちに、救い主の肉体での活動が神の働きであると認めさせることができれば、人々が御父の知識を取り戻せるからである。前に述べたとおり、彼が悪霊に権威を用い、悪霊を震えおののかせるのを見たならば、この方が神の御子であり、神の知恵また力であることをだれが疑うだろうか。被造物でさえ、この方に命じられて沈黙をやぶり、驚嘆して語りはじめ、十字架という勝利の記念碑の前に声を合わせて告白したのだ。肉体をもってそこで苦しんでおられるこの方こそは、ただの人間ではなく、神の御子、すべての者の救い主である、と。太陽は暗くなり、地は揺れ動き、山々は裂け、すべての人が畏れに打たれた。これらのことから、十字架のキリストが神であることが示され、また、すべての被造物が彼のしもべとして、その主人の御前でおそれおののいて証言していたことがわかる。

それゆえ、このように神はご自身をそのみわざを通じて人間に啓示された。次に私たちが考えなければならないのは、彼が地上で生きた目的と、その肉体の死の持つ意義である。これこそが私たちの信仰の中心である。いたるところでその教えを聞いているだろう。その死もまた、ほかの働きに劣らず、キリストを神として、神の御子として啓示しているのである。

第二十節

私たちはここまで、状況の許すかぎり、また理解のおよぶかぎり、彼が肉体をとって現れた理由を論じてきた。すでに見たとおり、朽ちていく者が不朽へと変えられるのは、救い主ご自身のほかにだれにもふさわしくない。この方がはじめに無から万物を創造したのである。また、御父のかたちである方だけが、そのかたちに似せて人間を再創造することができるということも見てきた。私たちの主イエス・キリストのほかに、死すべき者に不死を与えることはできないということも。万物に秩序を与えるみことばなる方、ただひとり御父の真実な独り子だけが、人間に神を教え、偶像礼拝をやめさせることができるということも、すでに見たとおりである。けれども、以上のすべてにまさって、返さなければならない負債がある。前に述べたように、すべての人間は死ぬべき定めにあったからである。ここに、みことばが私たちの間に住まわれた第二の理由がある。すなわち、彼がご自分の神性をその働きによって証明なさってから、すべての者のための供え物を捧げるため、つまり、すべての者の身代わりにご自分の神殿を死に明け渡すためであった。死に対する負債を精算し、人間を原初の罪から解放するためであった。その同じ行動において、彼はまたご自分が死よりも力強い方であることを示された。彼ご自身の肉体を、不朽なる復活の初穂としてお示しになったのだ。

このテーマをまた繰り返して論ずるのかと、あきれてはいけない。私たちが話しているのは、神の素晴らしい喜びについてであり、神がその愛の知恵をもってそうすることがご自分にふさわしいとお考えになったことについてである。同じテーマを違う角度から扱ったほうが、論じもれを残す危険をおかすよりも良い。さて、みことばなる方の肉体は、ほんものの人間の肉体であった。処女から独特に形づくられたものであるとはいえ、ほかの肉体とおなじく死すべきもの、いずれ死ぬものであった。ところが、みことばがそこに住まわれたことで、この自然の運命から解放された。腐敗が肉体に触れることができなくなった。二つの驚くべきことが一度に起きた。主の死において、すべての者の死が最終的に遂行された。と同時に、その死において、みことばなる方がその肉体の中におられたので、死と腐敗が完全に廃止された。断行されなければならない死と、すべての者を解放するための死である。こうして、すべての負債が支払われた。それゆえ、前に述べたように、みことばなる方はそのままでは死を経験することができないので、死すべき肉体を必要とした。その目的は、すべての者の身代わりにご自分の肉体を供え物とするため、また、その肉体との結合を通じてすべての人のために苦しまれるためであった。「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14-15)

第二十一節

だから、恐れることはない。今や、すべての人にとって等しく救い主である方が、私たちのために死んでくださったのだ。キリストを信じる私たちは、以前のような死をもはや経験しない。戒めが警告したあの死はもう存在しない。罪の判決はもう終わっのだ。今や、復活の恵みにより、腐敗が消え去り、無効になった。だから、私たちはそれぞれ神のよしとなさる時に、より良い復活を得るために、この死ぬべき肉体から解き放たれるのだ。地にまかれる種のように、私たちは肉体の機能停止によって腐敗するのではなく、もういちど起き上がる。救い主の恵みによって、死は力を失ったのだ。そういうわけで、恵みに満ちたパウロが――彼を通じて私たちはみな復活の確かさを得ている――こう言っている。「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」(第一コリント十五章五十三節から五十五節)

こう言う人がいるかもしれない。「では、彼が肉体をすべての人の身代わりに捧げることが事の本質であるなら、どうして彼はひとり隠れてそれを行なわず、わざわざ大勢の目の前で十字架につけられるほどのことをしたのか。名誉のうちに肉体の死を遂げたほうが、あれほどの恥辱に耐えて死ぬよりも、彼にふさわしいに決まっているではないか。」ところが、この議論を注意深くみると、単に人間的な考えにすぎないことがわかる。いくつかの理由から、救い主がなさったことが本当に神によるもので、彼の神性にふさわしいと言える。第一の理由はこうである。ふつう人間が死ぬのは、弱さという自然の性質の結果である。人間は本質的に有限なので、時を経ると病気にかかり、寿命が尽きて死ぬ。しかし、主はそうではない。彼は弱くない。彼は神の力、神のみことば、いのちそのものである。彼がほかの人と同じように静かに横たわって死んだなら、まるでほかの人間と何も変わらないかのように、自然の性質に従って死んだように見えたことだろう。 けれども、彼はみことばであり、いのちであり、力そのものであるから、その肉体は強かった。それでも死が断行されなければならなかったから、自分からではなく、他の者たちによって、彼の捧げ物をまっとうする機会を設けたのである。ほかの人々をいやしておられた方が、病気になりえるだろうか。ほかの人々を強めるために用いていた肉体が、どうして弱くなったり駄目になったりすることがありえようか。ここでまたこう言うかもしれない。「どうして病気を押し止めた方が、死を押し止めなかったのか。」それは、彼が肉体を取られたのが、まさに死ぬことができるようになるためだったからである。死を押し止めることは、復活を押し止めることである。そして、彼の肉体に病気はふさわしくなかったことについて、弱さについての議論と同じように、こう言うかもしれない。「では彼は空腹にならなかったのか。」いや、空腹になった。それが肉体の性質だからである。しかし空腹で死ぬことはなかった。空腹な肉体を持っておられる方が主だったからである。同様に、彼はすべての人の贖いのために死なれたが、腐敗に見舞われることがなかった。彼の肉体は完全に健やかな状態で起き上がった。いのちそのものである方の肉体だったからである。

第二十二節

ひょっとすると別の人がこう言うかもしれない。主がご自分を殺そうとするユダヤ人の謀略をすり抜け、その肉体を死から守ったほうが、全体的に見て良かったのではないか、と。しかし、これもまた彼にふさわしくないということを確認しよう。主がご自分の手で肉体を死に渡すことがふさわしくないのとちょうど同じように、主が他の者から殺されることを避けるのは主ご自身にふさらしくない。むしろ、彼は完全にその状況に従い続けた。彼のご性質をまっとうするために、彼は自死によって肉体を捨てることもせず、謀略をたくらむユダヤ人から逃げることもしなかった。そして、この行動はみことばなる方の限界や弱さを示すものではない。なぜなら、彼は死を終わらせるために死を待っておられたのであり、すべての人のための供え物となるために、死を遂行することを急がれたからである。それだけではない。救い主が来られた目的は、彼ご自身の死ではなくすべての人類の死の遂行であったので、主おひとりで自死によって肉体を捨てることをなさらなかったのだ。自死はいのちであられる主にふさわしくない。そうではなく、人々の手による死を、主は受け入れた。そうして彼ご自身の肉体において死を完全に打ち砕いた。

主の肉体があのような形で終わりを迎えた理由を理解するために、さらに考察に値する事柄がいくつかある。主が来られた究極の目的は、肉体の復活をもたらすことであった。これが、主が死に勝利したことの記念碑となり、主がご自身で腐敗に打ち勝ち、それによってすべての人がついには肉体の不朽を得るようになることの保証となるのであった。その証拠として、また将来の復活の約束を確かなものとするために、彼はご自分の肉体の不朽を保っておられる。しかし、話を蒸し返すが、もしみことばなる方の肉体が病気になり、その状態を放置しておかれるとしたら、なんと不相応であろうか! ほかの者の肉体をいやした方が、ご自分の健康維持を無視するべきであろうか。もしそうだとしたら、人々はどうしていやしの奇跡を信じるだろうか。彼は自分の病気を追い出すことができなかったと言って、人々は笑うに違いない。そうでないなら、できたのにしなかったのだから、彼は人間として適切な感情を欠いていると人々は考えるだろう。

第二十三節

あるいはまた、彼が病気にならないとしても、ご自分の肉体をどこかにただ隠して、それからとつぜん再び姿を現して「私は死からよみがえった」と言ったとしよう。そうしたら、作り話を話していると思われるだろうし、彼の死を目撃した者がいないので、だれも彼の復活を信じないに違いない。死が復活に先行しなければならない。死ぬことなしに復活もありえないからだ。隠れた場所でだれにも見られずに死ぬなら、復活の証明も証拠もないことになる。また、彼が復活することを公に宣言したのに、どうして隠れて死ぬべきだと言えるだろうか。悪霊を追い出すのも、生まれつきの盲人をいやすのも、水をぶどう酒に変えるのも、すべて人々の目の前で行なったのは、彼こそがみことばなる方であることを人々に信じさせるためであったのだ。どうして、彼がいのちなる方であると信じさせるために、彼の死ぬべき肉体の不朽性のほうは公に宣言すべきでないと言えるだろうか。 さらに、弟子たちが復活のことを話すのに、彼がまずはじめに死なれたという事実から始めるのでなければ、どうして大胆になれようか。また、弟子たち自身も彼の死を目撃したのでなければ、その証言を聞く者を信じさせることがどうして期待できようか。彼が地上におられるときでさえ、奇跡が目の前で起きたのに、パリサイ人は信じることを拒絶し、ほかの者にも否定するように強いたのだ。復活が隠れた場所で起きたとしたら、信じないための言い訳がどれだけ多く考え出されることだろうか。あるいは、主がすべての人の見ている前で死に挑み、肉体の不朽によって死が無化されその力を剥奪されたことを証明するのでなければ、どうして死の終わりと死に対する勝利を宣言できようか。

第二十四節

ほかにも答えなければならない反論をいくつか想定しうる。のちの復活を信じさせるためには公に死ぬ必要があったということは認めても、彼はご自分のために名誉ある死を選んで、十字架の恥辱をさけたほうが良かったはずである、と力説する人がいるかもしれない。けれども、そうすることさえも、死に対する彼の力はご自分で選んだ特定の種類の死に限定されるのではないかという疑いをはさむ余地を残すことになる。そうして、やはり復活を信じない言い訳をひねり出すのである。ゆえに、死が彼の肉体に来たのは、彼ご自身からではなくて敵の攻撃としてであった。それは、敵がどのような形で死をもたらしたのであっても、あらゆる点で救い主が死を完全に廃止なさるためであった。たくましくて強い闘士はどんな相手とも戦うので、自分で対戦相手を選ばない。彼は恐れいているとだれにも思わせないためである。 それどころか、彼は観衆に対戦相手を選ばせる。観衆が彼に敵意を持っているなら、なおさらそうさせるだろう。それは、対戦するどんな相手をも倒して、彼がだれにもまさって強いということを寸分の疑う余地なく証明するためである。すべての者のいのちである方、私たちの主であり救い主である方は、ほかの死に方を恐れていると思わせないように、ご自分の死に方を選ばなかった。選ぼうともしなかった。十字架上で、ほかの者から、なかでも敵対する者から負わせられた死を受け入れ、背負った。その死は彼らにとっておぞましく、直視できないほどのものであった。彼がこのことをされたのは、この死をも打ち砕き、彼ご自身がいのちであると信じさせ、死の力が究極的に滅ぼされたことを分からせるためであった。驚くべき、力強い逆転がここで起きた。敵対者たちが彼に負わせようと考えた恥辱の死が、死の敗北をしめす栄光ある記念碑となったのである。それだから、こうも言える。彼はヨハネのように首をはねられて死んだのでもなく、イザヤのようにのこぎりで切り分けられて死んだのでもない。死にあっても肉体の一体性を維持し、分断されなかった。それゆえ、これからも教会に分裂を持ち込む者には弁解の余地がない。

第二十五節

教会の外からの反論はここまでにしよう。けれども、もしもクリスチャンが、なぜキリストが十字架上で死の苦しみを味わったのか、なぜほかの方法をとらなかったのかを正直に知りたいと思うなら、私たちはこのように答えよう。すなわち、ほかの方法では私たちにとって都合が悪かったからである。じっさい、主は私たちのためにただ一度死なれたが、その死はこの上なく良いものであった。私たちの上にあった呪いを負うために彼は来られたのだ。呪われた死を受け入れることなくして、どうして「のろわれたもの」(ガラテヤ三章十三節)となることができようか。そして、死が十字架であるのは、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」(ガラテヤ三章十三節)と書かれているからである。また、主の死はすべての者の贖いの代価である。それによって「隔ての壁」(エペソ二章十四節)が打ち壊され、異邦人が召されるようになった。彼が十字架にかけられなかったら、どうしてそれが可能であろうか。十字架の上でのみ、人は両腕を広げて死ぬのだから。またここでも、彼の死のふさわしさと、その両側に伸ばされた腕のふさわしさを確認できる。彼が両腕を広げたのは、片方の腕で昔からの民を抱き、もう片方の腕で異邦人を抱いて、両者を彼において一つにするためであったのだ。贖いとしての死に方を彼が前もって語ったとおりである。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ十二章三十二節) また、空中は悪魔の活動領域となっている。天から落ちた私たちの敵である悪魔が、彼の不従順にならった悪しき霊どもを引き連れて、人々のたましいを真理から遠ざけ、真理に従おうとしている者たちの進路を邪魔しようと力を尽くしている。使徒はこのことについてこう言っている。「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って」(エペソ二章二節)。しかし、主は悪魔を打ち負かすために、そして空中をきよめて私たちのために天につづく「道」を作るために来られた。使徒が言うように、「ご自分の肉体という垂れ幕を通して」(ヘブル十章二十節)その道を作られたのである。これは死を通じて行なわれなければならなかったが、空中での死、つまり十字架上での死のほかに、どんな死に方でなされうるだろうか。ここでもまた、主がこのように苦しまれるべきであったことが、いかに正しく、いかに自然であったかを確認できよう。このように「上げられ」ることで、彼は空中を敵のあらゆる悪しき影響からきよめたのだ。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました」(ルカ十章十八節)と彼は言った。このようにして彼は天への道をふたたび開き、こう言った。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。」(詩篇二十四編七節)なぜなら、門を開けてもらう必要があるのは、みことばなる方ご自身ではなく――彼はすべての者の主だからである――また造り主との断絶のない各種の被造物でもないからである。そうではなく、私たちこそ、門を開けてもらう必要がある。私たちこそを、主ご自身がご自分の肉体をもって背負ったのだ。その肉体を彼はまずはじめにすべての者のために死に渡し、そのことによって天への道を開いたのである。


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英語版からの重訳である。
・聖書の引用は新改訳第三版による。

アタナシウス『神のことばの受肉』第三章

2015-07-26 23:47:39 | 神のことばの受肉
2017/11/06更新。完成版は アレクサンドリアのアタナシオス『神のことばの受肉』 に置きました。

第三章 続・神のジレンマおよび受肉におけるその解決

第十一節

全能の神はご自分のみことばをもって創造しておられたとき、人類がその有限性のゆえに、造り主を自分自身の能力では理解できないということを分かっておられた。神は形のない方、創造されたのでもない方だからである。そのため、神は人類をあわれみ、神を知る知識を欠けたままにしておかれなかった。そうでなければ、彼らの存在は無意味となる。というのも、被造物が創造者を知りえないなら、被造物が存在することに何の益があろうか。人がその存在を与えてくださった御父のことばとみこころをまったく知らないなら、どうして人間は理性的な存在であるといえようか。人間が地上のことしか知らないなら、獣と何も異ならない。また、神がご自分を知らせるおつもりがないとすれば、いったいどうして人間を創造する必要があっただろうか。しかし、事実、善なる神は人間に神ご自身のかたち、すなわち私たちの主イエス・キリストのかたちを分け与えてくださり、同じかたちと似姿をもって人類を造ってくださった。どうしてだろうか。それはひとえに、神に似せられるというこの賜物を通して、絶対者、すなわちみことばご自身である方のかたちを知ることができるため、またこの方によって御父を理解することができるためである。創造者を知ることは、人間にとって唯一のほんものの幸せであり、祝福された生き方であるのだ。

しかし、すでに見たように、人間は愚かにも、受けた恵みをほとんど考えず、神から離れてしまった。自らのたましいを完全に汚したために、神を理解できなくなった。そればかりか、さまざまな種類のほかの神々を自分たちのために作り出したのだ。真理に代わって自分たちの手で偶像を作り、崇むべき神ではなく、崇むべきでない物を拝むようになった。パウロが「造り主の変わりに造られた物を拝」んだ、と述べたとおりである(ローマ一章二十五節)。さらに悪いことに、彼らは神に帰せられるべき栄光を、木や石のような物に、あるいは人に、移し変えたのである。もっと忌むべきことをも行なった。前の本で書いたとおりである。じっさいに、あまりにも不敬虔な彼らは、その情欲を満足させるため、悪霊を神として崇めたのだ。忌むべき動物を供え物とし、人間を焼いて捧げ物とした。それらはこの神々に対しての正しい献上物であった。それによって人間はますます狂気に満ちた神々の支配の下に置かれた。呪術も教えられ、さまざまな場所で神託が人々を堕落に陥れ、人間の生活で起こるあらゆる出来事の原因は星々にあるとされた。まるで目に見えるもの以外に何も存在しないかのようであった。ひと言で言うなら、不敬虔と無法がいたるところにはびこり、神もそのみことばも知られなくなった。しかし、神はご自分を人の目に隠されなかった。また、神を知る知識を与えるに際し、ひとつの方法でしかそれを得られないようにはなさらなかった。むしろ神はさまざまな形で、さまざまな方法で明らかにされたのである。

第十二節

お分かりのとおり、神は人類の有限性を知っておられる。神のかたちに造られたという恵みは、みことばなる方を知り、また彼を通して御父を知る知識を得るためには、確かに十分なものであった。けれども、この恵みが見過ごされてしまった事態に備えて、神はその御手のわざである被造物をも、創造主を知るための手段として提示しておられた。それだけではない。内側にある恵みをないがしろにする人間の性向は、つねに増大している。悪化し続ける人間の弱さに対処するためにも、神は律法を与え、人々のよく知る者たちを預言者として送られた。こうして、人々が天に目を向けずにぐずぐずしていたとしても、なお彼らの手近なところから創造主を知る知識を得られるようにされた。なにしろ、彼らは天上のことがらをほかの者たちから直接学ぶことができるのである。このようにして、神を知るために三つの方法が提示されている。広大無辺な天を見上げて、創造の調和について思いをめぐらすなら、御父のことばである宇宙の支配者を知ることができるはずである。すべてを統べ治める彼のご支配がすべての者に御父を明らかにするのである。あるいは、それがかなわないなら、聖者たちと話し、彼らを通じて、万物の造り主、またキリストの御父である神を知る知識を学ぶこともできよう。そうすれば、偶像礼拝が真理の否認であり、不敬虔の極みにほかならないことを理解できよう。あるいはまた、第三の方法として、なまぬるさから抜け出して、ただ律法を知ることによって正しい生活を送ることもできる。なぜなら、律法はユダヤ人だけに与えられたのではなく、神が預言者を送ったのはユダヤ人のためだけではなかったからである。確かに預言者が送られたのはユダヤ人に向けてであり、預言者を迫害したのもユダヤ人ではあったとしても。律法と預言者は、全世界が神の知識と霊的な生活を学ぶための神聖な学校であった。

神の善と愛はじつに、あまりにも偉大であった。ところが、人間が、一時の快楽に屈したことにより、そして悪霊の嘘と惑わしにより、真理に向けて顔を上げなかった。人間は悪を背負ったため、みことばの似姿を反映した理性的な人間ではなく、むしろ汚れた獣のようになったのである。

第十三節

人類のこの間化をご覧になった神は、何をすべきであっただろうか。悪霊の策略によって神を知る知識がこうして全地で隠されたのを前に、またこれほどひどい不正を前にして、神は沈黙を保つべきだったのだろうか。人間をこのように騙されたまま、神について無知なままになさるべきだったのだろうか。もしそうなら、人をはじめに神ご自身のかたちに造られたのは、意味があったろうか。みことばなる方のご性質をひとたび分け与えられた者が獣の状態に戻ってしまうくらいなら、最初からずっと獣のままで創造されたほうがまだ良いに決まっている。また、神がそのままにされるなら、人間が神の知識をひとたび得たことに何の益があろうか。神を知った人間が、その次にその知識を受けるにふさわしくないものになるくらいなら、神ははじめから知識を与えないほうが良かったに決まっている。似たようなことだが、人間が神を崇めず、ほかの物を創造主としたなら、人を創造した神ご自身にとって何の利益がありえようか。これではご自分ではなくほかの物のために人を造ったも同然ではないか。ひとりの人間にすぎない地上の王でさえ、みずからが植民地にした土地をほかの者の手に渡したり、ほかの支配者に明け渡したりすることを許さない。そのために手紙や友を送ったり、王自身がそこに赴いたりして、王の働きが無駄にならないように、人々の忠誠心を呼び戻すのだ。それならなおのこと、神は、被造物が神を離れて、神ならぬ物に仕えるようにならないために、忍耐強く骨身を惜しまないはずではないか。そのような過ちは彼らにとって徹底的な破滅を意味する上、神のかたちをひとたび分け与えられた者が破壊されるのは正しくないのだから、なおさらではないか。

では、神は何をなさるべきだったのか。人類の中に神のかたちを新しく造り、そのことによって人間がもう一度、神を知るようになるようにする以外に、神である方にいったい何ができようか。そして、このことは、神のかたちそのものである私たちの救い主イエス・キリストの来臨以外に、どうやってなしえようか。人間にはできなかった。人間はそのかたちに似せて造られたにすぎないから。御使いもできなかった。御使いは神のかたちに造られていないから。神のことばがご自分の位格において来られた。御父のかたちであるこの方だけが、人をそのかたちにかたどって再創造することがおできになるからである。

しかしながら、この再創造をもたらすために、彼はまず死と腐敗とを廃止しなければならなかった。それゆえ、彼は人間の肉体を持たれた。その肉体において死をすべての者のためにひとたび破壊するため、また人間をそのかたちに従って一新するために。御父のかたちだけがこの要求を不足なく満たすのだ。それを証明するために、ここに説明しよう。

第十四節

画板の上に描かれていた肖像画が、外から一面に汚されてしまったら、何が起こるかお分かりだろう。芸術家は画板を捨てたりはしない。肖像画のモデルが来て、描き直すためにまた座らなければならない。そうしてモデルを見ながら同じ画板の上にもう一度描く。それはまったき聖なる神の御子についても同じである。御父のかたちである彼が来られて、私たちの只中にとどまってくださった。それは、人類を彼の似姿に一新するため、失われた羊を探し出しすためであった。福音書で彼がおっしゃっているとおりである。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ十九章十節)彼がユダヤ人におっしゃったことばも、それを説明している。「人は、新しく生まれなければ、……」(ヨハネ三章三節)人々は母から生まれるという自然の誕生のことを考えたが、そのことについて述べたのではない。そうではなく、神のかたちにたましいが新生し、再創造されることについて語られたのである。

みことばなる方だけがなしうることは、これにとどまらない。愚かな偶像礼拝と不信仰が世界を席巻し、神の知識が隠されたとき、世界に御父のことを教えるのはだれの役目であったか。人間の役目だ、と言えるだろうか。だが、人には世界中を駆け巡ることはできないし、仮にできたとしても人の言葉が十分な影響力を持つことはできない。それに、人は独力では悪霊どもにかなわない。さらに、最良の者でさえも悪に騙され、縛られていたのだ。だから、どうして人間がほかの者のたましいと心を変えることができようか。あなた自身の中で心根がねじまがっているのだから、あなたがほかの人の心根をまっすぐに直すことはできない。あるいは、あなたは言うかもしれない。神の創造した万物は御父を知るに十分であった、と。確かに、万物はいつでも存在していた。けれども、人間が過ちに陥るのをとめられなかった。だから、念を押しておく。神のことばこそが、ただひとり、この状況にあって要求を満たすことがおできになるのである。人のうちにあるすべてのものをご覧になり、創造したすべてのものを動かす方こそが。宇宙に秩序をもたらすことで御父を教えてくださったのは彼である。その同じ教えを一新するのは、この方が、この方だけが果たせる役目である。しかし、どうやってそれをすべきなのだろうか。あなたはこう答えるかもしれない。――前と同じ方法で。創造のみわざによって、と。いや、それでは明らかに不十分だ。前の時に、人間は天のことをよく考えなかった。今はもう反対方向を見ているのだ。それゆえ、きわめて自然で合理的な結論として、人間に良いものを与えようと欲しておられるこの方は、ほかの者たちと同じような肉体をとって、人として住まわれる。人間のレベルにまで降りたその肉体において行なわれたみわざを通して、ほかの方法では学ばない者たちに、神のことばである彼ご自身と、彼を通じて御父を知るようにされた。

彼は弟子たちを教える良い教師として、人のレベルにまで降りてこられ、単純な方法を使って人々を扱われる。聖パウロもこう言っている。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(第一コリント一章二十一節)人間は神に思いをこらして上を見上げるということをやめた。反対に下を見て、造られた物や五感でとらえられる物の内に神を探していた。私たちすべての救い主である神のことばは、その大きな愛によって、肉体をとって人々のあいだに立つひとりの人として働かれた。いわば、人々の五感を途中まで満たしたのだ。彼はご自分から感覚でとらえられる対象となられた。五感で感じられる物の内に神を探し求めていた者たちが、御父のことを認識できるためであった。これは、神のことばなる方の肉体における働きを通してのことである。したがって、人間と、人間と同じような心を持つ者であれば、感覚世界のどちらのほうを向いても、真理がはっきり教えられていることに気づく。彼らは被造物を見て畏敬の念に打たれるだたろうか。被造物がキリストを主と告白するのを彼らは見たのだ。彼らの心は、人間を神々と見なすほうに流されやすいだろうか。救い主の働きの独自性は、人間のなかで彼おひとりが神の御子であると認めさせる点にあるのだ。彼らは悪霊に惹かれただろうか。主が悪霊どもを追い出したのを彼らは目撃し、神のことばなる方だけが神であって、悪霊どもは断じて神々などではないということを学んだのだ。彼らは英雄崇拝や死者崇拝に翻弄されただろうか。救い主が死者の中からよみがえったという事実が、これらほかの神々が偽りであることを示したのだ。復活は、御父のことばなる方が唯一の真実な主、死さえもひざまずく主であることを示している。このような理由から、彼はひとりの人として生まれ、現れた。このような理由から、死んで、よみがえられた。そうして、その働きによってほかのすべての人間のわざを覆い隠し、御父を知らせるために、あらゆる偽りの道から人間を呼び戻そうとなさった。主ご自身がこう言われているように。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ十九章十節)

第十六節

さて、人間の心がついに五感で感知できるものばかりに向けられるまでに落ちてしまった。このとき、みことばなる方は肉体において現れることをよしとなさった。ひとりの人となられて彼らの感覚をご自分に向けさせ、人としての行動を通して彼ご自身が人であるばかりか神でもあること、真実な神のみことばであり知恵であることを、彼らにはっきりと分からせるためであった。パウロが私たちに伝えようとしたとおりである。彼はこう言っている。「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ三章十七節から十九節)みことばなる方の自己啓示は、あらゆる次元で現されている。高きには、被造物において見られる。低きには、受肉において、死において、ハデスにおいてある。その広さは、全世界に渡る。万物は神の知識に満ち満ちているのだ。

彼がすべての者のための供え物をご自分が来られた直後に捧げることはなさらなかったのは、こういう理由からである。もしもすぐに肉体を死に捧げてよみがえったのなら、私たちの感覚でとらえられる対象となられるのをやめたことになる。そうではなく、彼は肉体にとどまり、ご自分をお見せになった。その肉体で働きをされ、彼が人であり、またみことばなる神でもあることを示すしるしを行なわれた。だから、救い主がひとりの人となることによって私たちのためにしてくださったことは二つある。ひとつは、死を打ち砕き、私たちを新しく造ってくださった。もうひとつは、彼ご自身は目に見えず五感でとらえられない方であったが、その働きを通じて目に見える方になり、御父のことばとして、全被造物の支配者また王として、ご自分を現されたのである。

先ほど述べた中にパラドクスがある。それをこれから精査しなければならない。みことばなる方は肉体によって制限されたわけではない。肉体で現れたことで彼の存在をあらゆる場所でも現すのが不可能になったわけでもない。彼が肉体をもって生きていたとき、彼のみこころと力によって宇宙を統べ治めることを放棄したのでもなかった。驚くべき真理は、みことばなる方は何ものの中にもとどまらず、むしろ万物をご自身の中にとどめたということである。被造物において彼はあらゆる場所にご自分を現す。しかし、彼のおられる場所は被造物と峻別なさっている。あらゆるものに秩序を与え、監督し、いのちを付与していて、すべてをご自分の中にとどめておられるが、しかもご自身はどんなものの中にもおられない。彼がおられる場所はただ御父の中だけである。全体としてもそうだが、部分としてもそうである。人間の肉体の中に存在しておられるが、その肉体にご自身でいのちを吹き込んでおられる。肉体の中にあっても、彼は全宇宙に対していのちの源であり、宇宙のあらゆる部分にご自分を現し、しかも宇宙全体の外側におられる。肉体の働きを通じても、世界への働きかけを通じても、ご自分を啓示されている。肉体の外にある物を見つめるのはたましいの働きであるが、ふつうはそのことによって物にいのちが与えられたり動かされたりすることはありえない。人が、たとえばある物について考えるだけで、それを別の場所に移動させることはとうていできない。あなたも私も、太陽や星を、家で座ってそれを見つめているだけで動かすなどということもできないのだ。 ところが、人間の性質を持った神のことばなる方なら、話は違ってくる。肉体は彼にとって制限ではなく道具であった。彼はその中におられ、またすべてのものの中におられ、かつ、すべてのものの外におられ、ただ御父の中にとどまっておられた。彼はまったく同時に――これが驚異である――ひとりの人として人間の生活を送りながら、しかもみことばとして宇宙のいのちを保っておられ、御子として御父とつねに結合を持っておられた。そのため、処女から誕生したからといって彼は少しも変化しなかったし、肉体を持ったからといって汚されもしなかった。むしろ彼が肉体にとどまることで肉体はきよめられた。なぜなら、彼がすべてのものの中におられることは、それと性質を共有することを意味せず、彼は一方的にすべてのもののに存在を与え、存在を保つのだからである。まさに太陽が地上の物に光線を当てたからといって汚れることなく、一方的に万物を照らし、きよめるのと同様に、太陽を造られた方は肉体の中におられるのを知らせたかたといって汚されず、むしろ彼の内住によって肉体はきよめられ、よみがえらされているのである。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。」(第一ペテロ二章二十二節)

第十八節

こういうわけで、よく理解しておかなければならない。この神聖なテーマについて論じる人々が、キリストが飲み食いしたことや生まれたことについて述べるとき、その肉体が、ひとつの肉体として生まれ、その性質にふさわしく食物によって維持されたということを言っているのである。その一方で、その肉体と結合を持っているみことばなる神が、宇宙に秩序を与えることと、その肉体の活動をもってご自分が人間であるばかりか神でもあることを示すこととを同時に行なわれたのである。その活動は正しく彼の活動であると言える。なぜなら、活動をした肉体はじっさいに彼のものであって、ほかのだれのものでもなかったからである。さらに、その活動はひとりの人としての彼に帰すべきことも正しかった。それは、彼の肉体がほんもので、ただ見かけだけで現れたのではないことを示すためであった。生まれたことや食したことといったごく普通の活動から、彼が事実として肉体をもって現れたことが認識されるのであった。しかし、肉体をもってなされた尋常ならざる活動によっては、ご自分が神の御子であることを証明なさった。それが、彼が不信仰なユダヤ人に語られたことばの意味である。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」(ヨハネ十章三十七節から三十八節)

彼ご自身は目に見えない方であるので、創造した作品からご自分を知ることができるようにされた。それからまた、彼の神性が人間の性質をまとったとき、彼の肉体での活動こそが、彼がただの人間ではなく、神の力でありみことばであることを力強く宣言している。たとえば、悪霊に権威をもって命じ、追い出したことは、人間ではなく神としての性質である。人間にふりかかるあらゆる病気をおいやしになったのを見た者が、どうして彼をただの人であって神ではないと言い切れるだろうか。彼はらい病人をきよめた。足のなえた者を歩かせた。耳の聞こえない者の耳を聞けるようにした。目の見えない者の目を開けた。彼が追い出すことのできない病気も弱さもひとつとしてなかった。どんな素人が見ても、神のみわざだと分かるだろう。たとえば、生まれつき目の見えない者のいやしである。人の父であり造り主である方、人のすみずみまでコントロールしている方以外のだれが、生まれつき機能を失っている部分を回復させることができるだろうか。彼の神性はひとりの人となられた最初の段階からも明らかである。処女からご自分の肉体を形づくられた。そのことは彼の神性の小さな証明などではない。それを造られた方はほかのすべてのものの造り主でもあるからだ。どんな人でも、人間の父親なしで処女から生まれたという事実から、その肉体をもって現れた方がすべてのものをも創造なさった方であり、また主でもあることを推論できる。

また、カナで起きた奇跡を考えるとよい。水という物質がワインに変化したのを見た者が、それをなさった方こそが、変化させた水の創造者であり主でもあることを理解できないだろうか。海の上を乾いた地のように歩かれたのも同じ理由である。彼がすべてのものの主権を持っておられることを、見た者に証明するためであった。それから、わずかなものを多くに増やして、群衆に食べさせられた。五つのパンで五千人が満腹したのだ。これも彼が、まさしくすべての者をみこころに留められる主にほかならないことを証明していないだろうか。

アタナシウス『神のことばの受肉』第二章

2015-07-20 17:20:48 | 神のことばの受肉
2017/11/06更新。完成版は アレクサンドリアのアタナシオス『神のことばの受肉』 に置きました。

第二章 神のジレンマおよび受肉におけるその解決

第六節

前章で見たとおり、死と腐敗が人類をつかんで離さないので、人類は破滅の途上にあった。神のかたちに造られ、みことばご自身に似た理性を与えられた人間は、跡形もなく消えそうになっていた。神のみわざは暗礁に乗り上げつつあった。堕罪にともなう死の法則が私たちを打ち負かし、もう逃げ場がなかった。起きていることは本当に不条理で不合理であった。 もちろん、神がご自分のことばを撤回し、罪を犯した人間が死なずにいられるなどは考えられない。しかし、みことばなる方のご性質をひとたび分け与えられて「有」になった者が、腐敗によって非存在に帰するのは、同じくらい不条理である。神に造られた被造物が、悪魔のもたらした詐欺によって無に葬られてしまうのは、神の善なる性質に不相応である。人類の過失であれ、悪しき霊の欺きであれ、そうしたことで人類に対する神のみわざが消え失せるのは、まったくもって不合理である。 では、神がみことばなる方に似せて理性的に造られた被造物が、事実滅びつつあり、その尊い神の作品が破滅の一途をたどっているなら、善なる神は何をすべきだったのか。人類が腐敗と死に落ちていくままになさるべきなのか。そうなさるのなら、そもそも何の益があって人類を造られたのか。造られたのちに滅びるままに捨ておかれるよりは、最初からまったく造られなかったほうがましなのは確実である。さらに、神ご自身の作品がまさに神の目の前で破壊されていくことに神が無関心であられるなら、そのことは神がいっさい人を創造しなかったよりもはるかに、神の善ではなく神の能力の限界を立証することになる。したがって、神が人間を腐敗の連れ去るままにしておくことはありえない。神ご自身のご性質に照らし合わせて、不合理であり、不相応だからである。

第七節

とはいえ、以上のことは真実であるものの、問題の全体ではない。すでに述べたように、真理の父である神が、私たちの存在を滅ぼさないために死に関してのことばを撤回するなど考えられない。神はご自分を偽り者とすることができない。では、神は何をすべきだったのか。神は人間に背きの罪の悔い改めを要求すべきだったのか。 そうすることが神にふさわしいとあなたは言うかもしれない。さらに進んで、背きの罪によって人間は腐敗のとりこになったのだから、同じように悔い改めによって再び不朽へと戻ることができるのだ、と論じるかもしれない。けれども、悔い改めでは神の一貫性を守れない。死が人間を支配するのでなければ、神はなおも不真実であるということなるのだから。悔い改めが人間をその性質による結果から回復させるのではない。悔い改めという行為はせいぜい罪を犯すのをやめさせるだけだ。 罪を犯したときにそれに続く腐敗がなければ、悔い改めで十分だっただろう。ところが、背きの罪がひとたび始まると、腐敗が支配力をもち、人間の固有の性質となった。神のかたちに造られた被造物として、人間に与えられていた恵みは取り去られた。悔い改めではまったく不十分である。 このような要求を満たす恵みと回復のために必要なのは何か、いや、誰であるか。はじめに万物を無から創造なさった神のことばご自身のほかに誰がいるだろうか。この方が、そしてこの方だけが、朽ちる者をふたたび朽ちない者へと戻し、御父の人格の一貫性をあらゆる点で保たれる。結果的に、御父のことばなる方、すべての上におられるこの方だけが、すべての者を再創造することがおできになり、しかもすべての者のために苦しみを受け、御父の前ですべての者の代表としてふさわしい方であった。

第八節

それでこの目的のために、無形の、不朽の、霊的な方である神のことばが私たちの世に来てくださった。じつはある意味で、昔からこの方は世から遠く離れていなかった。創造のみわざでこの方によらずになされた部分はひとつもなかったからである。彼はたえず御父との結合を持っておられる一方で、存在するすべてのものを満たしておられる。しかし今や、彼は新しい方法で世に来られた。私たちに対する愛と自己啓示によって、私たちのレベルまで身をかがめて。 この方ご自身に似せられ、御父のみこころを具現化した理性的な種である人類が、存在をすり減らし、死がすべての者を腐敗において支配しているのを彼はご覧になった。腐敗がますます近く私たちをつかんでいるのをご覧になった。それは堕罪の罰だったからである。また、律法が成就される前に廃止されるということがどれほどあり得ないものであるかをもご覧になった。 ご自身の造った者たちが消滅していくことがどれほど似つかわしくないかをご覧になった。並外れた悪意が人間の中でどれほど増大していくかをご覧になった。また、どんな人間でも必ず死ぬのをご覧になった。このすべてをご覧になり、私たち人類をかわいそうに思い、私たちの限界にあわれみを感じ、死が支配権を持つことに我慢ならず、彼の被造物が滅びて私たち人間のための御父のみわざが無に帰すよりは、この方ご自身が私たちと同じ人間の肉体をとるほうをお選びになった。 ただ単に肉体をとったりただ単に現れたりしようとなさったのではない。もしそうであったら、ほかのもっと良い方法でご自分の神としての尊厳を現すことができたはずである。そうではなく、しみも汚れもない処女から、人間の父親を介さずに、直接に肉体をとったのである。男性との性交で汚されていない、純粋な肉体を。力あるこの方、すべてのものの造り主が、処女の中にみずからこの肉体を、ご自分の神殿として用意なさった。この方が知られるための道具として、ご自分のとどまる住まいとして、肉体をご自分のものとされた。 こうして私たちと同じ肉体をとられた。私たちの肉体はすべて死の腐敗の影響下にあるので、この方はすべての人の代わりにその肉体を死に明け渡し、また御父に捧げた。このことをなさったのは私たちへのまったき愛のゆえである。それは、彼の死においてすべての者が死に、それによって死の法則が廃止されるためであった。なぜなら、彼の肉体において死の運命が成就され、それ以降、人に対する死の力が無効になったからである。 このことをなさったのは、腐敗に帰った人間をふたたび不朽へと戻すため、そして彼の肉体を使った死を通して、彼の復活の恵みにより、人間を生かすためであった。そうして、火からわらを取り上げるようにして、彼らから死を取り上げて消したのだ。

第九節

みことばなる方は、腐敗が死をもってしか取り除けないことに気づいていた。しかし、彼ご自身は、みことばであるので、不死の存在であり御父の子であったため、死ぬなど不可能であった。そのため、肉体があれば死ぬことが可能になるとお考えになった。肉体が、すべての上におられるみことばに属することによって、その死において不足なくすべての者の身代わりとなることができ、しかもその肉体そのものは彼の内住によって不朽のままでありつつも、復活の恵みによって、ほかのすべての者たちも腐敗を終わらせるようになるためである。 彼の取った肉体を、いっさい傷のない捧げ物また供え物として死に明け渡すことによってこそ、人間という兄弟たちのために同等の供え物をささげたことになり、死はただちに廃止された。当然ながら、神のことばはすべての上にあるので、彼がご自分の神殿とすべての者のいのちの身代わりとなる肉体という道具をささげたとき、死においていっさいの要求が満たされた。また当然ながら、不死なる神の御子と私たち人間の性質がこうして結びつくことによって、すべての人が復活の約束において不朽を着せられた。 なぜなら、人類は連帯しているので、ひとりの人の肉体にみことばが内住するという徳によって、死にともなう腐敗がすべての者にふるっていたその勢力を失ったからである。ある偉大な王が大きな町に入って、その中のひとつの家に泊まったら、どうなるかお分かりいただけるだろう。王がそのひとつの家に泊まったがために、町全体が栄誉を受け、敵も強盗もその町に危害を加えなくなる。同じことがすべての王である方にも言える。彼が私たちの国に入ってこられ、多くの者たちの中のひとつの肉体にとどまった。その結果、人類の敵の企ては阻止され、以前は力をもって彼らを捕らえていた死の腐敗が、あっさりとその働きをやめた。すべての主であり救い主である神の御子が私たちのあいだに来られて死を終わらせてくださらなかったら、人類は完全に滅びていたに違いない。

第十節

この偉大なみわざは、じつに神の善なる性質と完璧に合致している。王の建設した町が、住民の不注意のせいで強盗に攻撃されたとしよう。王はそれを放置せず、人々の怠慢よりも王自身の名誉を考慮して、強盗に復讐し、町を破滅から救うものである。とすればなおのこと、まったき善なる御父のことばなる方が、ご自分でその存在を呼び出した人類を気にかけないはずがない。そればかりか、ご自分の肉体を供え物とすることによって、人類が自らの身に招いた死を廃止され、ご自分の教えによって彼らの怠慢を正された。こうしてご自分の力によって彼は人間の性質全体を回復してくださったのである。救い主の霊感を直接受けた弟子たちもこのことを保証している。ある箇所でこう書いてある。「というのは、キリストの愛が私たちを囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(第二コリント5:14-15) また、別の箇所ではこう言っている。「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」(ヘブル二章九節)同じ著者が続けて、どうしてほかの者ではなくみことばなる神こそが人間になる必要があったのかを述べている。「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(同十節)著者の言おうとしているのは、人類を腐敗から解放することは、はじめに彼らを創造した方にこそふさわしい役目であるということである。著者はまた、みことばなる方が人間の肉体を持ったのは、肉体を持つ者たちのために犠牲の供え物とするためであったことを次のようにはっきりと指摘している。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(同十四節) 彼はご自分の肉体を犠牲にすることによって二つのことをなさった。第一に、私たちの道をふさいでいた死の法則を終わらせてくださった。第二に、復活の希望を与えることで、私たちのために新しいいのちの始まりを用意してくださった。ひとりの人によって死の力がすべての人に及んだが、人類を創造したみことばなる方によって死が打ち砕かれ、いのちが新しく現れたのである。それこそが、キリストの真実なしもべであるパウロが言ったことである。次の箇所などがそうである。「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(第一コリント十五章二十一、二十二節)したがって、今や、私たちがひとたび死ねば、もはや死を宣告された者としてふるまうことはない。むしろ、今まさによみがえりの過程にある者として、すべての人の復活を待ち望むのだ。「その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。」(第一テモテ六章十五節)それを私たちの上に臨ませ、授けてくださったのは神である。

以上が、救い主が人間となった第一の理由である。しかしながら、彼が私たちのただ中に来てくださったという祝福された顕現には、ほかにも合理的な理由がある。続いて、それらについて考えなければならない。

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英語訳からの重訳である。
・聖書の引用は新改訳第三版による。