goo blog サービス終了のお知らせ 

聖書のことばを思い巡らす

神のことばは霊でありいのちであり食物です。

人に好かれる聖書的方法

2015-03-11 21:51:35 | 日記
「神と人との前に 好意と聡明を得よ。」箴言3:4

人から好意を得るための実践的な方法は、「思慮深さ」と「与えること」です。

「良い思慮は好意を生む。 裏切り者の行いは荒い。」箴言13:15
「高貴な人の好意を求める者は多く、 だれでも贈り物をしてくれる人の友となる。」箴言19:6

具体的に考えましょう。

「思慮深さ」とは何でしょうか。

思慮深さは、たとえば「余計な一言を言わないこと」です。
ついつい口から出る嫌味、皮肉、自慢、ダメ出しを、言う前に考えます。「それを言うことによってどんな効果が得られるだろうか」と。

ほとんどの場合に、嫌味、皮肉、自慢、ダメ出しは「ただなんとなく言わずにいられなくて」言ってしまうものです。それを言うことで自己満足以外に良い効果は期待できません。相手の気分を害するだけです。

それらを言う前に3秒間でも「これは言うべき言葉だろうか」と考えると、余計な一言をだんだん言わなくなります。そうすると、人間関係も良くなります。

「与えること」とは何でしょうか。

物をプレゼントするだけが「与える」ではありません。人が「多くを与えられている」と感じるのは、それ以外にもたとえば「承認」があります。

相手を認めること。受け入れること。相手の大切にしているものを尊重すること。相手の気遣いや労力に気づくこと。

そういう精神的な部分でも「与える」ことはできます。イエスさまは「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)と言われました。


さて、人から好意を得るために、もっと効果的な方法があります。

いや、これを「方法」というのは適切でないかもしれません。

単純なことです。「神を賛美し、神を喜んでいる」。これだけで、人からも好かれるようになります。

使徒の働き2章46-47節を読みましょう。初期の教会で、クリスチャンが集まって生き生きと神を賛美していました。

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(使徒2:46-47)

神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。

神を賛美する人には不思議な魅力があります。すがすがしさ、きよらかさ、ほがらかさ、やわらかさ、よろこばしさ。言葉で表現しがたい何かがその人にあります。

それもそのはずです。

神は賛美の中に住まわれるので、神を喜ぶ人の中には神ご自身が豊かに住んでいてくださるからです。神がともにおられる人に、人々の好意が集まらないはずがありません。



内側から湧き上がる泉のような喜び

2014-11-14 02:08:39 | 日記
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13-14)

◎ いのちの水を飲む--ピステウオー

イエスさまはサマリヤの女性との会話の中で、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」と言われました。イエスさまの差し出される水を飲むとはどういうことでしょうか。ヨハネの福音書の別の箇所をヒントにしましょう。

「わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6:35)

この箇所で、イエスさまの与える水を飲む者とは「わたしを信じる者」のことだと言い換えられています。まず、「信じる」とはどういうことかを探究しましょう。

イエスさまを信じる(ピステウオー)とは、単に「目には見えないが存在する方だと思う」という意味ではありません。ギリシャ語のピステウオーは人格的な信頼を意味する動詞です。イエスさまをピステウオーするとは、イエスさまに全人格的に信頼し、イエスさまの語られる真理に心服することです。

さらに「ピステウオー」について、辞書的意味を超えて、イエスさまが語られた表現を通してその語義の奥行きを追いかけてみましょう。先ほどの「わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6:35)と同様な意味の箇所を、同じヨハネ6章から引用します。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく」(6:35)
「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(6:37)
「わたしは天から下ってきた生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(6:51)
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」(6:54)

イエスさまを信じるとは、イエスさまのもとに「来る」ことです。イエスさまを「食べる」ことです。イエスさまの「血を飲み、肉を食べる」ことです。これらが、ピステウオーの別表現です。

あなたがイエスさまのもとに「来て」、自分の弱さも人知れぬ悩みも、すべてをイエスさまに打ち明ける。イエスさまの言われたことばを、あなたがえり好みも食べ残しもせずに「食べて」、あなたの「血肉」となるほどに心の真ん中に受け入れる。

イエスさまへのピステウオーは、このように豊かな意味を持っています。

冒頭のヨハネ4:14に戻りましょう。イエスさまの「与える水を飲む」こと。これも、人格的信頼の別表現です。

ピステウオーの豊かな意味を汲み取りながら解釈すると、ヨハネ4:14の前半部分はこうなります。

「わたしを信頼し、わたしにあなたのすべてを打ち明け、わたしのことばを受け入れ、それをあなたの飲み物・食べ物とするなら、あなたは決して渇くことがありません。」

イエスさまはあなたの飲み物であり、食べ物です。


◎ 神から流れ出る水

イエスさまの与える水は、「その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:14)と言われています。

内なる泉に関する聖句を探すと、神ご自身がいのちの泉であることを示す二つの聖句が見つかります。次の通りです。

「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」(エレミヤ2:13)

エレミヤ2:13では神ご自身が「湧き水の泉」であると言われています。偶像は「こわれた水ため」とたとえられています。説明は不要でしょう。次の聖句を見ましょう。

次の聖句はエゼキエル47:12ですが、これについては少し説明が必要です。

エゼキエルが幻の中で案内人に連れられて神殿の入口に着くと、「神殿の敷居の下から」(47:1)、水が神殿の外に向かって流れていました。だんだんと水かさは増し、水は川になりました。そして、川の両側には非常に多くの木が生えていました。

その幻について主が説明されているのが、エゼキエル47:12です。

「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」(エゼキエル47:12)

ここで特に取り上げたいのは、水が「聖所から」流れ出ている点です。川の両岸にある木々が成長し、葉が枯れず、実も絶えることがない理由は、水が聖所から流れ出ているからであると説明されています。

聖所は神がおられる場所であり、祭司が神に仕える場所です。旧約の聖所は、天にある本物の聖所にかたどって作られたもので、天の聖所の「模型」(9:24)です。天には「主が設けられた真実の幕屋である聖所」(ヘブル8:2)があります。そこはイエス・キリストが父なる神に仕えておられる場所です。

地上の聖所は今、その役割を終えています。というのも、地上の聖所はキリストの贖いの「比喩」(9:9)だったからです。イエス・キリストが天のまことの聖所に入って、ご自分の血によって、永遠の贖いを成し遂げられた(9:12)
ので、地上の聖所は必要なくなりました。

エゼキエル47章の幻は明らかに、天にある本物の聖所についての啓示です。人間の手で作られた旧約の聖所についての啓示ではありません。

このことをいっそう明確にするために、一つの聖句を挙げましょう。預言者たちについてペテロがこう言っています。「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。」(第一ペテロ1:12)預言者たちはみな、キリストの贖いについて啓示を受けたのだと言われています。

聖所から、つまり神ご自身から流れ出る水によって、木々はいのちを得ます。この木々は何を意味しているのでしょうか。エゼキエルの見た幻はキリストの贖いについての啓示ですから、水は永遠のいのちへの水でしょう。すると、この幻にある木々は、人間のことです。

いのちの泉は神ご自身から流れ出ます。あるいは、いのちの泉は神ご自身です。その泉から、木々である私たちがいのちを得て、葉を繁らせ、実を結びます。


◎ 聖霊の内住

ヨハネ4:14の「内なる泉」は、その人の内に住まわれる御霊を指しています。御霊は神ご自身であり、神ご自身がいのちの泉なのですから、先ほどの結論と調和しています。

このことを理解するために、ヨハネ7:37-39を開きましょう。

37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

この箇所はヨハネ4:14と同じテーマを語っていますが、「内なる泉」から、「水が流れ出る川」へと、テーマを発展させています。「内なる泉」はその人自身を生かすものですが、「水が流れ出る川」はその人ばかりでなく周りにいる人たちにも水を飲ませ、いのちを与えるものです。

いずれにしても、39節で、生ける水は「イエスを信じる者が後になってから受ける御霊」を指していると明言されています。

ここで、御霊についてのみことばをいくつか確認しておきましょう。イエスさまは助け主ですが、御霊は「もうひとりの助け主」(ヨハネ14:16)です。御霊は「あなたがたにすべてのことを教え」、イエスさまが話された「すべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)。御霊はイエスさまについて「あかしします」(ヨハネ15:26)。御霊が来られると、「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ16:8)。御霊が真理を教えることができるのは、「御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話」(ヨハネ16:13)すからです。そうして、御霊はキリストの栄光を現します(ヨハネ16:14)。

上に引用したヨハネ14章~16章は、イエスさまが十字架にかかる前に最後の晩餐で語られたみことばです。その説教の終盤で、イエスさまはこう言って弟子たちを励まされました。

「あなたがたも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:22)

確認しましょう。イエスさまが十字架で亡くなってから、もう一度弟子たちに会われたのは、いつでしょうか。

復活の時です。復活の主は弟子たちに会ってくださって、それから天に昇られて父の御座の右に着座されました。

もう一つ確認しましょう。それ以降は、弟子たちはイエスさまに会うことはなかったのでしょうか。

いいえ。弟子たちは御霊を通してイエスさまに会い続けました。御霊を通してイエスさまとの交わりを持ち続けました。御霊は「キリストの御霊」(ローマ8:9)であり、御霊が人に内住されることによって、「キリストがあなたがたのうちにおられる」(ローマ8:10)からです。また、別の箇所では、御霊によって内なる人が強くされ、「キリストがあなたがたの心のうちに住」む(エペソ3:16-17)とも言われています。

ですから、内住される御霊を通して、イエス・キリストに出会うことができます。ヨハネ16:22はそのような角度からも読むことができます。弟子たちは、復活の主と出会って喜びに満たされましたが、それで終わりではありませんでした。その後、彼らに注がれた御霊を通して、再び喜びに満たされます。その喜びは内住される御霊から流れ出るものですから、その喜びを「奪い去る者はありません」。

内なる泉は、内住される御霊。御霊が私たちの内で泉となって、生ける水を与え、真理へと導き入れ、イエスさまとの交わりを保たせ、喜びに満たしてくださいます。そればかりか、この泉は他の人のいのちを生かす川ともなって、外へあふれ出ます。