人間として..........
自分が必要とされていることを感じることはとても大切なことです。
先週の巡回訪問でも自分に神の愛が注がれていることを重点に話がされました。
しかしおいらは自分を否定して今まで生きてきました。
試験的に最近自分を顧みるために何かをするようにしてみましたが心が伴いません。
逆に精神状態や体調が悪くなるばかりです。
やはりいきなりはダメですね。
少しずつならしていかないとダメです。
他の人からも否定されるのはいつものことなので慣れていますし、自分で自分のことを否定するのは更に習慣になっています。
これを治していくのは先が見えないですね~。
最近カメラを買ったのですがこのことについても自分を責めることばかりです。
「こんなカメラは必要ではない!」
「そんなに必要ではなかったのではないか?」
「オーバースペックで使いこなせる訳がない。」
などと考えてしまいます。
昨日の躁状態もこのような自責の念がものすごい勢いで責めて来たのでなったと思います。
ふらふらで疲れてしまい運転することもつらく感じました。
さらにおいらは「ナルシスト」とか「エゴイスト」が大嫌いです。
このブログを見ると書いている動機が「エゴ」じゃないのか?と思われるかもしれません。
確かに多少は自分の「エゴ」が入っているかもしれません。
記事にしても、写真にしても、イラストにしても自分の主観で見ているのだからある程度は仕方がないですよね。
自己の重要性を満たすことは多少は「エゴ」が伴うのです。
しかし自責の念が常に伴っているのは確かで責めてくるのです。
ここからクリスチャンとして新しい人格に生まれ変わらないといけないのですが大変な精神的&身体的体力が求められます。
自分を認めてやることも大切で自分を愛することによって他の人も愛せると言われています。
でも良く見られたいとか、かっこ良く見られたいとかは、自分を愛する以上のことで他の人にもそのように感じられるのが当然であるかのように思う人間が嫌いなのです。
最近はクリスチャンの中でもそのような人間が増えてきました。
自分の考え方が一番であるかのように話す人間です。
これははじめから間違った考え方です。
誰の考え方が一番か?
それは神様以外にあり得ません。
よって自分の見解ではなく神の見解を前提として話を進めなければならないのです。
まあ人間ですのでいつも出来る訳ではなく肉の欲望に従って行動してしまうことも多々あります。
特においらはパウロが書いている「思っていても行動が伴わない」典型的な人間です。
人様のこと(藁)を語る前に自分の中の悪いところ(垂木)を取り除くことが大切です。
しかもその自分の悪いところは半端じゃなく多い量があります。
次から次に湧いてきてはその度に自分を責める材料が増えていきます。
聖書の言葉はとても清らかでその「神聖さ」はおいらにとっては手の届かない「深淵で完璧な真理」になっています。
この言葉に触れるだけで車のワイパーが水を噴射させて奇麗にするように視界を良くしてくれます。
車を運転されると解ると思うのですが、くるまのフロントガラスというのはすぐに汚れてしまいます。
まさにおいらの精神状態とダブッていますね~。
なんだかまた語ってしまいましたね~。(笑)
それに話がまとまっていない.............
でも聖書を学び続ける限り不完全ながらも努力し続けようと思います。
自分が必要とされていることを感じることはとても大切なことです。
先週の巡回訪問でも自分に神の愛が注がれていることを重点に話がされました。
しかしおいらは自分を否定して今まで生きてきました。
試験的に最近自分を顧みるために何かをするようにしてみましたが心が伴いません。
逆に精神状態や体調が悪くなるばかりです。
やはりいきなりはダメですね。
少しずつならしていかないとダメです。
他の人からも否定されるのはいつものことなので慣れていますし、自分で自分のことを否定するのは更に習慣になっています。
これを治していくのは先が見えないですね~。
最近カメラを買ったのですがこのことについても自分を責めることばかりです。
「こんなカメラは必要ではない!」
「そんなに必要ではなかったのではないか?」
「オーバースペックで使いこなせる訳がない。」
などと考えてしまいます。
昨日の躁状態もこのような自責の念がものすごい勢いで責めて来たのでなったと思います。
ふらふらで疲れてしまい運転することもつらく感じました。
さらにおいらは「ナルシスト」とか「エゴイスト」が大嫌いです。
このブログを見ると書いている動機が「エゴ」じゃないのか?と思われるかもしれません。
確かに多少は自分の「エゴ」が入っているかもしれません。
記事にしても、写真にしても、イラストにしても自分の主観で見ているのだからある程度は仕方がないですよね。
自己の重要性を満たすことは多少は「エゴ」が伴うのです。
しかし自責の念が常に伴っているのは確かで責めてくるのです。
ここからクリスチャンとして新しい人格に生まれ変わらないといけないのですが大変な精神的&身体的体力が求められます。
自分を認めてやることも大切で自分を愛することによって他の人も愛せると言われています。
でも良く見られたいとか、かっこ良く見られたいとかは、自分を愛する以上のことで他の人にもそのように感じられるのが当然であるかのように思う人間が嫌いなのです。
最近はクリスチャンの中でもそのような人間が増えてきました。
自分の考え方が一番であるかのように話す人間です。
これははじめから間違った考え方です。
誰の考え方が一番か?
それは神様以外にあり得ません。
よって自分の見解ではなく神の見解を前提として話を進めなければならないのです。
まあ人間ですのでいつも出来る訳ではなく肉の欲望に従って行動してしまうことも多々あります。
特においらはパウロが書いている「思っていても行動が伴わない」典型的な人間です。
人様のこと(藁)を語る前に自分の中の悪いところ(垂木)を取り除くことが大切です。
しかもその自分の悪いところは半端じゃなく多い量があります。
次から次に湧いてきてはその度に自分を責める材料が増えていきます。
聖書の言葉はとても清らかでその「神聖さ」はおいらにとっては手の届かない「深淵で完璧な真理」になっています。
この言葉に触れるだけで車のワイパーが水を噴射させて奇麗にするように視界を良くしてくれます。
車を運転されると解ると思うのですが、くるまのフロントガラスというのはすぐに汚れてしまいます。
まさにおいらの精神状態とダブッていますね~。
なんだかまた語ってしまいましたね~。(笑)
それに話がまとまっていない.............
でも聖書を学び続ける限り不完全ながらも努力し続けようと思います。