おいらは数年前まで○○者でした............
もちろん1年以上奉仕したら学校に招待されます。
そしてこの学校に参加した同期の人とは今でも連絡を取っています。
クリスチャンが○○者になるパターンは数種類あります。
少し例を挙げておきましょう。
・長老や他の○○者が熱心に励ますしにより
・親の期待
・もっと神との関係を親密なものとしたいと願って
たしかに上記の二点は若いクリスチャンに取っては大切なのかもしれません。
でもこの奉仕というのは自分で捉えてするものです。
どの奉仕でもそうですけどね。
挙げた例の上記2点の理由でこの奉仕を捉えた場合に「履き違い」が度々起こります。
自分で捉えたのではないですから「してやっている」とか「自分は偉い」と考えるんですな。
昨日書いた記事に出てきたある兄弟もその雰囲気が前面に出ていました。
おいらの同期の兄弟姉妹にもいましたがそのような方とは時期に縁が切れました。
まあ縁が切れた原因はおいらが鬱になって奉仕を降りたことも最大の要因になっていることは否めません。
それに調子が悪いことは大会であった人はすぐに解ったはずです。
なんせ1年ちょっとで40kgぐらい太りましたからね~。
もちろん縁が切れた方達も大会で良くお会いします。
巡回区が一緒なので当然ですよね。
しかし自分を満足させるのに必死になり自分中心になっている人は多いのです。
熱烈な「自己中信者」といっても言いでしょう。
まあこのような話をしても意味がないですね。
中傷していると言われるとその通りなのかもしれません。
つまずきの原因になったら申し訳ない。
書きたいことを書いてみようと思います。
その姉妹はおいらのフィーリングに限りなく近い人です。
未信者のご主人と子供さんがおられます。
またご自身も体の調子が悪い上に精神的にもおいらと同じ鬱を煩っておられます。
鬱の原因というのは多くの場合に「感受性が豊か」なことに起因しています。
この姉妹も人との会話で多くのことを読み取ることができるのが辛いと言っておられました。
ちょっとした感情の変化が空気や口調、表情で読めると言ったらわかるでしょうか?
おいらも彼女ほどではありませんがこれらのことで傷ついてきました。
そして自分のことをあまり好ましく感じていない人との会話はしないようにしているとも言っておられました。
これはおいらもその通りです。
あそこまで深い感情の吐露をでき、理解できる人間というのはほとんどいません。
年に2回ほど回ってきて下さるここ最近の歴代の巡回監督は理解できる方ばかりでした。
しかし彼らはとても忙しくまたおいらのような人間に時間を割いてもらうのは躊躇われます。
あまり励みとはなりませんが、大会中に休憩のためにロビーに出た時に偶然姉妹も出てこられてじっくり会話することができたのは良かったと感じました。
姉妹はまだまだ重度の鬱を煩っておられて辛い状況にあるようです。
おいらや姉妹のような感じの人間は多くの誤解を生みます。
良い意味でも悪い意味でもです。
そして悪い意味で捉えあまり良く思わない人が出てくる場合があります。
規律や律法を重要視する人たちから見るとおいらたちはそれに叶っていないと感じるのでしょう。
また柔軟な発想を嫌う人から見ると許せない人間に写ることもあるかもしれません。
そのように感じている方達は平気で心を踏みにじるような人もいます。
多くのことを読み取る能力があることを疎ましく重い何も感じない人がうらやましくおもいます。
加えて多くの場合に心を踏みにじる人は傷つけていることには気が付きません。
それが当たり前のように話すんです。
姉妹の考えはこうです。
「彼らを喜ばしたくないから自殺はしたくない。
もし自分が死んだら手を叩いて喜ぶ人が居るのに死んでしまうと悔しいじゃない。」
と自殺を考えない理由を言われました。
おいらも正直なことを書きましょう。
姉妹に言ったことを書いてみます。
「僕は毎日のように死ぬ場所を探してさまよってましたよ。
もし死ぬなら自分をこのような状況に追い込んだ人間の前でトラウマになるような死に方をしたいと願っていました。
でもやはり姉妹がおっしゃったように家族や死んだ所を見つけた人(追い込んだ人間は別です)に迷惑をかけると考えました。
一番迷惑をかけないのは生きていることだという結論になったんです。」
しばらく話をしてこれの続きをおいらが言う機会がありました。
「今は考え方が変わったんですよ。
人間は不完全なので考え方を変えるのはできない人が居るかもしれません。
でもすべての人間が幸せになったら良いのにな~と感じています。
まあ、いざここまで追いつめた人にあったらこんな感情を持つことができるかわかりませんけどね。」
と言いました。
自分の本心から出た言葉です。
幸せって人によって感じる方法やポイントが違いますよね~。
だからどんなにすばらしい人でもすべての人間を喜ばすことなんてできないのです。
例外をあげるなら人間イエス・キリストだけでしょう。
完全な人間であり神からの知恵をすべて反映されていたイエス・キリストでさえ書士やパリサイ人、祭司たちからは反感を買っていたのです。
不完全な人間であればなおさらすべての人間を喜ばせるなんておこがましいことですよね。
彼女とは
・自分のできることやできないことを見極めることの大切さ
・鬱は時間が解決してくれることの真実性
・悔しくてたまらなかった、もしくは現在でも悔しい思いをしていること
など多くのことを話しました。
これだけでも大きな収穫があったと思います。
しっかし今回はロビーに居た時間が多かったな~.........
2日目、3日目は話し込んでしまって戻りたくても戻れない状態になってしまいました。
まあ良いんですけどね。
本当に必要なことってこのような場面でもまかなわれているんだな~と感じました。
最後の方の話は聴けなかったのは残念でしたが、ロビーで休憩することによっても大会からは益を得ることができることは大きな収穫でした。
もちろん1年以上奉仕したら学校に招待されます。
そしてこの学校に参加した同期の人とは今でも連絡を取っています。
クリスチャンが○○者になるパターンは数種類あります。
少し例を挙げておきましょう。
・長老や他の○○者が熱心に励ますしにより
・親の期待
・もっと神との関係を親密なものとしたいと願って
たしかに上記の二点は若いクリスチャンに取っては大切なのかもしれません。
でもこの奉仕というのは自分で捉えてするものです。
どの奉仕でもそうですけどね。
挙げた例の上記2点の理由でこの奉仕を捉えた場合に「履き違い」が度々起こります。
自分で捉えたのではないですから「してやっている」とか「自分は偉い」と考えるんですな。
昨日書いた記事に出てきたある兄弟もその雰囲気が前面に出ていました。
おいらの同期の兄弟姉妹にもいましたがそのような方とは時期に縁が切れました。
まあ縁が切れた原因はおいらが鬱になって奉仕を降りたことも最大の要因になっていることは否めません。
それに調子が悪いことは大会であった人はすぐに解ったはずです。
なんせ1年ちょっとで40kgぐらい太りましたからね~。
もちろん縁が切れた方達も大会で良くお会いします。
巡回区が一緒なので当然ですよね。
しかし自分を満足させるのに必死になり自分中心になっている人は多いのです。
熱烈な「自己中信者」といっても言いでしょう。
まあこのような話をしても意味がないですね。
中傷していると言われるとその通りなのかもしれません。
つまずきの原因になったら申し訳ない。
書きたいことを書いてみようと思います。
その姉妹はおいらのフィーリングに限りなく近い人です。
未信者のご主人と子供さんがおられます。
またご自身も体の調子が悪い上に精神的にもおいらと同じ鬱を煩っておられます。
鬱の原因というのは多くの場合に「感受性が豊か」なことに起因しています。
この姉妹も人との会話で多くのことを読み取ることができるのが辛いと言っておられました。
ちょっとした感情の変化が空気や口調、表情で読めると言ったらわかるでしょうか?
おいらも彼女ほどではありませんがこれらのことで傷ついてきました。
そして自分のことをあまり好ましく感じていない人との会話はしないようにしているとも言っておられました。
これはおいらもその通りです。
あそこまで深い感情の吐露をでき、理解できる人間というのはほとんどいません。
年に2回ほど回ってきて下さるここ最近の歴代の巡回監督は理解できる方ばかりでした。
しかし彼らはとても忙しくまたおいらのような人間に時間を割いてもらうのは躊躇われます。
あまり励みとはなりませんが、大会中に休憩のためにロビーに出た時に偶然姉妹も出てこられてじっくり会話することができたのは良かったと感じました。
姉妹はまだまだ重度の鬱を煩っておられて辛い状況にあるようです。
おいらや姉妹のような感じの人間は多くの誤解を生みます。
良い意味でも悪い意味でもです。
そして悪い意味で捉えあまり良く思わない人が出てくる場合があります。
規律や律法を重要視する人たちから見るとおいらたちはそれに叶っていないと感じるのでしょう。
また柔軟な発想を嫌う人から見ると許せない人間に写ることもあるかもしれません。
そのように感じている方達は平気で心を踏みにじるような人もいます。
多くのことを読み取る能力があることを疎ましく重い何も感じない人がうらやましくおもいます。
加えて多くの場合に心を踏みにじる人は傷つけていることには気が付きません。
それが当たり前のように話すんです。
姉妹の考えはこうです。
「彼らを喜ばしたくないから自殺はしたくない。
もし自分が死んだら手を叩いて喜ぶ人が居るのに死んでしまうと悔しいじゃない。」
と自殺を考えない理由を言われました。
おいらも正直なことを書きましょう。
姉妹に言ったことを書いてみます。
「僕は毎日のように死ぬ場所を探してさまよってましたよ。
もし死ぬなら自分をこのような状況に追い込んだ人間の前でトラウマになるような死に方をしたいと願っていました。
でもやはり姉妹がおっしゃったように家族や死んだ所を見つけた人(追い込んだ人間は別です)に迷惑をかけると考えました。
一番迷惑をかけないのは生きていることだという結論になったんです。」
しばらく話をしてこれの続きをおいらが言う機会がありました。
「今は考え方が変わったんですよ。
人間は不完全なので考え方を変えるのはできない人が居るかもしれません。
でもすべての人間が幸せになったら良いのにな~と感じています。
まあ、いざここまで追いつめた人にあったらこんな感情を持つことができるかわかりませんけどね。」
と言いました。
自分の本心から出た言葉です。
幸せって人によって感じる方法やポイントが違いますよね~。
だからどんなにすばらしい人でもすべての人間を喜ばすことなんてできないのです。
例外をあげるなら人間イエス・キリストだけでしょう。
完全な人間であり神からの知恵をすべて反映されていたイエス・キリストでさえ書士やパリサイ人、祭司たちからは反感を買っていたのです。
不完全な人間であればなおさらすべての人間を喜ばせるなんておこがましいことですよね。
彼女とは
・自分のできることやできないことを見極めることの大切さ
・鬱は時間が解決してくれることの真実性
・悔しくてたまらなかった、もしくは現在でも悔しい思いをしていること
など多くのことを話しました。
これだけでも大きな収穫があったと思います。
しっかし今回はロビーに居た時間が多かったな~.........
2日目、3日目は話し込んでしまって戻りたくても戻れない状態になってしまいました。
まあ良いんですけどね。
本当に必要なことってこのような場面でもまかなわれているんだな~と感じました。
最後の方の話は聴けなかったのは残念でしたが、ロビーで休憩することによっても大会からは益を得ることができることは大きな収穫でした。