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扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

写真の再現性を追求する 2007.02.15

2007-02-15 23:58:25 | Photo & Photography & Camera
ほとんど同じシチュエーションで撮ってにたような写真を撮ろうという試みです.......

これは他の人の写真ではなく自分の写真の中で納得のいかなかったカットで撮り直すことをしてみたかったんです。
自分の写真で「納得の出来ない写真」というのは全部ですがね....(爆)
その中でもかなり憤りのパラメーターがMAXに近いものを撮り直してみようということで撮りました。

今日は晴天で綺麗な青空が広がっていましたよね。
よって当初の目的ではおいらの好きなozuの街並みを撮りに行ったんですな。
かなり撮れたと思っていたんですが枚数は400枚もなかったですな....
最近は仕事がほとんど無いので燃料代を考えながら走らなければなりません。
だから迂闊に遠出できないんですよ。
これは困ります。
いろいろと問題が山積していますが、だれかおいらを雇ってくれないでしょうかね~......

おいらは一応カイロプラクティックの資格を保有していることになっているのですが、よく調べてみるとこの資格は正式なカイロプラクティックの資格とは言いがたいものだということが解りました。
これはショックですな。
まあ、マッサージ協会の認定したものですし、その認定証は額に入れてあります。
それに仕事の内容では学校で勉強された方よりも良質のサービスをしているはずなんですけどね。
父上の仕事の2分の1少なくとも3分の1の内容の仕事が出来ればかなり良い仕事をしているということが良くわかっているので学校さえ卒業できたら文句は無いはずです。
しかしマッサージの学校というのはかなり高額の学費が必要になります。
3年制のところがほとんどで初年度は180万円~ぐらいの所ばかりで次年度からは120万円~らしいですな。
加えて家や車などの維持費がかかることを考えると650万ぐらいは軽くかかります。
一生の仕事であれば納得ずくで払うでしょうし、一生懸命勉強するでしょう。
でもこの仕事というのは他の人の悪いところをマッサージ師が吸収するようなモノで、まともに仕事をしている人は必ずどこかを悪くするようです。
自己管理をしている人は良いのでしょうけどね。
真面目に仕事をしている人は90%ぐらいの割合で体調を崩しています。
身体をこわすために仕事を勉強するのは良いことだとは思えないんですよね~......
おいらの父上も例に漏れず体調が万全とは言えません。
またおいらの住んでいる地方はマッサージの価値をちゃんと評価できる人間はいません。
どんなに酷いマッサージでも人が良いと言えば良くて悪いといえば悪いという他人主導型の自分の価値観のしっかりしていない人ばかりです。
まあ中にはちゃんと評価してくれる人もいますけどね。
おいらの街のマッサージ師の立場というのはかなり悪いと言えます。

マッサージ関係の学校のことを調べつつカイロプラクティックについても調べてみました。
この違いは最近は明確にされつつあるようです。
学費はマッサージの学校の授業料とほとんど変わりません。
国際的なカイロプラクティックの資格というのは医学的にも分析された極めて科学的な治療になります。
よってレントゲンなどを使った解剖学的な見地からの治療になります。
整体というのはカイロプラクティックとされていますが、身体の骨を矯正することです。
その中でもとりわけ脊柱を正すことをカイロプラクティックは目指しています。
これをきちんと出来る人は無理に身体を鳴らすようなことはしません。
身体が「ボキボキッ!!」と鳴ると良いというイメージが強い整体ですが、あれは身体をほぐした後の最後の仕上げでなければならないはずなんです。
だからほぐすこともせずに矯正するような人は余り良い治療師とは言えません。

治療関係の学校はかなり高額な学費が掛かります。
今の状態では学校なんか行けないでしょうしね~.....
またいろいろと考えています。
以前に書いたコンピュータ関係の勉強をしようとかんがえています。
とにかく資格を取ってそれを生かせる仕事をしたいな~とも思います。

正直なことを書くとおいらは高等学校を卒業したら

「クリスチャンなら○○者にならなければならない」

ということを言われ続けてその通りになりました。
おいらは必ずならなければならないというレールを引かれており、そのレールからはずれることはとんでもないことのように言われていましたし、ある種の悪質な洗脳のような方法で○○者になった訳です。
これは当時の親切な○老が付きっきりで言い続けてくれ、おかげで今のおいらになった訳です。
過去のことをふり返ると○○者になるのはちゃんと価値観を築いており、神との関係を深いものにしている人が自分からなりたいと願う人がなるべきなのです。
よって人から言われてどうこうするようなことではありませんし、それを強要することは僭越なことでしかありません。
神との関係に割り込むなんてもってのほかですし、それほど影響力を及ぼすことはおかしいことです。

今ではまたなりたいな~とか思っていますが、学校を卒業したばかりの時は奉仕活動も「行かなければならない」という責任感でしか行ったことがありません。
確かにコンスタントに時間を入れるには時に責任感で行かなければならないこともあるでしょう。
でもそれがすべてだったならしんどいだけであり、しんどいことを改善しようという気は全くありませんでした。
「○老に言われるから」とか「親に言われるから」などの奉仕者の風上にも置けない人間だったんですな。
よって喜びとは縁遠い苦痛の時間が永久に続くようにかんじました。

それに比べて「仕事というのは適当にしておけばいい」とか「お金のためだけ」という考え方にはついて行けませんでした。
あれだけ一生懸命に○○者になることをすすめている○老画「仕事は適当にやっておけば良いんだよ」というニュアンスのことを言います。
「仕事に喜びを見いだすことは良くない」というようなことも行っていた覚えがあります。
これはおいらの見地では全く間違ったことだと思うのです。
確かに仕事を重視するのはクリスチャンとしては良くありません。
しかし喜びややりがいを見いだすことは誉められることではないでしょうか?

これは奉仕活動でも仕事でも勉強でも何事にも共通することですが、
人間は楽しく出来なければ苦痛でしかなくそこからの進歩は期待できません。
同じ内容の事を伝えるのでも、同じお金をもらうにしても、同じ内容を覚えるのでも楽しく納得できるならば自分が生きることにも納得でき、自分を肯定できるようになるでしょう。
おいらの考え方と全く合わない人との行動に疲れ果て、自尊心も自分の価値も無いモノだと考えるように洗脳してくれたことに感心するばかりです。
これからは全く価値観の違う人とは距離を置いて接していきたいモノです。

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