人が一生で出来る事というのはなんて少ないんだろうとよく考えます...........................
これは人間の一生があまりに短すぎることに端を発していることです。
もしその道を究めたと人から言われるような人物でも例に漏れず「必ず」落ち度があります。
一時は「完璧」だと思えても後から出てくる技術からすると霞んで見えます。
そしてもし新しい技術を一時的に完璧だと思われるような方法を作り出した人が習得していたならどうなっていただろうか?という疑問が常について回るのが人の一生の短さを痛感する瞬間でもあります。
人の一生というのは世に満ちている情報から比べると砂浜に広がっている砂粒の一つ以下でしょう。
なのに人は時にそうした知識によって優劣を決めようとします。
精々どんぐりの背比べ程度の差でしかないのに勝ち負けにこだわり己の知識を誇るのです。
人間が粋がっても所詮は死ねば忘れられるのです。
人が死ぬと残された人間は考えます。
「この人の一生は何を残したのだろうか」
ということをね。
しかし実質的に解る事というのは本人以外ではほとんど無いわけですから表面的な部分でしか語れません。
こんなことでは何も意味がないでしょう。
人が亡くなった際に「死ぬことを悲しむ」という感情を持てるかと言われると感情移入できる人以外ではそれほど悲しまないのが現実です。
「他人事」で片づけてしまえば冷たい人間なんでしょうか?
おいらは自分自身が死んだ際は誰にも見送ってもらう必要はないと思っていますからね~。
人知れず死んでいきたいと思うんですよ。
でも人というのは何かしらの繋がりがありますから、このようなことは無いんですよね。
家族に恵まれ、豊かな親切によって生かしてもらっています。
そうなると迂闊に自身の過失などで死ぬような間抜けな死に方をしてはならないと考えてしまうんですよね。
また身体には落ち度はないのですから、良い食物、良い生活、良い衣服、良い環境を整えていかねばならないと考えることが出来るようになりました。
おいらが出来る事なんてたかがしれています。
世の中の限られた空間を限られた状態で切り取ることぐらいしかできないのです。
しかし美しいと感じることを少しでも伝えられるならばと思っています。
そしてこのようなBlogを書いているのですから一応はおいらの生きている事というのは記録として残るのでしょうかね~。
おいらは何事も極めることも出来ないでしょうし、一般人よりも劣った人間なのですからこのようなことを考えるだけでもおこがましいのでしょう。
でも世間の人よりも顧みてくださる方を知ることが出来ているのですから生きていることだけでも十分だと考えることが出来ています。
やっとこのような思考をすることが出来るようになりましたな........................
正直な事を書くと永遠に続くのではないかと考えるほど深く暗く長かったように感じます。
思考の新たにしてくださり、
自分が何をすることが最善なのか
自分が何をすることに喜びを感じることが出来るのか
自分がこれから何をするべきなのか
を知ることが出来ていることは他の方たちと比較しても恵まれていると思いますな。
たかがしれている人生です。
所詮短い人生です。
だからこそ慎重に、自分の喜びとなることを、望まれる仕方で、導かれる方法で歩んでいきたいモノです。
これからも鬱とは向き合っていかねばなりません。
しかし人と接することで楽しい気分になったり、嬉しいという感情を持つことが間違いではないという事を思い出すことが出来たんですよね。
もっと他の人の笑顔を見ることを喜びとしていきたいと感じました。
まあおいらが出来ることなんてしれていますけどね。
これは人間の一生があまりに短すぎることに端を発していることです。
もしその道を究めたと人から言われるような人物でも例に漏れず「必ず」落ち度があります。
一時は「完璧」だと思えても後から出てくる技術からすると霞んで見えます。
そしてもし新しい技術を一時的に完璧だと思われるような方法を作り出した人が習得していたならどうなっていただろうか?という疑問が常について回るのが人の一生の短さを痛感する瞬間でもあります。
人の一生というのは世に満ちている情報から比べると砂浜に広がっている砂粒の一つ以下でしょう。
なのに人は時にそうした知識によって優劣を決めようとします。
精々どんぐりの背比べ程度の差でしかないのに勝ち負けにこだわり己の知識を誇るのです。
人間が粋がっても所詮は死ねば忘れられるのです。
人が死ぬと残された人間は考えます。
「この人の一生は何を残したのだろうか」
ということをね。
しかし実質的に解る事というのは本人以外ではほとんど無いわけですから表面的な部分でしか語れません。
こんなことでは何も意味がないでしょう。
人が亡くなった際に「死ぬことを悲しむ」という感情を持てるかと言われると感情移入できる人以外ではそれほど悲しまないのが現実です。
「他人事」で片づけてしまえば冷たい人間なんでしょうか?
おいらは自分自身が死んだ際は誰にも見送ってもらう必要はないと思っていますからね~。
人知れず死んでいきたいと思うんですよ。
でも人というのは何かしらの繋がりがありますから、このようなことは無いんですよね。
家族に恵まれ、豊かな親切によって生かしてもらっています。
そうなると迂闊に自身の過失などで死ぬような間抜けな死に方をしてはならないと考えてしまうんですよね。
また身体には落ち度はないのですから、良い食物、良い生活、良い衣服、良い環境を整えていかねばならないと考えることが出来るようになりました。
おいらが出来る事なんてたかがしれています。
世の中の限られた空間を限られた状態で切り取ることぐらいしかできないのです。
しかし美しいと感じることを少しでも伝えられるならばと思っています。
そしてこのようなBlogを書いているのですから一応はおいらの生きている事というのは記録として残るのでしょうかね~。
おいらは何事も極めることも出来ないでしょうし、一般人よりも劣った人間なのですからこのようなことを考えるだけでもおこがましいのでしょう。
でも世間の人よりも顧みてくださる方を知ることが出来ているのですから生きていることだけでも十分だと考えることが出来ています。
やっとこのような思考をすることが出来るようになりましたな........................
正直な事を書くと永遠に続くのではないかと考えるほど深く暗く長かったように感じます。
思考の新たにしてくださり、
自分が何をすることが最善なのか
自分が何をすることに喜びを感じることが出来るのか
自分がこれから何をするべきなのか
を知ることが出来ていることは他の方たちと比較しても恵まれていると思いますな。
たかがしれている人生です。
所詮短い人生です。
だからこそ慎重に、自分の喜びとなることを、望まれる仕方で、導かれる方法で歩んでいきたいモノです。
これからも鬱とは向き合っていかねばなりません。
しかし人と接することで楽しい気分になったり、嬉しいという感情を持つことが間違いではないという事を思い出すことが出来たんですよね。
もっと他の人の笑顔を見ることを喜びとしていきたいと感じました。
まあおいらが出来ることなんてしれていますけどね。
心地の良い人との交わりというのは人をいやす効果絶大ですよね~。
それに対して人を困らせたり、極端に気を遣わせる人というのは苦痛に感じます。
おいらは思ったことを口に出してしまう方なので他を人の躓かせている人間なんですよ。
利他的な行動というのは人の行動心理の中ではもっとも素晴らしい動機ですし、その中でも神のご意志に沿ったモノというのは至上のモノとなりますからね~。
神様身はいつも感謝感謝です。