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扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

完璧な教育ってあり得ない?

2005-11-06 17:18:09 | Weblog
追記:この記事は途切れ途切れに書いたので収拾できていないですね~。
   でも最後の言いたいことはわかりやすいと思います。

人間はなーんにも教えられないと「自分のしたいこと」だけをするように育ちます。
よって教育が必要なんですが、教育というのは必ずどこかに洗脳することが含まれます。
教えられる側は洗脳されていることが普通と感じるので当たり前になるのは当然です。
極端な考え方かもしれませんが間違ってはいないですよね。

現在を生きる点について
おいらは多感で感受性の強い時期にクリスチャンとして育てられ強要されてきました。
その教育によって多くの苦痛を味わってきました。
やめようと思えばいつでもやめることができます。
しかし今でも「クリスチャンでいるのはなぜか?」という疑問が起こるかもしれません。

教育というのは基本的に人間が人間に教えることで成り立っています。
そして苦痛がうまれる原理というのは「教育者の主観」から発生することを理解しているからです。

理解するということはまず自分の中で考えを成立させる必要があります。
自分の中で成立させるには必ず自分の主観というのが入ります。
そしてそれを教える段階になると自分の主観で理解したことをもとに教えることになります。
結果として「純粋な教育」とは外れてしまうことになります。

よって人が人に教えること自体が間違っていることに気づいたのです。
人間誰しも間違いをおかします。
おいらはクリスチャンの集会にも参加しています。
そのなかで「神の基準で物事を見る」ことを再三教えられてきました。
このことを言われなかったなら、おいらはとっくの昔に人間として崩壊して生きてさえいなかったでしょう。

「神の基準」というのは人間にとってあまりに崇高です。

どんな人間でも達し得ないことは様々な聖句をいくつか挙げるだけで立証されるでしょう。

不完全な人間に神は購いとして「完全な者の命」を捧げました。
買い物の基本は某錬金術アニメで有名になった「等価交換」が基本です。

聖書的な知識になりますが「アダムとイブ」という名を聞いたことがおありでしょう。
聖書の記述によると彼ら二人は完全な体を持っていました。
しかしこの二人の夫婦は神から禁じられた「禁断の果実」を食べるという個人的欲求により罪を犯しました。
悪魔サタンにそそのかされたのが原因ですが「食べてはいけない」ことを理解していた二人は神の基準では完全に罪を犯した「確信犯」と言えます。
ここで注目する点は神が等価交換として「捧げた命」は1つで「罪を犯した人間の命」は2つという点です。
これは聖書を読むとわかりますが人間の男女は元々一つの命だったんです。
アダムは最初に作られた時はひとりで、神はアダムを眠らせて骨の一つをとりそれを「女性イブ(エバ)」として作り直されました。
よって神が捧げる命は1つで良かったんです。
この捧げた命がイエス・キリストです。

なんでこんなことを説明してるのかな~?

とにかく言いたいことは
「崇高な目的」を持って教育していても人間というフィルターには必ず汚れがついていて教える内容が汚染されることです。


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