直ぐ捨てられるモノもあれば長く使われるモノもあります........
これはほとんどのモノで適応されます。
んでこのごろよく考えるんです。
同じ生産ラインで隣同士合うほとんど同じモノで機能的には全く同じ機能を果たすモノでも使い手によって直ぐに捨てられるか長く使われるという結果になり得ます。
安いモノでは特にこの傾向ははっきりしています。
「モノもちがいい人」と「モノもちの悪い人」という表現があります。
おいらはどちらかというと「モノもちがいい人」というよりは直して使うので「なんとか誤魔化しながら使っている人」という位置づけになるかと思います。
これはおいらの性格的に「使う」にしても「捨てる」にしても納得のいくやり方というのがあります。
機能を十分に使い切れないモノを手にしても持て余すと解りきっているモノというのは買いません。
というかものを買うと言うことは最低でもそれを隅々まで使い切ってやるのが道理にかなっていることでしょう。
まあコンピューターなどは用途が多様化していますし、隅々まで使い切ってやるというわけには行きませんがね。
自分で自分の分を知る事の重要性を感じますな。
昔は理想を追い求めて外見ばかり気にしていましたし、他の人の価値観を重視してもいました。
よって人の意見に振り回されるということが良くありました。
「若気の至り」というやつでしょっちゅう失敗していました。
それに他の人というのは自分自身(おいら)が考えているほど他の人(おいら)のことを考えていませんでした。
これは若い人は絶対に念頭に置いておかなければならない事だと思います。
他の人が思い描く「自分自身(おいら)の像」とおいらが描く「自分自身(おいら)の像」というのは余りにもかけ離れているモノとなっていました。
そして他の人が望む形に自分を合わせてはかなり無理をしている自分がいました。
確かに他の人の意見というのは重要だと思います。
しかし人格形成の重要な部分は自分で学んでしか形成できないんですな。
これは非常に重要です。
特に学校を離れて社会人になりたての時は最も重要だと言えるでしょう。
そして間違って歪んだ方法ではなく正しい方法で形成してゆく必要があります。
話がずれましたな.......
モノもちに関しての話に戻ろうと思います。
おいらはどうせ使うのであれば長いこと使いたいと思いますし、納得のいくものを使いたいと思います。
この意見に否定的な人が多いことに驚きます。
納得のいくものは確かに値が張りますし高いことは確かです。
このブログでは何度か書きましたが、その価格差というのは極端なモノでなければ同じ内容のモノの安いモノと高いモノの価格差というのは使う期間のことを考えると高いモノの方が結局は長く使えて納得もできるようになります。
よって「安いことこそ正しい」とか「安いことこそ善だ」という考えの人の言うことにはついて行けません。
.......こんな事を書きたかったんではないんですよね~.......
モノの行く末について書きたかったんです。
話を戻して同じ生産ラインでほとんど同じモノを作られるとします。
そして機能は全く同じだとします。
んで使い手によって使われる期間が違うと言うことを書きました。
この違いは「使い捨て主義」の人と「長く使ってやりたい主義」の人とによって全く異なると言うことを書きたかったんです。
少し極端化もしれませんけどね。
例として2枚のコピー紙を挙げてみましょう。
全く同じモノであるとします。
しかし印刷の内容によって使い道が全く異なってきます。
一枚は何も印刷されず廃棄処分されるかもしれませんが、もう一枚の方は重要なことが書かれ、ラミネートまでされ毎日見られる所に置かれ毎日人に見られるようになる可能性があります。
この違いというのは時によって全く異なりますが作り手としては後者の方がうれしいことではないでしょうか?
すべてのモノでは不可能ですが、おいらは身の回りにあるモノを後者のような使い方をしたいと願っています。
出来ていないことは間違いないのですがね。
モノを大切にする気持ちを培いたいと願っていますし、直せる方法を教えてくれるのであればやぶさかではありません。
直ぐにでも直して使いたいとも思います。
このことに関しては沢山考えていて、もっと書きたいことがあるのですがね。
余りにも複雑になりすぎて収拾がつかず訳がわからない記事になってしまいますので今日の所はこれぐらいにしようと思います。
これはほとんどのモノで適応されます。
んでこのごろよく考えるんです。
同じ生産ラインで隣同士合うほとんど同じモノで機能的には全く同じ機能を果たすモノでも使い手によって直ぐに捨てられるか長く使われるという結果になり得ます。
安いモノでは特にこの傾向ははっきりしています。
「モノもちがいい人」と「モノもちの悪い人」という表現があります。
おいらはどちらかというと「モノもちがいい人」というよりは直して使うので「なんとか誤魔化しながら使っている人」という位置づけになるかと思います。
これはおいらの性格的に「使う」にしても「捨てる」にしても納得のいくやり方というのがあります。
機能を十分に使い切れないモノを手にしても持て余すと解りきっているモノというのは買いません。
というかものを買うと言うことは最低でもそれを隅々まで使い切ってやるのが道理にかなっていることでしょう。
まあコンピューターなどは用途が多様化していますし、隅々まで使い切ってやるというわけには行きませんがね。
自分で自分の分を知る事の重要性を感じますな。
昔は理想を追い求めて外見ばかり気にしていましたし、他の人の価値観を重視してもいました。
よって人の意見に振り回されるということが良くありました。
「若気の至り」というやつでしょっちゅう失敗していました。
それに他の人というのは自分自身(おいら)が考えているほど他の人(おいら)のことを考えていませんでした。
これは若い人は絶対に念頭に置いておかなければならない事だと思います。
他の人が思い描く「自分自身(おいら)の像」とおいらが描く「自分自身(おいら)の像」というのは余りにもかけ離れているモノとなっていました。
そして他の人が望む形に自分を合わせてはかなり無理をしている自分がいました。
確かに他の人の意見というのは重要だと思います。
しかし人格形成の重要な部分は自分で学んでしか形成できないんですな。
これは非常に重要です。
特に学校を離れて社会人になりたての時は最も重要だと言えるでしょう。
そして間違って歪んだ方法ではなく正しい方法で形成してゆく必要があります。
話がずれましたな.......
モノもちに関しての話に戻ろうと思います。
おいらはどうせ使うのであれば長いこと使いたいと思いますし、納得のいくものを使いたいと思います。
この意見に否定的な人が多いことに驚きます。
納得のいくものは確かに値が張りますし高いことは確かです。
このブログでは何度か書きましたが、その価格差というのは極端なモノでなければ同じ内容のモノの安いモノと高いモノの価格差というのは使う期間のことを考えると高いモノの方が結局は長く使えて納得もできるようになります。
よって「安いことこそ正しい」とか「安いことこそ善だ」という考えの人の言うことにはついて行けません。
.......こんな事を書きたかったんではないんですよね~.......
モノの行く末について書きたかったんです。
話を戻して同じ生産ラインでほとんど同じモノを作られるとします。
そして機能は全く同じだとします。
んで使い手によって使われる期間が違うと言うことを書きました。
この違いは「使い捨て主義」の人と「長く使ってやりたい主義」の人とによって全く異なると言うことを書きたかったんです。
少し極端化もしれませんけどね。
例として2枚のコピー紙を挙げてみましょう。
全く同じモノであるとします。
しかし印刷の内容によって使い道が全く異なってきます。
一枚は何も印刷されず廃棄処分されるかもしれませんが、もう一枚の方は重要なことが書かれ、ラミネートまでされ毎日見られる所に置かれ毎日人に見られるようになる可能性があります。
この違いというのは時によって全く異なりますが作り手としては後者の方がうれしいことではないでしょうか?
すべてのモノでは不可能ですが、おいらは身の回りにあるモノを後者のような使い方をしたいと願っています。
出来ていないことは間違いないのですがね。
モノを大切にする気持ちを培いたいと願っていますし、直せる方法を教えてくれるのであればやぶさかではありません。
直ぐにでも直して使いたいとも思います。
このことに関しては沢山考えていて、もっと書きたいことがあるのですがね。
余りにも複雑になりすぎて収拾がつかず訳がわからない記事になってしまいますので今日の所はこれぐらいにしようと思います。