デジカメと友達

四季折々の花の写真を残したい

 ホテル ニューオータニ で宿泊  平成26年10月10日、11日。

2014-11-25 16:06:20 | Weblog
ホテルのロビー



食堂から見える庭



食堂への廊下



12日 朝食(バイキング)


11日 朝食 (和食堂)の窓から見える庭





11日 夕食  長男の家族と食事   16F大観苑(中華料理の予約席)

















10日 夕食  40F 食堂  (中華のバイキング)から見えた東京タワー


                (中華のバイキング)から見えたスカイツリー











結婚式が終わって一休み



15F  客室の窓から(薔薇の花壇)










東京見物 (築地本願寺) 平成26年10月12日

2014-11-25 16:03:59 | Weblog

愛宕神社を10時10分に出ました。

最初の計画は、築地の魚市場、皇居、などを見学する予定でしたが、タクシーで都内を案内していただきました。

(国会議事堂、国技館  半蔵門 靖国神社  築地の魚市場 大使館など)


車窓から見る東京駅


多田家の宗派は浄土真宗  京都の西本願寺派です


築地本願寺は浄土真宗本願寺派のお寺で、京都の本願寺(西本願寺)が本山です。 創建時は浄土真宗本願寺派の全国各地にある別院「築地別院」として建立されました。 そして2012年4月1日より、ここ東京首都圏の拠点として直轄寺院となり、正式名称が「築地本願寺」と改められました。






本願寺でも結婚式がありました。



タクシーのドライバーさんには大変お世話になりました。









東京見物 (愛宕神社)  平成26年10月12日

2014-11-25 15:59:35 | Weblog

ホテルを9時半に出ました。

  

ホテルからわずか10分で愛宕神社に着きました。

愛宕山は自然形成によって成立したものであると地質学的に立証されているが、周辺の低地との兼ね合いから形成のメカニズムははっきりしていない。

江戸時代から愛宕山は信仰と、山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさで有名な場所であった。『鉄道唱歌』の第1番にも「愛宕の山」と歌われている。

山上にある愛宕神社は、もとは1603年にこれから建設される江戸の防火のために徳川家康の命で祀られた神社であったが、「天下取りの神」、「勝利の神」としても知られ、各藩の者たちは地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀った。桜田門外の変で井伊直弼を襲った水戸藩の浪士達もここで成功を祈願してから江戸城へ向かったとされる。

また、NHKの前身の一つである社団法人東京放送局(JOAK)は、この愛宕山に放送局を置き、1925年7月の本放送から1938年のNHK東京放送会館への移行まで、この愛宕山から発信された。





神社では結婚式の準備が出来ていました。



四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の額

お願いをした所、快く写真を撮らせて下さいました。

 








出世の石段[編集]

現在でも「男坂」の急な石段は「出世の石段」と呼ばれている。これは、江戸時代の1634年2月25日(寛永11年1月28日)、徳川秀忠の三回忌として増上寺参拝の帰り、徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣(曲垣平九郎)が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ている(講談や浪曲の定番、「寛永三馬術」で今も伝わる)。

以降、出世の石段を馬で登った成功例は今までに3例存在する。1例目は仙台藩で馬術指南役を務め、廃藩後曲馬師をしていた石川清馬で、師の四戸三平が挑み、果たせなかった出世の石段登頂を1882年に自らが成功させ、これにより石川家は徳川慶喜より葵の紋の使用を許された。








東京見物 (泉岳寺)  平成26年10月10日

2014-11-25 11:14:13 | Weblog

泉岳寺参拝前に 紋屋 にて昼食












孫、直人の結婚式参列のため東京へ行く機会を得たので泉岳寺に行って来ました。


 史跡(国指定)

浅野長矩墓および赤穂義士墓

元禄14年(1701年)3月14日、江戸城中で吉良義央(上野介)に対し刃傷沙汰に及び、即日切腹となった赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)の墓、及び、元禄15年(1702年)12月14日、江戸本所の吉良屋敷に押し入って吉良の首級を上げ、翌年2月4日に切腹となったいわゆる赤穂浪士(泉岳寺では「赤穂義士」と呼んでいる)の墓である。 赤穂浪士は一般に「四十七士」と呼ばれるが、泉岳寺の赤穂義士墓地には討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基の墓塔がある。


48基のうち、この萱野三平と、遺骸を遺族が引き取ったため泉岳寺には埋葬されていない間光風(新六)、そして討入りに参加し
た浪士の中で唯一人切腹をまぬがれた寺坂信行(吉右衛門)の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔である。なお寺坂以外の浪士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっている。