ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

バスで行く東海道「第6回-1」 (藤枝宿~島田宿) 2012.915

第六回(-1)ツアーは、藤枝宿から島田宿までです。

東海道五十三次の一人旅で取り上げなかった箇所を、ご紹介
しますので、「東海道五十三次(完全踏破の一人旅)」の
下記と併せてご覧下さい。
「22:藤枝宿 2011.10.28」「23:島田宿 2011.11.14」

「22:藤枝宿」

浮世絵は、問屋場と呼ばれた人馬の中継所です。
江戸時代には、人や荷物を運ぶ人馬については、宿場毎に、
人馬を入れ替えて、前の宿場からの人や荷物を引き継いで
いました。

藤枝は高校サッカーで有名なあの”藤枝”ですが、藤枝の
宿場町はJR藤枝駅からは離れた2キロの長い商店街です。

藤枝宿は田中城の城下町として栄え、現在、2キロもの
長い商店街として残っています。

田中城は、徳川家康がこの城で食べた鯛のてんぷらに当り、
それが原因で亡くなったことで有名です。

本陣は写真の様に八百屋になっており、何も残っていません。


・瀬戸の染飯

 写真は、江戸時代から売られている藤枝駅前の「喜久屋」
 の”瀬戸の染飯(そめいい)”弁当です。
 おむすびが黄色いのは、もち米を”くちなし”で染めてある
 からだそうです。
 くちなしの実には、肝臓や疲れを治す効果があり、腹持ちも
 良いため、江戸時代の旅人には保存食として利用されていた
 そうです。
 弥次さん喜多さんも食べ、葛飾北斎も描いているそうです。
・久遠の松
 街道の左手の大慶寺には、写真の久遠(くおん)の松が
 あります。

 日蓮上人のお手植えで、樹齢750年・高さ26m・周囲7m
 のクロマツですが、見事な枝ぶりですよね!
・一里塚跡
 長い商店街を抜けて瀬戸川を渡ると、すぐ右のフェンスの
 中に写真の一里塚跡があります。


「23:島田宿」

 写真の浮世絵は、島田側から金谷側へ渡る大名行列です。
 島田宿は、刀鍛冶の町でもあったそうです。

・大井神社

 写真の大井神社は、宿場町を大井川の洪水から守る神
 として、元禄時代に祭られたそうです。
 日本三大奇祭のひとつ「帯まつり」(10月中旬の日曜)
 で有名ですが、写真は、その豪華な丸帯を大きな太刀
 につるして歩く大奴の像です。
 左腰に大刀、右腰に小刀を差し、豪華な丸帯を、その
 両刀に掛けて歩きます。重たそう~!

 大井神社の参道の両脇の石垣は、江戸時代に、川越人足
 が、大井川原から、毎日1個づつ運んで作ったそうです。

 また、”雲助”と呼ばれ、あまり評判が良くなかった
 飛脚たちが奉納した石灯籠もあります。


・大井川川越遺跡
 (川越遺跡の詳細は、2011.11.14の一人旅のブログを
  ご覧下さい。)



 写真は、水の深さと川越代金の関係を書いた説明板で、
 深さにより、約1,500円から2,800円だったそうです。

 面白いのは、相撲取りは無料だったそうです?
 その渡り方というのは、チンチン電車ごっこと同じ様に、
 川越人足が相撲取りの前後に立ち、相撲取りを縄の輪の中
 に入れて、歩かせて渡ったそうです(笑い)!

 一切の川越えが禁止される「川留め」ですが、1カ月以上の
 「川留め」もあったため、急ぎの旅は中山道を利用した
 らしいです。

 弥次さんと喜多さんは、川留めで2日間足止めを食います。

 松尾芭蕉も、川留めに遭い、4日間、弟子の塚本如舟の家に
 逗留して、句を残しています。

 明治になるとこの川越人足たちが失業してしまいますが、
 この失業対策として清水次郎長が人足を使って清水港を整備
 したそうです。

・朝顔の松
 写真は、浄瑠璃や歌舞伎の「朝顔日記」に出てくる朝顔の松
 だそうです。
 
 朝顔は、好きになった駒沢次郎左衛門を慕って流浪するうち
 に視力を失い、大井川の川止めのために、行き違いになり
 身投げ自殺をします。 しかし、宿場の主人に助けられ、
 その後奇跡的に視力が回復します。

 その時に、朝顔の目に最初に映ったのがこの朝顔の松だった
 そうです。

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