貧者の一灯 ブログ

掲載しているお話は、当ブログには著作権はありません。
掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。

貧者の一灯・番外編

2023年11月17日 | 貧者の一灯























※…
差し伸べられた神の手=「書くこと」

私は子どもたちに何を残せるだろう? この家
と私の命の代価がどのくらいになるのか。

私が突然死んだら、子どもたちはどうしたらい
いのか。せめて私の死後、子どもたちが数年は
生きられるお金を残そうと思って、離婚後には
生命保険に追加して入った。

生きるためには身を守る家、そしてお金も必要
だ。けれど、人が生きるって、お金があれば幸
せなのか?

私は、お金に不自由せず育った。それはありが
たいことだ。けれど、決して幸せではなかった。

親の不仲、絶えない夫婦喧嘩、怒声の響く家で、
震えながら泣きながら弟と二人不安な夜を過ご
した。

それなのに、世間には、それは知られてはいけ
ない秘密だった。

父の暴力は母と弟と私だけが知っていた。

家族の秘密、母に口外を禁じられていた。学校
の先生に助けを求めることも許されなかった。

外では優秀なお嬢様を演じながら、監獄のよう
な家に戻らなければならなかった。

生き地獄だった。 私は子どもたちに、私と同じ
思いだけはさせたくなかったのに、結果、そん
な思いをさせてしまった。

でも、だからこそ、逃げる決断をした。

母ができなかった離婚を選択した。 今はお金
に不自由しても暴力のない幸せを感じる。

けれど、これは六年前そんなことがあったよね、
だけではすまされない、とんでもないことが私
たちに起きたと思っている。

私も子どもたちもこの六年、日々を生きるため
葛藤しながら、まさに死に物狂いで生きてきた。

そして今、仕事を失った私に訪れた膨大な時間
は、きっと書くために与えられた時間だ。


※…
表現しないと生きていけないから:次男の言葉

一方、きっかけとなった次男は、五歳の時から
毎日絵を描き、家の中は彼の描いた絵がびっし
り飾られている。

鳥がモチーフの彼の絵。独特ですごい迫力だ。
そして色々考えさせられる。

中学校で美術部に入ろうとしたが不登校生は
入部できないと言われ、美術の授業が嫌いに
なった。

彼は独学で描き続けている。次男の絵は、芸術
を学べる高校の先生の目に留まり、絵を見ての
丁寧な感想が書かれたお手紙に励まされて、彼
は絵を描き続けていくことを決心した。

私は、「どうしたらそんなに描き続けられるの
かな」、次男に聞くと、「表現しないと生きて
いけないから、生活の一部だから」と。

そして続けて強く私に言った、

「お母さん、一番大事なことはやめないこと、
苦しくてもやり続けることだよ」と。

驚いた。 さらに「書くと決めたのなら表現を
依存症にすることだね」と笑った。

一体何歳なの君は。どういう苦労をしてきたら
そういうことになる? そう思いながらも深く
うなずいた。

子どもは、すでに、自分とは全く違う価値観を
持ち、すでに母親の知らない遥かな世界に行っ
ていたのだ。

子育てって、こんなすごい経験をすることにな
るのね。産んだ時には想像もできなかった。





※…母の呪文:母と娘のキツイ関係

私は、幼い頃から母に「人のためになる人にな
りなさい」と毎日言われて育った。

自分でも「人の役に立つ仕事に就く」と念仏の
ように唱えてきた。

母は、離島の医師の父親と、にしん漁で栄えた
網元の娘の母親の間に次女として生まれ、六歳
までお嬢様で育った。

三歳で母親が結核で死亡、父親も後を追うよう
に亡くなった。

当時、結核は今のコロナと同じよう大流行し、
亡国病と言われた。

母はその後、親戚をたらいまわしにされ、身分
はお嬢様なのに本家では厄介者扱いの「おしん」
の生活だった。

そんな幼少期を過ごした母は、その半生の苦労
と共に、「お前の祖父は離島の立派な診療医だ
ったのよ」と、

そして、「私はお前を命がけで産んだ」ことを
耳にタコができそうなほど話した。

母が私を出産する時、難産で出血多量、産後は
不治の腎臓病にかかったと聞かされた。

命と引き換えに……、

お母さん、ありがとう。感謝の気持ちしかなか
ったから、中学校まで私の尊敬する人は、聖徳
太子でも福沢諭吉でもナイチンゲールでもなく
「お母さん」だった。

しかし、母は、同時に「お前さえ生まれてこな
ければ私の人生は幸せだったのに」と呪いの言
葉も言った。

私は母を幸せにするため、母の期待に応えて何
でもしようと思った。

母の望み通り、小さい頃からピアノ、お習字や
お茶というお稽古事をした。

母は、自分が叶えられなかった少女期の夢を、
娘の私を通して夢見たのだろう。

しかし、ある時、看護学の課題で、自分の母子
手帳を見るよう言われ、初めて自分の母子手帳
を見た。

出産の記録欄には「正常分娩、出血少量」と
記載されていた。

「ん? 私は難産で出血多量で命と引き換えに
産まれたのではなかったっけ?」と母に聞くと、
「うん、そうだよ」と母は答えた。

「でも正常分娩、出血少量って書いているよ」
と言うと、

母は、「あらそうなの、だって死ぬかと思うほ
どつらかったから難産だと思ったし、あんなに
出血したし、産後に血圧が上がって中毒症って
言われたから」と。

事実はこういうことだったのか。

陣痛が死ぬほどつらく、生理で見たことのない
量の出血、産後に妊娠高血圧症状が出たことで
治らない病気になったと思ったのだ。

医師はきっと普通に説明したと思うが、本人の
思い込みはすごい。

「私は出産で病気して腎臓を悪くしたから長く
は生きられない」といつも言うので、母はいつ
病気で死ぬか不安だった。

しかし、八十六歳の母は今も健在だ。

そんな病のはずだったが、その二年後に健康
な男児(弟)を出産し、内臓の病気には一度
もかかったことはない。…















この方のところによくギャンブル依存症の人が
相談に来るそうです。

調査によるとギャンブルを始める平均年齢は20
歳前後で、借金が始まるのが27歳頃だそうです。

ギャンブル依存症の人の特徴は「借金」と「嘘」
だそうです。

帚木先生のクリニックに来る患者さんの初診の
平均年齢は39歳で、借金の平均はなんと1300万
円です。

この人達は「三だけ主義」だといいます。”

今だけよければいい。
自分だけよければいい。
金だけあればいい”ということです。

ただ、この人達も帚木先生のところに来るとい
うことは、治したいという気持ちがどこかにあ
るのです。

入院させて、ある程度落ち着いてきたら、ギャ
ンブル依存症治療のグループ、ギャンブラーズ
・アノニマス(通称GA)に通わせます。

だいたい1回、1時間半ほどのミーティングがあ
って自分のことだけを話します。

”こんな悪いことをしてきた。こんなに迷惑を
かけてきた”など、ただただ懺悔をするのです。

その懺悔が終わった後、他のメンバー全員が
「よく言った。よく頑張った」と拍手をします。

中にはつらくて何も言えない人もいますが、
「よくここに来た」と言って皆で拍手をします。

これを週2回、数カ月続けると、ほとんどの人が
良くなるのです。

それまでなかった思いやり、寛容さ、全くなか
った正直さ、謙虚さといったものが出てきて、
人間性が大幅に変わるのです。

帚木先生は患者さんが”元々はこんなにまとも
な人間だったのか”と驚くそうです。

ギャンブル依存症の人はそれまで、他の人に対
して、

「ありがとう」
「お世話かけるね」
「ごめんね」

などの普通の人が使う言葉を一切言わなかった
そうです。

それがGAで人間性を回復すると、これらの言葉
が自然に口から出てくるようになるのです。

帚木先生はそういう時が一番うれしく、感銘を
受けると言っておられます。

ほめること、ほめ合うことが人生においていか
に大事なことかがわかります。










最新の画像もっと見る

コメントを投稿